其の捌
トオルはどうしてもあのコンパニオンにもう一度会いたかった。
昨夜の彼女の動きが、フラッシュをたいたコマ撮り写真のように、頭の中に鮮烈にこびりついて離れなかった。
コンパニオンの派遣会社が吾道組の『みかじめ保険』に加入していたおかげで、娘の居場所はすぐに判明した。
身元の証明として提出された学生証から、薬学部の大学院生で、名前は中嶋静子だということがわかった。
静子の通う大学は、いまトオルのいる町からはさほど遠くない、三駅先の高台にあり、この春に大学ごと移転してきたことも聞いた。
本川に戻って少し休んでから、トオルはその大学に静子を訪ねることにした。
静子の通う大学は、新しいだけあって、明るく開放感に溢れたキャンパスだった。トオルは自分が通う大学の古く汚れた校舎と、ジメジメした研究室を思い出して、なにやら負けたようなみじめな気分になっていた。
薬学部の教室に行ったが、静子の姿はなかった。居合わせた学生に聞くと、
「彼女だったら薬草園よ。時間があればいつもあそこに行くの。変な子なの」
この女に薬は扱ってほしくないような、茶髪で派手なメイクの学生が教えてくれた。
トオルにとって薬草園は初めてだった。
イメージとしてはビニールハウスがあって、バナナの木の間をカラフルな鳥が飛びまわっている、昔父親に連れていってもらった植物園と完全にダブっていた。だから、住宅の造成地のミニチュア版のように区分けされ、雑草としか思えない草のひとつひとつにその効能を書いた立て札がある光景は、いささか拍子抜けだった。
その一隅で花の手入れをしている女が、静子だとすぐにわかった。
「中嶋さんですね」
トオルが声をかけると、ブラシを持った手を止めて、
「はい」
と、昨晩の凛とした声が返ってきた。
「昨日、あの宴会場にいた者です」
静子は一瞬息をのんだ。
どうやらコンパニオンのアルバイトをしていることは、みんなには内緒にしているようだ。
「昨日のあなたの活躍を見せてもらいました」
静子を安心させようとしたのだが、
「この大学の人ではないのですね。良く入れましたね。この大学のセキュリティーは厳しいはずですけど」
静子の眼にはまだ猜疑の色が浮かんでいる。
「これのおかげでしょう」
トオルは、白衣の襟を持って、スーツを直すような仕草をした。
本人はピシリと決めたつもりだったが、着古された白衣は、ヘナヘナと腰が砕けたように、さらに形を崩しただけだった。
しかし、それはいかにも学生らしく映った。
「私も医学部の学生さんかと思いました」
静子がようやく笑顔を見せる。
「本当に、昨日はすごかった」
「いえ、当然のことをしただけです」
静子は、ふたたび花の手入れを始めた。
「でも初めての病院で、薬のある場所が良くわかりましたね」
「あれは薬剤師のくせというか、人によって整理の仕方が違うんです。だいたいはアイウエオ順なんですが、あそこは薬の効果別に分けてあったのと、解毒剤が別に置かれていたので、それに気がつくまで少し時間がかかってしまいました」
「それと、青酸性の毒物だと良くわかりましたね」
「実際に匂いを嗅いだことはありませんけど、アーモンドの匂いがすると言われていて、甘酸っぱい匂いが少ししました。青酸は胃液に反応したガスで中毒を起こしますから、本当は匂いを嗅ぐのも危険なんです」
学生の論文発表のような口調になっていたことに自分でも気付いたのか、静子の笑顔が膨らんだ。
男が助かったことを知っている安堵感が、彼女を少し饒舌にしていた。
昨夜は、ピンクのミニのスーツというコンパニオンの制服で、セミロングの髪を肩のあたりで遊ばせていた。
今日の静子は、群青の細みのスカートに白衣を着て、髪はポニーテールにまとめている。
昨夜の彼女がハイビスカスだとすれば、今日の彼女には、水仙のような楚々として気高い美しさがあった。
「クレマチスですね。昨日コサージュにしていたでしょう」
静子が手入れをしている花に目をやって、トオルが言う。
「よくご存じですね。亡くなった母の好きだった花なんです。ここは大学に断って作らせてもらっている私の花壇です」
ようやく心をひらいたのか、静子は問わず語りに話し始めた。
「あの町は母が働いていたところなんです。旅館の仲居さんをしていたそうで、やめて故郷に帰ってから私を生みましたけど、父親が誰かは明かしませんでした。静子という名前は母が付けてくれたそうです。でも、母は私が小学校三年生のときに、ガンで亡くなったんです」
ずっと気になっていたが、大学が温泉街のある町の近くに移転したので、この機会にと思い、コンパニオンの募集に手を挙げたのだという。
「みんなには内緒です」
はにかむように付け足した。
「でも、もう行きません。あんなことがあったし、母が働いていた土地の雰囲気もわかりましたから」