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其の弐

 さびれた町だった。

 並木の桜は葉桜の時期が終わり、赤く深い色の小さな実を付けているのが、チラつく街路灯の光の中で見てとれた。

 大きな日本家屋だが、明かりがついていない。料亭か何かだったのだろう、ある時期の町の賑わいを語っているのが、なおさら寂しかった。

 女は、桜並木から玉砂利の敷いてある路地に入り、格子の引き戸を、音を立てて開けた。

「お母さん、ただいま」

 奥から、五十がらみの小柄な和服の女が、あたふたと出てきて、その勢いのまま、

「何してたの、たみちゃん、お師匠さんが待ってるよ」

「あっ、いけない。今日お稽古の日だっけ」

 女は手を使わずにスニーカーを脱ぐと、弾じかれたように家の奥へと飛び込んで行った。

 が、すぐに戻り、

「お母さん、これ」

 小柄な女の胸元に紙袋を押し付けて、ふたたび奥へと転がるように消えてしまった。

「まったく、またパチンコね。で……、あなた、誰?」

 小柄な女はこの家の女主人であるらしい。三和土たたきの隅にぽつねんと立っているトオルに、女主人が聞いた。

この家が芸者の置屋おきやだということは、トオルにはすぐにわかった。四歳から舞台に立ち、芸者の役もさんざんこなしてきていた。『箱屋』や『お茶っ引き』という花街の言葉も、違和感なく心にすとんと落ちた。

 女主人に事情を説明し、簡単な自己紹介も済ませた。

 ただ大学で勉強しているバイオの説明には、かなりの時間を要した。

 トオルの話に大袈裟に驚きながら、こまめにお茶を差し換える。口と一緒に手が動く、男の世話をすることが、体の芯まで染み込んでいるような女だ。

 話が駅長のクマのことになり、こんどは女主人が話し手となっていたとき、民ちゃんと呼ばれていた女が、和服に着替えて入ってきた。

 踊りの稽古であったらしい。

 胸元の汗を手ぬぐいで抑えるようにしながら、長火鉢にもたれ込むように座った。

 化粧っ気はないが、先ほどとはまるで別人のような色香が漂っている。

「ねえお母さん、この子、泊めてあげてもいいでしょう?」

「仕方ないでしょ、お金がないんだから」

 トオルと女主人が、一緒に指で輪を作った。

「銭コ、ネ」

「良かった。私、民江たみえね。よろしく」

 二人がかりのジョークは、しかし、軽く受け流された。

橘徹たちばな とおるです。よろしくお願いします」

 トオルはこの町に来て初めて名乗ったことに気がついた。

「トオルちゃんね。あっ、お師匠さんが来なさいって」

「何でしょうか」

「知らないわよ、来いって」

 民江の口調は先ほどまでのぶっきらぼうなものに戻っていた。

 トオルは、言われるままに,家の奥にある、稽古場に充てているという座敷に向かった。

 行けばわかるから、と言われた通り、二十畳ほどの広い座敷の開け放された襖の正面に、時代を経た福助人形のような老女が、三味線を抱えて、こじんまりと座っている。

 トオルは襖の手前で両手をつき、

「橘トオルでございます」

 と、芝居の口上のような挨拶をした。

「どうぞ、お入んなさい。ちょっと踊ってみせてくれる?」

「踊りですか?」

「そう、駄目よ、私の目は誤魔化せないわよ。さっき、そこを通ったでしょ。歩き方が踊りの歩き方をしていたもの」

 たしかに、女主人に案内されて、今日泊めてもらう部屋を見に行くとき、長い廊下を通った。

 障子越しに聞こえてきた三味線の音に、体が反応してしまったかもしれない。

 この部屋の障子は雪見障子になっていて、下半分にはめ込まれたガラス越しに、廊下と灯籠とうろうのある庭が見えるようになっている。

「それにいまの仕草しぐさ、挨拶の仕方、だいぶ踊りをやっている人のものだったよ」

 糸巻で三味線の音を調整しながら、師匠は追い打ちをかけた。

「我流ですけど」

「いいわよ、ちょっと見せて」

 民江にさんざん待たされた憂さ晴らしと暇つぶしのつもりか、心の入らない三味線だったが、それもトオルが踊り始めると、とたんに変わった。

 「ほう」とか「うん」とか言いながら、福助人形の首振りが大きくなった。

 踊りが佳境かきょうに入ろうとしているとき、ドタドタと乱暴な足音がして、ミニスカートにティーシャツを着た若い女が飛び込んできた。芸者置屋には、似合わない雰囲気の娘だ。

「お師匠さん、遅くなってすいません」

「琴ちゃん、あんた一度でも遅刻しなかったことあったっけ?」

 娘は小さく、そして素早く舌を出した。

 ようやくトオルに気付いたようで、

「誰、この人?」

 と遠慮もなく指差す。この町に着いてから三度目か四度目の質問だった。

「橘トオルです」

 いい加減面倒になっていたので、名前だけにした。

「そう、私、琴子ことこ

 娘も深く追究するつもりはないようだ。ひとの話を、頭のてっぺんから数十センチ上で聞くのが、特技かもしれないとトオルは思った。

「琴ちゃん、あんた着替えておいで。それと、この子に何か着物を貸してあげて。羽織るだけだから、何でもいいよ」

 しばらくして、琴子が着替えて戻ってきたが、ひとりで着物が着られないのか、七五三の女の子の断末魔のように、すでに見事に着崩していた。

 トオルには、まっ赤な着物を手渡した。

「まるで『赤姫』だね」

 赤姫とは、歌舞伎のお姫様役は赤い着物を着るのが定番だからだ、ということは当然トオルも知っていた。

 琴子のいつもの足音がしたし、トオルも戻ってこないことを不思議に思った民江が、稽古場を覗きに来た。

 座敷から這い出たようにして、廊下に琴子が倒れている。

「どうしたの、琴ちゃん」

「あっ、民江姐さん、私、もう、だめ」

 座敷の中では、福助人形がひっくり返っている。

「お師匠さん、どうしたんですか?」

「民ちゃん、長生きはするもんだねえ」

 息も絶え絶えに師匠が言う。

 座敷の真ん中に、赤い着物を羽織ったままのトオルが、当惑顔で座っていた。

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