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其の壱

 目を覚ましたとき、車窓の風景は一変していた。

 点在していた民家はなく、水分を含んだ重そうな雲を乗せた山が黒く迫っている。

 車内を見回すと乗客はトオルひとりだけになっていた。車輪が刻むレールの音も心なしか大きくなったような気がした。

 乗換駅まであと二駅だと、ぼうとした頭で思ったことを覚えている。そのまま眠りに落ちて、降りるはずの駅を通過してしまった。

 少しなまりのある車内放送が、次が終点だと告げた。

 久しぶりに叔父の一座の興行先を訪ねようと考えて乗った列車だったが、ここ数日、細菌の培養で徹夜が続いていたことが災いした。

 アナウンスに背中を押されるように降り立った駅は、山肌に張り付くようにして夜の色に染め始められている。肌寒ささえおぼえる、北国のまだ浅い夏だ。

 トオルは大学の研究室でいつも着ている白衣を、背中のバッグから取り出して、ゆるゆると袖を通した。膝下まである白衣は、トオルにとっては、季節の変わり目の合着として欠かせないものになっている。

 別の車輛に乗っていた四、五人の娘たちがホームに降りた。

 ひなびたといえば聞こえはいいが、寒々とした風景にはおよそそぐわない派手な後姿の一群について、改札口に行ったトオルを、ひげ面の駅員の非情な一言が待っていた。

「今のが最終だ。今日は、モ、汽車ッコ、ネ」

「最終って、まだ時間が早いじゃないですか」

「だばって、乗る客ネがら、最終だ」

 次の列車は明日の早朝だという。

 この地域では、生活時間が、昔に戻っているのだろうか。

 夕暮だというのに、構内の時刻案内板も点灯がされていないから、電気が通っているかどうかも心配になるが、列車が走っているのだから大丈夫のようだ。

「泊まるところもあるばって、銭コ、あるが?」

 駅員は,太くて短い親指と人差し指で輪を作った。

「銭コ?ああ、お金ですか。ありません」

 トオルはきっぱりと言い切った。

「ネが。困たな。俺家さ泊めでやりてばって、嫁さんがガキ生んだばっかりでな」

 見た目はとても褒められたものではないが、心根は良い駅員であるらしい。まるで自分のことのように「困たな」を連発している。

「いいですよ、待合室で寝かせてもらえれば」

「ダメだ。蚊、多ぐて、寝られね」

 源泉が近いため、蚊の湧くのも早いと説明してから、男は、ひたすらに「困たな」の世界に遊んでいる。

 それまで待合室で待っていた娘たちが、迎えにきたマイクロバスに乗り込んだ。

「あの娘さんたちは?」

「ああ、この下の温泉場に来た、コンパニオンさんたちだ」

 駅員は、バスを見送りながら、胸のあたりで妙にかわいらしく、娘たちに、小さく手を振った。

「何やってんのさ」

 娘たちと入れ替わりに、紫色のジャージーを着た女が駅舎に入ってきた。

「あァ、これじゃ今夜もお茶っ引きだね」

 走りだしたバスを目で追いながら、胸の前に抱えた茶色の紙袋からハイライトを取り出すと、機械的な流れ作業のように、駅員に手渡しながら女は首を振った。

「いつもすいません、ねえさん」

「いいよ、ところでこの子、誰?マッサージの人?」

 白衣姿のトオルは、そう見えなくもない。

「汽車ッコ、乗り越したんだど」

 駅員が、また、自分のことのように、悲しげな瞳を女に向けた。

「あら、そうなの」

 女は、さして同情した様子も示さなかった。

 憐憫れんびんという言葉が似合わない、整っているが、きつそうな顔立ちをしている。

「銭コ、ネ」

 女のつんとした鼻先に、トオルが指で作った輪を示した。

「なんだい、クマのお仕込みかい」

 女は、小石の転がるような声で、カラカラと笑った。

「俺も泊めでやりてども、ガキが生まれたばっかりだすべ」

「なに言ってんのさ、勝手に駅に住み込んで、女連れ込んで、挙句の果てに子供までこさえてさ。泊めてやるもないもんだ」

「おれは第三セクタの駅長だ」

 精一杯の強がりだったが、クマと呼ばれた男の言葉には、しかし力がなかった。

「だったらうちに泊まりなよ。箱屋のゲンさんがギックリ腰で入院していてさ、不用心だからちょうど良かった」

 クマが、トオルの白衣の背中を引っ張った。

「危ねぞ、危ねぞ」

 女は、意に介さず歩き始める。

「危ねぞ、危ねぞ」

 繰り返しながら、クマが心配そうにトオルを見送った。

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