にわかの語るヒーロー論
さて、先日公開された「アベンジャーズ/エンドゲーム」。まさに11年間の集大成ともいえる映画で、非常に素晴らしいものであった。コナンもいいが、ぜひアベンジャーズも見ていただきたい。
前後編なのでインフィニティウォーは最低限見ないとストーリーが分からないとは思う。また、できればアベンジャーズ三部作とシヴィルウォー。欲を言えばキャプテンアメリカ、アイアンマン、マイティソーの各三部作も見てほしい。オタクなら、これまでの作品をすべて見よう。いやほんと。感動100倍増しだ。私はとりあえず、見終わった後、涙を流してチーズバーガーを食べつつ、3000回ありがとうを言ったよ。
さて、アベンジャーズについて滔々と語ってもよいわけだが、それにはネタバレが必要になるし、語りたいのはやまやまだけど、ふさわしい場ではないだろう。なので、主題に入ろうと思う。
さて、にわかの語るヒーロー論と銘打ったわけではあるが、そもそも大半のヒーローものというのは基本的なパターンは決まっている。つまり、悪が現れて、ヒーローが倒して、ハッピーエンドというものだ。ピンと来ない方はウルトラマンや仮面ライダーを思い出してほしい。事件が起きて、怪獣や怪人が現れて、必殺技で倒して、大団円。手を変え品を変えながら、同じようなテンプレを繰り返しているのだ。なろうテンプレも真っ青である。
だが、ここに、ヒーローというキャラクターとテーマ、ガジェットなどのエッセンスを加えることで特色を、そして面白さを演出しているのである。
もちろん、このテンプレに沿わないものもある。有名どころであればウォッチメンであろうか。この作品は、もし冷戦期にヒーローと、そしてたった一人超人がいたら、という世界を綿密にシュミレーションしている。ヒーローの管理、超常の力故の悩み、正義とはなにかを問いかける。“監視者を誰が見張るのか”これは、現代ヒーローものの命題と言っても過言ではないと思う。
正義とは何か、というと、一昔前に流行った、「これから正義の話をしよう」を思い出すが、なにも難しい話をしようというわけじゃない。まあ、あれは名著なので、一度読んでみることをお勧めする。だいぶ前に読んだきりだが、たしか功利主義とかあのあたりから正義を論じていたと記憶している。
ヒーローの正義は2つに大別できる。すなわち、全体主義か、個人主義かだ。また、これに加えてヒーローという狂気に陥ってないかという点でも分けられる。まあ、分かりやすく4種だ。
全体主義というのは、言葉通りでなく、簡単に言えば全体の幸福を重点においた考え方だ。人によってはFate/Zeroにおける衛宮切嗣の考え方が一番ピンとくるだろう。言い方は悪いが、100のために1を切り捨てる考え方だ。シヴィルウォーのアイアンマンもこれに近い。管理されることによって公的に動け、ヒーローによる大災害を防ぐ可能性が上がり、責任も一点に集中しない。だが、初動が遅くなり、しかも国家の都合によって行動を制限される。救えない命は必ず出てくるし、事件に関与できない可能性もある。そもそも国家が正しいのかって言う問題が。
対して個人主義というのは、全体のために少数を切り捨てない考え方だ。分かりやすい台詞に、「一人をすくえないものがみんなをすくえるものか」みたいなのがあるが、まさしくこれである。シヴィルウォーのキャップ側だ。初動を早くすることで救える命が増えるかもしれない。大切な個人を守ることだってできる。また、自身の正義に沿って動けるので、国家の都合にも左右されない。だが、ヒーローによって災害が起きるかもしれないし、もしかしたら被害が広がるかもしれない。そして、ヒーローが出した被害の責任はどこに行くのか。そもそもヒーローの正義は正しいのか。
理だけで考えるのであれば、全体主義のほうが合理的だろう。もしかしたら、読者諸君も同じ考えかもしれない。確かに100の命と1の命、数字の上で見れば100のほうが重い。だが、そのために切り捨てられる1はたまったものじゃない。命に重さはないのである。
どちらも正しい。だからこそ、議論は常に絶えないのだ。余談だが、シヴィルウォーを初めて見た時、いやぁどっちも分かるけどなぁ、これはなぁと個人的にはややキャップよりの中立の考えであった。だが、いろいろなサイトを見ると、やたら議論が活発で、しかも互いに非難しあっているというリアルシヴィルウォー状態であった。アイアンマン派が多かった気がする。どちらが正しいという話ではないのは確かだが。興味があれば、キャプテンアメリカ/シビルウォーを見た後に、いろいろサイトを見てみると面白いかもしれない。
さて、次に狂気の多寡である。
ヒーローというのは一種の狂気であり呪いである。おのれの身を他人のために投げ出せるというのは、狂気的というほかにない。もちろんヒーローだってみんながみんなそうではないし、中には私生活が充実しているのもいるが、誰しもその根底には自己犠牲の精神を持っている。だが、当然それも強い弱いがあるように思う。
非常に分かりやすいのはウォッチメンだ。ロールシャッハやオジマンディアスは狂気、ナイトオウルやドクターマンハッタンあたりは蝕まれていない。マンハッタンは人間じゃなくなってきてるけど。日本的には、僕のヒーローアカデミアより、オールマイトやステインは狂気、それ以外の大半はそうでないだろう。(デクも含めて)。昭和ライダー辺りはみんな狂気側に、というか石ノ森先生の作品の大半は狂気だろう。009なんて、愛と戦い忘れた人のために、地獄の戦鬼と呼ばれようと戦うんだ。カッコイイものだ。
これの判定はまあ、主観なのだが、いかに正義に徹することができるかによると思う。ちなみにアベンジャーズなら、キャップは狂人、アイアンマンも狂人だ。キャップは、あの国家を背負うという滑稽な恰好そのものが彼の正義の象徴であるし、アイアンマンことトニーも、時にアル中になりながらも正義のため活動している。つーか、大半のヒーローは狂人だな……。スパイダーマンは呪いはかかってるけど、狂いきれてないような気がする。でも、爆発寸前の手榴弾が投げ込まれて、もうどうしようもないとなったら、身を挺してかばうだろうなぁ。
この最右翼に来るのが、みんな大好きダークナイト、我らがバットマンだ。決して銃は使わないし殺しはしないが、殺し以外なら何でもやる。老体にむち打っても、正義のために戦う。徹底的なその姿はまさに狂気だ。だからジョーカーが相棒とか言っちゃうんだよ。ジョーカーがボケで、バッツがツッコミ。ダークナイト:リターンズは傑作なのでぜひ見てほしい。アニメもあるから。
主義と狂気の多寡で四つのタイプに分けられるとは思うが、結局のところ共通している部分が一つある。滅私奉公というが、その究極系がヒーローなのである。手段や変われど、誰もが正義のために戦っているのだ、だから、我々はその姿に勇気をもらえるし、憧れるのだ。
さて、ヒーローなら必ず触れないといけないもう一つの命題がある。それは“強大な力を何に使うか、何のために戦うのか”である。
マジンガーZという作品がある。これは高校生の兜甲児が、祖父が造った恐怖の遺産、マジンガーZにのって、悪の軍団ドクターヘルと戦う、といったストーリーである。マジンガーシリーズはどれもおすすめなので、見てみよう!
それはさておき、この作品の冒頭に、有名な一節がある。
神にも悪魔にもなれる力。それを唐突に得た時、あなたはどうするか。
これは力への責任であり、アイデンティティの問題でもある。
スパイダーマンが非常に分かりやすい。彼は唐突に得た力に驕った結果、最愛のベンおじさんを失う。その後、スパイダーマンとして活動するも、うまくいかない私生活に苦悩することになる。この力を何のために使うのか。テレビのタレントやプロレスラーとして活躍してもよかったはずなのに、それでもスパイダーマンは責任のもと、正義のために戦うのだ。この辺りは、サムライミ版スパイダーマンの1、2によく描写されている。
ウルトラマンは、その力に苦悩しつつ、宇宙と地球のため戦っている。この辺りはストーリー0を読んでほしい。仮面ライダーは、人々のために力を振るう。たとえ改造人間で、普通の人たちと違っても。
アイアンマンは悩む。アーマーがあれば誰だってアイアンマンになれるのではないかと。だが、それでも彼はアイアンマンとして戦い続ける。キャップは戦う。アメリカという国に歯向かおうと、アメリカの精神を守るために。
特にアメコミに多い気がするが、力をどのように使うか悩み、他人との違いに悩み、私生活に悩む。ヒーローは人間であり、しかしオンリーワンなのだ。ゆえに自らのアイデンティティに悩む。
その責任に耐えかねた時、そしてエゴを抑えきれなくなったとき、超人は悪役、すなわちヴィランとなって牙をむくのだ。最近、といっても結構昔からだけど、バックボーンが用意されてかわいそうなのもいるけど。
少しだけ、なろうに触れよう。ここは小説家になろうだからね。
なろうでよく世間一般に聞くのはいろいろある。詳しくはニコニコ大百科あたりでも読んでもらうとして、共通する部分が一つだけある。それは努力せずチート、すなわち超常の力を得ることだ。唐突に力を得る、もしくは力を生まれつき得ている、というのは往々にしてあることで、最も有名なのがスパイダーマンだろう。あれはクモに噛まれただけだ。まあ、本人めっちゃ天才だけど。あのクモ糸自分で開発してんだぜ。
批判の中には、迷わない、苦悩しないなどを聞くこともある。暴力の正当化への苦悩、良心の呵責、戦うことへの恐怖。この辺りも、ヒーローものなら定番だ。だがこの手の苦悩も、なろう系では、少なくとも私は見たことが無い。だが、私はそれでも構わないと考える。
ヒーローものといわゆるなろう系が決定的に違うのが、なろう系はヒーローものでないということである。何言ってんだって話だが、なろう系は、チート能力を得ていかに主人公が活躍していくかを見るものである。そしてなろう系の主人公はヒーローではないのである。だから、彼らは自分とその周りのためにしか動かないし、その利益のために力を振るう。言ってしまえば、彼らはやりたいようにやるし、その責任を重く考えない。やりたいようにやった結果、救われる人がいるかもしれないが、それはヒーローとは呼べないだろう。
一つ言っておくが、あくまでこれはジャンルが違う、という話である。別に主人公が利己的でも面白い作品はある。決してなろう系を批判しているわけではないということを念頭に置いてほしい。
さて、いろいろととりとめもなく語った気がする。もっと語りたいけど、収集つかなくなるし止めとこう。文章にするのしんどいし。
正義の反対は別の正義、という言葉がある。だが、あえてここでは違うといわせてもらう。正義の反対は悪なのだ。いかに崇高な理念があろうと、大義があろうと、悪辣な手段に走り、力の責任から逃げた時点で悪に堕ちるのだ。
大いなる責任を背負って、ヒーローは戦う。世界から否定されたとしても、信念を曲げずにヒーローは奔る。いつだって親愛なる隣人として、彼らは戦ってきた。そこに主義の違いはあっても、根底に流れる誰がための戦いは変わらないのである。
正しいことだから、それだけの理由で人に手を差し伸べられる人こそが、真のスーパーヒーローだとはスタンリーの言葉であるが、まさしく金言であると思う。このようなヒーローを書いていきたいと、一人の書き手として心底思う。
最後に、何度も書きはしたが、私の最も好きなヒーロー、スパイダーマンより引用して締めたいと思う。
“大いなる力には、大いなる責任が伴う――――ベン・パーカー”
スパイダーマンが好きです。サムライミもアメスパもホムカミも。ヒーロー入門にも最適。
大いなる力が無いなら責任もないのかって屁理屈こねるやつはキックアスを見よう。面白いぞ。
なろう系のくだりは話半分で。そもそもなろう系と一つにくくってる時点で暴論ではありますし。
アベンジャーズ、また見てこよう。
一応宣伝を。冒険ものの『追放されたゴーレムマスターはのんびり旅をしたかった』を連載してます。ゴーレムマスターは一章完結してますので、興味のある方はぜひ。