32話 十字傷
カーテンを閉め切った暗い小部屋の中で、男は情報を読み上げる。
それはギリギリになって申し込まれたリオマティアへの参加者だ。
ルイ・リンバース
蒼井ことり
フィーリア・ホーマー
バル・ホーマー
これで出場魔道師数は五十三名。計画を実行するには十分だ。
しかし、ふと思う。計画の障害になりえる二人の魔法使いのことを。
うち一人に手を出せば、確実にあの女の邪魔が入るだろう……
それは男にとって本意ではない。
けれどその名を見ると、かつて焦がれた女性の姿が脳裏をよぎる。
リスクは大きい。だが己に微かに残ったこの感情に従うのもまた一興か。
「約束通り、サインを貰いにいかないとな……」
その男はこの国が嫌いだった。
街には張りのある声が交差し、人々は疑うことを知らぬまま平穏を享受する。
窓の外では魔法を覚えたばかりの学生が、互いの術を披露し合っていた。
違う窓の外では小さな子供が、魔法グッズが欲しいと母へ駄々をこねている。
向かいの喫茶店では、携帯端末でのんびり魔法の動画を眺めるOLの姿があった。
忙しそうに走り出す者、やることも無くたむろする者、目的地へマイペースに歩む者。
その全てに共通するものはたった一つ――魔法の力。
ここは魔の恩恵の元に誕生した国。創造の根幹から魔術の関わる月面世界。
だからこそ――
彼はすべてに吐き気を感じる。
人々は知らない。その力によって訪れた悲劇を――
人々は気付いていない。その力によって深く刻まれた悲しみを――
騙され、傷つけられた。裏切られ、奪われた。
なのに皆がその現実から目を背け続けている。
だからこそ、この悲しみを、この怒りを、全て憎悪と名を変えて人々に捧げよう。
あの言葉を否定することが、彼がこの力に行う復讐なのだから。
彼は決して忘れていない――
この額の十字傷がある限り、あの時の悲劇を。
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これは夢だ。かつて自分が体験した過去の夢。
それをことりは理解している。
うっすらと開いた瞳の先で、男の人が泣いている。
全てが飲み込まれ、ただの荒野となってしまったあの場所で。
自分と同じ、大切なものを失った男の人が泣いていた。
誰を恨めばいいのか、誰を叱ればいいのか、決して出ない答えを前に泣いていた。
助けてくれたお礼を言いたいのに、ことりの体は動くことすら叶わない。
そして少女の意識はどんどん遠のき、お兄さんのお顔もおぼろげになっていく。
瞳が閉じる刹那に見えたのは、十字に刻まれた額の傷跡だけだった。
自分のベットで飛び起きたことりの息は乱れ、パジャマも大量に汗を吸っていた。
時間は深夜だ。けれど繋がった記憶に、意識が強く覚醒する。
「思い出した。あの時のお兄さんだ……!!」
事故のあの日、現場から自分を助けてくれた魔法使いのお兄さん。
そしてミスリルにいた自分のファンだというのお兄さん。
やつれて風貌は変わっていたが二人は同一人物だ。額の十字傷に見間違えは無い。
「今度、会ったらきちんとお礼を言わなきゃ……」
それに彼のように人を助けられる魔法使いになるのも目標の一つであると伝えたい。
興奮冷めぬことりは、ふと本棚にある一冊の絵本を目に止める。
それは創世の魔女イヴが魔法の獣達を引き従え、異世界の魔神を封印して世界を救う物語。
もう随分古くなり手垢でボロボロの絵本だが、これをみていると母の布団にもぐりこんでいた日々を今でも思い出す。だからこの本はことりの大切な宝物だ。
「お母さん、私はやっと魔法が使えるようになりました。まだ全然下手っぴだし、本物の魔法使いになる為の答えもわからないけど。いつか必ずマジティアージュに――」
胸の中の母へと呟き、ベッドを降りてクウの部屋へ歩き出す。
どうせまた遅くまでゲームをしているのだ。恩人のお兄さんの話でもしにいこう。
絵本を優しく元へ戻すと、ことりは部屋を後にするのだった。




