マスクと夢
また、嫌な夢を見る。以前とは違う新しい夢。夢なんだ、幻なんだといくら自己暗示をかけようと、そいつはずるずると私の心を蝕んでいく。嫌だ、嫌だ、手を振ってもがこうとも、物ともしない。倒れこむ。空にはまた、微かな光が見えて。
最近の悪夢の頻度がおかしい。ほぼ毎日見ている。それを魔人のせいにして、目覚まし時計を睨みつける。起きるべき時間はもうとっくのとうに過ぎてしまっている。間に合う気もしない。今日もまた学校など休んでしまおう。どうせ居場所もないのだから。
静もまだ眠っているようで、というかここ最近ほとんどその姿を見かけなくなった。あの変態を送り返してからもうすでに二週間は経つのだが、どうやらあの時能力を使いすぎたようで、あの日も帰っている途中にその姿を消していた。
そういうわけでこの間のようにうっかり死ぬことも出来ず、少しでも不安を感じると外に出ないようにしている。食事自体も元々小食であるし、今は便利な時代なもので、どれだけ孤独だろうと死にはしないように出来ている。食料品は通販で届く、金銭だけは親が大量に遺してくれているので全く困ることもない。ただ、裕福に暮らせるほどはないので、高校を卒業したら都市部にも出て働かないといけないのだろう。そうなった時、私はまだ、誰にも気付かれることのない、報われることなどない、けれど決して辞めることなど出来ない副業を、続けていられるのだろうか。
どうにも悪夢のせいでネガティブ思考になっているようで、そんなことばかり考えていると少しだけ目頭が熱くなってきた。私はそのうち、考えるのを止めた。仕方のないような事ばかりを考えるのは馬鹿のすることだ。それよりももっと現状をどうにかすることを考えるべきだ。
まず最も恐れるべきは、静がいないということ。これはつまり、万が一にも魔人が出てきてしまったら、私の力だけで奴らをどうにかしなければならない、ということである。敵の強さも見抜けない、弱点だけは知っている。ただ、それを行使するまでのプロセスは自分だけでは絶対にこなせない。つまり、この間の変態と同じ、いや、それより弱かったとしても、相応の力を持つ者が現れた場合、逃げるという選択肢しか残らないわけだ。もしそこでやられてしまった場合、静の力を使ってもどうにもならなくなる。
そもそも静の力とは、(まだ明確な理解は出来ていないのだが)時間軸に干渉するものらしい。そこで問題になるのが、静曰く「時間軸と歴史軸の違い」らしい。歴史軸とは、何が起こってどうなる、という軸のことで、例えば、「私がパンをくわえて学校に登校した」という事実があった場合、時間軸によって干渉出来るのが文字の順番である。「パンをくわえて登校した」を「登校してパンをくわえた」と変えることは出来ても、「あんぱんをくわえて登校した」には出来ない。ではこの間のトラック事故はどうして防ぐことが出来たのか?つまりは、時間軸に干渉し、「私がトラックに轢かれた」の前に存在する「私は事故に遭う事を予測していない」という事実を「私が事故に遭う」ということを以前の私に伝えることで、事故を未然に防いだ、というわけだ。歴史軸に干渉しているのでは?という質問を以前したのだが、あくまで歴史軸は「人間の世界の出来事」の歴史らしく、静や他の魔人が深く介入してしまった現象については、歴史軸も、時間軸すらも、干渉することが出来なくなるらしい。つまる所私は、「人間に殺されても何度でも生き返ることが出来る」けれど、「魔人に殺されてしまってはどうにもならない」という、中途半端な不死の人間になったわけである。
「ま、静がいないとどうにもならないんだけどね」などと自嘲するような独り言を吐きながら、リビングに向かう。ちょうど期限の切れそうな卵があったはずなので、フレンチトーストでも作ろう。
少しだけ甘くしすぎたフレンチトーストとホットミルクだけの簡素な朝食を終えて、洗い物を終えた頃にインターホンが鳴った。宅配便、もしくは静のいたずらだ。おそらく前者だと思いながらドアスコープを覗くと、見知らぬ男が立っていた。妙に似合うタキシードと真っ赤なバラの花束、オールバックに不自然な赤の髪の毛。我が家に似合わない風貌と妙な爽やかさを兼ね備えた摩訶不思議な青年は満面の笑みでドア越しにこう言う。
「あなたに送り返されにきました!赤田と申します!どうか私を魔界に送り返してください!」
困惑した私は、気付けば彼を招き入れてしまっていた。リビングに座る彼は、表情をころころと変えながら、色々な家具家電に興味を示している。まるでド田舎から急に都会に放り出されたわんぱくな子供のようだ。しかし、ひとつだけ気になる点がある。
「赤田さん、一つ聞いてもいいですか?」
「ひゃい!」
少しだけ和む。ぷ、と笑みが零れる。多分この人、悪い人じゃない、と言うより。
「貴方、魔人にはなっていないですよね?」
「ええ、そうですよ。ちょっと色々ありましてね」
「はあ。で、送り返せばいいんですよね?」
力強く頷いている青年のオールバックが揺れる。まあ自分から送ってくれなんて言うあたり、きっと何かの事情があるのだろう。
「話せば長くなるのですが、聞きますか…?」
「あ、ええ。少し興味があるので教えていただければ嬉しいです。それとなんで私のことを知っているんですか?」
「それも含めてお話しますよ」
彼の話を要約すると、ある日魔界で好きな女性にアタックしようと勢い込んで自宅から出た矢先、玄関の前に人間界行きのトンネルが発生していたそうで、意図しない形でこちら側に辿り着いてしまったらしい。また、困ったことに、悪魔の掟として、人間界に意図しない形で迷い込む、ということは、何らかの罰などで追放された先が人間界だの、というケースしかないらしく、自力では戻ることの出来ないシステムになっているらしい。早く魔界に戻り意中の相手の元に飛んでいきたいらしく、方法を探していたところ、とある悪魔に私の存在をききつけ向かってきたらしい。
「とある悪魔って言うのは?」
「子汚い工場にいた紳士的な男性ですよ。とてもスマートで愛想もよく、女性からすれば理想の男性像じゃないですかね!」
凄く聞きたくない情報を聞いた気がする。というかあいつはまた戻ってきたのか。どうにかして幽閉できないものだろうか…。
「あ、あの人もしかして魔人化しちゃいました?残念だなあ…良い人だったのに」
「貴方が出会う前の話ですよ。あと、人の心を読むのはあまり気持ちのいい能力じゃないですね」
「あれ?そこまで僕言いましたっけ?」
カマを掛けてみたら意外に当たるものだ。というより以前遭遇した魔人に同じ能力がいたはずだ。案外バリエーションに欠けるのだろうか。
「あ、そいつ僕の親族ですかね。読心能力って僕の家系しかいないんですよ。って誰が独身能力ですか!解りますからね!読めてますからね!ああもうわかりましたよ黙りますよ…。」
少しだけ可愛そうになったが、うら若き乙女の心を読んだ罰である。
あちち、と女子中学生のようにマグカップを両手でしっかり持ちながら冷まそうとする赤田は話を続けた。
「いやー、探している女性なんですけどね。とっても美人な方でして…。一目惚れって奴ですね!麗しいロングヘアにすらりとした長い脚…。まるで後世まで語り継がれる彫刻のような、いや本当にあの人は芸術品のようですよ!凄い方なんですよ、名家の出身でしてね、能力も時を戻すなんて大層な方でして…。」
嬉々として語る赤田。心底その人が好きなんだろうな、と呆けながら聞き流していた。なんとなく心当たりも出てきたがあえて黙っておくことにする。早めに送り返しておいた方がいいのかもしれない。
じゃあさっそく、と切り出そうとした所で思い出した。この人独身、いや、読心能力の持ち主だった。赤田は太陽のような笑顔を浮かべている。
「いやこれはびっくり、静さんと知り合いなんですね!で、いついらっしゃいますかね…あ、それはご存じではない!もしよかったらここで待たせてもらっても…いやいやいいじゃないですかあ!」
「人の心読んで勝手に会話したつもりにならないでくださいよ。わかりました、静が帰ってくるまでゆっくりしててもいいですから…。」
「そういってくださると信じてました!」
いやー楽しみだなあ鏡ありますか整えなくちゃ、などと捲し立てる赤田に対し、読まれるのを覚悟で強くめんどくさいなと思った。
ばん、と勢いよく玄関の扉が空いた。静だ。赤田はびくんと魚のように跳ねてから、緊張したのかかちこちになっている。ずんずんと居間に迫る足音がまるで赤田の心臓の音のように思えた。もう一度、ばん、という激しい音と共に静が入ってきた。
「夢、行くわよ。」
それだけ言うと静は踵を返して玄関のほうへ向かった。こうも急かす静は久々だ。頭を切り替えて私は走り出した。赤田が口をぱくぱくしていたが、どう考えても優先するべき事項なので先に行きます、とだけ脳内で考えて飛び出した。
「もしかして、結構まずい?」
「結構どころじゃないわ。先に言っておくわ、夢。今回は私、役に立てないかもしれない。」
「どういうこと?」
「私達の天敵なのよ、暴れてるやつ。私の能力って簡単に言えば呪術に近いんだけど、うちとずーっと敵対してる家系がいてね。簡単に言っちゃうと反呪術、って感じかしらね。ちなみに夢が送り返す時に使うあれも呪術の一種だから、顔を覚えて溶かすしかない。でも相手はそれを解ってるみたいでね、仮面で隠してるのよ。」
「…。それ、どうしようもなくない?」
「ところが既に、一人殺されてるの。」
ぞわ、と悪寒が走った。もしかしたら私はここで、死ぬのかもしれない。何回も死んでいるけど、コンティニュー出来ない、と考えると。
「大丈夫、なんとかするわ。一応対策されてない呪術もある…けど、効く保障はない。でも、やらないとかなり大変なことになるわよ。冗談抜きで人類滅亡もあるわ。」
「やるだけやるわ。だって私は正義のヒーローだしね。」
「じゃあ私はヒロインって所かしらね。」
冗談を言える静が少しだけ恨めしかった。
小さな廃屋だった。朝日町とは反対側の山奥だ。今にも塵になりそうな程にぼろぼろのドアを蹴破った先、古めかしい囲炉裏がばちばちと燃えて、その中に人だったもの、それを挟んで悪魔だった者がいた。
「久しぶりだね、今は静と名乗っているそうだね。」
形容しがたい程醜い声の主は、それとは逆に見惚れる程美しい姿をしていた。静を初めて見た時のような衝撃とは別の、明らかに歪な美しさだった。吸い込まれるような黒いスーツが、恐怖を加速させる。この世の者ではない。仮面は蓮の花を模したものだった。鼻までが覆い隠されていて、にたにたと笑う口元が不気味だった。
「君が夢ちゃんか。僕はなんて名乗ろうか。いや、名前なんて言わなくてもいいかな。やっぱり適当に名乗っておこうか。うん、マスクでいいや。わかりやすいだろう?」
「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと帰りなさいよ。あんたみたいな危険因子が来ていい世界じゃないのよ。わかる?」
「君には話かけていないだろう?僕は夢ちゃんと対話がしたいんだ。」
私は今にも嘔吐してしまいそうな衝動に駆られていた。気持ちが悪い。気味が悪い。今すぐ逃げ出したい。ここに居たくない。死にたくない。体から血の気がすうっと引いていく。目も口もカラカラに乾いていくのがわかる。気を失ってしまいたいのに、恐怖が心臓を鷲掴みして離さない。動悸が速くなる。呼吸がちゃんとできているかさえもわからなくなる。
「大丈夫よ。」
静の透き通るような声で現実に引き戻される。静はこちらを見て微笑んでいた。やらなきゃいけない。ぐっと拳を握り、きっと前を見据える。そのまま深く息を吸う。戦うんだ。こんなにくだらない世界を守るために。私はこの世界のヒーローになるために生きている。
「ああ、大丈夫、今日は顔合わせだよ。こんなにあっさり世界滅亡の危機を迎えてもいやだろう?僕はね、警告しに来たんだよ。」
相も変わらずばちばちと燃える死体の熱で、マスクの姿が揺らぐ。
「夢ちゃん。君はとても強い。恐ろしく強い。その瞳は僕たちを殺す力さえ秘めている。でもそれだけなんだ。もしも君が盲目になったらその力はどうなるんだろうね?僕ら悪魔の中には単純に物凄い力を持っている奴もいる。その気になれば君なんて簡単に殺せてしまうんだ。でも僕たちはそうしないよ。これはゲームなんだ。静が君を選んだように、僕も今、ゲームに使うキャラクターを選んでいる所なんだよ。今日はまだ手駒になりそうな奴がいなかったからね。今日は戦わない。」
何を言っているのかわからない。人を一人殺しておいてゲーム?怒りがふつふつと湧き上がる。こいつはこの世界に居てはならない。全力で挑む。
「あー、今の言い方は少し語弊があるね。失敬失敬。僕は君とは戦わない。僕が戦うのはね…。」
静が何かに気付く。笑みがこぼれているだろうマスクの口元がにちゃ、と大きく開いて。
「逃げて夢!」
瞬間。前方に飛び出した静が爆炎に包まれる。
「これで僕と静は牢屋入りさ。残念ながら君には仲間がいない。でも悪魔は、君の敵はどんどんこちらの世界に入り込んでくる。静が君の元に現れるのと、君が殺されて世界が滅亡するの、どっちが早いだろうね?多分同じことになるんだろうけどね!」
狂気じみた嘲笑を浮かべながら、静とマスクは溶けるように消えていった。
残されたのは黒焦げの死体が一人と、絶望した私が一人だった。