悪魔と夢
気が付けば自室の布団の中だった。動悸が激しい。が、傷は何一つない。ああ、そういうことか、と一人納得していると背後から声が聞こえた。
「なんでまた死にに行ってるの。私が居なきゃどうするつもり?」と甲高い声で彼女は言う。仕方ないでしょ、とだけ返すと、やれやれと肩を竦めた。
彼女は、ある意味で天涯孤独になってしまった私を救ってくれた恩人だ。しかし違う意味では、彼女によってそうなってしまったとも言える。先に恩人と述べたけれど、彼女は人ではない。人でなし、だとか人間のクズ、とかそういう事ではなくて、生物の構造から思想から何から人間ではない。静、と名乗る彼女は「悪魔」なのだ。しつこいようだが性格とかそういうのが悪魔というわけではなく、魔界と呼ばれる場所から来ただけの、正真正銘の悪魔なのである。
「私はちょっとだけうっかりなのよ。だからあなたが私を守ってくれるのでしょう。それでいいじゃない。ギブアンドテイクよ、ギブアンドテイク。」
「何がギブアンドテイクよ。一日に何回私が助けてやってると思っているのよ。」
「感謝はしているわ。ただ私はちょっとだけ恥ずかしがり屋だから表には出さないだけ。」
いつものやりとり、というものは本当に心を落ち着かせてくれる。先ほどまで暴れまわっていた心臓も、今では落ち着いたようで、いつの間にか呼吸も整っていた。本当に彼女にはお世話になっている。私が彼女を「手伝う」時も本当に手伝えているのかと錯覚してしまう。
「ちなみに何処まで戻してくれたの?」
「6時間ぐらいかしらね。で、そこからあなたずっと眠っていたから、今はお昼よ。」
彼女ら、悪魔たちにはそれぞれ、所謂「能力」がそなわっている。彼女のそれは、本当に他者には説明しにくいので今は省略する。私自身まだ理解しきれていないものなのだ。とにかく、それによっていつも命を助けてもらっているのだから、やかましく文句を言うのは筋違いというものである。
今日は学校に行くつもりだが、こうなってしまってはもうそんな気も起きるはずがない。仕方なく、今日は静に頼まれていたことをこなすとしよう。本当は昼間にやることではないのだが、ほかにやる事もなくだらけているなんて、弱冠十五歳のうら若き乙女にはとても勿体ない話なのである。
呆けた頭で本日二度目の着替えをする。今度は指定のセーラーではなく、地味な茶色のカーディガンと、ひざ下まである地味なスカート、ついでに先ほどの様子だと少し暑かったので、帽子を被っていくことにした。対する静は恐ろしく長い髪をアップにまとめ、すらりと長い美脚を際立たせる白のワンピース。まるでハリウッド女優のようだ。並んで歩くのが恥ずかしくなってくるものであるが、仕方ない。影が薄い私は、どれだけ地味なファッションでも、海外で今はやりのとあるアーティストのような格好をしたとしても、誰の目にもとまらないだろう。それだけが私のアイデンティティなのだから。
「行くわよ静。面倒くさいからさっさとすませましょう。」
珍しいじゃない、とからかってくる彼女を無視して玄関に向かう。私の、私にしかできない、やりたくもない仕事が始まる。
大抵の人は、悪魔だとか、魔物だとか、そんな生き物を信じることはない。なぜなら、実際に見た事がないからだ。実体を目にしたことがなければ、そんなものは信じないだろうし、もし万が一見つけたとしても、本当に悪魔だとは誰も思いはしないだろう。しかし私はその存在を認めざるを得ない。自惚れのようでもあるが、今現在、世界でたった一人の人間だろう。私と初めて出会った時に悪魔がそういったのだから仕方がない。強大な力を持った悪魔が人間に見つかるというということは本当に極稀にあるらしい。それが「神」と呼ばれるらしいのだが、この話は置いておこう。私は微弱な力しかない悪魔でも見ることが出来る、ということだけは事実だ。普通の人には悪魔は見えないのだが、なぜか私にだけは感覚的に、悪魔、だとわかるのだ。
悪魔、といっても、姿形は大抵人間と同じである。違ったとしても、それは地球上にいる生物となんら変わりはない。私が出会ったことがあるのは子供から老人までの数十名だが、その全員が普通の、本当に「どこにでもいる一目見ただけでは顔を覚えられないような特徴のない」人間の姿をしているのだ。別段悪いことをしない悪魔がほとんどなので、普段は気にしていないのだが。
しかし、神のように一般の人にも見えてしまう悪魔が存在する。静はそいつらを「魔人」と呼ぶことで区別する。私もそれにならって魔人と呼んでいるのだが、魔人というのはとても危険な存在だ。一般の人にも見えうる、という事は、とても強大な力を持っているというのに等しい。そしてそのほとんどが、人間を傷つけることで愉悦するのだ。その魔人から人間を守るのが私の役目である。
私は悪魔を元居た魔界に返す事が出来るのだ。それが、私が静に生かされているただ一つの理由でもある。悪魔は悪魔同士で争った場合、とある場所に「幽閉」されるのだという。死という概念がない悪魔にとってそれは、もっとも恐怖するべきことであるのだそうだ。拷問があるわけでもなく、食事もしない悪魔には影響がないようにも思える。しかし、生きる理由が娯楽である悪魔にとって、何もない空間で幽閉されるということは、生きる理由を奪われるのに等しいのだ。人間界で悪事を働いた悪魔も同様の刑に処される。しかし静にはそれが出来ないため、偶然にもその力を持った私と、偶然にも私を救った静とで、悪事を働く魔人をとっちめる、というわけである。
長ったらしく言ってしまったが、簡潔に言えば、私は悪い悪魔をやっつける正義のヒロインを気取っているというわけである。友人も家族もいない私だもの、このぐらい波乱万丈な人生を送ったところで、誰も文句は言わせない。ある意味気楽でいいものだ、と自分に言い聞かせる。そうでもしないと、いつでも膝から崩れ落ちて泣いてしまいそうになるのだから。
朝日町には魔人がこのところ頻繁に出没する。その理由はひどく単純で、魔界と人間界を繋ぐトンネルのようなものが、朝日町とここ数日でつながってしまったらしい。しかもそのトンネルが酷く短く、一般的な魔人も特になんの負荷もなく来ることが出来るらしいのだ。その結果、興味本位で人間界に降りた悪魔が魔人になることが多いようだ。なんともはた迷惑な話である。静はお陰で実家に帰りやすくなったよ、などとふざけたことをよく言っているが。
最近はあまり魔人と遭遇していない。最後に返した奴も、ちょっとしたいたずらをする程度だったので正直容易かった。一番困るのが、物理的な攻撃をしてくる魔人だ。たとえ特殊な能力を持っていたとしても、腕力や運動神経はそこらの女子中学生となんら変わりはない。ほんの少しだけスタミナはほかの人よりはあると思ってはいる。
私としては魔人が少ないというのは、とても気楽なことだから構わないのだが、静曰く、嵐の前の静けさとなんら変わりないそうだ。とても面倒くさい。彼女曰く、一番ひどかった時は真夏の夜の街燈に群がる蛾の如く、だったそうだ。考えただけでも血の気が引く。いや、魔人の方がよっぽどいいかもしれない。どうにもあのけばけばしい蛾の模様は慣れないものである。
自転車で朝日町まで一時間ほど、少しだけ疲れた。私の横をふよふよと浮遊して移動する静が少しだけ憎らしい。
「さて、目的地に着いたわよ」
静に言われて辿り着いたのは、町の外れの廃工場だった。いかにも、といった様子である。息を切らした私は深呼吸をして、きっと前を見据える。
「さっそくお出ましよ。貧弱そうな奴だけどね」
ガラスを割ることもなく、窓からぬるりと零れ落ちたそいつは、白髪に塗れた人の良さそうな雰囲気の、ツナギを着たおじさんだった。不意に仕事をクビになり、おまけに妻に逃げられ、挙句の果てには娘と面会を拒絶されていそうな人だ。しかし顔だけは認識できない。表情は何となく読み取れるものの、ぼやけているような、滲んでいるような。まるで擦りガラス越しに見ているような、モザイクがかかっているような、言いようのない不快感がある。それが魔人と成り果てた者の特徴なのだ。
「あ、どうも。私、朝日製麺所の美好と言います。美しいものが好きと書いて美好ですが別に女好きとかではないんですよ。誤解しないでくださいね。」
「じゃあさっさと成仏してもらっていいですか?」
「それは嫌です。」
言い切る前に美好とやらは攻撃をしかけてきた。ぞわりと寒気がすると、軽く横にステップする。同時にさっきまで居た地面は泥沼に化していた。ステップで避けた時に少し重い感覚がしたのはその為か。ノーモーションの攻撃か、本当に魔人は質の悪いことをする。
「女好きって訳じゃあないんです。ただ美しいものが好きなだけですよ。美しいって罪ですよね。人が狂っちゃうんですから。だから裁判沙汰になる前に私がしっかり保管してあげますからね。」
先ほどまでの柔らかな表情はどこへやら、まるで女性専用車両に紛れ込んだ異常性欲者の様な下卑た顔を浮かべている。随分寒いことを言う奴だなあ。だけどまあ、ちょろい。
「じゃあ静、お願いね。」
「はいはいっと。」
私の合図で静が何かぶつくさと唱える。美好の顔が少しだけ歪むが、再びさっきの泥沼を仕掛けようとしていた。
が、それも叶わず。静の体が微かにゆらめくと、美好の体が発光し、ぴたりと動かなくなる。彼女の力はどうやら時間軸だとかなんだかに働きかけることが出来るようで、お陰様で私はゆっくりとその屑魔人を葬り去ることが出来るのだ
そして私の能力は、なぜか生まれ持った特殊なこの目で魔人の顔を覚えて強く念じることで、魔人を送り返すことが出来る。強く念じ見つめることで、徐々に魔人の顔が認識できるようになっていく。かなり体力を消耗するので余り使いたくもないため、普段は静から教えてもらった呪文を唱える。これがまた恥ずかしいものなので気乗りはしないが、二日も寝込む前者はあまり使いたくもないので致し方がない。
「天が地に沈む。地が天を拒む。その狭間は孤独なりや。冥府の王の元へ帰れ!」
「相変わらず可愛い声ねぇ。」
「黙れ。」
こんな適当で良いものなのか。などと疑問は残るものの、美好と名乗る性犯罪者は消えていった。
「さ、帰るわよ。あっさりしてて何だか腑に落ちないけど。」
「何言ってるの、夢。油断してると死ぬわよ。」
は?と振り返ると、先ほどのゴミクズ性犯罪者が気持ちの良さそうな顔でまだ立っていた。というか下世話な話、その、うん。
「美少女女子高生に送り返されそうになるなんて最高に気持ちいいね!あまりの気持ち良さに…ふふ、お恥ずかしながら、勃ってしまいましたよ」
「直接的な表現をひかえろクソジジイ。あなたが人間だったら警察にブち込む前にその粗末な物に熱した鉄パイプをブち込んであげたかったです。」
「私達の業界ではご褒美です!」
「死ねやゴミクズが!」
そう言い放つと私は全神経を集中させて、奴の顔を認識する。魔人の弱点は顔だ。とても疲れる作業だが、こうなったら奴の顔を完璧に覚えて、もう一度送り返してやる。
「だめよ。こんな奴の顔を覚えるなんて勿体ないわ」
じゃああなたが何とかしなさいよ、と言い切る前に静は次の手を打っていた。再びクソ豚の体が発光する。今度は美好の体が停止したまま、どんどん小さくなっていく。最初から使ってよ、と視線を送ると、疲れるから嫌だ、と返してくる。
「もう一回唱えなきゃ駄目?」
「もちろん」
気は進まないものの、一秒でもこのロリコンクソジジイと一緒に居たくなかったので、渋々唱えることにした。すでに体は三十センチほどまで小さくなっている。
「天が地に沈む。地が天を拒む。その狭間は孤独なりや。冥府の王の元へ帰れ。」
今度こそ送り返せた。むしろ魔界の人々が可愛そうな気もする。
「それにしても珍しいね、一発で送り返せないなんて。」
「さっきこんな奴って言ったけど訂正するわ。あれ、割と上位の魔人よ。」
「じゃあむしろ二発で送り返せていいものなの?」
「当たり前よ、返せない魔人がいようものなら、この国崩壊するからね?」
さらりとかなりのプレッシャーをかけられた気もするが、とりあえずは一件落着だ。感覚的には二日くらいの日程を詰め込まれたような感覚なので、どっと疲れてしまった。魔人なんてもう現れなければいいのに。
「あら、それは私も帰れってこと?」
「それは黙秘させてもらうわ」
今日は帰ろう。膝が笑うほどきつい坂道を越えて、また明日の平凡な日常に備えよう。どういうことよと憤る静を宥めて、私はペダルに足をかけた。