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歴史短編小説群

兵法盗人

作者: 塔野武衛



 大橋の周りは見届け役の兵に見物人で黒山の人だかりとなっていた。橋の両側にはそれぞれ『常陸国江戸崎住人 一羽流 日本無双の士 岩間小熊』だの『愛宕太郎坊大天狗直伝 微塵流 天下無双兵法家 根岸兎角』だのと大書された幟がはためいている。

 その幟を背にし、木刀を手に向かい合う二人の兵法家あり。眼光鋭く山伏の如き総髪の大男は随分と羽振りがよいのか上質な衣服を纏い、その顔は艶で光っている。対する男はそれと真逆で、頬は痩せこけ無精髭は色濃く衣服は薄汚い襤褸も同然、およそ見栄えのしない色黒の小男だった。だがその双眸から放たれる凄まじい眼光は武芸の心得なき者や心弱き者が直視するに堪えぬほど恐ろしい迫力がある。

 大男は悠然と構えながらも鋭い眼光は対手を凝視して離さず、小男からは明確な殺気が滲み出ている。今にも凄惨な殺戮劇が繰り広げられんとするかのように、周囲の空気は殺伐としきっていた。事情を知らぬ者が見れば、何故これほどまでに双方鬼気に満ちているのか理解を絶する所だろう。だが少なくとも、小男の側にはそれだけの殺意で敵に対するだけの動機が存在した。

 二人の睨み合いは現実にはほんのささやかな時間ながら、周囲の人間としては何刻もの時が流れているような気分だった。それほどに、場の空気は張り詰めていた。




 その老人は、既に往時の面影が微塵も感じられぬほどに変わり果てた姿となっていた。肉体は骨と皮しかないかのように痩せ衰え、顔に至っては所々が爛れている。床に臥せる彼を見下ろす二人の男の表情には疲労と悲しみ、そして怒りが満ち満ちていた。いずれ劣らぬ屈強な男達で、この末期の死病に罹った老人を介護するのには似つかわしいと言えない。だが悲しい事に、もうこの二人以外に老人の面倒を見るべき人間は居ないのだ。

 もしこの光景を見た上で、老人が嘗ては高名な兵法家だったと告げたとしても、恐らくそれを信じる者は誰も居ないだろう。否、仮にそれを知っていたとしても信じたくはない筈だ。誰だって見知った人間が落ちぶれた様など見たいものではない。だがこれは紛れもなく、目を背ける事の出来ぬ現実だった。

 常陸国鹿島には、香取神道流と呼ばれる古き兵法が存在する。飯篠長威斎が創始したと伝わるこの兵法は常陸国を中心とする関東で栄え、天下に名高き塚原卜伝を筆頭に数多くの名人を輩出した。

 その中の一人に諸岡一羽斎という男が居る。元は常陸国江戸崎在地の武士であったが、主家の滅亡と共に武士としての道を捨てて兵法家として後進の育成に力を尽くした。いつしか彼の教える兵法は『一羽流』と称されるようになり、多くの弟子が彼の教えを乞うた。彼の兵法家としての人生は、まず順風満帆と言って差し支えないものだった。

 その身が、不治のらい病に蝕まれるまでは。

 一羽斎は次第に稽古はおろか日常生活すらままならぬほどに病み衰え、盛時には数百を数えた門弟も日一日ごとに数を減らし、彼の前から去っていった。

 気が付けば彼に従うのは岩間小熊、根岸兎角、土子泥之助の三人だけとなった。それは何も師に対する忠誠心だけの問題ではない。何故ならこの三人はいずれ劣らぬ一羽斎の高弟であり、他の者と違って師を見捨てて逐電出来る立場になかったからだ。

 介護生活は凄惨極まるものだった。道場は事実上閉鎖状態となって収入が途絶え、次第に一羽斎のみならず三人の私財すら投じなければ介護が続けられぬ状況になってしまった。

 それが治る見込みが僅かでもあればまだよかった。だが一羽斎の病は高名な医者ですら匙を投げる難病であり、三人の行いは死という逃れ得ぬ現実を遠ざける役にしか立たなかった。それは介護する人間の精神をどん底に突き落とす地獄の責め苦と同じである。自分の行いが本当に正しく、かつやる甲斐のあるものか本人にすらわかり得ないのだから。

(俺は一体なにをしているのだ)

 高弟の一人根岸兎角は、次第に心中に湧き起こる深刻な疑念と向き合わざるを得なくなっていた。

(俺の腕は既に天下に通じるに足るものになった。諸国を旅し、新たな流派を打ち立てて道場を開いたとて不足はあるまい。なのに、何故俺はこんな所に居る?)

 人には何かしらの野望がある。当然彼にも相応の野望がある。その野望を成就する為に彼は江戸崎一羽斎道場の門を叩き、懸命に修業を積んで来た。それも全ては、後にもたらされるであろう栄光の為にこその努力だった。然るにこの行いは、果たして今後に何の恩恵をもたらすのか? 彼にはその意義がどうしても見出せなかった。

 その結果が、この重苦しい空気である。二人の……小熊と泥之助の感情に怒りが混じっていたのもそのせいだった。ある日突然、兎角は何も言わずに消えてしまったのだ。

「無理からぬ事よ」

 囁くような弱々しい震え声で一羽斎が口を開く。

「人にはそれぞれ生きる道というものがある。こんな無様な死に損ないの老いぼれにいつまでも関わっていられぬと逐電したとて、わしにそれを責める事は出来ぬ。行かせてやるがいい」

 小熊達が信じられぬと目を剥き、次いで顔を手で覆う。度重なる裏切りによって、先生の心は傷つき諦観に支配されてしまった。それが口惜しく無念でならぬ。そんな心情が溢れ出ていた。既に老人の双眸から光は失われているが、愛弟子がどんな想いに囚われているかはわかる。彼は力を振り絞るように続けた。

「よいか、小熊、泥之助よ。これまでそなた達はわしの為に随分と尽くしてくれた。だがその為に全て終わった後は何も残らぬというのでは何の甲斐もありはせぬぞ。兎角にしてもそうだが、そなた達はいずれも世に出て恥ずかしくない天晴な剣客。その力をこんな老人の為に無為に埋もれさせるでない」

 小熊は反論しようとしたが、出来なかった。病によって常に見開かれた状態の双眸が、自分達を捉えて離さなかったからだ。その表情は哀しみに支配され、何も言うなと訴えかけているように思えた。そして何より、師父の言葉を完全に否定しきれぬ部分が二人の中にもあった。彼らとて兵法で名を残し立身したいという野心の炎はあるのだ。そして、自分達が無為の時を過ごしているのではないのかという深刻な疑念が。心の奥底に秘められた不純なそれが、彼らに二の句を継がせる事を許さなかった。




 一目見ただけで険悪な雰囲気が漂っていると察せられる光景だった。師匠が座ると思しき座敷と正対する形で薄汚い小男がどかりと胡坐をかき、その周りを門弟達が取り囲むように居並んでいる。まるで今にも袋叩きに殺してしまわんとするばかりに。

 その男は無腰同然だった。大小は差されておらず、ただ傍に置かれた木刀が一振りあるばかりである。これほど剣呑な雰囲気漂う修羅場に木刀だけで乗り込むなど正気の沙汰とは言えぬ。しかもこの男はそれ以外目に入らぬかの如く、真正面の座敷を凝視していた。それを見て誰が彼を狂人でないと認識出来ようか?

 やがて一人の男がその場に姿を現した。山伏の如き総髪の偉丈夫は、ぎらぎらと鋭い眼差しで場をじろりと見渡す。その視線が狂人に止まる。口の端を歪めながら、男は悠然と腰を下ろした。

「お初にお目にかかる。貴殿が『大橋の小熊』殿か。わしは天下無双の兵法家、微塵流宗家たる……」

「茶番に付き合うつもりはないぞ、下衆」

 遮るように狂人が言う。その双眸には憎悪の炎が燃えたぎっていた。

「お初にお目にかかる、だと? 俺が誰であるか知らぬ訳はあるまい。病に蝕まれし師父を棄て、あまつさえその兵法を私した外道めが。人間面して言葉を発するな」

 一瞬場が凍え、即座に火山の如く噴火した。

「つけあがるなこの乞食めが! お忙しい中わざわざ時間を割いて貴様に会って下さった先生に対して何様のつもりだ! この場で叩き殺されたいのか!」

 憤怒に彩られた罵声が道場に満ちる。だが狂人はなおも、眼前の偉丈夫に憎悪の視線を向けるだけだ。周囲の喧騒など耳に届いていないかのようなふてぶてしく大胆な態度だった。偉丈夫の顔からも、はっきりと笑みが消えていた。




 世が太閤秀吉の『唐入り』に耳目を集めていた頃、一人の老人が人知れずこの世を去った。その死を看取ったのは二人だけで、葬儀も質素を通り越して粗末ですらある代物だった。だが望んでそうした訳ではない。二人と老人に遺された資産では、それが精一杯だったのだ。無縁仏に葬られぬだけまだましと言うべき有様である。

 そしてそれと前後するように、ある一つの新興兵法が脚光を浴びていた。その流派は山伏の如き総髪の偉丈夫が創始したもので、彼は愛宕太郎坊大天狗より兵法を授かったと吹聴し、その確かな技量も相まって多くの弟子を従えていた。最初は小田原に座していたが、近頃は豊臣政権の重鎮徳川家康の本拠江戸に入り、これまた名声を博しているという。

 その男の名は、根岸兎角といった。

「最早我慢がならん!」

 あばら屋同然の道場跡に、憤怒の叫びが響く。それを発したのは大声に似合わぬ粗末な小男。それを聞くもう一人の男の表情にも、明らかな怒りの色があった。

「先生を見捨てて遁走した挙句、あたかも自分の独創であるが如く喧伝して兵法を私し、自分一人だけ利を貪るか! どれだけ腐りきっているのだ、あの外道が!」

 その怒りは当然かつ深刻なものだ。本心はどうあれ、一羽斎は兎角がその腕を用いて世に名を成し、立身する事を否定しなかった。だがそれはあくまでも諸岡一羽斎門弟としてのそれであって、一羽流などないかのように振る舞う事を認めてやった訳ではない筈だ。言ってみれば兎角は、どこまでも師の恩を仇で返した事になる。

 長い話し合いになった。兎角に天誅を加える事は即座に決まったものの、どちらがそれを担うかで散々揉めに揉めたからだ。二人の技量はほぼ互角で、しかも廃れたとは言っても道場を放置する事も出来ない。必然的にいずれかは残留する運びとなる。その決め手がなかったのだ。

 結局二人は籤を作り、小熊が江戸に向かう事が決せられた。小熊は即日常陸江戸崎を発ち、泥之助は鹿島に赴いて復讐成就を願う願文を投じた。その願文には、もし小熊が仕損じれば自分が江戸に赴き、万一自分も敗れた場合は神前で腹を切ってその血で神社を朱に染め、当地の悪霊として祟りを為すという脅迫同然の凄まじい内容が記されていたとされている。二人の兎角に対する憎悪はそれほどのものだったのだ。

『兵法望みの人有之に於てはその仁と勝負を決し、師弟の約を定むべし 日本無双 一羽流 岩間小熊』

 江戸に上った小熊が最初に行ったのが、この立札を大橋(後に常盤橋と呼ばれる)のたもとに設けた事だった。彼は日々やって来る相手を悉く打ち倒し、瞬く間に江戸中の評判となった。それは兎角と微塵流の名を相対的に霞ませる事に繋がる。当然門弟達が面白く思う筈はなかった。

 遂に門弟の中に彼に挑む者が現れ、為す術もなく打ち倒された。

「一羽流こそが、まことに学ぶに足る兵法よ。根岸兎角の如き胡乱者の教える紛い物なぞ兵法と呼ぶに値せぬわ!」

 追い打ちの如き小熊の面罵に、門弟の顔が屈辱に歪む。それを見て取った小熊は、無表情に門弟を見下ろし、こう言い捨てた。

「一両日中に道場に参る。お前達の先生に宜しく伝えておけ。万一わしを囲み殺そうものなら、根岸兎角と微塵流の名は地に落ちよう。それをよくよく心得ておくのだな」




 小さな部屋で二人の人間が対峙する。厳重に人払いされているのに、その緊迫はむしろ度を増していた。二人の気迫がそうさせるのだ。それは外に控える門人達の比ではない。

「何をしに来た、小熊」

 兎角の口調は先程と一変している。微塵流宗家としての顔ではなく、ただの根岸兎角そのものに戻っていた。その射竦めるような眼光は常人を震え上がらせるに足る迫力である。だがそんなもので小熊が怯む筈もない。

「一羽斎先生が、旅立たれた」

 その言葉に、兎角が一瞬ふっと目を伏せる。だがすぐに皮肉を湛えた笑みを顔に張り付けた。

「成程。それで江戸に来たって訳か。重しが取れてよかったじゃねえか。結局の所、お前達にとってもあの御仁はお荷物だったって事だ。そうだろ」

「黙れ、畜生」

小熊の口から憎悪と殺意を湛えた呪詛が漏れ出す。

「俺がここに来たのは貴様に天誅を加える為だ。貴様などと一緒にするな」

「どうかな、それは」

 兎角の唇が皮肉に歪む。だがその目は据わっていた。

「うちの若い衆をよくもやってくれたなぁ、おい? それが手前が書いた筋書きって奴かよ。仇討とか言う癖に、狡い手を使いやがる」

「あの小僧が勝手に喧嘩を売って来ただけの事だ。口汚い言葉で罵りながらな。盗人は盗人らしく身の程を弁えて大人しくしておればよかったのだ」

 兎角の表情から皮肉の笑みが消えた。小熊と同じく、その眼光に憤怒と憎悪の色が混じる。

「その言葉、そっくりそのまま手前に返してやるぜ。江戸崎で大人しく道場の再建に取り組んでいればいいものを、こんな所までしゃしゃり出て来やがって。落ちぶれ果てた流派の道場じゃ食えねえからこっちに来たんじゃねえのか、仇討にかこつけてよ。なにが盗人だ、笑わせんじゃねえ! ここまで微塵流をでかくするのに、俺がどれだけ苦労したと思ってんだ!」

「何が苦労だ、この野郎! どの面下げてそんな事言いやがる!」

 悪鬼の如く双眸を見開き、小熊が叫ぶ。

「お前の技の全ては一羽斎先生が心血を注いで編み出されたものだ! お前のものじゃない! お前はただ先生から教わり、盗んで逃げただけじゃねえか! それが苦労に値する事か! ふざけた事を抜かすな!」

 今や道場全体に殺気が漲っていた。二人だけではなく、門弟達が発するものも含めてである。幾ら人払いしていようとも、この怒号の応酬が遮れる筈もない。もしこれが門弟達の居並ぶ場だったら、罵声と怒号で何も聞こえなくなってしまう所だろう。師を侮辱されて平気で居られる弟子など居る訳がないのだ。

「……議論は止めだ、小熊」

 一呼吸置いて、兎角が呟くように言う。小熊の顔に鋭い視線をくれながら。

「手前の望み通りにしてやる。奉行所に届け出て、派手にやろうじゃねえか。一羽流と微塵流の面子を賭けた戦いだ。江戸崎に引き籠もっていた方がよかったと後悔させてやる」

「後悔するのはお前だ。二度と関東の地を踏めなくさせてやる。今から夜逃げの準備をしておけ、先生を見捨てたあの時のようにな」




(人の縄張りにずかずかと割り込んで来やがって、ふざけるんじゃねえ)

 六角棒の如き木刀を構えながら、兎角が心中で毒づく。彼には彼なりの言い分というものがある。兎角に言わせれば、看病と介護に追われて鍛錬を疎かにするのは時間の浪費でしかない。自分は技を学ぶ為に門を叩いたのであって、いつ終わるとも知れぬ介護に従事する為ではないのだ。そう言ってやりたかった。

(だがまあ、そう悪い話でもねえがな)

 かねてより江戸で名高かった二人の『天下無双』を名乗る兵法家の決闘は、忽ち江戸中を駆け巡る騒ぎとなった。これは逆に言えば名を売る絶好の機会でもある。この戦いで勝てば、自分の名声は揺るぎのないものになる。当地を治める江戸大納言徳川家康への仕官も夢ではあるまい。

 兎角には絶対の自信があった。自分は出奔してから一日として鍛錬を欠かした事がない。一羽流だけでなく独自に技を磨き上げ、幾人もの武芸者と立ち合って一度として敗れる事はなかった。その自分に対して、師の看病に心身をすり減らした小熊がどうやって勝つというのか。

(熱に浮かされた馬鹿な奴。精々いい踏み台になってくれや)

 兎角は一気に間合いを詰め、小熊に対して斬撃を見舞った。小熊はそれをしっかり見切り、正面からその斬撃を受け止める。だがその後取った行動は兎角が予想だにしなかったものだった。彼は木刀を受け止めるや全身を使って兎角を押し込み始めたのである。

(馬鹿な)

 兎角は偉丈夫で、小熊は小男だ。膂力勝負で相手になる訳がない。しかも小熊はつい先日まで私財をつぎ込み師の介護に勤しんでいた身である。満足な食事が採れていたとは思えぬ。痩せた頬がその証拠だった。だから真正面からの力比べだけは避けるだろうと踏んでいたのだ。それがものの見事に裏切られた。自然、兎角の思考がほんの数瞬だけ困惑に満たされる。そしてその僅かな困惑は、達人同士の決闘においては致命的な隙であった。

いつしか兎角は橋の欄干に押しつけられていた。無理に押し返そうとし、体勢が崩れる。小熊は素早く兎角の片足を掴み上げ、そのまま渾身の力で突き落としに掛かった。

 大男が宙を舞った。川に向けて真っ逆さまに落ちながら。

(何故、こんな)

 無意識に手を伸ばしていた。小熊の姿が遠ざかるのを見送りながら。

「見たか、裏切り者めが! 天道照覧、亡き一羽斎先生のご無念確かに晴らしたぞ!」

 小熊の勝ち名乗りを、兎角が聞く事はなかった。川に突き落とされたきり、遂にその姿を現す事がなかったからである。




 猥雑とした、だが活気に満ち溢れた街並みだった。特に今の時分は各国から普請の為に訪れた人足達でごった返していて、まるで上方かと思うほどの盛況ぶりである。だが上方ほど洗練され完成された都市とは言えず、街を見下ろす作りかけの天守は、発展途上の街である事を象徴するかのようだった。

 そんな活気に似合わぬ陰気な男が何かを探すように歩き回っている。藤巴紋の刺繍からして黒田家中の武士と思しき男である。矢のような長身だが、覇気が感じられないせいかそれすらも特徴になり得ていない。武士の身なりでなければそう言い立てても信じて貰えない事だろう。

「もし、ちと尋ねたき儀があるのだが」

「へえ、お武家様。なんでございましょうか」

 話しかけられた老人は怪訝そうに武士を見上げる。

「わしは昔この辺りに住んでいた事がある者だが、確かこの近くに結構な大きさの道場があった筈。何も見当たらぬが一体どうしたというのだ」

「道場?」

 老人は一瞬記憶を辿るように押し黙ったが、すぐに言った。さも何でもない事であるかのように。

「とっくに潰れましたよ、そんなものは」

「潰れた?」

 信じられぬと言いたそうに武士が口を開けた。

「ご存じありませんか。もう十年以上前ではありますが、わしのように昔から住んでいる者は今でもよく覚えているものですがね、その顛末を」

「見ての通り、今は遠く九州黒田の禄を食んでいる身でな」

 武士が低く言う。

「立ち話でなんだが、出来れば聞かせては貰えぬか。その顛末とやらを」

「お武家様がそう言われるのでしたら」

 老人は勿体ぶるように咳払いをする。武士は無表情に老人を凝視する。一切を聞き漏らすまいと。

「確かに昔、この辺りには微塵流という流派の道場がありました。まだ大御所様が江戸大納言と呼ばれていた頃の話ですが、大橋の決闘があるまでは随分繁盛していましたよ」

「決闘」

「そうです。ああそうか、それもご存じありませんか。昔大橋の辺りで二人の武芸者が立ち合いをしましてね。それで微塵流の根岸兎角って奴は川に突き落とされ、そのまんまどこかに逃げちまったんですよ。わしもその決闘は見ていましたが、それは無様な負けっぷりでしたなぁ」

 一瞬、武士の眼が鋭く光った。しかし老人はそれに気付いた風でもなく、昔を懐かしむように語り続ける。

「その後もう一人の武芸者……確か岩間小熊って言いましたか。そいつが道場を乗っ取ったんですよ。微塵流の看板を無理矢理一羽流のそれに挿げ替えてね。元々小熊は微塵流の門人達に憎まれていましたし、一連の事件で彼らの面目は丸潰れ。それに火を注ぐかのような小熊の横暴な態度に、随分頭に来ていたみたいですなぁ。その頃の連中はかなり苛々しているのが見てすぐにわかりましたよ」

 そして遂に事件が起こった。門弟達が小熊を浴室に閉じ込めた上で熱湯によって弱らせ、意識朦朧としながら這い出た所を滅多切りにしてしまったのである。諸岡一羽斎の仇討として江戸に出て、本懐を遂げた男の末路としてはあまりに滑稽かつ無様な代物であった。

「その後、世に名高き一刀流の小野次郎右衛門、新陰流の柳生又右衛門という二人の名人が徳川のお家に仕えた事も手伝ってか、道場はあっという間に廃れてしまいました。栄華を誇った道場から日一日と門弟どもが逃げ散っていく有様は他人事ながら世の無常を感じたものです。その後は徳川の殿様が天下様になって、大掛かりな街作りの中で廃道場も取り壊されたって訳です。今じゃ影も形もありませんよ」

 喋り終えた老人が茶を含んで一服する。武士は無言。目を伏せて何事かを考えている様子に見えた。

「岩間小熊は根岸兎角を盗人呼ばわりしましたが、わしに言わせれば小熊だって人の事は言えませんよ。勝った相手で仇とはいえ、他人の道場を乗っ取るんですからね。師匠の仇討にかこつけて、自分一人出世の機会を狙っていたんじゃ……」

 老人の言葉が止まった。その顔はそれまでと一変して恐怖に歪んでいる。眼前の偉丈夫の放つ凄まじい眼光がそうさせていた。それは陰気な田舎侍の放つものではない。幾人もの敵を打ち倒した歴戦の武芸者が放つそれだった。

「……失礼。少し昔を思い出してな」

 老人の怯えに気付いたのか、武士は元の陰鬱なそれに戻る。先程の鬼気迫る様からすれば別人にしか思えない。老人は呆然とへたり込んだままだ。

「長々と付き合わせてしまって相済まぬ。些少ではあるが金子を与えよう」

 低く言い捨てて銭袋を投げ渡し、くるりと踵を返して立ち去ろうとする。

「し、失礼ながらお武家様! あなた様、もしや……」

その後姿に、自失から覚めた老人が慌てて声を掛けた。あの鋭い眼光に見覚えがある事に気付いたのだ。天狗のように恐ろしげな、自信と覇気に満ち溢れたあの鋭い面構えを。

 武士はゆるりと振り返る。その顔には陰鬱さも、鋭さもなかった。

「……黒田家士、信太大和守朝勝。しがない常陸落人に過ぎぬ」

 どこか嘲りを含むように、ぽつりと呟いた。そしてそれきり再び踵を返し、二度と老人の問いに答える事はなかった。




 諸岡一羽斎の弟子達は、世間的には極めて知名度の低い存在です。もしこの決闘劇がなければ、世に埋没したままで終わっていたのでしょう。我々の口の端に上らぬだけで、こうした無名の剣豪達は今日知られている以上に多く存在していたのかも知れません。

 岩間小熊の江戸に来てからの立ち居振る舞い、道場を奪ってから騙し討ちされるまでの顛末を見るに、彼が純粋な仇討の気概のみで動いていたとは考えにくいです。作中で不純な動機があるのではないのかと兎角に言わせているのはその為です。泥之助と仇討について譲らず籤まで引いたのも、江戸で栄光を得たいという欲求も大きく働いたのでしょう。胡散臭い美談よりそちらの方が個人的にはしっくり来るし、人間臭いとも言えます。

 そんな小熊が最後には無残な最期を遂げ、国許に残った泥之助が細い糸ながらも一羽流道統を守り育てたのは皮肉としか言いようがありません。もっともその一羽流も、最終的にはその教えは失われてしまったようです。

根岸兎角もその名を轟かす野心を志半ばで折られ、その最期もはっきり定まっていません。微塵流も一部は神道一心流などに受け継がれますが、本家の側は失伝してしまいました。結局の所彼らは歴史という大河に飲み込まれ、微塵となって消えて行った存在に過ぎないのです。諸岡一門の顛末は、そうした歴史の無常さと残酷さを浮き彫りにした典型例と言えるものなのかもしれません。




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― 新着の感想 ―
[良い点] マイナーな歴史的人物の詳しい話をあまり知らないのですが、 勉強になりました♪ [気になる点] 九州……f(^_^; 筑紫とか、筑後とか、 なんとなく、 TVドラマを見ていると、 昔の国…
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