(またやってきました)彼の独白
俺が思い出すのは、まだ、出会って間もない頃のエピソード。
「あー……終わったぁ」
3時間ほどパソコンの前に張り付いていた彼女が、イヤホンを外してぽつりと呟いた。
体をほぐすように椅子の上で背伸びをして肩をまわし、手元にあるペットボトルから水分補給。そして一度ため息。
「沢城さん?」
「あ、実はね、先ほどめでたくゲームをフルコンプしましたっ」
俺が話しかけると、彼女はパソコン画面を指差してにやりと笑った。
「本当にありがとね、新谷君。こうやって入り浸ってプレイできたから、ゲームの世界に没頭できたよー」
彼女曰く、寮でゲームをすると誰が尋ねてくるか分からないので、あまり集中できないらしい。そういう意味では彼女にとってこの環境ほどゲームプレイに適した空間はないのではないだろうか。
何度も「ありがとう」を繰り返す彼女に、俺は慌てて言葉を紡いだ。
「いや、俺こそありがとう。おかげで読みたかったシリーズを買わずに読めたんだから」
それは、彼女からの提案。俺の部屋にあるパソコンを貸す代わりに、自身のネットワークから入手したBL本を貸す――その交換条件に俺は何の躊躇いもなく頷いた。これは俺にとっても嬉しい誤算。だから、彼女がゲームをクリアしたことを聞いて、この関係が崩れてしまうかもしれないことが……少し、残念でもある。
俺がそんなことを考えていると、彼女が何やら上目遣いで俺を見上げ、
「あ、あのね……新谷君……こ、このパソコンなんだけど、これからもちょくちょく使わせてもらったりしちゃ、ダメ?」
「え? そりゃあ別に構わないけど……」
ここで断る理由はない。首を縦に振った瞬間、「やったぁ!」と笑顔の彼女が俺を見つめ、
「じゃあ、これからも喜んでBL本を横流しさせていただきますっ!」
びしっと額の前に手をかざし、敬礼もどき。俺もつられて背筋を正しつつ、不意に、とある友人が脳裏をかすめた。
彼女は自分の友達からBL本を借りて俺に横流ししている。そういうルートには、俺にも若干の心当たりがあったから。
「……ねぇ、沢城さん、次にやるゲームって決まってるの?」
「へ? うーん……バイト代と相談かなぁ。色々やってみたいソフトはあるんだけどね」
パソコンゲームの相場は8千円前後。彼女が寮生活であることも考慮して、あまり大人買い出来るものでもないだろう。
ソフト名を指折り数えつつ優先順位を考えている彼女に、俺は、ある提案をしてみることにした。
「少し前のソフトであれば、貸せるかもしれないよ」
「……へ?」
刹那、彼女の目が丸くなる。
「どういうこと?」
「いや、俺の友達もギャルゲーが好きだから。奴が持ってるソフトでよければ、俺が借りて沢城さんに渡せるな、と、思った……」
「本当!?」
言葉を最後まで聞かず、彼女はがしっと俺の両手を握って、
「それは是非! ぜひっ! 全力でお願いしたいんですけどっ!」
「あ、あぁ……どこまで希望に添えるか分からないけど……」
「ううんっ! そんな申し出をしてくれるだけでありがたいよ!」
そのままぶんぶんと大きく上下にふる。少し腕が痛い。
でも、こんなに喜んでもらえるとは思っていなかったので、彼女の笑顔につられて俺も笑っていた。
そんな折、彼女が唐突にこんなことを言う。
「ねぇ、新谷君。今までどんなあだ名で呼ばれてた?」
「へ?」
脈絡のない質問に、今度は俺が目を丸くした。
「あ、いや……新谷君って呼び方も何となく形式的でつまんないなぁと思って」
「あだ名……」
少しだけ考えてみる。今まであだ名で呼ばれたことは……。
「……特にないかな」
特になかった。
事実をそのまま正直に告げる。「まぁ……そんな気はしてた」と、しばし考えた彼女は、
「新谷、新谷……ミルフィーユ新谷、略してミル新、とか?」
「じゃあ俺はローゼン沢城って呼ぶぞ?」
「……ゴメンなさい自重します」
声優ネタで切り返された彼女が口ごもるが、さすがにミルフィーユは恥ずかしいし、知らない人に説明するのも面倒なので、反論しておかないと。
脳内で他のネタを検索しているのか、再び思案する沢城さん。
「勝手なイメージだけど、私の中では「君」っていうより「氏」って感じなのよね。ジェントルマンというか……そんな感じの」
「はぁ……」
「だから、その……うん、私はこれから新谷氏って呼ぶ!」
しんたにし。
下から読んでも……いや、違うな。むしろ、
「新谷氏? 言いにくくない?」
「いいの! こういうのはファーストインプレッションが大事なんだから」
彼女の中では話が繋がっているらしい。まぁ、最初のものに比べれば嫌な呼び方でもないので「まぁいっか」と認めつつ、
「俺はどうすればいい?」
「んー……まぁ適当に。でも、名字なら呼び捨てがいいかな。敬称略ってことで」
敬称略、それは俺の中で少しだけ、勇気が必要な呼び方だけど。
「――じゃあ、沢城」
「ん。じゃあ私は新谷氏って呼ぶね」
あの時の俺は、すんなり彼女を呼ぶことが出来た。
それはきっと、僅かな時間でも彼女の一面をある意味深く知ることが出来た結果だと思っていたけど、もしかしたら、この時からそれ以外の理由があったのかもしれない。
「……なぁ薫、本当に大丈夫なんだよな、その女の子」
その日の夜、親友である大樹に「美少女ゲームを貸して欲しい」と頼み、その経緯を簡単に説明すると……電話の向こうにいる親友が、少し訝しげな声で問いかける。
沢城がやってみたい美少女ゲームがあると聞き、真っ先に浮かんだのは大樹だった。案の定ソフト名を告げると「まぁ、俺なら持ってるけど……」という返答。俺にはどんなゲームなのか分からないけど、大樹が持ってるってことは、それなりに有名で面白いソフトなのかもしれない。聞いても分からないから聞かないけど。
ただ、
「えぇっと……沢城さん、だっけ? まぁ、薫の前でそこまでぶっちゃけて、このソフト名を列挙する女の子が、最初から妙な下心を持っているとは考えたくないけど……杏奈ちゃんのこともあるし、気をつけろよ?」
「そう、だな……」
奴からの忠告に、思い出したくない記憶が溢れようとする。
まだ、そう遠くない過去。あの時、俺の前から離れていった彼女――大好きだった杏奈の泣き顔が、俺の知っている最後の彼女で……。
「薫?」
大樹からの声に我に返り、「じゃあ大樹、悪いけどさっき言ったタイトルを頼む」と電話を切った。
部屋の中で一人、ため息をつく。
今日はバイトもなく、沢城もいない。久しぶりに一人だけの空間で、彼女に借りた小説でも読もうかとベッドに転がった。
「もう、無理だよ……私、このまま薫と一緒にいても疲れるだけなの」
頭の中でフラッシュバックするのは、最後に杏奈から言われた言葉。
「どうして私ばっかり我慢しなくちゃいけないの!? 薫は私のこと、もうどうでもいいって思ってるんでしょう!? だから……あの噂も本当なんでしょう!? 薫が私のことどう思ってるのか……薫がどうしたいのか、全然分からないよ!」
違う、そうじゃない。何度も否定した。だけど……俺の言葉はもう、彼女には届かない。
どれだけ叫んでも、彼女は俺に背を向けて歩き始める。
二度と、振り向いて笑ってはくれない。
俺の心にはまだ、彼女のことが色濃く残っているけど。
「いつか……話さなきゃな」
隣で眠っている沢城を見つめながら、そんなことを、思っていた。
ミルフィーユで来るならミントだろう、と、思われる方……あなたが正しい!(ローゼンの方が面白いかな、と、思ったんです)