068話 隻眼の将軍
江戸城 老中評定の間
元禄15年8月20日(1702年9月)、南伊勢喪失と紀ノ川北岸占領の報が江戸の老中に届く。
老中の土屋政直、稲葉正通、小笠原長重、秋元喬知がいつものように評定を開いていたところに紀州藩主・徳川 綱教により急報が届いた。
なんでも東海道(甲賀~伊勢)の検問が厳しく和歌山から船便で密書が届けられたらしい。既にこの街道はイワレヒコ軍傘下の藤堂家によって封鎖に近い状態であった。現状紀州藩は陸の孤島である、海路しか自由に行き来出来ない状態だ。
取次の者が評定中の老中に声をかける
「申し上げます、ただいま紀州藩主・徳川 綱教様より書状が届いております」
「うむ、ご苦労」
早速、老中筆頭格の土屋政直が目を通す。読み終わると次の者に手渡しながらいつものように深い溜息をつく。毎回であるが一層溜息が深くなるようだ。
「はあ... 此度は予想外だな、全くどうなっているのやら?」
「松阪城と田丸城が落城しただと! 藤堂家が攻めて来て城と領地を奪われただと?」
「もう一つ書状によるとイワレヒコ軍と岸和田藩・岡部家、郡山藩・本多家により『紀ノ川北岸全域』が奪われたとある」
「これは重大な事態だ、御三家である紀州徳川家は55万石だが、この様子だと20万石の石高を無くしておろう」
「いったいどうしたら、こんなに迅速に軍事行動が出来るのか全くわからん」
「この徳川綱教殿の報告であるが、『紀州から船便で届ける』とある。既に伊勢までの東海道は自由に往来できぬという事か」
「うむ、この調子では紀州藩が今後いか様になるのか心配でござる」
元禄15年8月20日(1702年9月)、徳川幕府は紀州藩領地の縮小を知ることになる。
ここは安芸の国、野貝原山 地中の拠点 時間は少し遡る
生体処置室の暗い部屋である男が目覚めた、そうあの片目の武将である。
『おはようございます、夏 候惇 殿。気分はいかがでしょうか』
「あれ? ワシは死んだんじゃないのか、ここはどこだ?」
『私は孔明と申します、かっての「魏軍にとって憎き宿敵」の孔明ですよ、お忘れでしょうか? 』
「おのれっ 孔明、覚悟しろ......あれっ......体が動かぬ」
『貴方はもはや魏の将軍ではありません。「魏の夏候惇」は1,500年前に亡くなりました』
「なに...何を言っておる? さっぱり判らん」
『仕方ないですね、どうぞお入り下さい』
孔明が部屋の外にいる誰かに話しかけた、そうあのずんぐり男だ。かっての魏の同僚であり、曹操の親衛隊長を務めた男だ。
「盲夏侯の夏候惇殿お久しぶりでござる、1,500年ぶりと言っても貴殿にとっては、ついこの間のような感覚であろうよ。曹操様が亡くなってから1,500年経つ」
「おお許褚殿ではないか。お主もここにいたのか?」
「左様、我が主となったイワレヒコ様の御力で復活した。イワレヒコ様は『我が神』である」
「なんと、そのイワレヒコ様というお方のおかげとな? で蜀の軍師孔明殿は何故ここに?」
『私がここに在るのもイワレヒコ様の御力、夏候惇殿は我らイワレヒコ軍の幹部となります。以後ヨロシクデス。』
孔明殿の説明によるとこの体はホムンクルス(人造人間)と言うらしい。歳は取らぬし死ぬことも無いらしい。
その上片目であったこのワシの為に素晴らしい義眼を下賜された。イワレヒコ様からの『プレゼント』なるものと教えられた。何でもこの新しい義眼は『神器』だそうだ。
一般的には夏侯惇というと隻眼の将軍といった印象がある。夏侯惇像を一層強くする舞台となったのは呂布との戦いである。この戦いの最中、呂布の将を追撃する夏侯惇を陣中から確認した敵将曹性は、矢を放ち夏侯惇の左目を射抜いた。
この時、夏侯惇は刺さった矢を眼球もろとも引き抜き、
「親からもらった体を棄てられるか」
と叫びこれを喰らい、その後に左目を射抜いた曹性を、次の矢を番える暇もなく顔を突き刺し、討ち取るというものである。
小説『三国志演義』では
「自身の眼球を抜いて『親の血を捨てるわけにはいかない』と飲み込んだ」
という有名なエピソードが描かれている。
正史(三国志)の記録では単に流れ矢で目を負傷したとされているのみである。この失明以降、魏軍では「盲夏侯」という異名でも呼ばれるようになった。
ここは紀伊半島・新宮沖の船上
木造船に擬装された救命艇3隻は浅野綱長一行とホムンクルス部隊を乗せて広島を出航した。途中で三原に寄り、三原城主兼広島藩筆頭家老である浅野忠義とその兵を乗せる。浅野忠義は名目上の『大義名分』のため欠かせぬ人選であった。
新宮沖に到着した彼らはまず、上陸のための夜間偵察をすることにした。そこで呼ばれたのが夏 候惇である。彼はその眼帯をゆっくり外すと左目に集中した。この義眼は千里眼でもある、加えて赤外線サーモの機能もあった。
夏候惇は浜辺をサーチすると人や伏兵が無いことを確認すると
「上陸には問題無し、伏兵らしき者もおらず」
「では突撃隊長の張飛殿、夏侯殿。あとは宜しく頼みますぞ」
今回の指揮を任された浅野綱長が指示を出す
「おう 宜しく頼まれなくても任しとけ! おい夏侯惇、貴様の初陣だ、遠慮するな」
「お主に言われなくても解っとるわ。では夏侯隊出撃せよ」
この夏侯隊とはいったい何者なのか? いつ出来た部隊であろうか?
その答えは7月6日の「武庫川の戦い」の戦死者であった。孔明の指示の基、強そうな武芸者を黄忠隊が確保していたのである。松平家四家の武士でもちろん死体だが......
通常は順化調整に二か月必要だが、新宮上陸戦に間に合わせるため大急ぎで調整された。むろん検証までは不可能なため、実戦が異常が無いか検証の場でもあった。
張飛隊と夏侯隊は夜陰に紛れての上陸を行う。海岸近くの浜辺まで救命艇を寄せると彼らは助走をつけて海に飛び込む。飛び込みと言っても泳ぐわけではない、水面に着水すると水走りに移行する。つまり救命艇と浜辺までの数十メートルを走り抜けたのである。
やがて熊野川に至ると北西に進路をとる、少し遡った辺りに新宮城はある。現在では海岸線から約2kmくらいだが、当時はもっと海岸が近くにあったと考えられる。おそらく城の天守から辺り一面の海岸線を監視できたのであろう。
こういった事情でホムンクルス部隊の上陸は夜間に行なわれた。もっとも見つかったとしてもたいした問題ではないが、今回城の突入は夜間作戦となった。むろん夏 候惇の暗視眼の検証でもある。




