040話 浜田藩への侵攻
安芸の国、野貝原山 地中の拠点
『わが君よ、ちょっとした問題が起きました』
「なんだ孔明、珍しいな。お前が解決できない問題とは?」
『いえ、いくら<超優秀なスーパーバイオトロニクス>の私でも人の心の問題まで解決できません。例の増員したホムンクルス部隊ですが、訓練が終了したので実践を求めております。つまり暴れさせてほしいとの申請が出ています。張飛殿ら幹部も赤穂城の戦いから一年になりますのでそろそろ我慢の限界かと』
「なるほど、強くなった気がするので戦って確かめたい訳か。どこかに手頃な相手はないだろうか?」
『それでしたら松江藩と浜田藩が配下になっていませんから丁度良いかと』
「よし、任せたわ。武器は今回は制限無しとする、流血は無しにしたいので峰打ちくらいで勘弁してやれ」
『敵方藩主の扱いはどう致しますか?』
「おう 引っ立てて来い。しっかりと教育してやるわ」
『もう一つ、石見の幕府直轄地(天領)が我らの勢力に囲まれています。備前の天領も同様です、扱いはいかが致しますか?』
「そうだなぁ 津和野藩と岩国藩に兵を出させるか。手柄を立てさせて加増してやるのもいいだろう。あと石見銀山はこちらで押さえとけ」
『もちろんで御座いますとも。備前の天領につきましては福山藩、岡山藩、津山藩、足守藩に出兵させて、こちらも手柄に応じて山分けでよろしいかと』
「臣従した奴等にも飴が必要だなぁ...よし戦働きをさせてやれ。ただし怪我人はいいが出来るだけ死者は出さないようにな」
元禄15年4月20日(1702年5月)、福山藩主、津和野藩主、岩国藩主との謁見が終わった後、この三家は出兵を命じられた。と言っても強制ではなく、あくまでも自主出兵であった。「いやなら出さなくてもいいよ、その代わり分け前も無いよ」と言う意味である。
各家に要請があったのは禄高一万石あたり100人だった、幕府の1000人よりは随分優しい。元々は新たに臣従した家に手柄を立てさせるのが目的のため、兵員なんでどうでもよかったのである。ただ占領後に人員が必要なため協力を求めたのが真相であった。
大和の国 郡山藩 本多家 郡山城にて
元禄15年4月23日(1702年5月)、本多忠勝は大和の国、郡山藩本多家の郡山城を訪ねていた。
郡山藩主、本多忠常は国元に滞在していた。今年は江戸に参勤の年であったが先月の綱吉が出した討伐令にわよって国元に帰国した。もちろん正月にあった大名参賀で綱吉の醜態を目撃した当事者でもあった。忠常はこの時点で41歳、まさに油の載り切った時期である。
政務を執りながらあの時の体験を思い出していた。あの時はとにかく驚いて何もできず、ただ様子を見ることしか出来なかった。それが幸いして怪我も無く無事に下城できたわけである。綱吉が浅野綱長に踏みつけられるという不思議な体験を回想していると城代家老が声をかけてきた。
「殿、お客人です。何でも本多家ゆかりの者が訪ねて来ております。お会になりますか?」
「なに...本多家ゆかりの者とな? ...よし会おう」
暫くすると『これぞ武将』という雰囲気を持った御仁が入ってくる。入って来るなり一方的に捲し立てる
「ワシは本多平八郎忠勝である、我が子孫の家が存亡の危機にあると聞いて来た。その方が現当主か?」
「忠勝様?...本多忠勝様は90年程前に亡くなっておる、偽物め」
「なんだとぉ、ええいこの新蜻蛉切りが目に入らぬか!」
忠勝は言うや否や目にも止まらぬ速さで愛槍を出現させる。忠常の近くで取り出したものだから約6mの蜻蛉切り全体が見えるはずがない。
「入らぬ、長すぎて目に入らぬわ。いったい何処から出したこの長槍?」
本多忠勝が取り出した槍は実は強化棒である、穂先はそれらしく見せてある。持ち主の意思によって大きさや形を変えられるため、いきなり現れたように見えたのである。これは如意棒と言ってもいいのか...? いや持ち主の成長に合わせて武器も進化する特別な棒である。忠勝は「新蜻蛉切り」と命名していた。
両人とも喧嘩腰である、さすが忠勝の子孫だ。これでは埒が明かぬと思い忠勝は一通の書状を差し出す。差出人は『姫路藩主 本多忠国』とあった。こうなることを見越して孔明は忠勝に手紙を持たせていたのである。
読み終えた書状を横に置くと忠常は
「成る程、どういう経緯か知らぬが本物の忠勝様と保証してある。納得はいかぬが忠勝様として扱いましょう」
「それで今後どうするつもりだ? 軍師殿の情報では本多家は『我が殿、イワレヒコ様』の討伐を命じられたようだな」
「そうですなぁ、正月のアレを見た某としましてはあまり乗り気ではありません。かと言って幕府の命令に逆らえず困っている次第でござる。家臣達と相談したところ今だ結論が出ておりませぬ」
「なら我が方に下ると良い、『悪いようにせぬ』と我が殿はおっしゃった。本多忠国も既に殿に臣従しておる。我が殿の力は凄いぞ、10万もの兵を無傷で降伏させる力はお主も聞いたことがあるだろう」
「確かに、あなた様を生き返らせる力、まるで神仏のようです」
「とくとよく考えるがよい。ではまた来るとしよう」
本多忠勝はそう言うと郡山城を立ち去った。ちなみに本多忠常は忠勝の玄孫である。
翌日、本多忠勝とその部下は近江の国・膳所藩本多家を訪れた。藩主本多康慶と会談し、郡山藩本多家と同じようなやり取りが続いたのだがここでは割愛したい。
岩見の国 浜田藩 松平家 浜田城にて
元禄15年5月1日(1702年6月)、浜田城は突如として1,600の軍勢に囲まれた。
亀井家、吉川家には一万石あたり100人の割り当てをお願いしたのだが、それでは恥ずかしいと言って両家相談のうえ一万石あたり200人は出すことにしたらしい。
内訳は亀井家960、吉川家600、ホムンクルス部隊約40人の総勢約1,600人である。
総大将 趙雲 子龍
副将 亀井家筆頭家老 多胡真蔭
副将 吉川家筆頭家老 今田忠仲
突撃隊長 許褚 仲康
以上がイワレヒコ軍の幹部である。この軍の役割は突撃隊長の許褚が城門を打ち破り、ホムンクルス部隊約40人が城内に侵入。安全を確保したのち亀井家と吉川家が浜田城を占領するといった作戦であった。
この戦いではホムンクルス部隊の武器に制約はない、にもかかわらずなぜか全員が強化棒を手にしていた。彼ら曰く『強化棒は姿が変えられるので他の武器を持つ必要がない。強度もあるので思い切り振り回しても壊れない』そうである。
それに棒術とは『持たば太刀、払えば薙刀、突けば槍』の万能武器である。各自の得意とした得物の形にして戦えばいいだけである。そんな訳で全員が強化棒持参であった。
一方不意を突かれた松平家であるが、討伐令が発布されたが出兵を命じられた対象だったため、それなりに戦の準備は整っていた。出兵はしても、まさか自分達が攻められるとは思ってもおらず大変動揺していたのである。
そんな中で敵の伝令と思われる者が文を持って来た。『降伏勧告』と書かれた書状であった。
内容は『降伏すれば命は助ける』という無条件降伏に等しいものだ。所領安堵ならば松平家は素直に降伏したかも知れない。しかしそれではイワレヒコ軍が困るのである。
思い出してほしい、この度の戦は第一にホムンクルス部隊に実戦の経験を積ませる事、第二に亀井家・吉川家に加増の恩恵を与えることである。所領安堵では困るのである...




