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第1話 忘却の少女

 泥のような曇天で覆われた空は、張り詰めた空気を震わすように遠方に雷鳴が轟いていた。


死神の如く無慈悲な風が体を突き抜け、冷え込んだ体を強張らせる。


 灰骨に似た砂漠が荒涼とした大地に果てしなく広がっていた。文明が崩壊し、月日が過ぎ去ったこの世界にかつての賑わいや秩序はない。ただ、風が吹き荒れるのみだ。


 大地がひび割れ、枯れ果てた木々が辛うじて立ち並び、遠く離れた廃ビルの残骸が幽霊のように佇んでいる。その無言の世界に突如、エンジンの重低音が響き渡った。


 低く唸る音は大地を揺るがすかのように力強く、風の音さえ掻き消すように響いている。


 荒野を走るその音の主は、一台のアメリカンバイクだった。リアタイヤが骨のような砂石を蹴散らし、猛然とした速度で荒野を駆け抜けていく。


 そのバイクに跨っていたのは黒いロングコートを羽織った男。彼のコートは走行するたびに風に靡き、まるで背後に黒い影を引きずっているかのように見えた。


 顔は擦り切れた薄茶色のバンダナで覆われて目元だけが見える。その視線は鋭く、遠くの地平線を射抜くような眼差しをしていた。


 男はこの荒廃した世界をただひたすらに走り続けている。


 男のバイクは滅亡した旧文明と新しい世界の素材が融合した、特別なカスタムマシンだった。メタリックなタンクは錆びついた古代の装飾を纏い、高く伸び曲がったエイプハンドルは暗がりから僅かに差し込む月明かりに反射していた。


 巨大なロングスプリンガーフォークが前方へと突き出し、その先に取り付けられたヘッドライトはまるで目のように光を放って荒野を照らしている。


 遠くから見るとそれは生き物のように滑らかに荒地を泳ぎ、音とともに力強く進んでいるようだった。


 男はハンドルを握り締める手を少し緩め、ふと風を感じる。この土地に吹きつける風は酷く冷えて乾いており、かつて緑豊かだった場所を飲み込んでいた。


 ロングコートの裾が風に翻り、滑るように砂丘を下っていく。時折、瓦礫や古い鉄くずが道を阻むが、男はそれらを意に介さず突き進んだ。


 彼のバイクは重く強固だが、それでいて驚くほどに俊敏。まるで男の体の延長のように滑らかに反応する。


 エンジンの鼓動は男の心拍に呼応するかのように、まるでバイクそのものが彼の意志を読み取り、共に生き、共に荒野を切り裂いているようだった。


 この世界ではバイクは単なる移動手段ではなく、生存のためのパートナーでもあった。


         


 少女はトラックの荷台が揺れ動く音で目を覚ました。


 錆びついた鉄の匂いと荒れた風が鼻を突く。ぼんやりとした意識の中で重い体を起こそうとしたが、動くたびに手首に何か冷たいものが食い込んだ。


 それは鎖だった。金属製の重たい鎖が手首に絡みつき、荷台の鉄枠に繋がれている。


 反射的にそれを引き剥がそうとするが、鎖は頑丈で抵抗は無意味に思えた。


「なぜ……こんなところに……?」


 少女は自身に問いかけた。しかし、答えは何も浮かんでこない。


 なぜ自分がこのトラックの荷台にいるのか。なぜ手首に鎖が巻きついているのか。全く思い出せなかった。


 それよりも、根本的な違和感が少女を襲った。過去の記憶が何もない。


 どんな記憶を手繰ろうとしても、頭の中は白紙のように空白だ。家族、友人、自分が誰なのかさえ、何一つ思い出せない。


 少女は目を閉じて、何か手がかりを見つけようと必死に考えた。自分の名前は? どこから来たのか? どうしてこんな状況に陥っているのか?


 しかし、脳裏には何の映像も浮かばず、ただ冷たい虚無だけが広がっていた。焦燥感が胸を締め付け、手首に巻かれた鎖を再び強く引いたが無駄だった。


 鎖がガチガチと音を立てるだけで少女はそこに拘束されている。


 前方には古いシートが取り付けられ、運転席の方は見えない。誰が運転しているのかも分からず、目的地も不明だった。


「どうして……こんなことになっているの……?」


 声に出して自問自答を行うが、虚しさが込み上げるだけで、自身の体が震えていることに気付かせた。


 風が冷たく肌を打ちつけ、少女はぼろぼろで肌寒さが体を刺す。髪の毛も乱れ、何日も洗っていないかのように絡まっている。だが、それ以上に恐ろしいのは、体が見覚えのないものに感じられることだった。


 自分自身の手足さえ、まるで他人の体のようで、どこか現実感が希薄だった。


 トラックが大きく揺れ、少女は荷台の隅に体を投げ出された。痛みが走り。鉄板の上で無理に体を起こそうとしたが、その動作さえも不慣れに感じた。まるで体の動かし方を忘れてしまったかのように筋肉がぎこちなく、全てが上手く機能しない。


「どうして……わたし……」


 少女は再び記憶を探ろうとするが、無情にも頭の中は真っ白なままだった。焦燥感は次第に恐怖へと変わり、胸の中で膨れ上がっていく。


 自分の名前すら思い出せないという現実が、心を蝕んでいくようだった。手首の鎖がその恐怖をさらに具現化しているように思える。


 トラックはどこへ向かっているのか? 何もかもが謎に包まれていた。少女はただ、無機質な鎖の感触と、過去の全てが霧のように消え去った感覚に、絶望的な孤独を感じて頬に涙が伝う。


 それでも目の前の現実は迫ってくる。荒れ果てて乾いた風、重たい鉄の匂い、何もわからないまま、少女はトラックの揺れに身を任せるしかなかった。


 そんな中、少女の耳に微かなエンジン音が聞こえた。それは遠くの方から確かに近づいて来ていた。

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