第12話 赤髪の狩人
ナナは叫び声とともに大汗をかいて飛び起きた。
全身は震えで軋むように痛い。それが寒さから迫る震えではないことを理解していた。
額から大粒の汗が伝って衣服を滲ませ、呼吸を忘れていたかのように息苦しい。
こめかみを押さえたくなるほど鈍く重たい頭痛が響き、痛みが現実だと認識させる。妙に生々しい先程の夢が現実ではなかったことに、ナナは深く息を吐き出して安堵した。
「ナナ、どうした?」
心配して窺うシロウの口元には煙草が咥えられていた。先端は半分ほど燃え尽きて灰になっている。脳裏を過ぎる違和感に、気味の悪い悪寒がした。
ナナは悪夢の中と酷似した状況に、妙な肌寒さを感じずにはいられなかった。
「シロウさん、煙草を咥えて少しだけ眠ってましたか?」
疑問を払拭するため、ナナは正直に聞いてみる。すると、ぎくりとシロウは肩を跳ねると両手を上げて降参した。
「すまねぇ。ほんの少しだけ夢の中で煙草を吸っちまってた」
素直に白状するシロウをよそに、ナナは慌てて頭上を見上げた。
大きく裂けた天井の亀裂から覗く空は、夢と同じ景色に酷似して美しい。夢と現実が重なるような、言い難い不信感が体を突き動かした。
「シロウさん! 腕が四本で、体が紫色の人型の生物ってご存じですか?」
いまだに頭痛が警報のように響くナナは、額を押さえながら必死に質問する。
ナナの面持ちは何か確信的だと直感したシロウは、次第に表情が真剣さを帯びていく。
「……変異性生物、レベル2のスケルガーだな。素早く壁や地面を這い回って、襲撃を得意とする個体だ。狡賢く、殺傷能力は高い」
「……もしかしたら、もうすぐ──来るかもしれないです」
星空の輝きが降り注ぐ天井を、華奢な腕を伸ばして頭上を指差す。ナナの双眸は暗闇の中で、煌々と異質に冴えていた。
初めて出会った時と同じ瞳。不安が覆う中に、確かな意思を宿している。
「いつ、来るんだ?」
シロウは擦り切れた黒いロングコートの裾を捲り、ベルトに掛けた鞘から得物を二本抜き放つ。
左右に構えた愛用のナイフと長く直線に伸びたマチェットは、無機質に輝いている。
咥えた煙草を焚火に指で弾くと、空気を吸い込んで怒声を響かせた。
「レッド! 寝首を掻かれたくなければ起きろ!」
シロウの気迫ある声に体を跳ねるように起床したレッドは「よ、酔いつぶれてないから!」と眠気顔で起き上がる。
しかし、辺りの不穏な空気を瞬時に悟ると、切り替えたようにそばに置いていたドラグノフ狙撃銃を掴み取る。銃器を構えてボルトを引き、そして警戒心を漂わせて質問する。
「ならず者? 変異性生物かしら?」
そのレッドの眼差しは、冷徹な狩人の表情に染まっていた。
「……スケルガーが来る。きっとな。最近は楽な夜を越していたから、気持ちを引き締めないとな」
シロウは奥歯を噛み締めて猛省する。油断は致命的なミスに繋がりかねない。自分の失敗は全員に火の粉が降りかかるからだ。
過ちは繰り返さない。挽回のために警戒心を研ぎ澄ます。
シロウは空気を震わすほどの集中力で、瞼を閉じて耳を澄ます。夜の風がコンクリートに擦れる音、砂丘の波が崩れる微音、自身の心拍音すらも。
その時──何かが軋む音を、鼓膜に捉えた。
シロウの瞳が一気に見開かれる。
鋭い眼光が放つ警戒心は、ナイフの刃から反射して映り込む一瞬の存在も逃さない。
自身の背後、頭上から『何か』が飛来するのを察知した。
「ナナ! 横に転がれ!」
脊髄反射のようにシロウは振り向き様に愛用のナイフを『何か』に投擲する。
金属同士がぶつかり合うような、異音が建物内に火花を弾けさせた。
自分を信じてくれたシロウの言葉を疑う必要はなかった。ナナは突然の指示にも躊躇いなく、地面に体を打ち付けるように転がる。
──その瞬間、空気を切り裂くように落下してきた『何か』が一直線に鈍い音を立てた。
床を叩き割る衝撃音と振動は廃墟内を響かせる。
コンクリートの粗い地面に、深々と鋭利な爪が突き刺さっていた。粉々に砕けた破片が四方に飛び散り、周囲に粉塵が舞い上がる。
粉塵が広がる廃墟内に『何か』の輪郭が、天井から差し込む星光で露わになっていく。その姿はナナの悪夢で目撃した異形の存在と酷似していた。
伸びた腕が四本、皮膚が紫色に爛れた異形の姿。変色して粗く伸びた舌からは唾液が床に漏れている。
不気味に全身が痙攣するように、蠢く姿は恐怖を感じずにはいられない。
しかし、数々の修羅場を潜り抜けてきたシロウとレッドは、冷静に戦況を見据えていた。
「レッド、ナナを拾って守ってくれ! 俺が押さえる!」
捲し立てるようにシロウは指示を飛ばすと、一気に加速してスケルガーとの間合いを詰める。
そして右腕に握り締めたマチェットの柄を逆手に構えて振りかざした。
弾けるような敏捷な動きは、突進力を強めて鋭い一撃を斬り刻む。一閃で脇腹を引き裂くと、黒々としたヘドロのような液体が勢いよく漏れ出した。
荒れ狂うように雄叫びを上げるスケルガーは、長く伸びた二本の右腕を鞭のようにしならせて地面を削り取る。
空気を掻き分ける一撃は爆風と破裂音が辺りに炸裂し、破片が飛び散っていく。
「寝起きの運動にしちゃ激しすぎるぜ!」
シロウは異形の長く伸びた左腕が自身を捉えていることを察知していた。
恐怖で後退すれば死ぬ。左右に距離を空けるのも間に合わない。
狂風が頬を掠めて迫り来る瞬間、密接するように敢えて前進する。
恐れを抱かずに紙一重で避けると、シロウの背後では異常に長く伸びた二本の腕が壁を突き破っていた。
素早く体を捻じり、シロウは回転して反撃の袈裟斬りを放つ。握られたマチェットの一振りはスケルガーの左腕を容易にぶつ切りで一本、根元から斬り飛ばす。
しかし、変異性生物に痛覚は存在しない。忍び、獲物を喰らい、残虐に弄ぶ。『レベル《危険度》2』に指定された化物にあるのは殺戮的な本能だけだ。
渦巻きのように全身を回転させると、スケルガーは両腕の三本を振り回した。
遠心力で伸びた腕は接触する全てを破壊し、粗いコンクリートの壁を切り裂いて爪痕を刻む。
シロウはマチェットの刃で軌道を逸らして避けると、反撃の機会を窺うしかなかった。
その時、レンズの反射光が視界を遮った。一瞬だが、シロウの視野を照らす光に口元を緩ませる。
呼応するように射線上からシロウは急いで飛び退いた。
直後──後方から低く構えたレッドのドラグノフ狙撃銃が、建物内を強烈な閃光に染める。
銃口先端に備え付けたサプレッサーが、弾丸を吐き出す発砲音を減音し、静寂な殺意を込めてスケルガーの右太腿を根こそぎ奪い取る。
回転の軸にしていた右足を突如断たれたスケルガーは、姿勢を大きく崩した。
激しく痙攣するように地面を這いずると暴れ回る。そして、残った片足で跳躍すると、天井近くの壁に左腕を深々と突き刺し、距離を空けて咆哮した。
不揃いの長く生えた歯が剥き出し、形相は敵意で歪んでいる。口腔から粗く変色した長く伸びる舌が、勢いよく唾液を撒き散らしながら無防備のナナを襲う。
「狡賢いお前なら、弱い奴を狙うよな!」
視覚外から壁を蹴り上げて跳躍したシロウは、隙を突いた強烈な一撃を食らわせる。
垂直に伸びたマチェットの刃は残像を走らせ、振り抜かれた渾身の一閃は異形の舌を両断した。
「こいつを絶対に逃がすな! 安眠妨害の罪は重たいぞ!」
シロウは軽口を吐き捨てる。だがその眼差しは鋭い。
予想外の反撃にスケルガーは警戒して、接近を妨害するように天井にぶら下がりながら二本の右腕を振り回していた。その猛打は床を破裂させて吹き飛ばす。
手負いの獣のような険しさが、動きの俊敏さを一層に増していく。
攻めあぐねるシロウの隣に、いつの間にかレッドが並び立っていた。右腕にはTRR8マグナムが握られている。
「お困りみたいね? あたしが捌いてあげる。マチェット貸しなさい」
レッドはシロウに左手を差し出し、催促するように掌を広げた。
「使い終わったら、ちゃんと拭き取れよ」
シロウは柄を逆手に握り、レッドにマチェットを手渡す。
両者には信頼と覚悟があり、過酷な世界を共に生き延びてきた絆があった。
レッドは慎重に距離を縮めながら、スケルガーの不規則に振り回す二本の右腕を見極めていた。
自身の卓越した動体視力で覗き、跳ね上がるように襲う二本の右腕が、軌道を変えて弾けるように迫り来る。しかし、予測したようにレッドの体は既に反応していた。
マットブラックに輝くTRR8の重い発砲音が二発連続で響き、.357マグナム弾が炸裂する。
近づいてきた二本の右腕を弾き返すように吹き飛ばす──だが、今度は左右に挟撃するようにスケルガーの狂腕が回り込む。
ノズルフラッシュが短く三回閃き、銃口が跳ね上がるのをレッドは右腕のみで押さえる。
過酷な戦場を幾つも潜り抜けたレッドには造作もない、反動で体幹が乱れることも一切なかった。
二発の弾丸は押し寄せる二本の右腕の進行を阻止するように、肘の関節部を的確に.357マグナム弾で打ち砕いていた。
そして、三発目は腕を摺り抜けるように胴体を貫いている。
「まだシリンダーには三発も残ってるわよ?」
レッドは煽るように不敵に笑った。
小刻みに痙攣するスケルガーは、ぶら下がる左腕を壁から引き抜くと、再び獲物を狙い、落下とともに残った左足で膂力を溜め込む。
そして咆哮とともに爆発的な衝撃音を撒き散らし、コンクリートの壁を踏み砕いて一気に跳躍した。
天井の吹き抜けた室内、夜空の輝きを塗り潰す黒い影が、レッドに喰らいつくように襲来した。
それは空中で全身を捻じると、全ての腕を鋭く伸ばして螺旋の如く回転する。
そのスケルガーの姿は悪夢そのものだった。
生計を立てるために組合を利用する見習い冒険者の多くが、レベル2の変異性生物の餌食になる。
しかし、旧文明崩壊後の世界を生き抜くベテラン冒険者のレッドにとっては、“寝込みを襲われない限り”強敵ではない。
観察して次の動きを予測する冷徹な瞳は、螺旋のように回転する連撃に合わせて動いていた。
レッドは体勢を低く捻じると、右腕を突き出して二発発砲する。
襲い掛かる右腕全てを跳ね返すと、続けざまにスケルガーの左腕が喰らい付くように押し迫る。
しかし、その左腕を想定したように、既に身を反らして避けていた。
レッドの足運びは低く滑らかだった。全身を時計回りに大きく捻じると、渾身の力を込めてマチェットを振り抜く。
風切り音を響かせる半月を描いた一撃は、地面に着地するスケルガーの一瞬の隙を突き、首筋を狙ったアッパースイングは、下から上へ突き出された強烈な一振りで頭部を見事に切断した。
「最初の奇襲が成功しなかった時点で、あんたの負けよ」
レッドは前のめりに崩れていく頭部を失ったスケルガーの体に囁いた。
異形の頭部は打ち込まれたように放物線を描くと、剥き出しのコンクリートの壁へ勢いよくぶち当たる。
衝撃で頭部の肉片と黒々とした液体が飛散した。
レッドはそれを眺めながらマチェットを勢いよく振り払う。
刃に付着した不快な血痕が床に飛び散ると、シロウに手渡して返却する。
「もっとしっかり綺麗にしろよ」
悪態をつくシロウをよそに、レッドは何かを思いついたように頬を広げた。
「あたしが倒したから、あと三時間は寝かせてね」
意地悪そうな柔い笑みは逞しかった。




