タイトル未定2025/05/12 23:00
ちょうど三年前ぐらいだ。日本から――あの日以降、長谷川は都市郊外へ出ていないのでわからないが、少なくともこの街から命の気配が消えた日、長谷川は痴漢の濡れ衣を着せられないために駅員室から逃げ出した。その直後だ。銃声が二回、一回と響き、長谷川はその銃声が自分に向けられたものだと思って身体を強張らせた。が、違った。後ろから追ってこない駅員、被害者の女性、長谷川を逃がしてくれたのか定かではない腋臭の男を不思議に思った。
腋臭の男が長谷川の味方となって取り押さえるにしても、中年女性か駅員のどちらかせいぜい一人だ。そもそもあの中年女性のことだ。長谷川が逃げたと知ったら大声で周囲の人間に知らせるはずなのに声が聞こえない。駅の騒音に掻き消されたにしては物静かな女だ。そんなわけがない。
あの日、腋臭の男に情が沸いていたせいか、あろうことか様子を見に長谷川は来た道を戻った。長谷川が開け放ったままのスライドドアに右手をかけ、中の様子を覗く。子どもでも明らかに異質だとわかる人間がそこにはいた。
黒いナイロンのジャンパーを着ていた男二人。彼らの足元には人が寝ていた。腋臭――長谷川はその場に腰を抜かした。その音に男二人は気づいたようで、身体を翻して銃口を向け、発砲した。一瞬タイミングがずれていれば長谷川は打たれていた。腰を抜かしたまま無理矢理スライドドアの横へと移動したのが幸い、エイムがずれてスライドドアのガラスを打ち抜いた。縦長のガラス一面が割れ、長谷川の身体に降り注いだ。身を守るために右腕を翳したとき、先程見かけただろう警察官が現れた。
助かった――。
「手を上げろ」と叫ぶ警察官。
でもちょっと待て。警察官は一人で、黒いジャンパーの男は二人。手を上げる方なのは警察官の方ではないか?
長谷川は抜かした腰を無理矢理持ち上げ、よろめきながら池袋の東口へと全力で走った。後方で銃声が響いた。涙が目尻を伝った。それでも走った。警察の人ごめんなさい、そう何度も叫びながら。談笑する声が聞こえた。視線を感じた。事の重大さにまだ気づいていない通行人の隙間を縫うように走った。好奇の目を浴びていた。それでも走った。訳も分からず走り続けた。東口を出、池袋の街中を走って走って、サンシャイン通りを抜け、巣鴨近くまで走り抜けた。周囲の人間たちはまだ気づいていない。知らせるべきか? そんな余裕はない。あれは明らかに異質だった。自分の前世で体感した感覚が全身の細胞を伝って訴えているようだった。戦、紛争、テロ。仮にそうであるとしたら、平和なこの日本に逃げ場などあるのだろうか。
喧噪があちらこちらで聞こえてくるまでに時間はかからなかった。とりあえず自宅に戻ろう――自宅アパートは巣鴨の商店街を抜けた近くにあった。巣鴨の商店街を抜けようとした矢先、視線の先に先程とは別の、黒いナイロンのジャンパーを着た人物が二人窺えた。すぐに長谷川は身を翻した。転びそうになりながらも身体を立て直す。銃弾が足元のアスファルトを弾いた。悲鳴が聞こえた。自分を狙って打たれた銃弾が、斜め前の大学生の太腿に当たった。大学生はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。隣で「大丈夫か」と肩を持つ大学生は、二度目の「大丈夫か」を言えずに脳天を撃ち抜かれ、その場に崩れた。同情するな。一瞬でも同情して足を止めたらやられるのは自分だ――長谷川は足を止めずに走り、右手側にある大学へと駆け込んだ。走りながら、「どの棟に行けばいい、どこに行けば見つからない」そんなことばかりを考え、頭をフル回転させていた。後ろから黒いジャンパーがついてきているのは、自分の両脇をすれ違う学生たちがパタパタと崩れるのを見てわかっていた。
そこでようやく理解するのだ。
「僕が追われてる?」ということに。
おいおい痴漢ごときでこんな大げさなこと――割と冷静でいられている自分に感心した。母親は昔から能天気だった。息子が怪我をしようと「若気の至りよね~」学校に呼び出されても「寧ろ元気があっていいじゃない」まるで他人事だった。当時はそれが嫌で嫌で仕方なく、どうすれば母親が息を取り乱して怒り狂うかを考え、よく非行に走ったものだが、今はそれを幸運に思うしかなかった。というか、今日この日のために自分は能天気の親の血を引いていたとすら思え、いささか過言でもない気がした。
それにしても、と思う。どうして自分とすれ違う生徒ばかりが撃たれているのだろうか。そもそも長谷川を狙って打っていないからだ。ということは、長谷川を部屋の隅に追い詰め生け捕りにし、じっくりぐちゃぐちゃコトコトいたぶってから撃ち殺そうという策略か。「とんでもないな!」能天気の血が初めて誇らしく思えた。
長谷川は七号館と書かれた棟の自動ドアを開け、抜け、目の前にある階段を上った。エレベーターに乗らなかったのはすでにこの校舎の上階に黒ジャンパーの仲間がいて、待ち伏せされていても困るからだった。というかそもそも上階に仲間がいるのならエレベーターだろうと階段だろうと挟み撃ちにされて終わりじゃね? うわー僕頭いいのか悪いのかわかんねえな。
黒ジャンパーたちは長谷川の上った階段のすぐ下を狙ってライフルを打っていた。いつの間にか単発の銃からマシンガンのようなものに持ち替えたようだった。長谷川はそれが意図的に狙っているように思え、口元を綻ばせた。「この状況で逆転狙ってる僕って相当能天気だよなあ」その能天気がなければ、今頃すれ違いざまに倒れた学生を介抱しているところを撃たれるか、黒ジャンパーの足元で土下座し、黒ジャンパーに自ら差し出した後頭部を撃たれているだろう。
長谷川は五階まで階段を駆け上がり、西側に走った。七号館の西には五号館があり、二つの棟をつなぐ渡り廊下があった。そこを走り抜ける際、一瞬後ろを振り返る。奥には変わらず黒ジャンパーの男がいた。いつの間にか二人いたはずが一人になっているのを見ると、おそらく先回りしているのだろう。時間的に五号館の五階にもう一人の黒ジャンパーがいてもおかしくない。どうする? 渡り廊下から飛び降りる? どうせ死ぬのに自殺じゃあ能天気の母親が泣いて呆れるはずだ。「あんたねえ、死ぬなら腹からドロドロ垂れる切腹にしなさいよ」母さん、切腹も自殺だよ。「あら、そうなの?」と平気で言ってきそうだ。
どうしようか――考えながら渡り廊下の扉を開けて進み、五号館側の扉も開けて五号館に入る。
五号館の二階に部屋はない。通路があるのみのようだった。三、四階に位置する部屋は一つの講義室となっていた。映画館やコンサートホールのように雛壇になっている講義室で、三階からの入り口から入ると教壇付近、四階の入り口から入ると最後壇につながっていた。
長谷川はエレベーターで一階に降りた。このまま帰れそうな気もしたが、ここで帰っては母親が「ねえねえどうして、ねえどうしてそんな面白そうな状況で家になんか帰ってきたのよ」と、自宅の三和土の上に膝まづき、本気で泣きついて来そうだったので二階への階段を一段一段ゆっくり上った。黒ジャンパーの一人が先回りしているのだとしたら、階段かエレベーターを使って五階に向かうはずだ。五階で鉢合わせした黒ジャンパー二人は、階段以外の講義室を探すだろう。そのときに、エレベーターが光っていることにも気づくはずだ。
そう。二人は上から降りてくる。逃げている背を撃たれるぐらいであったら、狭い階段で西部劇さながらの早撃ちをした方がいくらか母さんも能天気に許してくれるだろう。長谷川の基準は母親が能天気に反応してくれるかどうかだった。
長谷川は当然手ぶらだ。階段は、三階までには一度長谷川から見て右に折り返す。階段の中腹でばったり出くわしたらやだなーと思いながら階段の折り返しの前で止まる。物音はしない。階段の壁からゆっくりと短髪の髪、額が顔を出した。そうそう、大好きなあの子の着替えが見たくて更衣室の窓から覗こうとしたとき、目よりも先に頭が見えちゃうんだよねえ。どんなに洗練された人間でも、目から輪郭にかけての距離は埋められない。せいぜい死角を使ってごまかすくらいなんだけど、それが通用するのは直角ぐらいまで。鋭角――ヘアピン状態の壁一枚隔てた反対側から、額を隠さずに覗き見るのは手練れでも難しい。だからあんたは手練れじゃない。
黒ジャンパーと長谷川の目と目が合った直後、すぐに黒ジャンパーは銃を長谷川に向けようとした。当然銃身は長谷川から見て左側から右にずれるように構えられる。黒ジャンパーの髪の毛が長谷川に見えた時点では、黒ジャンパーには長谷川の存在が見えていない。だとしたら、早く動けるのは長谷川の方であった。おおよその黒ジャンパーの構えを予測し、このあたりだろうと空中にポイントを作った。目が合った瞬間に長谷川は左足をポイントめがけて蹴り上げた。ドンピシャだった。彼の構えようとした銃は、発砲する前に長谷川の左足によって宙を舞った。蹴飛ばした勢いで羽交い絞めー、とかが定例なのだろうが、何と言っても長谷川は能天気な母親の血を引いた息子だ。あろうことか黒ジャンパーに背を向け、後方に向かって宙を舞う銃を目で追った。銃を拾いに行く。まるで道路に転がったサッカーボールを追っていく子どもそのものだ。左右確認せずに道端に飛び出す子どもと制動距離未満で急ブレーキをかける車――その間に腰にでもぶら下げているであろうMP5で撃たれたら終わりだよなあ――長谷川はビーチフラッグさながらにダイビングし、銃を拾い、背を向けたままノールックで後方に発砲した。それが運よく黒ジャンパーの脳天を貫いたのか彼は即死して、MP5を握っていた彼の指が引き金を引くことはなかった。
長谷川は仰向けに寝、手にしていた銃を翳した。
「母さんコルトパイソンやべえよ」
え? 子馬の言語? あながち間違いではない。
これで銃は手に入れた。長谷川は立ち上がる。長谷川は恐らくもう一人の黒ジャンパーは三階にいるだろうと推測していた。階段の踊り場で目を剥いた黒ジャンパーが横たわっている。何処に銃弾が当たったのかとしゃがむと、どうやら本当に額に刺さっているようだった。
そのとき、右手が弾かれた。落としたコルトパイソンは無視し、長谷川はそのまま三階へと駆け上がる。どうやら、七号館から一緒に来た黒ジャンパーの方は、長谷川と同じようにエレベーターを使って一度一階に降りたようだった。
さて、次はどうしようか――。