タイトル未定2025/05/12 15:32
なかなか魅力的な人間だ、と長谷川は中指の腹で鼻を触りながら感心し、妄想から我に返った。
現在、長谷川は駅員室にいた。部屋の中央にテーブルがあり、それを挟むようにソファが置かれている。駅員が一人、テーブルの奥にある作業机の席に着いて作業をしていた。被害を主張する中年女性は、部屋の隅で物色している。そしてなぜか腋臭の男が長谷川の座っている反対側のソファに座っていた。そのせいなのかわからないが、駅員も中年女性も彼と距離を取っていた。
実にやばい。長谷川は数分前の出来事をもう一度振り返る。「取り敢えず駅員室に――」そう言われたときにどうして僕は逃げてしまったんだ。あろうことか逃げて捕まるなんて馬鹿のやることだった。逃げるのであれば逃げ切らなくては意味がない。どうして逃げたんだ僕は。だって追われたら逃げるのが普通でしょう? 人に追いかけられると怖いし。そうだ、人に追いかけられると怖くなっちゃう病を発症したのかもしれない。医者に行って診断書を発行してもらえば……いや違う違う。そうじゃなくて。逃げたら尚更犯人だと思われるけど、あのまま駅員室に連れて行かれても結局警察に連れていかれて前科つくんでしょう? じゃあどうすれば……ああ! そうか! 柱にでもしがみついてその場を離れなければよかったんだ!
膝に肘をつきながら険しい表情を浮かべ、数回肯き、肩を落としたと思えば何か閃いたように上体を起こし、ぱあっと表情が晴れた長谷川の姿を、三人は好奇な目で眺めていた。
だがもう今更柱にしがみついても遅い。
一縷の希望にかけて、腋臭の男を味方につけようか……長谷川はソファの上で俯いた。目を閉じる――。「提案があります。本当にあなたが僕の痴漢を主張するのであれば、僕にちゃ、ちゃくまんえんください」言う気にはなれなかった。まず頭の中で噛んでるし。噛みそうだし。言ったところで腋臭の男は長谷川の見方にはならないだろう。この男なら言葉の意味のまま解釈して、素直に百万円を渡してきそうだ。
もう諦めるしか……。
――だがもう今更柱にしがみついても遅い――
いや……遅くないかもしれない。長谷川は上体を起こさずに視線だけを泳がせた。
拘束されていれば話は別だが、腋臭男のおかげで中年女性も駅員も長谷川までもが距離を取っていた。
逃げられる……。でもどうして……腋臭男なら僕を拘束していてもおかしくはないが、まあ拘束されたらされたで条件反射で逃げるけど、あー逃げたら腋臭男が追っかけて来て、ん、でも、もしかしたら腋臭の臭いが嫌すぎて逃げ切れるかもしれなかったりして。いやいや、そこは論点じゃなくて。なんで腋臭は僕を拘束していないんだ。こういう紳士ぶる奴とかは特に……お前まさか――ふいに泳がせていた視線が腋臭男と合った。
やっと気づいたか、フッ、とでも言うような視線。彼の目が「逃げろ」と言っているような気がした。気のせいか視界が潤んでいるような気さえした。腋臭……お前への侮辱を全面的に撤回する。ここまで先を読んで伏線を回収するどころか、自分の腋臭というコンプレックスを出汁に使ってまで見ず知らずの他人を助けようとするなんて、フィクション以外で初めて心から感動した。
長谷川はもう一度駅員室を見回した。駅員は机の上で作業を続けており、こちらに注意を払っている様子はない。中年女性も駅員室にある壁の張り紙や賞状を見ていて、長谷川を見ている様子はない。
迷っている暇はない。早くしなければ警察が来てしまう。
長谷川はソファから立ち上がった。地面を蹴り、駅員室のスライドドアを開け放った。その際に視線を感じたが振り返らなかった。開け放ったドアから外気が流れ込んだ。
「うまい!」
長谷川は外気を全身に浴び、汗臭さとは異なる腋臭の独特の臭いから解放される。涙が零れそうになった。空気っておいしい。違う。腋臭から解放された、違う。もう腋臭を馬鹿にしないと心から誓った。腋臭、お前はイケメンだ。誰が何と言おうと僕のヒーローだ。
サンキュー腋臭! 心から背中で叫んだ。
そのときだった。長谷川の目指す東口の階段から警察官が一人、下ってくるのが見えたのは。
まずい……踵を返して西口を目指そうか。しかし、そのためには駅員室の前を通らなければならない。
長谷川は駆けるのを止めなかった。冷静になれ。警察官は長谷川の顔など知らない。強いて言えば、駅構内を全速力で走っている人間などそうそういないのだから、こいつが痴漢かもしれないと疑われるくらいだ。
長谷川の後方から「そいつを捕まえてくれ!」という類の叫びは聞こえなかった。助かる――警察官との距離が縮まっていく。心臓の鼓動が早い。走っているのとはまた別の鼓動の速さだった。
そのとき、聞きなれない轟音が二回鳴り響き、長谷川は肩を揺らした。