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【】

「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ」


 右隣に立つ中年女性が喚いた。


 長谷川(はせがわ)は両手でつり革を掴み、イヤホンから流れる曲に耳を澄ませていた。目を閉じ、流れる音楽に身を(ゆだ)ねていた。


「何しらばっくれてんだよ」右耳からイヤホンが勝手に抜け、長谷川はぎょっとする。何かに引っかかって取れたのか、そんなはずもない。見れば、右隣に立っている中年女性がイヤホンを手にしており、ああなんだ、隣の人も自分と同じイヤホンを使っていたのか、と再び視線を戻し、目を瞑る。


 いや、そんなわけないだろ。


 ぎょっとして再び隣の中年女性に視線を向けた。女性は長谷川のしていた右のイヤホンをちょうど投げ捨てるところだった。コードが宙をくるくると回り、その遠心力で左耳のイヤホンが外れそうになるが、外れはしなかった。


 彼女は長谷川を睨んでいた。敵意むき出し、といった表情で、長谷川の前の座席に座っている乗客はこちらに好奇のまなざしを向けていた。


「触りたいんだったら、ホステスでも風俗でも行けってんだよ」


 ふうぞく? 偉く感触のいい言葉だな。でも多分、性風俗。それもまた感触がいいのに、どうしてだろう、右耳の障りが悪い。


 中年女性は荒ぶっていた。長谷川は状況が掴めずにいた。左耳からは東京散歩のサビが流れている。普段であれば唇を動かす歌詞であったが、長谷川は曲そっちのけで呆然としていた。


 とりあえず暢気(のんき)に音楽を聴いているのも悪い空気だろうと察し、左耳のイヤホンも取ろうとしたのだが、その前に中年女性が、腰のあたりにぶら下がっていた右耳のイヤホンを手繰るように引っ張ったので、自分で取らずとも勝手に耳から抜け落ちてしまう。


 中年女性は長谷川のイヤホンを汚物でも拾うように摘まんでおり、汚物でも捨てるように電車の床に落とし、汚物でも見るような目で長谷川を見ていた。


 列車内には池袋駅のホームに入るアナウンスが流れており、ブレーキをかけ始めていた。中年女性は長谷川の手を掴もうとした。咄嗟に長谷川はそれを避けた。女性の手は空振りに終わり、慣性の法則と相まって彼女はつんのめって床の放り出される形になった。「あんたねえ! こんなことしておいて逃げる気?」上体を起こしながら女性を見ながら、長谷川はとんでもないと手を振って見せる。中年女性を煽ってしまったようだった。長谷川は「降ります、降ります」と言いながら、相手の中年女性の身体に自分の指紋がつかずに済んだことに気づき、偶然の産物ではあるが安堵した。多分痴漢を疑われているのだろうと思った。同時にやばいと思い、そのとき初めて事の重大さにたどり着く。


 列車をそそくさと降りると、中年女性は長谷川の前に立ち塞がり、一方的にぎゃんぎゃん喚いた。長谷川は自分に非がないと確信していたが、それでもいい気がしたものではなかった。


 同調圧力というものは実に恐ろしい。彼女が周りに知らせるが如くぎゃんぎゃん喚くので、何事かと近寄ってくる物好きが数人いた。その一人の顔が妙に引っ掛かり、ぎゃんぎゃんと騒ぐ中年女性をよそに考えていると、思い至った。あろうことか長谷川が列車の中で立っていた席の前に座っていた男だった。態々目的の駅でもないにもかかわらず長谷川たちと一緒に降りたのだろうか。態々長谷川を罵倒したいがために? 態々女性の味方をアピールするために? 態々僕は紳士です! と? こいつは時間の貴重さをわかっていないのだろうか。大学時代に感嘆したセネカの著書を勧めてやりたい。


 中年女性のぎゃんぎゃんは()まなかった。マシンガンのように喋る、というよりはただの報告だった。「こいつが痴漢しました」「尻を触った」「気持ち悪い」という意味合いの三つの文を修飾して、エンドレスに言っているだけであり、この女性は男に尻を触られても大して不快に思わないのではないか、と疑問に思った。寧ろ、欲求不満なようにさえ見えてくるから不思議だった。なんだなんだと寄ってくる男は見るからに気持ちが悪い。罵倒するためだけに降りてきた金魚の糞は、やっぱり臭い。「こいつ、腋臭か?」思わず口に出、すぐに手で口を塞ぐ。だが事実、こいつが腋臭のおかげでこの場を去っていく人間も少なからずいただろう。中年女性の報告作業に合の手を入れるように「お前は人間として屑だ!」「女性の気持ちがわからないのか!」とテンポよく喋り、いや、お前に女性の何がわかるんだよと言ってやりたくなった。この中年女性は、仮に痴漢に嗜好(しこう)があるのだとしたら、その興奮を手に入れつつ何の罪もない男を(しいた)げる快感、皆に共感されて承認欲求を満たし、と一度に三つも幸福を手に入れている。烏滸(おこ)がましいだろう、一回投げた石で二羽手懐けられた(にわとり)が不憫でならない。目が分かりづらいというだけで鳥になれない烏もきっと同情してくれるはずだ。


 駅員が何事か、と奥から近付いてきた。「取り敢えず、駅員室に」なんてなるのは御免だった。以前、何かのテレビで見たことがあった。そのまま警察に引き渡され、社会的に弱い女性の発言に重きが置かれ、事の事情を何も知らない女性警官に哀れな視線を向けられ、あとは自白を強要させられて終局。将棋で言ったら今どの辺? 劣勢の局面。長考、先読み、敗勢、詰み。罪だけに?


 案の定だった。駅員は中年女性が事情を説明する間に合の手を入れる腋臭、その二人の説明を聞いて「取り敢えず駅員室へ」と提案した。


「そうね、立ってるのにも疲れたわ」それはお前が喚いていたからだろう。


「取り敢えず行きましょう」と中年女性は流暢に言い、こいつわかってて言ってんだろう、と怒りを覚えたかったが、成り行きが読めすぎていて、一転して思わず笑みを漏らしてしまう。どうせまた手を掴もうとしてくるんだろう? 言ったそばから腕を組もうとしてくるので当然のように避けた。中年女性は、何よ、といった目で見ていたが、自分の身体にべたべた指紋を付けられては困る。無理やり手を取られてケツにでもつけられたら大惨事だ。こっちが気持ち悪くて失神してしまう。もはや痴漢の冤罪を立証するためというよりも単なる中年女性への嫌悪感から避けている面が大きかった。おまけに物好きの糞は腋臭だ。金魚の糞じゃなくてただの糞だ。腋臭に罪はないし、好きでも嫌いでもないが、性格が腐っていると知ってしまったからには「くせえくせえ」と言わずにはいられないものだ。性格が腐っていなければ面と向かって話すのに、どうしてこうも突っかかってくるのだ。真面目に話す気が失せるのは当然だ。「あいつが不細工だと揶揄されるのは顔じゃない。性格が悪い奴は顔も自然と醜くなんだよ。若しくは見えるようになるんだな」と、独自の理論を豪語していた大学時代の知人の酒乱が目に浮かび、機会があれば会わせてやろうと思った。


「提案があります」長谷川は手を挙げ、前を歩く駅員と中年女性を振り返らせた。


「僕はやってません。そもそも痴漢するにしてもするなら法律で守られている十八歳以下の女の人だ。熟女ならバーに行ってひっかけるなり出会い系なりいくらでもやりようはある。尻どころか抱き着いてキスまでしているかもしれない。まあロリコンの俺に熟女は論外ですが。でも彼女は僕がやったと言い張る。だから、どちらかが間違っているのでしょう。僕以外の誰かが触ったのを僕と勘違いしたとか、通りすがりの人が肩にかけていた人肌に似た生地のバッグが意図せず彼女の臀部を擦ったとかでなければ、どちらかが嘘をついていることになります。これ以上言い合っても、まあ彼女が一方的に言い張っているだけなんですけど、水掛け論にしかなりません。


 だから、奥さま、約束してください。もし冤罪だったら十億僕に支払ってください。あなたがそれだけ言い張るんなら多分そうなんでしょう。誓約書もここで書かせていただきます」長谷川は鞄からペンとA4の裏紙を取り出した。


 ペンを走らせながら横目に中年女性を見る。ここで引いてくれるだろうと長谷川は思っていたが、中年女性は引かなかった。ここまで来て引くに引けないのだろう。それか頑固なんだな。リスクヘッジもできない奴がギャンブルやってたら……まあこうなるんだろうな、と中年女性の鞄の隙間から見える煙草と駄菓子を見て思う。A4の紙の裏に簡潔な誓約書を作り、中年女性に名前を書かせた。ボールペンを親指に塗らせ、拇印を押させた。


 長谷川は誓約書を四つ折りして、自分のポケットにしまう。しまい終えたところで腋臭の男に声をかけた。「おいあんた、十億あんたに全部やるよ。もちろん払うのは俺じゃない。そこの女性だ」


 ぽかんと口を開けた腋臭の男。「あーーでも、あんたはそこの女性の味方だっけ? 屑でもないし女性の気持ちもわかる紳士だもんな。そりゃ当然だ。この駅のホームにいる方々、周知の事実だ」そこまで言うと、さっきまでの舐めていた顔色が消え、男は俯いた。


 長谷川は手を挙げた。


「ここに居る人に先着で一千万ずつやる。全部で百人だ。欲しい奴は僕が痴漢をしていないという証拠を探してくれ。もう一度言う。僕は絶対にやってない。この女の身体を調べれば僕の指紋なんて一つも出て来やしないはずだ」長谷川は声を上げた。なるだけ平静を装って、余裕をかまして。事実なんか最早どっちでもいいからと。すると、ホームのベンチに座っていた一人の若い女性が近づいてきた。「私、見てましたけど、この人はずっとつり革を掴んでました」


 長谷川は中年女性に視線を向けた。


「だ、そうだ」


「あ、ああ、俺も見ていた」中年女性を庇っていた腋臭は手のひらを返した。「お前は散々そいつのこと罵倒してただろ。何を今更」電車を待っていた若い男が、興味なさそうに後ろから投げかけた。「そ、それは……」


 どこから聞きつけたのかわからないが、入場券を握りしめた人間が大量に押し寄せた。ホームはもみくちゃになった。もみくちゃになる前に長谷川は逃げられそうだからとその場を後にした。「ちょっと待ちなさいよ!」中年女性の声はかき消される。駅員は呆れて駅員室に戻っていった。別の駅員が駆けつけ整理と誘導を始めた。改札口に向かう階段を下っていたところ、隣に先程の若い女性の姿が見えた。


「ああいう人がいなくならないから、いがみ合うんですよね。勿論、私も痴漢は死んでほしいです」


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