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【ヨヒト】

 最後の希望だった。


 収容される直前に買った【ハート】と呼ばれる感情を、呼人(よひと)は監視員に感づかれないようにと隠し続けていた。掛け布団の下でゆっくりと掌を押し付け、カプセルの感触を確かめる。よかった、と不意に出そうになった安堵の溜息を飲み込む。まだ敷布団とマットレスの間に挟まれているようだった。


 思えば、すでに隠し持っていることがばれていてもおかしくはなかった。というか、もしかするとすでにばれているのかもしれない。だが、現に【ハート】はここにある。目で実物を確かめたわけではない。三年前、この部屋で目覚めたときに、咄嗟にポケットから布団の下に差し込んだときですら実物を目視してはいない。最後に【ハート】を見たのは、白髪の売人から手渡されたあの日だった。


 ゆっくりと敷布団の下に手を入れ、【ハート】に直に触れる。いつも通りを装い、伸びた髪を耳に掛けながら、ふと思う。消費期限はあるのだろうか。すでに効力は失われていないだろうか――。次々に出てくる懸念と不安を掻き消そうと、そんなことはどうでもいい、何か行動しなければ何も変わらないことだけは確かだ、訳も知らされないまま同じベッドの上で過ごし続ける定型的な毎日はもううんざりだ、と無理やり自分を納得させた。


 呼人を監視するAIロボットは、この部屋唯一の出入り口を塞ぐように立っており、呼人が収容されてからの三年間のほとんどを、出入り口に突っ立ったまま過ごしていた。もしかしたらもう壊れているのではないかとも思ったこともあったが、耳をすませばかすかにモーター音がしていた。目を凝らせば胸に小さな青い光もあった。今日しかない――そう思ったのは、今日が月に一度の身体検査の日だったからだ。


 身体検査と言っても、基本的にすることは一般的な健康診断と変わらなかった。血液検査、心電図、レントゲン、この三項目のみだった。呼人がこのビルに収容されてから三年が経った現在までに計三十六回身体検査が行われたが、この三項目以外の検査が行われたことは一度もなかった。


 例外はない、と言い聞かせる。まさか今日がその例外の日になるかも……を掻き消す。


 呼人はベッドの上から窓の外を眺めた。三年前に恋人と訪れたスカイツリーから見下ろした景色が蘇る――彼女は今何をしているだろうか。生きていればいいのだが――と祈ることしかできないことが情けなかった。事実、今の今まで彼女のことなど忘れていた。窓の外を眺めたのも数か月ぶりだ。というかそもそもあの関係は恋人と呼べるようなものだったか? 実際の時間よりも昔のことのように思えてうまく思い出せない。三年の間、窓の外を眺めるたびに彼女のことを思い出しはしたが、そのとき限りだ。窓から視線を外せばすぐに自分の心配へと変わる。


 身体検査は呼人がいるこの部屋で行われる。このときばかり、出入り口に立つAIロボットがベッドの脇に移動して行われる。彼の身体には心電図を撮る器具も、レントゲンを撮影する器具も備わっている。呼人は何一つ動かなくてもAIロボットが勝手に進め、検査は終わる。そもそも検査だと知らされて始まったものではないのだから、心電図やレントゲン検査の存在を知らなかったら何をしているのかもわからなかったはずだ。


 計三十六回、何一つとして変わらなかった検査の過程。三十七回目も同じように事が進むはずだ、と少し心を弾ませる。


 夜が明け、窓から見える空が白みがかっていた。この風景好きなんだよな、と思い、自分の冷静さに安心する。


 一、二時間程度経つと、AIロボットが無線か何かの合図を聞いたのだろう、ベッドで長座する呼人の元へと近づいた。


 まずは血液検査だった。ロボットの腕の中から注射針が出現する。無造作に呼人は左腕を差し出した。注射針が腕の血管に刺さる。ものの数秒で採取し、注射針はAIロボットの腕の中に消えた。呼人は小さく膨らんだ血液の上を指の腹で押さえる。


 次に心電図だ。上着をはだけ、AIロボットの腕から出てきた数本の触手が呼人の胸に張り付いた。これもまた数秒で終わる。


 次にレントゲンであった。AIロボットの胸が開き、黒い液晶画面のようなものが露出した。AIロボットは胸を呼人の胸へと近づけた。次の瞬間、呼人はAIロボットを両足で蹴飛ばしていた。よろめいたAIロボットを確認するよりも先に、脚は地面へと着いた。ベッドからするりと抜け、がら空きの出入り口に飛び出した。


「逃げるのか?」


 背中で聞いた声に鼓動が跳ねる。無意識に立ち止まっていた。


 それはやけに人間味を帯びた声であった。呼人は数日前から何度も脱走について頭の中でシュミレーションしていた。呼人のシュミレーション通りであれば、呼人はこのまま部屋を抜け、階段、()しくはエレベーターを使って一気に地上へと降りる手はずだった。たとえ、AIロボットに追いかけられようとも。


 しかし足が止まった。なぜだろう。止まった。コンクリート打ちっぱなし。嵌め殺しの縦長の出入り口。普段であればAIロボットが立っているこの部屋唯一の出入り口の淵を、右手で掴んだまま立ち止まった。


「あと一年だ。我慢できないか?」


 恐る恐る振り返れば、AIロボットが乱れたシーツカバーを伸ばしていた。「早く起きなさい」と言われ、息子が荒い言葉を吐き捨てて出ていった後、一人取り残された母親のように人間染みた仕草だった。


「俺は何人も見てきた。お前みたいに逃げ出す若者たちを。確かに俺たちはお前たち若者を無理矢理このビルに収容した。敵に見えたことだろう。だが、なぜ無理やりにでも身柄を拘束したかわかるか?」


 普通ならここで、やはり無理矢理収容していたのか、と三年越しの答え合わせに納得するかもしれない。だが、質問以前にロボットが喋っているという異様な光景に、呼人は戸惑った。戸惑いが消えなかった。ただ業務的に喋るのであれば何もここまで驚かない。まるで感情を持った人間のように流暢に喋っていたからだ。収容されてから三年間、一度もロボットが言葉を話すことはなかった。まさかロボットの身ぐるみを着ている人間というわけでもあるまい。


「あと一年待てば何か変わるのか? 元の生活が戻ってくるのか? 収容されていた間の時間は消えない」


「……達者でな」


 AIロボットはそう言い放った。


 次の瞬間、AIロボットの指先から麻酔針が発射された。それは呼人の顔の数センチ横、壁に刺さった。我に返った呼人は顔を強張らせた。逃げた。裸足のまま廊下を駆け、一目散に階段を下った。ぐるぐると続く螺旋階段は永遠のように思えた。二段飛ばしで飛び降り、一段ずつ下り、疲れて歩き、と繰り返した。追っ手が来ているかもしれないとは考えないようにした。(かたく)なに振り返ろうとしなかった。ただひたすらに長い階段を下った。ずっとベッドの上にいたからだろう、体力が落ちているんだ。そう思ったが、「あれ」と呼人は疑う。おかしい――三年間もずっとベッドの上で過ごしていたにもかかわらず、収容される前と同程度に維持されている。いやそれどころか体力筋力が向上している気さえする。ベッドの上でリハビリでもしていたのなら話は別だ。しかし、そんなものすらない退屈な日々だった。あるのは朝昼晩の三食の飯だけだった。にもかかわらず歩くことどころか、走って階段を下ることができている。冷静に考えたら、三食食べておきながら肥満体型になっていないのもおかしい。だって運動していなかったのだから。運動どころか、歩くことすら。


 おかしい。


 だが、理屈を考えても仕方がなかった。明確な真実にたどり着くには、呼人を収容した関係者に理由を聞くぐらいしか思い当たらない。とにかくここまで来て足を止めるわけにもいかなかった。呼人は考えないようにし、螺旋階段を下り続けた。


 一時間弱下り続け、やっと地上への出口が目視できるようになった。あともう少し――一段一段降りていたのを二段飛ばしに変えた。身体が上下する。息が上がる。呼人は出口の光に吸い込まれるように駆けた。


 その出入口を抜けたときに吸った空気は、収容されていた部屋と何一つ変わらなかった。変わっていたとしたら、部屋にいるときに感じる圧迫感が消え、檻の中から広大な草原に放牧された牛、羊になったような感覚だけであろう。


 荒廃した都市――(そび)え立つビル――目に映るすべてを疑った。ここはどこだ。わからない。目の前のビルがピサの斜塔状態だ。なぜ建っている。お前はピサの斜塔じゃないだろ。地下鉄があるんじゃなかったか。放水路があったんじゃなかったか。視界から受け取れる情報量が多い。アスファルトの隙間から伸びる緑が高い。路肩には扉が開いたままのセダンが縦列していた。路肩どころか、片側四車線もある道路の両車線に、無差別に多種多様な車が停車しており、幾何学的な模様を作っていた。そして。


「誰も、いない……」


 目の前の横断歩道。見上げると信号。信号のLEDも音も途絶えていた。


 雑然としている都会の雰囲気に驚愕する。呼人は路肩に停まっていたセダンの中を覗く。運転手の姿はない。まあそうだろうと思った。車のドアが開いたまま放置されている時点で予測はできた。明らかに運転手は切羽詰まっていたのだ。何かから逃げるように運転席を降りたのだ、と想像を巡らせる。


 呼人はセダンの運転席に乗り込んだ。乗り込むとすぐに背中側のズボンに挟んでいたクマのぬいぐるみを取り出した。


「ごめんな、俺の汗だらけだろう」


 忙しなくクマのぬいぐるみを助手席に寝かせ、呼人は自分の左耳上部に挟んでいたカプセルを素早く手に取った。


「賞費期限とかかねえだろうな。頼むぜ、三百万も払って買ったんだからな」


 鎮痛薬のような小さな透明のカプセルに入っているのは、一見、水にしか見えない透明な液体だった。呼人は一息にカプセルを二つに割った。ぬいぐるみの頬に液体が滴り、黒い染みを作った。


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