タイトル未定2026/02/13 13:33
暗い視界に既視感を覚えた。これはいつだ。つい最近のことだった気がする。確か……そうだ、三年もの間、閉じ込められていた部屋から飛び出し、階段を下っていたときだ。階段を下った先にある出口の光。その小さな光が階段を下るにつれてだんだんと大きくなっていって――。
呼人は目を開けた。
ゆっくりと歩き出す。
足の裏から土の感触。
視界を遮るものがない。
遠くに見える地平線。
沈みつつある太陽の赤。
その二つ以外――ビルも、道も、車も、街そのものが消えていた。
「ここは……」
呼人は振り返った。そこには砂の上に座るカフネの姿があった。
カフネに手を差し伸べながら辺りを見回した。見慣れた景色はない。ビルも、信号も、アスファルトも、木や山でさえ見えない。残骸もない。まるで初めからなかったかのように、忽然と姿を消した、砂丘のような場所。
カフネが呼人の手を握り、立ち上がった。呼人はふいにカフネの横顔を見た。生きていることに安堵している顔でも、どうして生きているんだろうと不安げな顔でもない。瞳には光るものが映っていた。それは涙ではない。この大地。涙に匹敵する感情。彼女は、すべてが無くなってしまったというのに、とても穏やかな顔をしていた。まるで待ち望んでいたみたいに。
「よく、考えるんだ……」呼人が口を開くと、カフネと視線が合う。「どうして神様はこんな世界にしたんだろうって。何かを食べなきゃ生きていけない。働かないと金が手に入らない。誰かと一緒にかかわらないと寂しくてやっていけない。どう考えてもコスパが悪い」
少し歩こうよ、と呼人は呟く。さらさらなどこまでも続く砂の上を、二人は歩く。
「そもそも人間が弱い生き物だったから、人は愛し合うようになったのかもしれない。子どもが生まれないと繁栄していかないから生殖行為に快楽を付与した。全部理由があるはずなんだ。でも、増えすぎてしまった。ひと昔は娯楽なんてそれほど多くなかった。だから、みんな愛し合った。愛を育んだ。神様の思惑通り、子孫はねずみ講みたいに繁栄し続けた。けど、物が増え過ぎた時代で、あらゆるものが便利になって、手間を掛けなくなって、娯楽も増えて、寂しさが紛れてしまうようになった。愛が買えるようになった。愛が汎用的になった。愛がチープになった。愛を疎かにするようになった。使いまわすようになった。経験を美徳とした。そしたら純愛なんか二の次になった。子どもは減った。恋愛離れ。自殺者の増加。あれが欲しいこれが欲しい。あれはいらないっこれは欲しい。あれもいらないこれもいらないと、増やしていった。断捨離していたら、いつの間にか命すら捨てることを厭わなくなった。たとえ神様の思惑だったとしても、人間が与えられた厳かな感情から遠のいていっているんじゃないかって」
「真面目なんだね」カフネは俯きがちに言う。「普通そこまで考えないよ。みんな自分のことで精一杯」
「俺にはなかったんだ。好きなもの、趣味、そういうものが。だからこそよくわかるんだ、変化が。常に自分ではなく他者や、外側を見ているからかな、みんな昔はもっと楽しそうだった。走った先にゴールがあると考えて走っていなかった。ただ楽しいから、走りたいから走った。比べることを知らなかった。敵わないと知らなかったら陸上選手を目指した。敵わないと知ったから諦めた。楽しいだけじゃ駄目だと知った。終わりがあると知らなかったら、走り続けた。終わりがあると知らない無邪気な子どものそれ? みたいな。そりゃ、でも、今も楽しいのかもしれない。でも、もっと違う笑顔だった気がするんだ。遠い昔の歌謡曲を聞いたときみたいな、郷愁って言うの? これをすごく感じる。その度に本来のレールから外れてしまったんじゃないかって思う」
「まあ確かに。純粋に楽しむことは減ったかもしれないわね。でもいいじゃない。それでも。逆に気になるし。神ではなく、人が作ったものが増えて、多くを占めて、いつか神ではなく人がみんなで作り上げた世界になっていたら面白そうじゃない?」
「悪意は消えない。悪意を持って作られたそれに、親しみたいとは到底思えない」
「でも悪意がないと、人は正しさを見失う。どれが正しい道かわからなくならない?」
「そうだよね。そうなんだよな。俺が神様に一番言いたかったのは、感情なんか初めからなければよかったのに、ってことだ」
呼人は溜息をついた。自分の小さな脳味噌で苦悩して考えたところで、輝かしい答えが出るとは思えない――そう、思えば、昔からそうだった。何を考えても正しさは導き出せなかった。複数ある答えの中の一つを選び抜いたときも、誰もそれが正解だよ、とは教えてくれなかった。気づけば負け癖が付いていた。何をしても、何を考えても、正解は出なかった。だって正解だと教えてくれる人がいないんだもの。当然だ。俺は何一つ信じられなかった。誰も信用しなかった。だから誰にも批評されなかった。隣どころか周りに人っ子一人見当たらなかった。仮に誰かがいて正解だよ、と言っても、信じなかった。あらゆる可能性を見出していたからだ。そのせいで、疲れることが多くなった。
「本気で言ってる?」
カフネが呼人の目を見ていた。
「感情がなかったら、どうやって他人と区別するの? どうやって助け合うの? そもそも助け合うとかそういうところから間違ってる? なんか寂しいな。どれだけ世界が腐っていても、どれだけ悪意が蔓延って、騙されて、殺されて、光化学スモッグ、瓦礫、残骸、そういう世界になっても、感情、唯一の望み、これだけは私は譲れない」
「そうか」呼人は呟いた。
羞恥心――これがすべての元凶、原罪。そういう意見もあるんだな、とカフネに耳を傾けている時点で他人のことを気にしている。他人の目を気にしている。いっそ、感情など初めからなければいい、という親の信条の元で育てられれば良かった。そうすれば最初からこの信条を信じて疑わなかった。疑う余地もなく生きられた。
人のせいにするのはよくない。
俺自身が弱かっただけだ。
「でも、あなたは、【ハート】を欲した。感情なんて端からなければいいと言っておきながら、感情に救いを求めた」
「救いを求めたのは俺じゃない。万物だ」
気づけば二人に目の前にロボットが立っていた。後方から橙色の光が降っている。グラデーションの利いたその光によって逆光となり、影を帯びていた。それは、呼人にとって見覚えのある形をしていた。こいつは喋らない。こいつに感情はない。AIだから。AIに感情はない。喋るのだとしたら、それは統計やプログラミングによって出来上がったもので、純粋物ではない。
ではない。
はずだ。
「早まった結果がこれだ」
呼人がもう一年あの部屋で寝転んでいれば、結果が変わっただろうか。
「私は神だ」面白いことを言う。
「信じろとは言わない。信じてもらいたいとも思わない。ただ、事実だ。無論、私は私を神だと思ってはいない。人間の言う、神、と言う存在に当て嵌まったから、そう名乗った」
「俺の知っている神は全知全能で、できないことなんてなくて、もっと頼もしい存在のはずなんだけれど、神でも何かを成すには四年近くかかるんですね」
「仮に、今この空間に林檎を生み出せたとして、食う奴がいないのに態々生み出そうとは思わない」
「俺が食ってやるよ」
「時宜を待っていた」ロボットの手の上に丸いものが膨らんだ。現れたそれをひょいっと投げ、呼人は受け取る。赤い、林檎。
「私は、世界が滅びるのを何度も見ている。人が死ぬように、世界も有限だ。いつか朽ちる。朽ち方にこそ違いはあれど、確実に、だ。だから、この世界も朽ちることはわかっていた」
呼人の手元で林檎が萎れていき、無くなった。
「私がどうこうしたところで少し猶予が生まれるだけ。じきに朽ちた。私が抱いたのは、未来への望みだ。いつかまた、もう一度、朽ち果てる世界を見届ける存在。再生して、構築して、また朽ちて、また生まれて。変遷を永久に見届ける存在。ふさわしい人間を探していた」
瞬きの前後。
ロボットの隣には目を閉じた裸の人間がいた。
「長谷川……」カフネが呟く。
「この世界で複製ではない人間は、長谷川と呼人の二人だ」
「長谷川は死んだはずじゃ……」
「私が生かした。死んだ後に生み出すこともできるが、それじゃ駄目なのだろう?」カフネは歯を食いしばる。「そんなチープなものでは、尊厳も、ありがたみも感じない。人間はぬいぐるみとは違う。人間は大量生産された衣服とは違う。勝手に手に入れて勝手に喜んで、勝手に忘れて勝手に捨てて、所有欲から買い、飽きたら捨てる。チープなものに価値なんかないからな。命がなければ捨てても問題ない。厳かな尊い命を持った人間と人形は違う。だから死ぬ運命に抗ってまで人は延命する。医術の発展は人間が厳かだったからだ。それとも、医術ではない方法で生かすことに何か不満が?」カフネは歯を食いしばっている。
「意味合いは違っても、お前にとっては実際一緒じゃないのか? どうして……生み出せるのなら、救う必要なんてあったのか?」呼人は問う。
「ない。非合理的な行動は初めてだ。でもそれももうこれで最後だ」
ロボットの背後に降っていた橙色がだんだんと影を増していく。いつの間にか赤くなった空。辺りには黒い人が無数に生み出され続けていた。まるで赤と黒の間、グラデーションをなぞるように。
「悪くなかった。早まったとはいえ、最善だっただろう。私が永く見てきた世界の中で、この世界でしか生み出されなかったものがある。多種多様だった。とある時代にはあったがとある時代にはなかったものならば数多く見てきた。だが、この時代でしか出現しなかったもの……それはクローン人間でも、朽ち果てた荒野でもない。【ハート】。卓越した存在でありながら、私が欲を抱いたのは、手を伸ばしたのは、最初で最後だ。私は罰を受け入れた。こんなに美しいものは、魅力的なものが、と手を伸ばした罰――受け入れてくれ」
ロボットの輪郭が背景に溶けていく。残ったのは赤い空と、広大な視野を覆う。無数の黒い人間。二人の元に襲い掛かってきた。




