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タイトル未定2025/05/26 21:31

 恐らくここだろうという感覚があった。無造作に手が伸びていた。取っ手を引くカフネの手は震えていた。ありえない……私が震えるなんて……。頭ではわかっていても身体は正直ということだろう。身体と脳で作った像とが線を結ばないのだ。よくある話。


 震えながらも取っ手を引き、重い扉が開いた。中に踏み入り、扉が閉まる音を、カフネは背中で聞いた。壁に沿って並ぶ、大枠の窓ガラス。広間一体に赤いカーペットが敷き詰められていた。天井の五か所に大げさなシャンデリアがぶら下がっている。中央付近にソファとテーブルのようなものが窺える。ソファとテーブルの間、そこに人がいるのが見えた。


 ゆっくりとカフネは進んだ。震えは消えている。心臓の音も。さっきのは武者震いだったってことか。距離が近づくにつれて、ソファの前に立つ人の輪郭がはっきりしていく。女。長髪。チノパン。ブラウス。簡素な服装のせいか、服を着る本人まで素朴なように映る。彼女との距離が2、3メートルまで近づいたとき、カフネは足を止めた。


「ねえ、空は青い?」女は言った。


「寝ぼけてんの」

「私は真面目よ。あなたから見た空は青いかって聞いたんだけど、どう」

「太陽の青い光が散乱してるから青く見えるだけ。実際は透明」

「そっか。私は青いと思ってたんだけどなー」


 なんだこの女は、と思いながらもカフネは警戒を怠らなかった。ここが恐らく遊戯場。仮に遊戯場じゃなかったとしても、この大きさの部屋だ。数人は潜んでいてもおかしくはない。それにしても……。


「人の気配がしないって思ってるでしょ?」


 女に図星を指され、心臓が跳ねる。「なんか深い意味があると思ってそうな顔だね。残念だけどそのままの意味だわ。ここには私以外もう誰もいない」


「どういうこと?」カフネはたまらず口を開いた。「クローン人間を産むためだけに捕まっていた人たちは?」


「確かに三年前はいたわよ。無理やり連れてこられて、目隠しされて、訳も分からず妊娠させられた女性が何百人といた。あなたも知っての通り、妊娠以外の理由で連れてこられた人もいたしね」


 カフネの眉間に皴が寄る。内臓から溢れ出る分泌液が感じられる。堪えろ。「じゃあ、さっきまで外を走り回ってた黒い奴らは何なのよ」


「彼らは人間のクローン化の事業を牛耳っていた有識者たちね」


 カフネは言っていることの意図が汲みと入れず、押し黙った。確かに糞みたいな奴が多かった気もした。地下鉄で殺した奴も……。


「どうりでむかつく奴が多いはずだって顔したわね? わかりやすい子だねー。こんな世界じゃなかったらもっといい子に育ってたかも。いや、こんな世界だからかもね。あんたがいい子に育ったのは」


「さっきから何を言っているのかわからない」カフネは段々と苛立ち始めていた。


「わからないのならわからなくていいの。別に説明してあげる義理もないしね。説明したところであんたのやろうとしてることは変わらないでしょ? それとも何、この世界の説明を聞いてからじゃないと決心が揺らぐ?」


 ぎり、とカフネの歯が鳴る。「そんなに殺して欲しけりゃ……」短刀を逆手に持ち、走り出していた。勢いよくテーブルを飛び越え、テーブルの後ろで直立する女の首元めがけてナイフ振りぬく。彼女の首元から血飛沫が上がり、息の切れた女はソファに崩れるように腰を下ろす……はずだった。


「……いるじゃない」

「ええ。だって本当のこと言ってもつまらないでしょ。嘘ついた私が悪いなんて思わないでね。実際さっきの話の中で嘘だった部分は私以外に人がいない、ってところだけだもの。嘘を隠したければ事実の中に隠して真実に見立てないと。実際それが真実になっちゃうんだから不思議よねー」


 カフネは血の滲む脇腹を抱えながらその場に崩れた。カフネの短刀は女の首に届かなかった。カフネのすぐ横には黒ジャンパーが立っていた。


「こいつを殺せば……」


 火事場の馬鹿力かもしれない。カフネは短刀を握りなおし、立ち上がった。


「おーすごいすごい。刺されてもまだ戦えるなんて漫画の主人公みたいだね。格好いいじゃない。でもダメ。そんなに焦っちゃ」


 臨戦態勢を取っていたカフネの身体から、少しずつ力が抜けていく。振り返る。右。左。


 八方塞がりとはまさにこのこと。広間の壁に沿ってずらりと並ぶ黒影。


「冷静じゃなかったね。一人な訳がないじゃない。ちなみに全員私が産んだ子たちなの。みーんな私、長谷川彩也子の子ども」


 彩也子は両手を広げて見せた。私は成し遂げた、まるでそんなことを自慢げに見せつけるかのように。


「ぜん、いん……」

「そう! 人一人が一生涯に産める子どもの数を、私は遥かに凌駕したの! 私は普通じゃないの! 偉いのよ! そこら辺の人と一緒にしないでくれる!?」


 (はな)から一緒になんかしちゃいない。子どもを産んだから偉いわけでもない。本来子どもを産む行為は、もっと――カフネは脇腹に痛みを感じ、うずくまる。


 この彩也子という女はもしかしたら――。


 人が何かを嫌いになる瞬間とはどんな時か。理由はたくさん考えられる。忙しい時に自分を邪魔した物事なら何でも嫌いになれる気がする。人もそう。自分にとって都合の悪い人間はみんな嫌いという類に分類される。


 これはきっと同族嫌悪。パクリ、贋物、模造品、フェイク、偽物。己のアイデンティティを邪魔するも者への嫌悪感。誰だって自分が本物なのだ。


 彩也子――この女はきっと普通が嫌いだったはずだ。普通に生きること、そのつまらなさに心底羞恥を感じていたはずだ。まるで禁断の果実を食べたアダムとエバが、突然陰部を覆うかのように。その過去を消し去れるほどの何かをきっと彼女は……。


「もっと他にいろいろあるだろうに」


 壁に沿って並ぶ黒ジャンパーたち。ざっと百人はいるはずだ。段々と歩みを進めてきている。カフネの頭にリンチに遭う空想の少女が浮かんだ。ああ、可哀想、私、って? 


 情けない。一人ふたりならば殺せる自信があるが、この数はさすがに……と思ってしまっている自分がいる。本物の強者はここで怖気づいたりなどしない。私は本物ではない、それだけの事。


 偽物、フェイク、贋物――彩也子が本物でカフネが偽物。私はまだ、何もしていないというのに……。


「これが、負け……」


 彩也子が手を広げて高らかに笑っている。


 彩也子の仰いだ窓ガラスの先に黒い影が一つ見える。


 彩也子の広げた両腕から力が抜けていく。


 彩也子の表情がだんだんと枯れていく。眉間に皴が寄っていく。


「そんなところから助けようとしたって無駄よ。どうせ一人なんでしょ? 一人で何ができるっていうの」


 こいつは何を言っているのだ、とカフネは彩也子を見た。彩也子の視線の先を見る。窓ガラスの淵に誰かがいた。それを希望と取るか、現状は何も変わらないと取るか。彩也子の言う通りだ。彼一人で何ができるというのだ。


 バリン、と音が響く。黒い影が広間の地面に着地し、受け身を取って転がった。右肩に何か乗っている……。男はすたすたとカフネの元に近寄ってきた。


「……救世主にでもなったつもり?」

「馬鹿な。我に返ったんだよ。綺麗事ばかり並べてまで成し遂げることに何の意味があるのか……お前はもっと醜くて汚いだろう、ってな」

「その子、かわいいね」

「ああ、あんたのおかげだ」


 カフネの口元が緩む。


「君とは、もうちょっとお話したかったけどもう無理そうだね」

「ああ、ここが俺たちの墓場だ。自分の死に場所くらい自分で決める。死んだ後の世界のことなんて知らん。これが俺たち人間の真髄だろ。たとえ、最後の雄姿とすら呼べない醜い悪足搔きが、誰にも見られない、記憶に残らない、歴史の教科書に載らないとしてもな」


 音が聞こえ始めた。窓ガラスの揺れている音、シャンデリアが揺れている音、そして地鳴りのような音が響く。


「何をした! お前!」彩也子が叫ぶ。


「初対面の人間に何か頼む態度じゃねーな。あんた、もう一回赤ん坊からやり直した方がいいんじゃないか? いや、もっと前だな。前世、前世から徳を積んどかねえと、来世じゃどぶの水啜ることになんぞ」


 地鳴りの音は段々と大きくなっていく。


 この空間にいる誰もが狼狽えていた。ただ一人、一匹、呼人とコモレビだけが動じていなかった。


 天井が落ちる音。


 何かが崩れる音。


 おぼつかない足元。


 ビルが傾き始めているのがよくわかった。



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