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 街を歩いていた。雑踏と生活音が入り混じっている。でも、態々そんなことを感じたりしない。駅構内から街に出たとき、信号の音がするなあ、とか、足音がいっぱいする、車が走ってる音がする、なんて態々思ったりしないだろう。車が好きで、このアクセルふかす音が好きだなあ、ならまだわかる。この人の足音独特だなあ、もまだわかる。でも、雑踏が聞こえる、信号機の音が形式的になっている、なんて小説で描かれる描写か物好きな人間くらいで、普通の人間は思わない。


 勿論、彩也子(さやこ)も普段そんな叙事的なことを心の中で思い浮かべたりしない。


 でもあの日だけは、そう感じていた方がよかったのかもしれない。何の変哲もない雑踏が、不吉な足音に変わる瞬間。近づく足音が音階のように鳴っていたかと思えば不協和。彩也子とすれ違う青年。後ろから抜かしていったパンプスを履いた女性。急いでいるのだろうと背中が語っている。すれ違う人。すれ違う人。すれ違う人。普段なら見向きもしない。それが普通だ。街で人とすれ違うのなんて普通だ。普通過ぎて気にも留めなかった。前から歩いてきた男。普通に通り過ぎていくはずだった男。彼がきっと、彩也子の顔に黒い袋か何かを被せたのだと思う。


 視界を奪われ、不安が募る。口元は猿轡だろう。両手の自由がない。紐か何かで縛られた。手首をすり合わせ解こうとする。背中側で両手を縛られていたため、肩が外れそうだった。唯一、安心できるとしたら、聴覚が奪われていないことだった。


 きっと車に乗せられたのだと思う。彩也子は少しの間眠ってしまっていたようだ。


 右隣から下品な男の声が聞こえた。


 運転席か、助手席か、多分運転席。そこから「やめとけ」という声が聞こえた。


「やめとけってことは、やっちゃいけないわけではないんだよね?」


 右隣の声に返答する声はなかった。


 鼻息が生理的に受け付けなかった。耳元で聞こえたため、彩也子は顔を背けた。耳を引っ張られる。ねっとりとした何かが聴覚を台無しにした。っこれなら聴覚を奪ってくれてもいいと思える程、全身に怖気が走った。その怖気が増すように、増すようにと、右隣の男は思っているに違いない。彩也子の肌に触れ、彩也子が反射的に身体を飛びあがらせたのをいいことに、彼は彩也子の身体をまさぐった。


 幾分経って、怖気に慣れてしまったのか彩也子の身体は反応しなくなった。何かいろいろされた気がしたが、目で見ていないのでよくわからない。聞いてはいた。触覚も残っている。


 ただこの目ではっきりと見たわけではないという理由だけで、なかったことにしようとしてた。


 突然現れて、突然拘束して、身動きが取れなくて、何かを強要される。酷く不快だ。だから彩也子は、自ら望んで行為に及ぶようになった。「強要」という言葉の意味を変えるために。自らの手で、自らの身体を汚した。そうすることで自我を保っていたと言いたいところだが実は違う。


 彼女にも彼女なりの考えがあった。ふと見えた未来。どんな状況下でも目標を立てると小さな希望が芽生える。どうせこうなってしまったのだから、ある程度神がかり的な一か八かの手段を狙っても別にいいでしょう? 息子によく言われた言葉を思い出す。


「母さん、能天気過ぎない?」

「馬鹿ね、晴れたところにしか生き物は育たないのよ」



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