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「どうして撃った?」
呼人はボンネットに左手をつき、飛び越えた。未だ連なる車の渋滞はどこまで続いているのかわからない。白山通り――巣鴨付近にまで来ていた。
呼人の首の上に跨るコモレビは黙ったままであったが、しばらくして「呼人が撃たれると思ったから……」と、俯きがちに返答した。
「その優しさは、他人を痛めつけなければ消えない?」
「わかんない。夢中だったから」
「人を傷付けるのは容易いし、手っ取り早く物事の捻じれを解決できる。でも俺は……俺は、そうじゃない。他人を傷付けたところで残るのは虚しさだけ。優しい人は、家族が理由もなく殺されたらきっと復讐しようと思うかもしれない。でも、復讐し終わったら虚しさだけがこびりついて、自分を見失ってやがて自殺する。優しいから。本当は人を傷付けられるような人間じゃないから。コモレビが優しさから銃で撃ったんだとしたら、俺が嬉しいのはそこに至るまでの覚悟だけ」
やがて放置された車の渋滞は解消されていった。左手に都営地下鉄西巣鴨駅の出入り口が見えた。交差点を左に曲がり、少し行くと左手に大学らしき校門が窺えた。呼人は校門をくぐり、キャンパス内を歩く。一番奥にあった図書館らしき建造物の内部へと入った。入ってすぐ奥に見えたのは、三階相当の高さまである本棚だった。その前にある丸テーブルと丸椅子、そこに呼人は腰を下ろした。コモレビは呼人が座ったのと同時に、呼人の首から丸テーブルの上へと飛び移った。
コモレビの手にはグロックが握られていた。呼人はそれを眺める。
「捨てろ、とは俺も言えないんだ。使うな、とも」
「銃を?」
「武器を。自分を守るため最低限手にしておくことも重要だと思う。それがその人の意思であれば尚更だ。部外者の俺がとやかく言えることじゃない」
「じゃあどうしてさっき……」
「基本、俺は他人に興味がない。他人が優しかろうと汚い手口を使って人を騙していようと興味がない……」
そのとき物音がした。呼人はすぐに腰を浮かせ、身構える。音の方向は右上の方から。上階に人がいる――コモレビの話では、今の現代で生きているのはクローン人間やクローン人間を作る組織の人間たちぐらいだということだった。一部のニ、三十代の一般女性も生きてはいるようだが、クローン人間を生むためだけに利用されているということだった。恐らくどこかに隔離されている。ということは、一人だけ逃げ出して都内の大学に潜伏している確率は低い。隔離されている場所は、少なからず日本にもあるのだろう。そこがクローン人間生産プラント、組織の拠点だ。
かといって、今の音の正体が逃げ出した女性の立てた音ではないとは言い切れない。呼人はコモレビに視線を送る。コモレビはコクリと肯き、呼人の首の上に飛び乗った。呼人はひたひたと歩いた。思えば、三年間寝続けたあの部屋から出て来て以降、裸足のままだった。固いアスファルトの上を裸足で走るのは衝撃が大きいが、建物内を飛び回るには功を奏す。ましてや相手が単に施設から逃げてきた一般の女性なのか、それともクローン人間なのか定かではない。仮にクローン人間が呼人の前に現れたとして、呼人を敵とみなすだろうかという疑問も残る。確かにあの部屋から呼人は脱走したが、脱走したのだから捕まえて仕留めなくてはならない、という道理には必ずしも結びつかないだろう。「一般人の若造一人くらい放っておけ」偉い人にそう指示されている可能性もある。
そもそも、あの部屋にいた呼人を監視するAIロボットは呼人を追ってこなかった。「俺は何人も見てきた。お前みたいに逃げ出す若者たちを」とすら言い放った。今まで散々見逃がしてきたという意味なのか、今逃げたところで後で殺されることを確信しての言い草なのか、わからない。
だから、逃げるしかない。呼人は踵を浮かせたまま、ゆっくりと後ずさり、入口へと下がる。
――もし、脱走した若い女性だったら……。
そんなもの知ったことか、と架空の声がした。
助けを求めて逃げてきた女性を見捨てるの? いつか見たドラマのエキストラが嘆く。
自分の命ぐらい自分で守るべきだ、と非情な漢が野太い声を出す。
命からがら、ここまで逃げてくるだけでもどれだけ危険で、苦しかったか、男のあなたにはわからないわよ。逃げても友達はいない。家族もいない。電車も車もない。帰る実家は数百キロ向こう。逃げなければ苦しみが降り積もって山になるだけ――。
後ずさっていた呼人の足が止まる。すでに入り口の自動ドア付近に来ていた。一度下げた右足を、呼人は前に出した。途端、右頬に痺れが走った。「だめ!」コモレビだった。コモレビが頬をつねったようだ。考えている猶予は無くなった、と脳内ではっきりと警告灯が点滅した。呼人は身体を翻す――これでいい。もう二度と同じ轍は――。
「待ちなよ」
声は高かった。呼人はその声音を背中で聞いた。立ち止まっていた。声が高かったから? 現実から目を背け、逃げようとしたところを学校の先生に見つかり、後ろめたさを手にしたような心境だったから?
違う。身体を翻しはしたが、逃げようとは思っていなかった。電気の通っていない自動ドアを閉めた。コモレビの持っていたグロックから銃弾を二発抜き取り、ドアとレールの隙間に差し込んだ。
「俺はもう逃げない。正々堂々やろう」
「なあに、超やる気満々じゃん。あんた、今自分が置かれてる状況わかってる?」
「知らない」
「本当は言っちゃいけないんだけど、私優しいから教えてあげちゃう。あんたにね、今懸賞がかかってるのよ」
「金じゃないのか?」
「まあ、するどい。もうこの世で金なんてものは、もう無意味なのよ。あ、そっか。あんた三年もベッドの上で寝転んでたから知らないか。この世界の人口の八割は消えた。残っているのは、投資してきた契約上殺せない富豪や権力者、クローン人間だけ。クローン産むためだけに捕まえた女たちもそろそろがたが来ててね、本当なら使い捨てしても足りるくらいに女たちを捕まえたはずなんだけど、逃げる奴が多くてね。仕方なく殺しちゃったのよ。代役として十五歳過ぎたクローンたちが数か月後には割り当てられる予定だからまあいいんだけど。だから、この世で生きている純粋な人間はもう百人もいない。
あんたを捕まえれば懸賞としてあんたのクローンが手に入るの。自分の手下にできるって訳ね。連中は血眼になってあんたのこと探してるわよ。だから、連中が捕まえる前に私に早く捕まっちゃいなよって話」黒ジャンパーを着た女は、吹き抜けになっている二階の手すりに両肘をつき、手の甲に顎を乗せていた。
「俺は捕まらない」呼人は言い切った。
「別にあんたを殺しちゃいけない法律なんてものはないわ。連中にあんたが拘束されるぐらいなら、私はあんたを躊躇なく殺す」
「ご忠告ありがとう。あんたに殺されも捕まりもしない。当然、その黒ジャンパーの連中にも」
ちっ、と舌打ちが鳴る。女は手の甲から顎を離し、直立した。「舐めんなよ。私たち相手にハンデ背負いながらどこまで持つか、見物だわ」
直後、女が拳で手すりをつき、ガラスの手すり壁が割れた。一階にガラスの破片が降り注ぐ。割れたガラスの間を女は潜って飛んだ。とても人間の飛躍力とは呼べない飛距離だった。二十メートルは離れている呼人との距離を一気に縮め、呼人のすぐ目の前に迫っていた。呼人は入り口付近にあった長机を持ち上げ、蹴りを入れようとしていた彼女に投げつける。彼女はそれを手で制し、地面に着地する。すぐに逃げる呼人に迫った。脚力が異常に強い――呼人は悟る。彼女の素手での攻撃を左右の腕で防御しつつ交わす。「噂は本当だったのね。あんたが人に攻撃しないってのは」目の前でしゃべる彼女に息切れは感じられない。攻撃の速度も威力も何一つ変わらずに繰り出され続けていた。
「そろそろやばくなってきたんじゃない? 本当に逃げきれるか心配になってきたでしょ?」
呼人が下がっても下がっても間合いを詰めてくる彼女。呼人のすぐ後ろに二階への螺旋階段が近づいた。
「呼人! 後ろ!」コモレビが叫ぶ。言われるまでもなく、呼人も後ろに螺旋階段が近づいていることはわかっていた。
「へえ、なにその人形。喋れるのね」相変わらず女は拳を振るい続けていた。「ああ、どうりで……その子グロック持ってるじゃない。こんなかわいい子にそんな物騒なもの持たせちゃダメじゃない、呼人くん」
女は攻撃をやめ、距離を取った。離れたと同時に呼人は螺旋階段を駆け上がった。銃声が鳴る。女は銃を構え、発砲していた。ガラスでできた階段の手すり壁が割れる音が響く。一発、一発、と階段を駆け上がる呼人を追うように銃弾は放たれ、伴ってガラスの割れる音が鳴った。
図書館のカウンターを抜け、奥へと走る。直線で走るのは好ましくないが、どうやらまっすぐ進んだ先に三階に上がる階段があるようだった。通路の右側に本棚の列があり、左側がテーブルと椅子の置かれたスペースになっていた。ジグザグに走る。呼人の勘では女は呼人を殺そうとは思っていない。かといって殺されない理由もないがためにジグザグに走った。殺す気のない女から見れば滑稽に見えたことだろう。
階段を上り、三階にたどり着く。この階の本棚はL字に置かれているものが多く、入り組んでいた。本棚の高さもまちまちだった。L字で四角く囲われた本棚の隅に呼人は背を預けた。胸が大きく浮き沈みを繰り返していた。コモレビが心配そうな声音で「大丈夫?」と耳元で囁いた。
呼人は二階肯いた。息を整える。銃声が一発鳴った。音の位置的に二階から三階への階段付近で鳴った音だろう。「ねえねえ、ほんとに逃げられると思ってんの? そもそもこんな上の階に上ってきちゃってどうするつもり?」その通りだ。上の階に行けば行くほど追いつめられるばかり。女が階段付近を張っていれば降りることもできない。
呼人は大きく深呼吸する。俺に降りるつもりはない――入口のドアに銃弾を挟んだのがその覚悟の印。ではどうやって逃げ出すのか。呼人は俯いていた顔を上げる。目線の奥にはテーブル、椅子の置かれたベランダが見えた。
「まさか、ベランダから外に出て飛び降りるつもりじゃないわよね? あなたの身体はそんなに丈夫だったかしら」
ご名答。何処までも嫌味な女だ。だが、やはりベランダから降りるという筋道も呼人の構図にはなかった。
「ねえ、そろそろ捕まってくれないと連中が追い付いちゃうかもしれない。投降するなら早めの方が楽だよー」
いくらか胸の浮き沈みがおさまり、息も整ってきていた。呼人は本棚から背を離し、走り出す。銃声が鳴る。呼人の腕をかすめる――なんて早撃ちだ。L字で囲われた複数の隙間のうち、そのどこかに検討をつけ、エイムをおかなければできないほどの速さであった。
呼人の腕から血が滴る。「痛みはない」そんなはずはない。四階への階段を上る。左側に見えたコンサートホールで見かける重い扉。一目散に走り、駆け込んだ。