★始まりは
始まりは、一本の電話からだった。俺の左隣の席の女子、田波 優香が古典の授業中に呼ばれたのは。
「田波、すまんが廊下に出てくれ」
もうすぐお昼休みになる4限目を受けていた時に、体格の良い体育教師の担任が教室に入ってくるなり、急に田波を呼び出した。突然のことでざわつくクラスメート。田波もいきなりで驚いているのか、小さな戸惑いの声を漏らしていた。
「皆さん静かに。田波さん、行きなさい」
この時間の授業を担当している40代前半の古典の先生が、ざわついているクラスメートに注意をして田波が担任のもとに向かうよう促した。田波もその言葉に従って、席を立って担任の待つ廊下へ出て行く。
それから数分後。廊下に一番近い列の3番目の席にいる俺は、二人が何かを話しているのが窓から簡単に伺えた。話の内容はまったくもって聞こえなかったが。そして、担任から何かを聞いた田波が突然泣き始めた瞬間も当然見えた。
――どうしたのだろうか。
そんな疑問が当たり前に浮かんだが、それより授業が再開されていたのでそちらに集中しようと意識を切り替えた。
「“風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり超ゆらん”。では、続いてこの和歌の助動詞について確認をしていきましょう」
今回の授業で俺らは、かの有名な伊勢物語の筒井筒という段の助動詞について勉強しているところだ。しかし、俺は古文が苦手だ。昔の言葉と現代の言葉の意味が違い過ぎて覚えられない。定期的に行われる授業始めの小テストはなんとかクリアラインを保てているが、中間や期末テストになると勉強したとしても平均点以下しか取れない。だから今回もいつものように理解することを早々に放棄して、黒板の内容を機械のようにノートに写すだけ。
そうこうしている内に、最後の助動詞の説明に入ったとき、田波がようやく教室に戻ってきた。田波が教室に戻ってきたところで、古典の先生は一旦授業を止めて先週提出した宿題のプリントを返し始めようとした。
けれど、田波の一言でそれはお預けになった。
「先生、私帰ります」
田波は泣いたことが丸分かりな震える声でそう言うと、さっさと自分の席に戻って帰る支度を始めた。当然クラスメートは田波の言動に不審がるが、古典の先生は担任から事情を聴いたみたいで納得したのか頷いた。
「気を付けて帰りなさい」
田波の帰る支度が終わったところで、担任はそういうといきなり俺を巻き込んだ。
「松下、お前駅まで田波を送ってやれ」
は? と思った俺は抗議をしようとしたが、ちらりと盗み見た田波の状態を見て納得する。田波が何を聞いたのか皆目検討もつかないが、余程辛いことを言われたみたいだ。先ほどから泣きじゃくっていて足取りがあまり覚束ない。こんな状態を放置するほど俺は鬼ではない。だから、担任に言われたとおり駅まで送ることにした。