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Pダッシュ

作者: こふ

   Pダッシュ          


一.

『あーたらしいあさがきた、きぼうのあさが』

朝はラジオ体操の歌が頭に過る。

悪魔に魂を売ってもいい。一度でいいから、希望に満ちた朝とやらを感じてみたい。


二.

先週金曜日。勤務中、上司に呼び出された。

「丹田。先方に謝罪の連絡してねえだろ」

「はい」

「何で連絡をしない」

客の貨物が自社倉庫の不注意で破損した。中身はPCR検査用キットだったらしい。私の頭に浮かんだ科白はというと、「だから、何?」。事の重大さをいまいち理解できず、私は先方への謝罪をしなかった。

「謝るほどのことですか? 」

上司の怒鳴り声が静まりかえった事務所に響いた。

「ざけんなよてめえ。先方の貨物が倉庫のミスで破損したんだぞ? 」

「でしたら、倉庫が直接謝るべきかと」

「倉庫と先方の間に入ってるのが俺らだろうが。客と弁償の話をつけるのがお前の仕事だ」

「・・・・」

「初めて聞いたなんて顔をしてるな。丹田、お前、入社して何年目だ」

「はあ、五年目ですが」

「お前、なめてんのか」

「何をです」

「・・・・もう、いい。帰れよ」

パワハラモラハラが当たり前の上司への反骨精神ではない。帰れと言われたので、私は帰る。ロッカールームへ戻り着替えを済ませ、呆気にとられた上司の前を通り過ぎた。

「お疲れ様でした」


世の中は私に関係のないニュースで溢れている。それが自分の生死に関わることなら、普段流し読みのメールであっても真剣に読むことが出来るかもしれない。『横浜市内在住会社員、丹田晴彦 (二十六)、孤独死』という見出しの記事があったなら、私は幽霊になってでも読もうとするかもしれない。

人が死んだなんてニュースは日常茶飯事だ。「明日は我が身だ」と口では言うけど、死をそんなに身近に感じられるのだろうか。

ことに私は死どころか、生きている感覚さえ曖昧だ。

一応生きている。一応だ。一応心臓が動いているから、「生きてはいるらしい」と感じるだけだ。人生の目的などない。自分でも無為に生きていると思う。敢えて目的設定するならば、目的を見いだすのが目的だ。


趣味でもあれば、色彩欠いた日常も変わるかもしれない。

――掃除は、割と好きかもしれない。

実家は、下水道臭い川沿いにあるアパートだった。外壁のペンキは凄惨に剥げ、絡まる蔦に支配されていた。部屋の中に足の踏み場はなく、母が脱ぎ散らかした下着や、父が灰皿代わりに使用した発泡酒の空き缶が散乱していた。茶色い汁のこびりついた食器類。コバエが飛ぶ台所。実家には常に生臭さが漂っていた。

両親は反面教師だ。おかげで私は、独り暮らしを始めてからなるべく部屋を綺麗な状態に保っている。水回りは普段からこまめに磨き、出勤前は掃除機をかけ、アースジェットのボタンを押して部屋を出る。就寝前も掃除機を盛大にかけるので、隣室には毎夜壁を叩かれる。

掃除は日々の習慣だ。虫が寄り付いたり部屋が生ゴミ臭くなるのが嫌なだけだ。趣味とはいえない。

自問自答する。そもそも、私に趣味なんてあるのか?

小説も漫画も読まない。運動もしない。昔、少年野球クラブに入っていたが、ルールが分からず時計回りに走ってしまい監督に思い切りバットで背中を殴られたことがある。それがトラウマになっている。

恋人がいれば、日常も変わるのだろうか。二十六年間、異性と交際経験がない。恋するという感覚が分からない。夏の夜、クーラーの効いた部屋で寝るのは心地がよいので好きだ。恋はクーラーの効いた部屋で寝るのが好きな気持ちと同じなのだろうか。人を好きになったことがないので、よく分からない。

趣味がなく、恋人もおらず、友人もいない。とにもかくにも退屈な日常だ。惰性で通う会社と家の往来だけが、私の日常である。

時々思う。繰り返される日常に亀裂が入り、亀裂が異世界への入り口となったなら。日常を捨てた別世界で、新たな生を始められたなら――。私は、退屈で膿んだ日常を割く亀裂を求めている。しかし求めたところで何も起こらないことを知っている。


考えても栓のないことを考えて、最寄りの地下鉄駅に辿り着いた。これから会社へ向かう。

上司に「帰れよ」と言われそのまま事務所を後にした先週金曜日。のこのこ顔を出したら、何か言われるのだろうか。「やる気の無いお前なんかクビだよ」とか言われるだろうか。

――・・・・それでもいいか。

そう。それでもいい。会社をクビになり、ホームレスになって熱帯夜は蚊に悩まされ冬は寒さに凍えても、どうでもいい。

そのまま死んでもいい。社会が私の詰まらない命を消してくれる。「人生」とやらがどう転がっても文句は言わない。言う気力もない。言う相手もいない。

ホームへ降りていく人の肩が、階段の途中でぼんやり立ち尽くす私の肩にぶつかった。少しよろめいた体は、ふわふわ浮遊しているようで、自分の体ではないみたいだった。


三.

金属音けたたましく滑りこんできた電車は、どの車両も一杯だった。

何も入っていないカバンを胸に抱えて、車両に乗り入れた。乗車を諦めた数人をホームに残し、電車は進む。

押し合いへし合いの車内。背中にものすごい熱を感じる。後ろの誰かはホッカイロでも貼っているのか。右隣に立つOLのトートバッグには石でも入っているのだろうか。異様に固い。  

揺れる度、トートバッグに押され、左隣の制服姿の少女にも押され、私は二の腕と二の腕を窮屈なXに交差させなければならない。左手の甲を見詰めながら、小さく溜め息を吐いた。目的地の伊勢佐木長者町駅まで三駅、時間にして十分程、この変な体勢で我慢しなくてはならない。


蒔田駅到着。降りる者もなければ乗る者もいなかった。ぎゅうぎゅう詰めの人の壁に気圧されたのだろう。

隣のOLときたら、パンパンのトートバッグを前に抱えるでもなしにスマホに夢中になっている。私は相変わらず、窮屈なXの体勢のままである。

体は横へ前へと動く。動く度、ベルトが弛くなるくらい腹筋に力を入れ、何とか左の少女に触れないように努力するが、既に私の左腕は、少女の右肩にぴったりくっついてしまっている。

私は彼女に申し訳なさを感じていた。不可抗力とはいえ、とんでもない罪を犯しているような気分に陥っていた。私の頭ひとつ分背の低い彼女も、後ろから押されて窮屈そうである。肩を縮めて、ドアガラスに小さな両手を押し付けていた。


吉野町駅に着くと、反対側から何人か降りたようだが、依然としてぎゅうぎゅう詰めは変わらない。

「馬鹿でかバッグOL」がさっきから居心地悪そうに、膨れたバッグの位置を直そうと持ち手を掴み直している。彼女のバッグで押され、ついに私の右肩は顎の下にある。

こんな体勢ができるのかと、私は自分の肩の柔軟性に驚いていた。そう言えば私は、肩凝りに悩んだことはない。関節が柔軟だからか。それとも、頭が空っぽで目的のない人生であるが故に、余計なストレスで重荷を感じることがない為か。

後者だ。思わず「ふっ」と、鼻息を漏らして嗜虐的に笑った。


阪東橋駅で一斉に人が降りた。が、また一斉に入り込んだ。

私は今さらながら窮地に立たされていた。 

目的地の伊勢佐木長者町駅は、反対側のドアが開く。この変な柔軟体操の体勢から、どう出口に行けばいい。

外に出る自分を、シミュレートした。

先ずは身を半回転させる。伊勢佐木長者町駅でも何人か降りる筈だ。願わくは、後ろの「ホッカイロでも背中に貼ってるんじゃないか」疑惑の人が、降りてくれることだ。その流れに乗って「すいません、降ります」と言って後に続けば・・・・・・。


・・・・・・。


見間違いかと思い、一旦目を閉じた。今見たものを瞼の裏に呼び起こした。ほくろがそこにあったかと考えてみたが、私の左手の甲にほくろはない。

左手の甲に、あったもの――。小指くらいの長さで、楕円形。

とにかく、異様な黒さだった。昔父が煙草の灰をこぼし、焦がした畳の色と同じくらいの黒さだ。

心臓が激しく鳴る。舌の先が口蓋にへばりつく。落ち着け、本当に見間違いかもしれないだろ。

私は意を決し、再び手の甲を見た。



「Y」の枝分かれした部位は、髪の毛一本と同じくらいの細さだ。百八十度近く開かれている。閉じたり開いたりを悠長に繰り返している。

よくよく見ると、細かい斜線の模様が入った黒い背中には、薄い二枚の羽根が、着物の袖のように行儀よく閉じられている。

――コオロギ?

そうだ。コオロギだ。私は自分に言い聞かせた。

――でも、コオロギにしては・・・・。

灯りを反射し所々白い光を放つ背中は、平べったい。コオロギは確かもう少し丸みを帯びていた。

加えて、コオロギの後ろ足は太く、下肢の生え際はもう少し筋肉質で、直角に曲がっている。基本は地を這うが、危険を感じた際には、バッタと同じくらいの飛翔力を見せる。

それに比べて、左手の甲のこいつは――。

黒い背中から伸びる脚はヒジキのように細い。繊毛がびっしり生えている。尻に近い二本の下肢は長く、飛び跳ねるには頼りないか細さだった。地に這いつくばって蠢くのが主だから、飛翔能力は必要ないのだろうか。

六本足のおまけみたいに、尻から伸びた「八」の字の短い尾肢。尾肢の間の、突起物。この隆起の先端の空洞がぱっくり開き、卵を生むらしい。

頭から生えた長すぎる触覚は、ドアガラスに触れては止まり、止まってはまた何かを探るように動き出した。

間違いない。

就寝前に出会ってしまったら、鎮まっていた筈の交感神経を激しく揺さぶるのが、奴。開けた窓から外へ、「何とか出て行ってくれないか」と切に願わせるのが、奴。揉み上げから顔の輪郭に沿って、汗がつたった。

私は今、二度目の窮地に立たされている。


黒いこいつの名を出すのも憚れるので、ここでは仮にPと名付けよう。

Pは、私の左手の甲にいる。

――い・いつからだ?

地下鉄にたどり着く迄の道のりを逆回転し、アパートのドアを開けて部屋を出た時点まで、記憶を遡る。

――部屋を出てから、ゴミステーションに寄って・・・・。

今日は可燃ゴミの収集日。ゴミステーションの蓋は、溢れたゴミ袋に押し上げられて、ちょうど水路を解放した可動橋のようになっていた。

自分のゴミ袋をはみ出た袋の上にただ置くのは、なんとなくポリシーに反する。なので、一個一個外に出し、形・重さを見極め入れ直す作業をした。

日常の腐敗臭漂うゴミ袋。真っ黒に変色したバナナの皮がはみ出すゴミ袋や、これ見よがしにへたったコンドームが袋の結び目の縁についたものもあった。

まさか、ゴミ袋の入れ直し中に? 他人に関わるとやはり、ろくなことがない。ゴミ出しマナー皆無の他人のゴミ袋など、気にしなければ良かった。現に私の左手の甲の上には――。

Pが触覚を開閉している。


滑らかな動き故に、Pが生きとし生ける生物であり、そしてPは紛れもなくPであることを、手の甲が学んでいる。

最早、Pを乗っけた左手の甲が、私の体の一部とは思えない。

この手は、なんだ? 体から切り離され、宙ぶらりんになっているようだ。

悪寒。生理的な嫌忌。背中に感じていた「ホッカイロでも背中に貼ってるんじゃないか」疑惑の人の熱も、嘘のように冷めていく。

確か、安部公房だ。小説嫌いの私でさえも、『他人の顔』は面白く読めた。この本の中で、安部公房はPを目にした時の感覚を「心理的蕁麻疹」と表現していた。言い得て妙だ。実際、左手の甲は見えない湿疹で覆いつくされている。

――殺すか?

出来ない。まず、身動きが取れない。さっきから私は、柔軟体操の姿勢のまま、硬直しているのだ。

なんとか右手を使い、蚊を仕留めるように上から叩くとしよう。

Pの体液と臓物を見ることになる。

仮に、Pの黒い甲冑から発露する、PがPたる存在の所以の不浄さと、その不浄が人を悩まし恐怖させる暴力性を、Pダッシュと名付けよう。Pが死んでいても、Pダッシュが人に与える影響は計り知れない。死骸となったPのPダッシュは彼岸から、此岸に立つ者に向かい猛スピードでUターンしてくるからだ。

つまり、こういうことだ。Pの死骸を見つけたとしよう。その死骸を素手で掴めるか? ティッシュ一箱分使って死骸を掴もうとしても、Pダッシュはあの世から踵を返してこの世に戻り、何重にもなったティッシュを突き抜ける。Pダッシュは、日常の腐敗を漁るPの穢れを私たちに伝えるのだ。

私はだから、Pの死骸を掴むことが出来ない。出来るのは私の上司だ。事務所に迷いこんだPを、スリッパを履いた足で踏み潰し、「とったど~」と言いながら、拾い上げたPの死骸を女性社員に見せていた。女性社員は叫び声をあげ、咄嗟に上司の手を払いのけた。Pの死骸は上司のワイシャツの縁に降り立ち、上司は尚も落ち着いて「えっへへ」と愉しそうに笑っていた。五十過ぎの男がよくもあんなくだらないことが出来るものだ。同時に、なんて勇ましいことが出来るものだと、心では密かに感心していた。

私は絶対に触れたくない。生きたPにもPの死骸にも触れたくない。その贓物体液に触れることなど、もっての他である。


「馬鹿でかバッグOL」が、大きなくしゃみをした。

「ハ、ハクショッ」

女のくしゃみに驚いてか、Pが左手の甲を薬指に向かって、ゆっくり這い出した。全身の受容器官という受容器官の神経が集合しているかのような錯覚さえ覚える左手の甲で、一歩二歩と前進するPのヒジキ足先端の圧を感じていた。思わず、声をあげそうになった。

声を上げて助けを求めたい。叫び声を上げ、このPを思う存分に振り払ってしまえば、Pダッシュの脅威に怯えた精神も、硬直した体も楽になる筈だ。

しかし、この混雑した車内で、「ぎやあPだ」と叫んで暴れれば、どうなる。只でさえ殺気漂うこの満員電車で、大人の男がP一つに狂って暴れてみろ。

――迷惑だ・・・・。

私が慌てふためくことで、驚いたPが左隣の少女に移る可能性もある。少女を見てみろ。ガラスに息を吹き掛け、縮こまった指で「♪」と落書きなんかして、無邪気で可愛らしいではないか。彼女がこの満員電車で得た、束の間の精神の安寧を破壊するのか?


かくして――。

私は、Pダッシュの犠牲になることを選んだ。ちょっと英雄になった気分である。私一人が目的地までPダッシュの脅威に耐えていれば、少女含めた乗客の日常は日常のまま、壊されずに済むのだ。

Pは触覚を開閉するのを止めていた。Pにとっては安らげる場所なのか、左手の甲の上でふてぶてしく落ち着いている。

震える左の拳の中は、長い爪が刺さって痛かった。しかも、汗だらけである。こんなに手に汗をかいたことはない。

いや、あったかもしれない。手に汗を握った記憶がわたしにも・・・・。

 

記憶の中の私は、高校生だ。担任に頼まれて、白チョークを職員室から取って来いと言われた。

教室を出て真っ直ぐ廊下を突き進んでから、広い通路に出る。通路は、窓から射し込む午後の白い光で温められていた。

東側は白い壁。壁の反対側は窓だ。窓からは、黄金色の銀杏の葉一枚一枚が、陽に反射して輝いているのが見える。

――女の子がいる。

見たことのない、女の子。下級生。それとも、上級生? 同じ高校の生徒であるのには間違いがない。

その子は、華奢な足と足を交差させて、爪先で立っていた。ゆったりしたテンポで身を翻し、器用な爪先の動きで銀杏の木を振り返る。

片足を軸にして、くるり。そしてくるり。回りながら、通路の真ん中から私のいる通路の端までやって来た。両腕は大切なものを抱えるように閉じたり、胸の前で開いたり。回転する度に広がる紺色のプリーツスカートの裾は、空気を軽やかに撫でていた。

その子は、呆然と立ち尽くす私に気が付いて舞うのを止めた。私たちは視線を交差した。彼女の方が先に、赤らめた顔を気まずそうに下に向け、私の横を走り去っていった。

遠くなっていく足音を聞きながら、夢でもみていたのかとぼんやりしていた。固く閉じられた掌はしっとり湿っている。


私は暫し、目を閉じて記憶の余韻に浸っていた。

左手の甲には、不思議な感覚が走っている。Pが佇むことでさざ波たつ感覚に、あの白昼夢のような一時が加わったのである。

白昼夢を想起させたのが、皮肉にもPのPダッシュだと考えると、Pはただ者ではないと感じる。

親しみは決して湧かないが――。

何故だろう。不浄な生き物ではあるのに、この黒光りの甲冑に何処か清浄なものを感じる。神聖さ、というか・・・・・・。

Pが不浄か神聖かを確かめるべく、私は恐る恐る目を開けた――。




四.

――あれっ。

Pが居なくなっていた。

――飛んだ?

まさか、服の何処かに張り付いている? 

再び鳥肌がたった。


アナウンスが、伊勢佐木長者町駅に着いたことを告げた。「ホッカイロでも背中に貼ってるんじゃないか」疑惑の人の圧と熱が背中から剥がれた。はっとした私は足を小刻みに動かして時計回りし、ホームへ流れる波に乗って車外に出た。

急いで階段を駆け登り、改札口前のトイレに駆け込んだ。服を全部脱いで、Pが隠れていないか確かめた。靴下も靴の中も隈無く探したが見付けられなかった。


トイレを出た。改札口前に、左隣にいた少女がいた。詰まらなそうにスマホを眺める彼女を横目に、パスケースをカバンから取り出して改札を抜けようとした時、  

「おじさん」と、話し掛けられた。

――おじさん?

軽いショックを受けた私に、彼女が右手を伸ばしてきた。時計をしていない手首から、車内で微かに感じた甘い香水の匂いが漂った。

――顔を撫でられる? 

私は少女の顔立ちを視線でなぞっていた。 

切れ長の瞳。丸い鼻先が顔立ち全体を愛嬌のあるものに変えている。そばかすが散った頬。部活で焼けたのだろうか。テニスとか、水泳とか。褐色の肌が眩しい。

桃色の小さな唇から漏れた吐息が頬をかすめる。歯磨き粉の香り。ちょっとだけ、赤ちゃんのミルクの匂いが混じっている。

この子は、吐く息まで清潔だ。老いを知らない、若くて新鮮な体・・・・。

少女の手は私の顔を通り越し、左耳上辺りの髪の毛に触れた。床屋に何ヵ月も行っていないボサボサの髪の毛。短く切って整えておけばよかった。いやいっそ、坊主にしてしまえば良かった。そうすればもっと、彼女の指先を感じられた筈だ。

ふと、良からぬことを考えた。

――彼女の頬に、手を充ててみようか。そして、口唇を近づけてみようか・・・・。

もともとどうでもよい人生だ。捕まっても文句は言わない。彼女だって同意の上で、こんな媚態を示しているのではなか

ろうか。

このまま少女とずっと向き合っていたい。ほんの数秒間も永遠に感じられる。

 

私は悟った。そうか。この気持ちがいわゆる恋・・・・。






少女は人差し指と親指で摘まんだものを、私の顔の前に出した。

P。

少女はピンク色の爪先で、Pの尻の突起した所を押した。止まっていたY字の触覚が小さな機械音とともに開閉を始めた。六本の脚もぎこちなく動いた。

「これ、おもちゃなの。こいつに気付いてはいた、よね? 」

少女の口元に、悪戯好きそうな八重歯が覗く。

「どうなるかなって思ったの。ごめんちゃい」

そう言うと、少女はホームへ続く階段を降りて行った。振り返って、手をばいばいと振った。


――おもちゃ、か。

満員電車であれこれ無意味なことを考えていた。私は少女に遊ばれていただけだった。どっちがおもちゃだったんだか。溜息を吐いた。

改札前に立ち尽くす私を邪魔そうに人が避けていく。私は、くたびれたスーツ姿の男に続いて改札を抜け、駅の外に出た。

少女に対して、親の顔が見たい程怒っているとか呆れているとか、そういうのはない。

ただ、今後は、ヒジキを口にするのはためらうかもしれない。そして、見上げた空は澄んだ青で満ちていて、私はこんな空を見たことがなかったなと驚くだけ。 

                      (了)





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