表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

音のない世界のエース

作者: 藤田繁利

 なぜ夏に最も熱くなるスポーツを選んでしまったのか。


 時々自分を責めたくなることがある。けれども、後悔なんてした事は無い。

 全てを支配するような感覚。とてつもなく大きな、しかし指先で触れただけで崩れてしまいそうな張り詰めた緊張感。その先にある身震いするような興奮。


 その魅力は何物にも替え難い。


 球審から「プレイ!」のコールがかかる。古谷が打者に目線を送りながらサインを出す。

 最初は首を振ることもあったが、今はほとんどない。

 サインを見なくても分かる。ここは勝負所だ。

 それなら、選ぶボールは決まっている。後は最高の投球をするだけ。

 右足を上げて六足半先に踏み出した時、チームメイトがマウンドに集まって、空に向かって人差し指を立てているのが、ハッキリと、そうハッキリとこの時に見えてたんだ。





 コンサートホールに響くような蝉の合唱、その中を切り裂いていくボールの風切り音、少し芯を外れて不協和音を奏でる金属バット、「あー」という打者の溜息、「オーライオーライ!」と腕をグルグル回しながら落下点に入るチーム一小柄な三塁手の人一倍元気な声、その全てが聴こえていない。


 力のないファウルフライを捕って、三塁手が駆け寄ってくる。「まっつん!ナイスピッチ!」満面の笑顔で親指を立てて励ましてくれるのだが、親指を立てるのはダメという意味の手話に似てるから少し紛らわしい。

 前にそう話した事はあるのだが、全く気にしていないようだ。

 あの満面の笑顔でダメと言われているわけはないから困らないが、もし仮にダメと言っているのなら、彼は野球より演劇の才能があると思う。


 そんな事を薄らと考えていると、右肩をトントンと叩かれ、振り返ると「ヒデ。ツーアウトな。」と一塁手の主将が少しゆっくりとした口調で話し掛けてくれる。

 彼は本当に頼りになる。こういう気遣いも、当たり前のようにやってくれる。


 「トゥーアウトー!!」と、いつも通り外野手に向かって目いっぱいの大声で叫ぶ。中堅手の後輩が手を振って応えてくれる。良かった、ちゃんと届いた。


 振り向いたら信司シンジがいつものちょっと困ったような笑顔で待っている。すぐにマスクをつけ、鋭い眼差しになり、腰をおろす彼を見て平常心になる。





 産まれた時から耳が聴こえない。わけではない。

 父さんの低くて力強い声も、母さんの優しくて温かい声も、兄さんの不器用にボソッと喋る声も、ちゃんと覚えてる。

 あっ、でも兄さんは声変わりしてるからちゃんとじゃない。喋り方はあまり変わってないけど、今でも子供の声でアゴ髭をたくわえた兄さんが喋ってるように見えてしまうのは申し訳ないと思いつつ、たまに笑いそうになる。


 4つ上の兄さんは家ではゲームか勉強をしてて、あまり喋ってるのを見た事が無かった。外で友達と遊んでくる事はあったけど、一緒にというわけにもいかず、家で見る兄さんが全てだと思ってた。

 でも近所でやっていた少年野球チームの試合を観に行った時、マウンドで躍動する姿、ヒットを打って満面の笑顔で仲間の声援に応える姿、大声でチームを鼓舞する姿、あまりに家と違うカッコイイ兄さんを見て、朧気ながら初めて人を尊敬する感覚が芽生えた。


 あの兄さんが、あんなに楽しそうにやっている事をやってみたい。

 それが野球を始めたきっかけだった。

 「松川くんの弟が入るって!」

 あれから何度も試合や練習を観に行っていて、チームの人達ともすっかり顔馴染みだったから、皆が大きな期待も込めて歓迎してくれた。

 左利きだったこともあり、最初は外野手になったが、「秀伸くんも、お兄さんみたいな投手を目指して頑張ってね。」と監督にも言われていたし、何よりそういう兄さんの姿に憧れてチームに入ったから、当然自分でもそのつもりでいた。

 幸いな事に、両親も学生時代にスポーツをやっていたという環境と、遊びと言えば外で駆け回る事が大好きだったという性格もあり、それほど時間をかけずにチームに必要とされる選手になる事ができた。

 初めて試合に出た時は緊張して頭が真っ白になり、よく分からないまま三振したけど、慣れてきてからは毎試合のようにヒットを打って、学年が上がってからは本当に投手もやらせてもらえるようになった。その頃には、とにかく野球が出来る日は楽しみで仕方なかった。


 そして、少年野球チームに入って丸二年になる直前、桜の蕾がつき始めた時期。その日はまだ肌寒くて入念に準備体操をしていた。


―はずだった。


 気づいた時には、見た事ない部屋で仰向けになっていた。

 左手に何かが触れている事に気づいて、ぼんやりと視線を移すと、母さんがベッドの脇のあたりに顔を伏せている。

 寝てるのかな。

 すごい静かだった。けど、次の瞬間には母さんが顔を上げてこっちを見る。その顔を見て驚いた。

 泣いてたんだ。

 見た事ない顔をしている母さんが、ちょっと怖く感じた。何故泣いてるのかが分からない。


 戸惑っていると、視界の中に父さんか急に入ってきた。

 突然現れた父さんも、涙を流している。


 何が何だか分からない。


 そのうちにいきなり右肩をトントンと叩かれて驚き、その時の精一杯の速度で右側に顔を向けた。

 知らないオジサンとオバサン、少し若い女の人。

 お医者さんと看護婦さんの格好をしている。

 オジサンが口をパクパクして何かを言った。よく聞こえない。もう一度何かを言ったみたいだ。やっぱり何を言ったか分からない。なんで内緒話なの。


「もう1回言って」


 そう言ったはずだった。言えたかどうか分からない。声を出してるつもりなのに、自分の声が聞こえない。

 それを聞いてオジサンがノートを取り出し、パラパラと3ページくらいめくって見せてくる。


 「まつかわ ひでのぶ くん だね?」


 もう1ページめくる。


 「わたしの こえ きこえていますか?」


 そう書かれていた。


 「しゃべってないじゃん」と思いながら、オジサンの顔を見たら「えていますか?」の形に口が動いていた。


 わけがわからない。


 オジサンは話しかけてくるのをやめて、どこか違う方向に喋り始めた。父さんと母さんがいる方だ。

 話を聞きながらやっぱり泣いていた。母さんは顔を伏せたまま、父さんはこっちを見ているけど目が合うことは無く何かを言っている。


 かなり混乱していた頭が少しずつ落ち着いてきて、子供なりに状況を察した。


 「耳が聞こえなくなっちゃったのか」


 その時はすごくショックだった。

 ―という感じでもなかった。

 まず実感もあまり無かったし、耳が聞こえなくなるというのがどういう事かよく分かってもいなかった。だから涙も出なかった。

 父さんと母さんがすごく悲しんでいるから、きっとすごく悲しい事なんだとは思った。

 しばらくして兄さんが母さんの後ろの方に座っていた事にも気付いたけど、兄さんも泣いてなかった。でも寂しそうな顔は印象的だった。





 最後に少年野球チームの練習に参加したあの日、朝から少し頭が痛いとは思っていた。でも野球がしたかったから、誰にも言わなかったし、もっと風邪っぽくて調子の悪い日も練習に行った事があったから気にしてなかった。

 でもその日は、準備体操をしている途中に、急に倒れてしまった。

 すぐに救急車で運ばれて入院。どうやら何かの病気だったらしく、その影響で耳が聞こえなくなってしまったらしい。

 その後は入院と通院を繰り返しながら治療をして、その合間に宿題もするという地獄のような日々だった。いや、勉強は少し出来なくても周りが仕方ないと言ってくれたし、それに少し甘えてもいた。

 何よりも野球が出来ない事の方が辛かった。

 初めはお医者さんに止められていたし、少しずつ運動するようになってからも、以前のように出来ず、それも辛かった。

 ちょっとキャッチボールしただけで、頭がクラクラするし、山なりに投げてもマウンドからホームベースまで届かない。あんなに楽しかった野球は音と一緒にどこかに消えてしまった。

 変わらず普通に野球が出来ている皆が羨ましくて、つまらなくなって辞めてしまったけど、小学校の卒業式の直前、チームの皆が色紙を書いて渡してくれた事は本当に嬉しかった。

 「がんばれよ!」とか、「中学は一緒に野球部入ろう!」とか、「バイバーイ!」とか、今思えばみんな子供らしく無責任で、適当で、気遣いの欠片も無いことばかり書いてたけど、これがあったから今、野球が出来ていると心から思う。





 少年野球チームで一緒だった仲間のうち、三分の一くらいは同じ地元の中学に入った。


 「ヒデも野球部入るだろ?」

 入学して最初の昼休み、シンジがノートに書いた言葉を見せに来た。

 「もちろん。シンジもだよな?」

 オッケーマークを見せてから、またノートに書く。

 「野球以外にキョーミなし!でも、朝日リトルからはオレらだけっぽい。」

 その言葉に話に少し驚いた。

 「スグル達は野球やめんの?」

 「いや、あいつらはボーイズだって。」


 後の三人はボーイズリーグっていう、中学生の硬式野球チームに入るらしい。そんなものがある事すら知らなかったから、なんで教えてくれないのかと思ったけど、後から聞いた話では、そこは少年野球で全国大会に出たような選手達がプロ野球を目指す為の一歩として行くところらしい。

 実はうちの少年野球チームは、昔全国大会の常連で、最近では兄さんがいた時にも全国に勝ち進んでいる、地元では少し有名な強豪チームだった。

 同級生は全国大会に出られなかったはずだけど、卒業生が在籍してる硬式野球チームはちゃんと選手をチェックしていて、三人ともスカウトされて入っていた。

 羨ましいと思いつつも、自分がまた野球が出来ることにワクワクしていて、あまり深くは考えなかった。


 一週間後、思いもよらない事態に直面する。


 中学校の部活動には仮入部期間というのがあるらしく、一ヶ月間はお試しで色んな部の活動に参加できるそうだ。

 とはいえ、最初から野球以外に興味はなかったし、シンジも野球部に入ると決めていたから迷いはなかった。

 仮入部期間が始まってすぐに野球部の練習に参加しに行った。


 真新しい体操着に着替えて、グラウンドに埋め込んであるホームベース付近に一年生がぞろぞろと集まっているところへ加わる。

 左胸にマジックで大きく「鈴木」と書かれたユニフォームを着た上級生から、何やら指示が出たらしい。各々荷物の所に戻り、ガサゴソと何かを取り出している。

 すぐにシンジのところに駆け寄り、何があったのかを確認しようとしたが、シンジはノートに書き始めたところでグラウンドの方を慌てた様子で見ると、両手の平を見せて「ちょっと待って」と言い残して、さっきの鈴木さんの所に走っていった。

 少し話して二人でこっちに戻ってくる。

 近くに来てからも何かを話していた。

 すると、鈴木さんはどこか別の所に行ってしまった。その姿を目で追って見えなくなった時、シンジの方に向き直ると、もうノートに何か書いていた。


 「友達が 耳が聞こえないので」

 「ノートに書いて 説明してあげたいです」

 「って話したら 先生に聞いてくるって」


 そう書いて見せてくれたが、いまいち状況が掴めなかった。


 「先生に 何を聞きに行ったの?」

 「オレも よく分からない」


 「オレもしかして 野球部入れないのかな?」

 「野球初めてじゃないし 大丈夫だろ」


「一年生 キャッチボール始めたけど やったらダメかな?」

「とりあえず 待ってた方が いいと思う」


 そんな会話をしているうちに、鈴木さんとメガネの先生が来た。

 何かをシンジと話している。途中ちょっと慌てた様子で話して、それから少しずつ表情が曇っていくのが分かる。

 それに合わせるように、お腹の下の方がどんよりと重たくなっていく。


 少ししてシンジが「先生が話したいって」と書いて見せてきた。

 ノートとペンを受け取った先生は軽く会釈をして何か短く喋ったけど全然分からなかった。そのまま、結構な分量をノートに書いて見せてきた。


 「古谷君から話を聞きました。あなたは耳が聞こえないそうですね。野球部に入りたいと思ってくれたのはうれしいけど、あぶないので運動部に入れてあげる事はできません。ごめんなさい。美術部や書道部などの文化部なら入部できると思います。仮入部期間に色々と体験してみてくださいね。」


 運動部に入れてあげる事はできません。以降の部分はほとんど読んでなかった。今日初めて会った見ず知らずの人に、いきなり野球を奪われた気がして、生まれて初めての本当の怒りをこの時に感じた。

 あまりの怒りと悔しさに、シンジに対して「オレが野球出来るって言ってよ!」と怒鳴った。ちゃんと言えてたかどうか分からないけど、シンジはそれを汲み取って先生に話してくれているようだった。

 それでも先生は困り顔になってこちらをチラチラ見るだけ。

 小学生の時は野球をみんなと同じようにやっていた。それで友達もできた。たしかに耳は聞こえなくなったけど、危ないなんてことは無い。まだキャッチボールすらしてないのに、なんでそんな事を言われなくてはいけないのか。

 そんな事が、まるで大勢の自分が一斉に頭の中へコメントを書き込んでいるように駆け巡った。怒りなのか悲しみなのか、経験のない感情が押し寄せて混乱していた。


 その時、急に両肩を掴まれて左に体を向けられた。

 シンジが真剣な、というより少し怒気の混じった顔で語りかけてきた。

 「今日は、もう帰ろう」

 その表情を見て、自分は訳の分からない感情から開放された。

 そうして、改めてシンジを見てみると、ものすごく怒っていて近寄り難さを感じる程だった。足早にグラウンド脇に置いていた荷物に向かい、少し乱暴にまとめてその場を後にするシンジの行動を、ただ追うことしか出来なかった。


 帰り道でも、始めは話しにくい雰囲気になってしまったが、徐々にシンジも落ち着いて来たようで、ポケットに突っ込んでいた両手がでてきて、肩から掛けているエナメルバッグを触ったり行き場を失っているように見えた。


 「ごめん」


 その様子を少し後ろから見ていたら、何か話しかけなければと思ったけれど、その三文字以外は書けなかった。

 それを受けてシンジは少し考えていたけど、ようやくペンを走らせ「ヒデが悪い事を したわけじゃない」と言ってくれた。


 家に帰った時も、母さんが思いの外早い帰宅に少し驚いた表情で出てきたけど、何やらあった雰囲気を察したのか、どんな言葉をかけるべきか迷っているのが伝わってきた。

 それがなんとなく分かると、逆に申し訳なくなる。


 「おかえり。ご飯作るね。」


 結局そう話しかけてくれたけど、優しい言葉すら受け取れられる状態では無かったので、何か言ってくれたであろう事を察して力のない笑顔を返すのが精一杯だった。


 夜、ベッドに入って真っ暗になると、普段ほとんど聞こえない耳でも「シーン」という音がハッキリ聞こえる。

 しかし、その音が聞こえてくると、あまり思い出したくない事が蘇ってくる。そういう事が起こり始めたのは耳が聞こえなくなってから。病院で見た母さんの泣き顔が何度も過ぎってきたけど、今日は初めて、別の出来事が頭から離れなくなっている。

 名前もよく覚えてない先生が書いた「運動部には入れてあげる事はできません。」というノート。

 目を瞑るとあのノートが目の前にあって、また怒りや悲しみが込み上げてくる。

 とても眠れそうになかった。



 まだ少し夜は肌寒い。

 結局何回寝返りをしても落ち着かず、外に出る事にした。

 素振りをしようか、走ろうか迷った挙句、どちらもやる気になれず、特に目的もなく外を歩いている。

 こういう時に限って今夜は新月。月明かりがなくて、そこそこの都会の割には星がよく見える。


 30分くらいは歩いたはずだ。気付いたら河川敷まで来ていた。小学生の時は、いつも来るのが楽しみだった野球の練習をしていた場所。真っ暗で見えづらいけど、どこにグラウンドに降りる階段があって、どこにバックネットがあって、どこにスコアボードがあってというのは全てわかる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ