1-2 未知なる場所
-ここはどこだろう-
-ただ暗い、音は微かに聞こえるか…? 何よりこの感覚はなんだ?
男は意識を取り戻した後、奇妙な感覚を覚えていた。水の中にいるような、それでいて浮力が一切ない。
本当に何もない空間を漂うように、ふわふわとした綿に包まれた世界にいるようだった。
-だがこれでも不快感はない、むしろ快適そのものだ。それに何とか体も動くらしい-
光こそ見えないが腕や足の存在は感知できた。思うがままとも行かないがほんの少しばかりは動く。
体そのものまでも動きはしないが少しだけ身をよじることもでき感覚の奇妙さと裏腹に男の気持ちは安らいでいた。
そしてその分思考が深くなっていく。
-あの時倒れたのは何故か、おそらく俺は倒れたんだろう、主には体を壊したってのが一番ありえそうだな-
-しかしそうするとここにいる意味がわからない。仮に脳卒中とかなら間違いなく死んでいるはず-
男の推測には根拠があった。男の勤めていた職場では男が最後に帰宅するのが常となっており、最後に施錠を確認して帰宅してしまえばその後は夜が明けて誰かが来ない限り人の存在はなくなるものだった。
-だからここが病院で目覚めかけているというのはないだろう。それに病院なら点滴の1本もないのは変だ-
-死後の世界というのも話としては面白いが体感上はありえない気がするな-
-死後の世界だとしてもそこを管理する存在はいるはずだし、いないとしても自分と同じ境遇の人間が一人くらいはいるはずだ-
-と言っても声が出せず目も見えなきゃ接触は期待できないか-
考えるうちに状況的に他者との接触が非常に難しいことに気づかされる。コミュニケーションとしての手段がほぼ存在しないのだ。
目も耳もほぼ使えず、残るのはかろうじて動く気のする手と足、これでは相手の事を知るとか以前に何もできないだろう。
-それも他者が存在すれば、という仮定の下でだけどな。一応死後説は保留でもう少し仮定を疑ってみるか-
-あの時倒れたのは自分の体調に起因するのではなく、何かしらの事故だったとでもしてみるか-
-その場合、俺はあのフロアのなにがしかに閉じ込められて圧迫されているわけか…?-
途端に男の内心に焦りが生じる。焦っても手がほんの少し、ひっかくような動作をするばかり。それが余計に焦りを生む。
-もし閉じ込められてるなら相当にヤバイ。しかもここまで感覚が死んでるってもうすぐ召されちまう-
-だけど、まあ、手も動かない分どうしようもないか-
結局の問題はそこに行きつくのだった。自分に現状を変える手段が何一つもない以上ここで思索をめぐらすよりできることは他にない。
あきらめる以前に何もないのだ、それが男の選んだ選択だった。
-何もできないならとりあえず考え続けるだけでいいか。これから死ぬにしても痛みも何もないんだからいいもんだぜ-
死ぬまでかあるいは死神が迎えに来るのか、どちらにせよ時間は与えられている。2年ぶりに男に与えられた自由な時間でもあった。
映画のように、男は記憶を少しずつ掘り起こしていく。学んできたこと、出会った人、行ってきたこと。読んだ本も思い出すが細かいところはイメージができない。全体像は見えるものの細部が見えないもどかしさを感じていた。
-そこにきて、目が見えないのと手がほとんど動かないのは惜しいな。考えるときにはやっぱり紙とペンが欲しい-
-だけどそれでもいい暇つぶしにはなるな。振り返るだけでも勉強が面白いもんだと思えるよ-
2年ぶりに与えられた自由に充足感も感じ始めていた。かつて自分が触れてきた知識を振り返りその海で泳ぐ。溺れてしまうほどの思考が自分の中を駆け巡っていく。
-ここまで色々覚えてるなんてな。留年したときはしたときは死んだとばかり思ったが今となればいいもの、か-
-死んだのは今かもしれないがな-
ニヒルな笑みを浮かべたつもりになったが表情が動いたかどうかはわからない。ただそんなように表情筋を動かしてみる。
-今更ながらに笑えもしないのか。ん?-
口元に意識が集中したことで違和感が生じる。それは疑念へと変わり男に別の思考へと切り替えを促す。
-もし生きているとしたら何で腹が減らないんだ?-
-仕事中は飯抜きとはいえ帰ってから食うはずだったから、生きているなら腹が減らないのはおかしい-
-なるほど、これは死亡説と死後の世界説がほぼ確定か-
違和感から導かれていく結論に男は特段驚きもせず、ただ淡々と己の結論を受け入れる。
-とするとこの状態は何かしらの理由で死者を保存しているのか-
-理由こそわからないが自分の死でも自覚させるのか? あるいはいつかの映画みたいにエネルギーでも吸い取ってたりしてな-
脳裏に浮かぶのは赤子が繭に似た球体に閉じ込められて電力供給の部品となっていた世界の描像。しかしその考えを否定できないながらも男は穏やかだった。
-仮にエネルギー供給の部品でも不満はない。腹も減らず、何も見えはしないが考えることはできる-
完全に満たされているわかではない、それでも自分の思考を続けられることが唯一の楽しみとして与えらえることは男にとって幸せだった。
-しかしそうすると死後の世界ってのも物理法則に縛られてるのか-
得られた事実と思しきものからどんどんと仮想的な世界に関する考えが広がっていく。
-そうすると案外死後の世界は此岸の世界の延長みたいになってるのか-
-それなら何かの法則さえ見つけられれば行き来ができるかもしれな…-
思考はいつの間にか消えていた。
-…眠っていただけか-
急に思考がブラックアウトして暫く、男が意識を取り戻す。
2度目の死かと覚悟する間もなく眠りについていたため背筋に冷たいものを感じる。
-しかしこう、眠れるとまで来ると本格的に死後の世界も"現実的"らしいな-
少しずつ自分に起こることから事実を固めていく。この作業で男の中では「死後の世界」についてのイメージがかなり書き換わりつつあった。
-ただ眠りも必要となると本当に文字を書けないのが痛いな。どうしても何考えたなんて記憶だけじゃ無理がある-
その書き換わりは少しずつ現状に対する変化の要求に変わる。
-とはいえ考える以外に何もできないしな-
-こればかりは仕方ないし、思考のトレーニングとでも考えるか-
不自由ながらも余暇としての楽しむ。
そうして思考に没頭し、時には眠りつつ過ごすうち男は体に変化が訪れたことをしった。
-何か変だと思ったら少しばかり手や足が動くな。それに感覚も良くなっている-
初めてこの空間で意識を取り戻した時より鋭敏になった手足は男により多くの情報を男に伝える
-暖かい膜? やわらかいが簡単に破れそうにはないな。しかも弾力がある-
自分の周りが無限に広がる暗闇でないことに安堵が心を満たす。また手足の動きが良くなったことで
さらなる変化を男は得ていた。
-手足が動くなら体ごともっと動けないか?-
その予感は当たっていた。先に動かした時に当たった膜らしきものに足をかけゆっくりと蹴る。
反動が体躯を反対側に押しやる。そうして瞬きする程度の時間で背中に弾力を感じる。
-やはりここは繭のようなものか-
ずっと考えていたことが実証されたことに喜びが脳を駆け巡る。それがたとえ昏い環境であっても男にとってはどうでもよかった。
そしてまた疑問が生まれる。
-動ける程度まで手足が動かせるのは良いことだがどうしてそんなに時間がかかったんだ?-
-死後の世界でもリハビリが必要なのか?-
一つ何かを確かめればそこからまた疑問が生まれる。その疑問に仮説を立て機会があれば検証する。
この繰り返しの時間に間違いなく男は満たされていた。
-少しずつ分かっていく感覚、起きてさえいれば無限に思考できる時間と至れり尽くせりだな-
-ずっとこうして生きていたい。死んでいるのに生きたいってのも変な話だが-
だが男の願いとは裏腹に幸福に満ちた時間は長くは続かなかった。
-何だ、体が押されている?-
自分で体を動かす以上の力でどこかにやろうという力が加えられている。体の周りにある膜全体が男をどこかにやろうと脈動しているようだ。
-いやだ、俺はここにいたい!-
-この場所がいいんだ!-
必死に抵抗するも何ら意味をなさず、自分を包み守ってさえくれたように思えた空間が今は自分を排除しようとしている。
悲しささえ覚えるがそれを考える間もなく男は押し流されていく。
-もうここにはいられないらしい-
完全に諦めへと移った頃、突然それまでとはことなる衝撃が男に襲い掛かる。
痛みはない。それどころか今まで押し出そうとしていた動きが止まった。今までとは違う壁のようなものに当たったらしい。
-なんでかはわからんがこれはチャンス! しがみ付いてでもあの場所に戻るんだ!-
降ってわいた希望に全力で縋る。しかし男を動かしていたあの力もその程度でなくなりはしなかった。
少しずつ少しずつ男の体を壁に押し付けていく。
-なんだこれ! 体が潰れはしないがどんどん壁に追いやられていく-
-くそっ、これじゃ体を動かすとか以前に壁に密着する!-
どうにもならないほどに壁にくっついた男にさらに追い打ちとばかりに、今度は頭が壁を突き抜けた。
-…は? 壁を抜けた?-
-どうなってるんだ…-
そこからは大した時間もかからなかった。抵抗する時間もなく男の五体は壁を抜けていた。
-おいおい、本当になんなんだ。これじゃ戻るどころかどこに行くのかすらわからん-
-それに完全にここはあの場所とは違うみたいだ。若干苦しいぐらいだ-
男の体にはこれまでとは異なり全体的に圧が掛かっていた。触れているものは柔らかい分ましではあるがそれでもこの圧迫に耐えるのはつらいものがある。しかも少しずつ男の住処からは遠ざけられている。
-いつまで続くんだこれは… 抵抗しようにもこれじゃ何もできんぞ。せめて止まってくれ-
例によって動き続ける男の体は止まらない。ずんずんと進み続ける。
そして。
-なんだ!? 頭が冷たい?!-
さしたる抵抗も無いまま進み続けた男に降りかかったのは、経験したことのない感覚だった。
まずは頭、そして首から胴体へとその感覚は拡がっていく。
そうして足の先まで包まれたところで体が上に上る。
何が起きているのかはわからないがそれでも男にとって確実なことが一つ。
あの住処には戻れない、と。
-いやだ! 戻りたい! あの場所にいたい!
思いは喉を焦がすような絶叫となり体を、そして外界を震えさせる。
その声はまさしく「産声」であった。
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