(1)
茹るような暑さを迎えた街は、薄着の人を量産している。街頭では、熱中症予防をするようにと、市役所の車が、スピーカーで喋りながら走っていた。
熱波による、遠くのぼやけた風景。
砂埃が舞う公園。熱い車のボンネット。
猫は、冷たい場所を求めて、陰の間をゆっくりと歩いている。真夏というに相応しい数々の変化が、現実に置いてあった。
エアコンで冷んやりとしたカフェで、泰人は、友人の弘樹と、その彼女である美菜を待っていた。水着を買いに行く予定だからである。
待ち合わせ時間よりも早く来てしまった泰人は、その手持ち無沙汰から、スマートフォンのアプリゲームに夢中だった。アイスミルクティーを店員に頼むと、それを飲みながら30分ほどゲームを続けている。飲む度にストローの周りを氷が動いて、カランと音がしているが、イヤホンをしている泰人には伝わらない。
アイスミルクティーが無くなった所で、泰人は、ゲーム画面の右上にある時計を見た。14時15分を示していて、待ち合わせ時間の14時から、15分過ぎた事を表している。
泰人は、おかしいと思った。弘樹が、時間に遅れる事は、友人になってからの五年間で、一度も無かったからだ。ましてや、水着を買いに行こう、と誘ったのは弘樹である。呼び出しておいて、何の音沙汰も無いのは弘樹らしく無い。
顎に手をやり、泰人は、そう心を動かしながら、自分のテーブルに一番近いカフェの柱を見た。イヤホンを外すと、数秒間、エアコンの風を聞く。
急にアプリゲーム画面を終了した泰人は、メッセージアプリを確認した。何も新しい連絡は無かった。
メールも確認する。其方にも、連絡は無い。
着信の確認もした。何も無く、一昨日に喋った女性の名前が、一番上に表示されているだけだった。
もう一度、泰人は柱を見たが、こちら側から連絡してみるかと、アイスミルクティー分の代金を支払って店外に出ることにした。何処かに移動する事になるだろう、とも考えたからである。
カウンターで金銭を支払うと、馴れ馴れしい店員の声を背に受けて、泰人は、店の外に出た。友人の友人のバイト先とは、面倒な話だったから、そこそこに話を切り上げたのだった。
青空の下、直射日光が、冷えた身体にジリジリしてきている。店外の熱気を帯びた空気が、身体に纏わり着いた。
「暑い」
小声で、ぼそっと泰人は言う。そして、カフェの出入り口から離れた。
邪魔にならない場所を確保すると、電話帳アプリから弘樹の名前をタップし、電話をかける。あの音が繰り返すと、途中から留守電に切り替わった。その声が終わると、伝言を残してから電話を切った。
泰人は、首を傾げた。物事の前後を考えると、少しおかしく思う。だが、たまたまかもしれない。手が離せない時という、間の悪い形になったのだろうと、気持ちを切り替えた。
今度は、美菜へと電話をかける。同じように音が繰り返すと、此方側は電話に出た。
「もしもし、やっくん・・・」
一瞬の間から、声がする。
美菜は、泰人への呼び名を口にすると、そこで声を詰まらせた。涙交じりの声色が耳に残る。
何か問題が起こったのだと、泰人は把握した。その顔にも変化が出ていたようで、目の前を通り過ぎていく日傘の女性が、チラッと泰人の方を見てから通り過ぎて行く。
周りの様子など気にしない泰人は、全く事の内容が想像できなかった。美菜が泣いていた、という形があるだけだからだ。
だが、いつもと違うという形は、現実に置かれている。電話を掛ける前の、ちょっとだけ何か文句を言おう、と思っていた気持ちは、美菜の反応で消えた。
「もしもし、美菜ちゃん。何かあった?今日は、弘樹から、水着買いに行くって聞いてたんだけど」
泰人は、努めて普段通りに、それを美菜に話した。何も分からない泰人には、それしか出来なかった。
美菜は「うん、うん」と、声を出しながら聞いている。泰人の言葉が終わると、美菜は、一呼吸おいてから答えた。
「やっくん。弘樹な、死んじゃったんよ」
西のイントネーションが、素の状態で美菜に現れていた。それが、情報の信憑性を数段上に上げている。
美菜は、余程の事が無い限り、西のイントネーションは使わない。中学生の頃に、いじめられたからという理由を、泰人は知っていた。所謂、トラウマだ。
その美菜が、普段の装いを全く出来ないのである。そんな美菜の状態に、泰人は、それが現実であると突き付けられていた。
指先、足先から、友人の死を伝え分かり始め、全身の力が抜けて行く感覚に落ちる。話の又聞きに対して、強がる事が出来なかった。
「どうなっているの?弘樹は、何処に居るの?」
おかしな質問だった。しかし、二人には納得のいく質問である。
「弘樹のお母さんから電話あって、アパートで亡くなってたって。私も、事情聴取されたんやけど、特に何も無いってなって、さっき帰って来たんよ」
東西が混ぜ合わさった美菜の話を聞きながら、泰人は、弘樹の両親に連絡を取る事が一番だ、と頭に浮かんだ。事情聴取という単語が、その横を並走する。
「うん、そうか。分かった。僕も、弘樹のお母さんに連絡を取ってみるよ。後、どうしようも無くなったら、いつでも連絡して良いし、呼び出してくれて良いからね」
「うん、ありがとう・・・」
その美菜の声色は、今までの状況が怒涛の勢いでやって来た、という事が、よく伝わる物だった。言いながら、空気が抜けていくのが分かったのだろう。大きな息の音が、泰人の耳に入って来た。
泰人自身も余裕がある訳では無いが、誰かが、しゃんとしていることで繋がる物もある。弘樹の死後、負担が大きかったのは、美菜の方であるから、しゃんとするべきは泰人の方なのだろう。
「夜が怖いから、後で、連絡するかもしれない」
何かを吐き終わった美菜が言った。吐いた分、何かが入ってきたから言える言葉だった。
どんな状態で居るのだろう、と泰人は思うが、想像ができない。当たり障りの無い言葉を選んだ。
「そっか。それなら、弘樹のお母さんに連絡取ってから色々と連絡回したら、結奈とか誘って、美菜ちゃん家に行くよ。何か欲しい物ある?」
「林檎ジュース。あっ、部屋の片付けしてない。少し恥ずかしいかも」
努めて平静を装い始めた二人は、言葉を置きに行く事で、自分達の時間に、普段のリズムを取り戻そうとしていた。違う事は明らかなのだが、バランスを取ろうとする事は、誰にでもある物だ。
「それは、大丈夫だよ。何もしなくて良いから。水分取って、エアコン付けて、涼しい部屋に居るんだよ。なるべく、早く行くから」
「うん、わかった。ありがとう」
電話の終わり際にある言葉を、一言、二言繋ぐと、泰人は、美菜に電話を切らせた。何故、そうしたのかは分からない。暑いのか、寒いのかですら、分からなくなったからだろう。
スマートフォンを手に持ったまま、泰人は、その場から動けなかった。体からは汗が引いて、真夏の太陽が、無敵では無いことが分かる。だが、直ぐに、こめかみを流れる汗に気づいて、泰人はそれを手で拭った。いつもの街音が耳に入ってくる。
止まっていた時間は3秒ほどだったが、泰人には、3時間以上に感じられて、スマートフォンを動かす手は速さを求めた。電話帳アプリを見ながら、弘樹の母親を探す。
「あった」と、声にならない独り言を、泰人は呟いた。画面を確認し、スクロールを止める。
以前、弘樹が母親へと、スマートフォンを買ってあげている所に泰人が出くわし、交換した番号である。今でも繋がるはずだ。余程のことがない限り、年配の人で、携帯の電話番号を変える人は少ない。
合わせて、大学生と不倫云々の冗談話を、三人でした事を、泰人は思い出した。「薄毛でも、父親を大切にしろよ」と言っていた弘樹が、強く印象に残っていたのだ。
死に際の人は、走馬灯を見ると言われているが、生きている側の人間にも言える話だろう。思い出話みたいになっているが、あれは、全く違う物だ。何か、名前があるのかもしれない。
映像を搔き消すと、泰人は、「前田母」となっている画面をタップし、その番号へと電話をする。捕まえるリズム音がすると、呼び出し音が聞こえてきた。その音が、8回繰り返しても、弘樹の母親は出ない。留守電の設定をしていないのか、呼び出し音が鳴り続けるだけである。
泰人が、諦めようとした時、漸く、弘樹の母親が出た。溜め息から始まった電話が、泰人の背に重く乗る。
「もしもし、弘樹のお母さん。あの、美菜さんから聞いたのですが・・・」
そこまでで泰人が話を切ると、弘樹の母親は、「助かったぁ」と一言放った。一息つける、という声色である。
泰人は、少々、困惑した。息子が亡くなった母親の反応としては、おかしな形だったからだ。
「あのう・・」と泰人が続けようとすると、弘樹の母親は喋り出した。
「泰人君、助かった。今は、警察署なんだけどね。アパートの大家さんが怒鳴り込んできて、悲しむ暇も無かったのよ。旦那に任せて、今は、逃げて来れたの」
泰人は、状況を把握できたからか、少し安心して聞いた。そういうことも、あるのだろうと思う。
「それは、大変でしたね。あの、それで、弘樹は?」
「泰人君には、言っておこうと思うね。・・・弘樹はね、自殺だったのよ。仕事も恋愛も、上手くやっていると思ってたのに。心のどこかで、何か溜めていたのかね。言ってくれれば良いのに」
さっきとは違う声色で、弘樹の母親は話した。本当は、ゆっくりと悲しみたいのだろうが、今は生きている人間が、それを許さないのである。
泰人は、少し不憫な気持ちになりながら、友人達に連絡を回しても良いのか、死因の説明をしても良いのか、通夜と葬式は決まっているのかを聞いた。通夜と葬式は決まっておらず、連絡は回しても構わないが、死因は隠しておいて欲しいとの、弘樹の母親の返事を受け取った。
「仲の良かった子には、知っておいて欲しいけどね。話しても良いって人選は、泰人君にお任せします。良く人を見ているって、弘樹も話してたから」
会話の終わりに、弘樹の母親は、そう付け加えた。泰人は、友人に原因を聞かれたら病気だったと伝える、という事を話した。人選は、まだ決めれないからと、理由も添えた。他にも、通夜と葬式の連絡があれば、友人関係に連絡を回すのは任せて欲しいと話をした。
弘樹の母親は、「ありがとう」と少し涙声になっている。話をしているうちに、受け入れなければならない物が、目の前にあることに気がついたのだろう。そうやって、自覚していく事がある。人の死などは、特に、そうなってしまう物だ。
「何か、お手伝いが出来ることがあれば、遠慮なく言って下さい。連絡を待っていますから、気を詰め過ぎないで下さいね」
泰人は、精一杯の言葉を言ってみたが、それが、意味の無いことだとも思った。現実が変わることは無い。状態を緩和しているのでも無い。現実をなぞっているだけである。
それは、仕方がないことだった。どうしようもない話である。だから、似たような場面には、似たような言葉しかないのだ。
形式的な物しか存在しない理由は、形式的な物をやり取りするだけで、その後の不具合を出さない為でもある。余計な物を置くことが無いように、最初から会話を決めているのだ。繰り返される生死から導きだされてきた、古き正解でもある。
弘樹の母親は、「ありがとう」を二回繰り返して、終わり言葉を付け加えて電話を切った。泰人には、それが悲しみを振り解くゴングのように感じ、電話が切れた後の音を、5回ほど、力無く立って聞いていた。戻るまでに時間がかかったのは、泰人とっても、今回の事柄が初めての事だからである。
また汗を拭った後、泰人は、結奈に電話をかけた。この後の予定を考えれば、喋っておくべきだからである。連絡を回すのは、移動しながらでも出来る。メッセージアプリで、グループの所に書いておけば、一回で済む話だ。後から来るメッセージにも、一回の返答で済む。その便利さは、余裕が無い時に上手く使った方が良い。
「はいはい。泰人、どうした?」
電話に出た結奈の声は、いつも通りだった。何か、楽しいことが来たような、チューリップみたいな明るさがある。
泰人は、どう切り出して良いか、決めてから電話をしたのだが、一瞬で真っ白になった。「実さ・・・」と、声に出して話し始めたが、なかなか、口を通り過ぎない言葉がある。そこで声が止まってしまうのだ。
「あれ?もしかして、罰ゲームか、何かかな。私、これでも、やることがあるんだけど」
電話越しで黙ってしまった泰人に、結奈は、いつものように催促した。大抵、結奈の「やることがある」には、全く中身が無い。息を吸って吐くことが、やることに含まれているのかと、問いたくなるくらいである。
泰人は、結奈の言葉の後に「あのさ・・」と、声を絞り出すと、漸く言えそうな気がしてきた。アクセルを踏み込んで、藪の中を通り抜けようとする。
「弘樹が、亡くなった。この後、時間、あるかな?美菜ちゃんの所へ、行って欲しいんだけど」
しっかり言えたのだが、泰人は、現実が背中に乗っている感覚を、自分で自分に、更に強く乗せたみたいで嫌な気分になった。今が最重量で、これから、どんどん軽くなっていくのだと、頭の何処かで推測できるからでもある。
「はぁっ?本当に?・・・直ぐに、美菜の所へ行く。先に、辿り着いちゃって良いんでしょ?」
「うん、そうして欲しい。あっ、林檎ジュースを欲しがっていたから、出来れば買って行ってくれ。僕は、街中に居るから、移動しなきゃならない。何か、他にも欲しい物があれば、メッセージを入れといて」
「分かった。じゃあ、後で」
他の話は聞かずに、やって欲しいことだけを聞いて、結奈は電話を切った。短い会話だった。単純といえば単純だが、必要な単純さである。
パンの上にバターを塗って、苺ジャムを塗り、マーマレードまで塗ってくる人よりは、まともな人間であることは間違いないだろう。現代人の大半は、マーマレードまで塗ろうとする人が多い。一周回って、面倒な話である。
泰人は、電話が終わると、駅へと歩き始めた。遠くの靄を、たまに見ながら、邪魔な日傘を避けて、足早に移動する。心の中は無音状態で、行動以外、頭の中には無かった。一人も居ない状態は、この行動の記憶を、頭の中のメモリーに記録しないことを示している。そのまま、体に染み付いた行動を取り、すんなりと電車に乗った。席に座ると、メッセージアプリを開く。
ー弘樹が、病気で亡くなりました。弘樹の家族と連絡が取れ、確認済みです。弘樹の家族は、大変そうでしたから、個々人で連絡するのは止めてください。通夜と葬式の日取りは、追って連絡します。
それだけ、打ち込んで流した。そして、泰人は、スマートフォンをズボンに入れる。直ぐにバイブが鳴り、ポケットの中は騒がしかったが、泰人は窓から外を見るだけで、特に何も対処はしなかった。




