プロローグ
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夜景の見える素敵なレストランで迎える26歳の誕生日は、きっと忘れられない日になるはずだった。
美味しい料理に、高級なワイン、目の前には大好きな恋人。テーブルの上に置かれた本日のメインディッシュを食べ終われば、お次はろうそくの乗った誕生日ケーキが運ばれてきて。そして、1か月前に事前に一緒に選びに行った一粒ダイヤの指輪を渡される、そう思っていたのに…………。
恋人の一言で、幸せな時間はあっという間に崩れてしまった。
『ごめん。ずっと黙っていたけど、実は、俺には小さい頃から許嫁がいるんだ。だから、結婚のことだけど…………』
この現代日本においてまさかそんな単語を聞くとは思わなかった。飲んでいたワインを思わず吹き出しそうになったじゃないか。自由恋愛がほとんどのこの時代において【許嫁】とは、さすが大企業のお坊ちゃまは違う。
私こと笹本杏奈が、佐波亮介と付き合い始めたのは高校1年の夏だった。かれこれもう10年は経つだろうか。出席番号が近く、隣同士になった席で話が弾んで意気投合。亮介から告白をされてお付き合いスタートである。
付き合ってしばらくしてから、亮介が大企業の御曹司であることを知った。本当は【佐波】という彼の苗字ですぐに気が付けば良かったのだけれど、あのときの亮介は母方の祖父母の家に住んでいたし、大企業の御曹司的な雰囲気が彼にはいっさいなかった。
どこにでもいる平凡な男の子。とりわけ目立つわけでもなく、周囲にうまく溶け込み、むしろその存在は薄かった。見た目も学力も秀でているわけでもなく他の男子とそう変わらない。だから、クラスメイトのほとんどが亮介の正体を知らなかった。
でも、あとから思えばきっとあのときの亮介は周りとうまく溶け込むためにだいぶ自分を偽っていたのだと思う。
あの亮介が大企業・佐波コーポレーションの跡取りだと知ったときはすごく驚いた。けれど、だからといって私も亮介も特に変わらなかった。
放課後はファストフード店でお喋りをして、休日デートでは映画を観たり、カラオケに行ったり、ボウリングに行ったり、どこにでもいる普通の高校生カップルをしていた。
高校を卒業すると亮介は日本のトップ大学へと進学した。普通だと思っていた学力はどうやら本当の力を出してはいなかったようで、実はそうとう頭が良かったらしい。亮介はそれをずっと隠してわざと成績を下げていた。
普通よりもやや下の成績だった私は地元の短大に進学後、地元の会社へ就職。平凡一直線の人生を歩んで今に至っている。
亮介はというと、大学を卒業後、院へと進み、留学もして、今は祖父が会長、父親が社長を務める会社に入り、ゆくゆくは父親の跡を継ぎ社長となるべく努力を続けていた。
おしゃれなブランド物の高級スーツを着こなす亮介には、高校時代の面影はあまり残っていなくて、背もぐんと伸びたし、体付きもたくましくなった。顔付きも凛々しくなって、すっかり大人の男になっていた。
経済誌や女性誌、たまにテレビでも【イケメン敏腕社長候補】なんて取り上げられるようになっていたし、隣に並んで街を歩けば女性たちの熱い視線が亮介に注がれていることがすぐに分かった。
見た目平凡、何の取り柄もない普通のOLの私と、大企業の未来の社長である亮介。
そんな違和感ありありなカップルの私たちだけれど、高校時代からの付き合いはずっと続いていた。今は住んでいる県が違くなってしまったので電車で二時間ほどの距離の遠距離ではあるけれど、大きなケンカや別れの危機は一度もなく、付き合って今年でちょうど10年目。亮介から、そろそろ結婚を考えていると言われたときは飛び跳ねるほど嬉しかった。
私の好きな指輪を贈りたいから、と一緒に婚約指輪を選びに行って、1か月後の出来上がった頃に亮介が一人でそれを受け取りに行った。
そうして迎えた私の誕生日。
素敵なレストランを貸切にしてくれて、今日こそついにプロポーズがあると期待していたのに。それなのにあの言葉。
『許嫁がいるんだ』
ホントにもう最悪だ。
「つまり、私とは結婚できないってこと?」
私はワイングラスを静かにテーブルに置くと、目の前に座る亮介を見つめる。彼は、口を閉じたまま何かを考えているような難しい表情を浮かべているだけで、何も答えてはくれない。
もう10年の付き合いになる。亮介の今の顔を見れば、これから彼が私に何を告げようとしているかぐらい聞かなくても分かってしまう。
「はぁ…。もういいよ」
亮介の沈黙に耐えられなくて、私は思わず深いため息がこぼれた。そして静かに席を立つ。
「ちょ…杏奈、待てって」
すると、さっきまで難しい顔で固まっていた亮介が慌てたような声を出す。
「話はまだあるんだ。最後まで聞いて。頼むから、座って」
「いい。分かってるから」
「分かってるって何がだよ?」
「……どうせフラれるんでしょ、私……。許嫁がいるから。だから、私とは結婚できない。ああ、本当に最悪な誕生日。一生忘れられない日になりそう」
「待てって。俺はまだ何も言って…」
「言わなくてもいい!続きなんて分かるわよ!……じゃあね」
少しでも早くこの場を立ち去りたかった。
「待てって、杏奈!」
佐波家御用達という高級レストランに、いつもは冷静な亮介の大きな声が響く。それを背中で聞きながら、歩く足を止めずに私はレストランを後にした。すぐに亮介が追いかけてきたけれど、私はタクシーへと乗り込み駅へと急ぐ。タイミングよくホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、自宅アパートへと戻った。
それからはもう涙、涙、涙――――というわけでもなかった。
10年も付き合った亮介からついにプロポーズを受けると浮かれてはいたけれど、でも冷静な自分もいたりして。大企業の御曹司の亮介と平凡なOLの私では釣り合うはずがない、とどこかではずっと思っていた。
親や友達にも、私たちには差があり過ぎる、とよく言われていたし。それでも一緒にいると楽しくて幸せだったから付き合いを続けてはいたけれど、きっとこうなる日が来ることを私はどこかで予想していたのかもしれない。そして、その日が今日きただけのこと。
でも、だからといって悲しくないわけではない。
亮介とは10年も付き合ってきたのだ。隣にいるのが当たり前、連絡を取らない日なんてなかった。けれどもうそれも終わり。明日から、私の隣には亮介がいない。そう実感したら、やっぱり涙がこみ上げてきた。
その後も涼介から何度か電話がかかってきたけれど出なかった。メールも何通も送られてきたけれど見なかった。
亮介のばかやろう。
許嫁がいるならそもそも私となんて付き合うなよ。
しかも10年も。
結婚を考えているなんて言うな。
一緒に婚約指輪を選びに行くな。
やっとプロポーズをしてもらえると思ったのに。
忘れられない誕生日になるはずだったのに。
どうして今になってあんなことを言うのだろう……。
10年という月日は長い。
私は、亮介のことを忘れられるだろうか。
『恋の傷は、新しい恋で癒せばいいよ』
とは、失恋したときのお決まりの励まし言葉である。
けれど、私はしばらくはもう恋愛はしたくない――――
―――――そう、思っていたはずだった。
しかし、私の次の恋はすぐにやって来た。
自分でもビックリだけれど、相手は二次元の人物である。
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