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嵐は夜に  作者: あおい
03
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03-3


 龍壱は振動を感じていた。ゆっくりと目を開けると、そこが車内である事が分かった。


「あっ」と叫んで飛び起きる。


「もう夜じゃねーか!」


 窓の外は真っ暗で、周囲がとにかく暗い。建物や外灯が全く無いようだ。前方を照らすのはこの車のヘッドライトだけ。前方だけをふたつのライトが照らしている。


 そこは対向車同士が離合出来そうもない道幅のようだった。すでに山道へ入っているようである。


「おはよう。お腹いっぱい食べて、よく寝たなぁ」


「ごっごめんな……助手席の奴が寝てたら運転手がイラッとするって聞いた事があるからさ、絶対寝ないようにしようと気をつけてたのに、オレ」


「気にするな。そー言う奴も居るだろうけど、今の俺はリスト師匠のエナジーで超ゴキゲンよ?」


 気づけばステレオから流れて来る音楽が変わっていた。イケメンモテモテ作曲家の超絶テクニックが「これでもか!」と言わんばかりに展開してゆく。何とキレのある曲だろうか。ボリュームが絞られているのに、決して大人しくはない空気に包まれていた。


「う……うん。ありがと」


 息を吐き、シートに座り直す。それから窓の外を見た。真っ暗だ。寂しさすら感じられる。

 龍壱は沈黙した。尚巳も特に話しかけて来ない。


 龍壱は今日まで尚巳に怒られり、意見の食い違いで本気の口論をした事が無かった。楓や弥生となら、ケンカしない日は無いくらいなのに、尚巳はいつだって愛想がいい。

 だから、何を考えているのか分かりづらいし、本心では怒っていたりするのではないだろうか、と疑ってしまう。

 だが「ホントは怒ってんじゃねーの?」と切り出し、本心を聞く勇気も無かった。


 水玻璃が何も言わないところを見ると、彼女も眠っているのだろうか。背後をチラリと覗く。ちょっと暗くて分かり難いけど、そのシルエットはくったりとしていて、寝ているようであった。


 周囲は暗く、何だか心細く、ネガティブで不安な方へ心が傾きかけた……その時である。

 尚巳が「うわっ!」と叫び、急ブレーキを掛けたのは。


 龍壱はギョッとして、前方を見る。

 そこには人影があった。ボンネットの直前に、誰かが立っている。

 顔はライトの光で白飛びしていて、全く見えない。


 ――子供っ?


 サイズが、どう見ても大人ではなかった。


 ――真っ暗な山道で、子供が車の前に飛び出して来たのか? 何と言う危険なガキだっ。……に、人間なのか? タヌキが化けてんじゃねーだろうな!


 龍壱の心臓は痛い程に暴れ動揺していたが、横を見ると尚巳も前方を見つめて固まっていた。まぁ子供なんか轢き殺したくないだろう、誰だって。


 トントン!


 その音に龍壱がビクッ! とした時、尚巳も同様にピクッと反応し、ふたりで音の方を見た。

 運転席横の窓に視線を移す。


 誰か、居るのだ。そこに。


 思わず前方と運転席の窓を見比べる。

 ボンネット前の影はそのまま居り、窓の外に立っている人も、そこに居る。


 どうやらふたりは別人のようだ。落ち着いて見れば身体の大きさが全然違う。


 尚巳が腕を動かす。

 それを見て龍壱は「おい、開けるのかよっ」と文句を言った。が、彼は黙ってウィンドウを降ろし続けた。

 窓の外に居る人は、顔が見えない。胴体部分がそこにある。

 龍壱が「何だ誰だ」と心の中で呟いた時、その人物がゆらりと動いたのが分かった。


 すうっ、と上半身が曲がって顔が徐々に下がって来る。

 そして数秒後、そこに現れたのは。


「はぁい、お兄さん。今〈あっち〉には行かない方がいいわよ」


 彼女は尚巳に向かって微笑んだ。


 ――アビーっ!


 龍壱の口がぱくぱく、となる。そして。


「お前っ! よくもオレの前に顔を出せたなっ」


「そっちがこんな場所までノコノコ来たんでしょ。忠告してあげてるのに」


 では、車の前に飛び出して来た子供と言うのは勿論……結衣子。


「んだよ、忠告とか!」


「その前に、ねぇ、お兄さん。雨が降って来ちゃった。車に乗せてもらえないかしら」


 アビーは小首を傾げ、尚巳に向かって微笑んだ。

 車内の小さな灯り――メーターパネルやステレオの発するわずかな淡い光に照らされて見るアビーの微笑みは、相変わらず美しかった。


「勿論歓迎するよ」


 ――こいつが女の子の頼みを断るわけないんだ。分かってるさ。あー、メンドい。


 龍壱はシートベルトを外して、外に出た。

 ツードアの車と言うのはこのような時、とても面倒くさい。


 外に出て立つと、確かに空から水がパラパラと零れ落ちていた。髪に顔に雨が降って来て、冷たい。でもまだ小降りである。


 くん、と匂いを嗅ぐと、強い水の匂いがした。

 それが雨の匂いなのかダムの匂いなのか河川の匂いなのか、ちょっと分からない。

 それより土や樹木の匂いが強かった。明らかに街とは違う空気で、気温もかなり低い。

 は、と息をゆっくり吐くと、ライトの光を吸収して白く見えた。もう春だと言うのに寒いのだな。


 ――あの頃は山に独特の匂いがあるなんて気付きもしなかったけど。て、当たり前か。〈そこ〉で眠っていただけなんだし。……そう言えば天気予報も雨のマーク、だったな。


 龍壱は空を見上げながら、結衣子が車に乗り込む気配を聞いていた。


「濡れた? 寒くない?」と水玻璃の声が聞こえる。


 ――あいつ、小さい子には優しいんだな。連れのアビーを焼き殺そうとしたくせに。


 空を見上げたまま龍壱は、アビーが車に乗り込むのを待っていた。

 けれど、人の動く気配が聞こえない。その代わり、視線を感じる。


 ん? と思って振り向くと、アビーがすぐ傍に立ったままこちらを見ていた。


「早く乗れよ」と言った時、アビーが助手席のシートを元に戻した。そして、龍壱はそこに押し込まれた。


 ――うわっ! て、乗らないのかよっ?


 体勢を整えた瞬間、龍壱の足の上へアビーが乗って来た。


「ちょ……お前っ! 何でだよっ」


 龍壱の叫びと同時にアビーがドアを閉めた。そして背中を龍壱の胸に押し付けて来る。


「だって彼女、わたしを焼き殺そうとしたわ。怖くて傍に近寄れないの」


 言いながらシートベルトに手を伸ばす。そしてふたりの身体をそのまま、ホールドした。


「だったら龍壱が後部に来ればいいでしょ」と水玻璃。


「三人は無理じゃないかしら」とアビー。


「助手席にふたりの方が無理に決まってるじゃないっ。て言うか、あんたがそこで、この子抱っこすればいいじゃないのっ」


「いやね……もしかして、妬いてるの?」


 アビーが口元に手を添えて、後ろを向いた。

 数秒後、「はあっ?」と水玻璃の怒声が飛び出る。


「おい尚巳、サッサと車出せ」


「ああ、うん……えーと、アビーちゃん?」と戸惑い、尚巳がアビーを見る。


「えぇ、そうよ。よろしく、お兄さん」


 彼女は愛想よく、笑った。


「僕は尚巳、よろしく」


 彼も愛想よく、笑った。


「で、あなたは?」とアビーは後部座席を振り向く。


「水玻璃よっ」


 水玻璃は不満そうに答えた。


「よろしくお願いされてあげても、いいわ」


 悪戯っ子のような微笑みで水玻璃を見つめる。なんだかとても嬉しそうだ。

 そしてアビーは車内をキョロキョロと見回し始めた。まるで誰かを探しているかのように。


「どうした?」と聞くと、彼女は「もうひとりの女の子は?」と言う。


 もうひとり? 心当たりなど、無いが?

 会ってもいない弥生や楓の事など知るわけもないだろうし。あいつらは女の子じゃないし。


「屋上に、一緒に居たじゃない。女の子」


「あ、梨果……だっけ?」


 水玻璃が「確か、そんな名前だった気がする」と頷いた。


「え。友達じゃないの?」


「あいつぅ? 他人だよ?」


 アビーはじっ、と数秒。こっちを見つめてから。


「……そう」と呟いた。


 何なのだ。そんな仲良さそうに見えたのだろうか。まぁあんなシチュエーションで一緒だったのだから、そう思われていても仕方ないとは思うけど。


「ところでアビーちゃん。〈あっち〉に行かない方がいい、って言うのは?」


 車をゆっくり発進させながら、尚巳が尋ねる。


「このままこの道を真っすぐ、お願い。村へもダムへも行ってはいけないわ。あいつが見張ってるから」


「あいつ、って?」と疑問を口にする龍壱。


「性格の悪いストーカーよ。ずうっと昔に亡くなってるのに、未だに執着を捨てきれず他者を怨んで自己正当化しているの。どこにでも居るのね、ああ言う男って」


「ナンだそれ。全く分からん」


「あいつ。あの村を壊すつもりなのよ、今夜、嵐を利用してね」


「お前、それを止めようとしてるのか」


「わたしはわたしなりの目的があるのよ、だから日本に来たんだわ。あいつ、邪魔なの。迷惑なの」


「具体的に教えろよ」


「尚巳、頂上近くまで登ってくださる? 上からあいつと村を眺めましょう」


「了解」


「無視すんな」


「ダムと言ってもあそこの物は、大昔に農地用として治水していた沼だか池だか湖だかを少し手入れしただけの、簡素な物よ。日本の技術力を注ぎ込んで造られた他のダムとは全然違うの。小さな村の税金だもの、きっと費用だって、大して掛けられてはいないでしょう。だから元々あまり頑丈ではなく、老朽化だって激しいわ。もう、亀裂だって入ってる。そんな所に大雨を含んだ春の嵐がやって来ようとしている。あいつはソレに憎悪の呪いを混ぜ込み、村を押し流すつもりなの。ちなみにその村は、結衣子が生まれ、護って来た村よ」


「で、お前。そいつを始末するのか」


 ――相手の事を見透かしてるようだし、凄い奴っちゃ。


 龍壱が感心した時、である。


「あら、そのために来てくれたんでしょ」


 ――……え?


「驚いたわ。こんなに素晴らしい護符、初めて触れたような気がする。戦闘態勢を完全に整えて」


 アビーが龍壱の左胸辺りを撫で始めた。胸のポケットには、尚巳特製のあのヒトガタ護符が入っている。布の上からでもその存在を分かるらしい。


 が、なぜ自分が戦うの?

 だってコレ、お前と対戦する用に持って来たヤツだし! などと言える雰囲気ではなかった。


「あのな。オレ、お前らと違ってオカルティストじゃないから、さ……」


「まぁ、ご冗談ばかり。ふふっ」


 アビーがこちらを振り向き、上目遣いで見上げ、微笑んだ。

 その表情を見て、龍壱は「うわっ」と思った。


 一秒前までの〈ただの美少女〉とは、表情が全く違った。別人のような微笑みだったからだ。


 邪気など微塵も持っていないお姫様みたいだ。

 汚い事になど触れた事がないような、この世に悪い事が実在する事すら知らないような、そんな微笑みである。


 そんな表情を悪戯半分で見せつける事が出来るなんて、ちょっと凄い。


「……お前、凄いな。仮面を持ってるんだな。日本には〈猫かぶり〉と言う言葉があるんだぞ」


「あら、ではわたしの猫は俗に塗れていないのよ。きっと高貴な猫だわ。ふふっ」


 龍壱の頬にアビーの指先が触れた。いや、爪、である。


「ちょっ……痛いの止めて?」


「猫は悪戯もするのよ? お願いを聞いてくれないと、カリッとイっちゃうかも。カリッと」


 彼女の爪がすすすす……と、肌の上をスライドする。左右の頬に悪戯をされた。少しだけ疼いて、熱を感じる。


「これであなたも猫ちゃんよ、ふふっ」


「ヒゲかっ! ヒゲを描いたのかっ」


「すぐに消えるわよ、子猫ちゃん」


「誰が子猫ちゃんだっ!」


 ワントーン低い声で抗議して、龍壱は頬を撫でた。少し痛くて、どことなく恥ずかしい。



 かなり登った所に、ちょっとした空間があった。

 砂利が敷き詰められており、雑草もそんなには茂っていない。ここを利用している人が整備したのだろう。林業、あるいは土木関係の仕事をしている人かも知れない。土地の所有者なのかも知れないが、とりあえず駐車させてもらう事にした。


 トランクから傘を取り出し、結衣子以外の生身全員でさす。


 空にはまだ薄い雨雲が掛かっているだけだが、流れが結構速い。分厚い雲もすぐに流れて来そうだ。

 月は半月よりも少し太めだったはずで、雲がその光を吸収し、空はぼんやりと明るい。


 樹木が茂っていた下の道より、この場所の方が見晴らしもいいし、それなりに明るいし、開放感があった。

 ガードレールまで行き、下を覗き込む。

 少し下にダム、もう少し下に村の配置だ。


「ねぇ、見える? あの堤防の上の人影」


 右横に居るアビーが囁く。それは、その場に居る全員に向けられた問いであった。


「居るねぇ~」と尚巳が苦笑いの息を吐き、「そうね」と水玻璃が頷いた。

 彼らと同じタイミングで返事が出来ず、思わず焦る龍壱。


「ほら、あそこよ」


 アビーに背中をすうっ、と撫でられた。身体の緊張が解け、呼吸がラクになる。


「落ち着いて……見て」


 そうは言われても、ここから結構距離がある。

 ダムの周囲には結構な樹木も茂っているし、それらが強風で揺れている。景色のすべてがざわめいており、それらが視界をノイズのように邪魔していた。


「堤防に立ち、村の方を睨んでいるでしょ。トントンしているあの足は、確認してるの。あの下にある亀裂を、反射のバイブレーションで」


 集中、すると。

 トントン……と小さな振動が風に乗って、龍壱の肌を撫でたのが分かった。

 意識の中にトントン、とバイブレーションが広がってゆく。マイクのハウリングみたいな波動が脳を揺らし、意識が途切れそうになった。


 真っ白。


 そしてそこに姿を現した見知らぬ男が――にやり。笑った。



 目の下に濃い隈があり、無精髭が無造作に生え、少し長めの髪を後ろで束ねて、全体的に薄汚れた印象の顔である。

 脳裏に直接、映像が送り込まれたみたいだった。年齢は二十代後半、くらいだろうか。顔立ちは面長で、頬骨が少し高い。



「龍壱っ」とアビーの声が聞こえ、ハッとする。


 右腕をアビーに抱きしめられていた。

 気づくと身体はバランスを崩し、前方に大きく傾いている。


「もぉ、何やってるのよあんたはあっ!」


 左から水玻璃のイラだった声が聞こえた。左腕も掴まれ、引き戻される。


「わたし、もう行くから! 結衣子、いらっしゃい!」


 アビーは結衣子の手を取って、そこから飛び降りた。ひらりと、まるで木の葉が舞い降りてゆくような、優雅な降下である。


「ちょ……お前っ、行くってどこへっ!」


 ふたりに向かって叫ぶと、左腕がさらに強く締め付けらる。水玻璃の「もお、バカッ!」と言う怒声が聞こえた。

 何が起こっているのだ。全く、ワケが分からない!


「ふたりは……ダムを護りに行ったようだな」


 冷静な声で尚巳が言う。


「だって、ダムって〈あいつ〉とか言うのが居るんだろ?」


「こっちの存在を気づかれたんだ、もう隠れておく必要も無いと思ったんだろう。さて」


 ぱさっ、と音がした。

 尚巳の方を見ると、小さく折り畳まれた紙がその手にあった。


 長い指が、まるで竪琴でも弾くかのように動くと、白い紙が広がってゆく。

 彼の指先に導かれるまま、華やかにその姿を現した。


 パールホワイトに輝く翼がはためき、細長いリボンのような長い尾が空中に漂う。それは尚巳の上半身を覆い隠すほどの大きさで、鳥の姿に変化した。


 すいっ、と空気の中を流れると、尾がほうき星のように煌めく。

 小雨の降る夜の中を泳ぐ鳥は周囲を一周し、すうっと下降して行った。


「お前も行くのっ。だから水玻璃ちゃん、道、出してあげて」


 水玻璃がきょとん、とした表情で尚巳を見ている。


「あの、月も太陽も出てない、ですけど?」


「あのピー輔の光、使ってくれる?」


 ――……ピー輔? ピーとかピヨとかにしてはデカいなオイ。どっちかと言うと鶏の、尾が長いヤツぽくね? 尾長鶏とか言ったっけ? だったらコケ輔とかじゃねーのかな、フツー。


 龍壱は口を尖らせ、鳥の鳴き声を真似してみた。


「それはヒヨコだ」と冷静な判定が下される。どうやら自分が思っているほど、大きな鳥らしくは鳴けなかったようだ。


 水玻璃がコンパクトを取り出し、鳥に向かって照準を合わせる。


「うっ、む……難しいですぅ!」


「うん、ゴメン。あれ、太陽と違って動き回るからねぇ……だから、頑張って?」


「えええええーっ!」と、尚巳に向かって珍しく不満の雄叫びが上がった。


「龍壱ひとりならあいつにも乗れるんだけど、素材が紙だし雨も降ってるからさ、フォローしてあげてよ」


 水玻璃は二つ目のコンパクトを取り出した。

 いつもならこの二枚合わせでどんな角度でも〈光の道〉を作ってくれるのだが……相手が動き回っては、やはり難しいようで苦戦している。


 苦笑いを浮かべ、水玻璃を見つめる尚巳。


「なぁ龍壱。フォロー無くても行ける?」


「ア・ホ・か! オレはお前らと違ってオカルティストじゃないって言った、だ・ろっ!」


 龍脈だった自分が言うのも妙であるが。

 人間のクセに人とは違う法則を簡単に駆使する彼らと、龍脈だったのにコレと言って特別な事が出来るわけでもない自分。本当に、歪な関係である。


『お兄さん……』


 その時、風の中にアビーの声が聞こえた。

 尚巳は瞬時に〈呼ばれた〉事が分かったらしく、鳥が急降下してそのまま、水の中に突っ込んで行った。


「えっ、マジかっ。あれ紙だろ!」


「そうなんだけど、まぁ濡れてすぐさま崩壊するわけじゃないし、わざわざ彼女が呼んだんだから行ってみる価値はあるだろ」


「何でそんな、信頼してるわけ」


「もちろん、悪い子じゃないと俺が判断したからさー」


 まぁ、確かに? ダムとか村を護るのは悪い事ではないかも知れないけどさ。


「だけど人のエネルギーを集めて、しかも前の市長コロしたんだぞ」


「うっ、そ……それを言われると胸が痛むんですけど」


「だから、ダムの補強に必要だったんだろう。例え少しでも、人の元気を横取りしてでも、崩壊を遅らせるために頑張ってたんじゃないのかな。でも俺達がここに居ると言う事は、それだけでは足りなかったと言う事だ」


 下方でザバッ、と言う音がしたかと思うと、紙の鳥はすぐさま尚巳の元へ戻って来た。

 そのクチバシを尚巳の掌に一度預け、再び顔を上げる。


 尚巳の手には透明な石が置かれていた。

「あー」と感心する尚巳。


「え。ナンだよ」


「増幅装置、かな。全体的に丸っこいから、どんな角度からでもこいつの光を吸収出来るわけだ。よし、龍壱。遠慮せずに行け」


 鳥はその場で犬猫のように突然、身体をブルブルブルと揺らし、水滴を周囲にまき散らした。


「てっめー、この寒い雨の降る中、よくもさらに濡らしてくれたなっ」


 鳥に向かって拳を振り上げると「あー、はいはいお前はこっち」と引っ張られ、コンパクトから伸びている光の道に放り乗せられた。

 水玻璃の手元を見るとコンパクトの上に、あの石が乗せられている。


「それにしても珍しい波動の石だなぁ……どこで入手したんだろう」


 興味深げに石を見ている尚巳。今、大切な事は、そんな事なの?


「いい? 龍壱、角度付けるよ?」


「ほぼ垂直じゃねーか。道なんて有って無いようなモンだな」


「大丈夫。落っことした時にはシーソーみたいにして、拾ってあげるから」


「結局落ちるんじゃねーか」


「ブツブツ言わずに、さぁ頑張れ!」



 ほぼ垂直である。落下である。


 道が時々自分の身体を跳ね上げてくれて、それで何とか落下速度は殺されている。

 傍に鳥も付いていてくれて、いざと言う時には拾ってくれるつもりはあるらしいけど……乱暴だ。


 龍壱は絶叫しながら、それでも何とかダムの数メートル上空まで降りて来た。

 見下ろす限り堤防に奴の姿は……無い。


 ――アビーと結衣子が降りて、もう随分経ったもんな。悠長に敵が待っててくれるわけない、か。


 ――え、ちょっと! て事はオレもダイブしなきゃならないのか! 寒いのに!


 そう思いながら、到着。

 龍壱は堤防に飛び降り、体重を吸収した足の裏がジーンとした痛みを感じた、瞬間。


 水面からぬるりとした手が出て来て足首を掴まれ、そのまま水の中へと引きずり込まれた。



 両目を閉じ、水中特有のくぐもった音が頭の中に響いた。

 足首はそのまま、握られたまま。どんどんと底へ引きづり込まれてゆく。


 思わず両手で口を押さえる。冗談ではない。呼吸が……出来ないのは困る!


 おずおずと目を開け上を見ると、水面の方に発光体が確認出来た。鳥があそこに居るのだろう。水面が揺れ、光も淡く揺れている。


 今度は反対に下を見た。無限に広がる闇しか見えない。

 どくん、とした恐怖感が腹を強く叩く。


 ――待て、落ち着け。よし、掴んでる物を剥がすぞ。呼吸に限界が来る前に。


 龍壱は腹筋に力を入れ、水の中で体勢を変えた。腕で大きく水を掻き、身体を折り畳む。


 足首に五本の指を感じていた。だから、手が自分を掴んでいるのは間違い無いのだ。

 それに向かって暗い中、右腕を伸ばす。場所は分かっているので、見えなくても迷いはしない。


 龍壱の右手は、その手を掴んだ。

 手と腕の筋肉に、グッと力を入れる。


 すると龍壱の指は、その柔らかい物の中に少し入り込み、ずるり、と滑ったのを感じた。

 それはまるで、腐敗した肉がとろけたような、生理的にイヤな感触だった。


 ただ、そこが崩れたにも関わらず、足首を掴み、下へと引っ張る力は少しも弱まらない。

 もう一度引き離そうとするのだが、指は腐敗肉の中へ潜り込むのだ。


 龍壱の指先にフと、固い感触が当たった。


 ――骨? なら仕方ない。なら肉も骨も壊してしまえ!


 気持ち悪いと怖じ気づいて、こんな場所で戸惑ってはいられないのだから。


『ひ……ひひひひひひ』


 水中なのに、笑い声が聞こえる。


『そぉら。少女の骸だ、可愛がってやれよ。ひひひひ』


 少女? いや、相手は男だったはず。

 足首が解放されるとほぼ同時に、背中に何かが覆いかぶさって来たのが分かった。


『あたし、ゆいこよ……ひひひひひ!』


 その言葉を理解した瞬間、龍壱は空気を吐き出した。

 空気だけではない、腹に入っていた物も一緒に吐き出したと思う。


 結衣子の腐敗した肉と骨! あの子の遺体っ!


『なんだぁ。わざわざあいつらに付いて来たから、余程の奴かと思ったら……見えるだけの、ただの人間じゃねぇか……ひひひひひ! そのまま死ねよゴミクソ人間! ひひひ!』



 呼吸が出来なくて、酸素が身体に足りなくて。

 身動きが出来なくなる。


 人の身体とはこんなにも不便な物なのか。人の世界の物理法則からはみ出るような状況に陥ると、簡単に死ぬのだな。


 水の底に沈めば沈むほど、温度が低くなってゆく。このもっともっと下に、とても冷たい場所あると言うのなら、結衣子の身体も冷たく保存されていたのかも知れない。


 ――オレも底まで行くのかな……。


 いや。これまで沈んでいた結衣子の身代わりになるのかも知れない。

 結衣子の身体が何十年も沈んでいた場所へ、今度は自分が沈められる。


 そう考えると龍壱は意外にも、苦しくなかった。

 意識がすうっとラクになり、このまま気絶してしまいそう……。




 こぽっ。

 こぽこぽっ。


 すぐ傍で、空気の漏れるような音がした。産毛が優しく刺激される。


 左胸で何かが蠢いた。

 途切れる寸前だった意識が、無理矢理覚醒させられる。


 けれど身体は冷たく、酸素も無く、水圧がかかり、さらに深みへと沈んでゆく。


 だが、耳に――いや、意識に?

 清浄な空間に響き渡る乾いた音、のような物が聞こえて来た。


 どこかで聞いた事がある。これは……柏手?

 それを意識した瞬間、龍壱はハッとした。


 胸元で暴れているモノが尚巳の作ってくれた護符である事も思い出した。

 慌ててそれを取り出すと、紙が龍壱を引っぱり始めた。


 周りは暗くて、重力も見失い、上下も左右も分からなくなっていた。

 だが今、水面に向かっているのだろうと言う事だけは分かる。なのに。


 安心したのも束の間、逆に苦しくなって来た。

 心臓がバクバクと暴れ始める。

 水圧が変化しているのもあるだろうし、危機感で余計に酸素を多く消費してしまっているのも分かった。



「龍壱……龍壱っ」


 声が聞こえ、頬に痛みを感じて目覚める。

 曇り空の下で寝転がっていた。ずぶ濡れの身体を、風が冷やしてゆく。


 突然、身体に異常を感じ「うっ!」と吐き気をもよおした。

 横向きに体勢を変え、溢れ出る水をそのまま吹き出す。

 腹が勝手にへこみ、グイグイと水を押し出した。


 苦しくて呼吸が出来なくて、全身が熱い。でも寒い。


 数分に渡り嘔吐を続けた後、やっと呼吸が出来るようになった。

 喉の粘膜が胃酸に焼かれて、痛みを感じる。

 しばらく咳が止まらなかったが、息が吸えるって、なんて有り難い事なのだろう。いつも無意識に酸素を取り込み、消費していたのだな。


 全身の力が抜け、ダラリと投げ出した身体が震える。

 ダメージが強く、身動きしようにもそんな気にすらなれないのだ。全身が濡れて、風が吹くたびに痛いほど寒い。


 アビーが横に座り、心配そうにこちらを見下ろしていた。


 彼女の顔色は青白く、髪も服もびしょ濡れである。

 龍壱は腕を伸ばし、彼女の頬にゆっくりと触れてみた。


 ――冷たい。


「……結衣子、は?」


「大丈夫よ。……泣いてるの?」


「だってオレ……もしかして結衣子の」


 ずるり、とした感触が指に蘇って来る。

 魂の抜けたあの子の身体、だったのだろうか。龍壱は、苦い思いで呼吸を飲み込んだ。


 頬を触っている龍壱の手に、アビーが優しく指を絡ませて来る。


「違うの。怯えなくてもいいのよ。結衣子は綺麗なまま、亀裂の傍に居てこのダムを護ってる」


 頬に手を添えたまま、アビーは目を閉じた。


「……だけどあの子、幽霊なんだろ」


 数秒の間の後、その瞳がゆっくりと開かれる。


「いい? よく聞いて。今龍壱は、自分で自分を自縛しようとしている。それは自己嫌悪にもよく似ているけれど、違うの。あいつのトラップよ。不満の全てを他人のせいにして来た、陰鬱な想念の塊である、あいつの仕込みなの。あなたのこの手は、結衣子の肉体だった物になど触れてはいないわ。あなたを水に引きずり込んだあれは、長い身体の水生植物」


 そう言われても、生々しい感触をどうしても消せない。

 騙されている? けれどこの溢れて止まらない罪悪感と言う感情は、間違い無く本物だ。


 消せない。忘れられない。自分の心からは、逃げられもしない――。


「苦しい?」


 龍壱は素直に、小さく頷いた。


「じゃあその感触を消してあげる」


 ぬるりとした感触が消えない指先に、キスをされた。

 何度も何度も、そのくちびるが触れる。


 始めは、何も感じられなかった。何をしてもらっているのか、自覚も無い。


 けれどそのうち、彼女の触れた場所から電気が走るようになった。


 肌が、神経が刺激されて、意識が全てそこへ集中する。アビーの柔らかな粘膜と接触している、自分の肌へ。


 ドキドキして、ドキドキして、ドキドキして、ドキドキして、呼吸が乱れ、身体と頭が熱くなる。

 彼女の動きに合わせ、腹と呼吸がピクッ、ピクッと反応し始めた。



 どれほどの時間、そうしてくれていただろうか。

 突然ハッとして、龍壱は自分の腕をパッと引き戻した。


 ドキドキして、ドキドキして、キスされていた腕を庇うように自分の胸に押し当てる。

 さらに反対の手で覆い隠した。


 上半身を起こす。

 ダムの堤防の上だ。雨が降って、風が吹いて、体温を奪われ続けている。


「もう大丈夫……あっありがと」


 声が引きつった。恥ずかしい。


「耳も首も真っ赤ね、なんてシャイなの。もっと女の子慣れしてるのかと思ってたわ。ごめんなさい」


「いやっ、別に、謝らなくても……オレが助けられたんだし」


 声が引きつる。カッコ悪い。


「そうね。弱ってる龍壱は、可愛かったわ」


「……へ?」


「まさかこんな簡単に、消耗したエネルギーを取り戻すなんてね。まぁ山奥の土地は、あなたには相性がいいみたいだし」


 それは、そうかも知れない。だって自分は山道に生まれたエネルギーだったのだし。


「それに、お腹も空いていたのね。わたしのエネルギーをそんなにも吸い込むのだもの」


「あ、この気力と体力が蘇ってる理由? ……ごめん」


 指先にキスされたくらいで、こんなにも回復してしまうなんて。


 だけど現に、さっきまでとは全然違っていた。

 何より気持ちが違うのだ。さっきはもう、苦痛に頭をかき毟りたくなるくらい不安でつらかったのに。


 なるほど。肉体と精神がお互いに深く影響し合っているとは、この事なのだろうな。

〈造られた〉身体の自分でさえ、例外ではないみたいだ。


「いいのよ。女の子として、少しはあなたに気に入られている証拠だもの」


「は?」


「本物の〈供物〉には敵わないのでしょうけど」


 意味が分からない。


「龍壱は、あの梨果って子と仲良くなるといいわ。気が合えばいいわね」


「はあぁ?」


「梨の実は、龍の供物なの」


 アビーは「ふふっ」と笑って立ち上がった。スカートから水滴がしたたり落ちる。


「じゃあ、戻るわ」


「亀裂、大丈夫なのか」


「それはあなた次第よ。お願い、あいつの邪魔をして。嵐が通り過ぎるまで、あいつに勝手な事はさせないで。わたしが集めた程度のエネルギーじゃ正直、心細いの」


 そう言い残し、アビーは綺麗なフォームで水に飛び込んだ。わずかな水しぶきが上がり、彼女は行ってしまった。


 背後に気配を感じ、振り返ると尚巳の鳥が居た。

 長い尾が、強い風に揺らされている。身体の表面を大量の雨水が伝い、それらは風に飛ばされて水滴となり、空中に飛び散ってゆく。


「お前、まだ元気?」


 鳥はコクコク、と頷く。


「犯人のオッサン、どこに居るか知ってる?」


 顔がぐるり、と近くの樹木の方を見た。

 どうやら森の中らしい。森は黒いシルエットとなり、風に全体を揺らされている。


 雨はそろそろ、横殴りになって来ていた。


「じゃあ探し出して、ブン殴るかぁ~。オレにはそれしか出来ないけど、しょーもない事やってくれたおかげでモチベーション上がったしなぁ。復讐じゃい!」


 肩を支点に右腕をグルグル振り回していた時、鳥にクチバシでツン、と頭を突かれた。痛いな、と思って頭を振ると、髪の間から白い物がハラリ、と落ちて来た。


「あ……護符?」


 落ちたそれを拾い上げる。

 洗濯機の中で回され、引き千切られた紙のようになっていた。繊維がズタボロで、痛々しい。


 助けてくれたのだ。尚巳の護符なんて、日常生活では余程の事が無い限りダメージなんて受けないのに。

 それなのに、特製の護符がこんなにまでなるなんて。米粒よりも小さくなっていた。


 龍壱を水底から引っぱり上げる事は、そんなにも大変な事だったのだろうか。実際、妙な気持ちになっていたし、普通の空間ではなかったのかも知れない。


 変な空間から通常の空間に連れ戻したのだとすれば、とんでもないエネルギーを消費していても不思議ではないか。


「身代わりかな……ありがとうな」


 呟くとそれは風にさらわれ、ひらりと空に舞い上がり、やがて龍壱の視界から消えてしまった。

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