03-2
結衣子が選ばれたのは、村で発言権の強い老婆の占術によるものであった。
集会で父がその話を聞いた時には目の前が真っ暗になり倒れた、と聞いている。
そんなにも自分を心配してくれてありがたい、と結衣子は思った。
村にとって水は大切な生活線である。水をきちんと管理出来なければ、人の生命さえ危うい。それは当然、自分にとっても同じ事なのだ。
分かっている。だから、誰をも恨むつもりはない。
村のため水に沈めと言うのなら、その通りにする。それがみんなの為であり、何より大切な家族の為なのだから。
結衣子には生まれたばかりの弟が居た。乳の甘い匂いがする、
何より可愛い弟だ。まぶたを閉じるとうっすらとした血管が透けて見え、爪は薄くて虹色の貝殻みたいに綺麗だった。肌はツルツルとして白く、髪の毛は柔らかくてふわっふわだ。
お腹が空けば泣くし、機嫌がよければ明るく笑う。
見ているだけで胸がとろけそうになる。
そんな弟もこの先、この村で生活するのだ。
誰より、何より、弟のために。この可愛らしい生命のために。
結衣子は治水工事の安全祈願が行われたその夜、籠に入れられ水に沈んだ。
最後に見たのは星の輝く夜空に、かがり火の火の粉が舞い踊る……キラキラとして美しい景色だった。
「ねぇ、大丈夫?」
――……?
誰かの、少女の声が聞こえたような気がする。
それが人の声だと気づくのにとても長い時間がかかったし、自分に語りかけられたのだと気づくまで、更に数日を要したような気がする。
自分はとても長い静寂の中に横たわっていた。
――ここは、どこ? あたしは、誰?
頭の中にも心の中にも、すぐに答えは浮かんでこなかった。
そして、再び。
「ねぇ、大丈夫なの?」
その声が聞こえたのは、どれくらいぶりだろうか。時間の感覚もよく分からない。ただ。
久しぶりの感覚に目覚めようとしている事だけが、分かった。
――ここは、どこ? あたしは、誰?
――ここは……あたしは……。
シーン、とした暗闇の中に、ひとりの少女が姿を現す。
ひまわり色の、色鮮やかな長い髪の美少女だった。
肌色は白く、綺麗な洋服を着ている。濃紺色で短い丈の、ひらひらとした花びらのようなスカートの洋服だ。襟ぐりが大きく開いており、長くて細い首と鎖骨が目立つ。
艶やかで、なんて素敵な少女なのだろう。
思わず見とれてしまう。
外国のお姫様と言うのは、このような人ではないだろうか。
その顔立ちや洋装がとても羨ましくて、胸がきゅうぅぅぅん、と切なくなった。
「ここを守っているのはあなた、なのでしょう?」
――え?
「ヒビが入っているわ」
少女がある方向に向かって指を指す。
暗闇の中に白く細い亀裂が見て取れた。少女と亀裂以外には何も見えない。真っ暗闇。
「間もなく嵐が来るみたいよ。それでも大丈夫なの? このダム」
――……ダム?
「長い間眠っていたのね? しっかりしなさい、嵐が来るわ」
――あ……らし。
「ここが崩壊したら、下にあるあの小さな村に被害が出る。あなたにとって大切な村なのでしょう? シッカリしさない」
彼女はいい匂いがした。弟の甘い香りとは違う、太陽のような爽やかな匂いだった。煌めいて美しい、輝きのある香りだ。風の匂い、なのかも知れない。
「さぁ、そろそろ起きて。ほんの少しだけ、手伝ってあげるから」
少女に抱き起こされる。
「わたしはアビーよ。あなたは?」
「あ……あたし?」
「名前は?」
名前? 名前とは何だ。自分とは、何だ。心にパックリと空白があった。
「焦らなくていいわ、思い出して」
アビー、と言う名の少女に背中を撫でられる。それは懐かしい感覚であった。温かい。嬉しい。
そして、少しドキドキした。
「あたし……あたし、は」
「うん」
「ゆ……ゆい、こ?」
「ゆいこ?」
「う……うん。多分」
「じゃあゆいこ、わたしと一緒にいらっしゃい。ほんの少しだけ、助けてあげるから」
まだ生温い意識のまま、結衣子はアビーに支えられて立ち上がった。
よろり、とよろけるとふわり、と身体を添えるようにして支えてくれる。
結衣子はアビーにドキドキして手を引かれるまま――少しずつ、ほんの少しずつ。明るくて音の聞こえて来る方へと歩き始めた。
こんなに傍に居ると胸の鼓動がアビーに聞こえてしまいそうで……少し、恥ずかしい。
しばらく歩くと、眼下に緑が広がった。強い水の匂いがして、背後を振り返る。
太陽を照り返す水面が輝いて眩しい。自分が立っている場所は岩場、かと思ったが……どうやら貯水池の淵のようだった。堤防、と言うのだろうか。
ああ、そうだった。自分は治水の成功を願って沈められたのだ。
だが、このように立派な貯水池ではなかったような気がする。もっとこう……農業用水や生活用水をある程度貯めておく、小規模な場所に沈んだような気がしていたのだが。
記憶違い、だろうか。
――あたし……あたし。あたし、どうして眠ってたの?
あの頃は村を見守っていたような気がする。
弟がすくすくと育つのを見ていたような気がするのに……どうして自分は眠っていたのだろうか。
下の村を見下ろせば、確かに景色の面影はある。けれど生活を彩る物に見覚えの無い物がチラホラとあった。
人が乗り降りして移動する大きなあれは、確か車とか言ったっけ。このうよな村に縁のない物だと聞いていたけれど、なぜ村にあるのか。
彼らが身につけているあの衣服も、自分達が着ていたような見窄らしさがどこにも無い。それに……髪型や表情、言葉もどことなく違うような気がした。
――もう知っている人が居ない。誰も、居ない……。
結衣子は肩を落とした。
ああ、だから自分はあの時。弟が進学の為にこの村を出て行き、両親も亡くなってしまったあの時。
見守るべき人が居なくなってしまったあの時。
もう役目を終えたと思い、眠りについたのだっけ。
その後の事を知らないから、状況が変化していてもおかしくはないのだ。そうか。
「あれは車、あれは電線、人が手にしているのは携帯よ。電話やネットが出来るの。音楽や動画も見れるし、写真も撮れるわ」
アビーの言葉がすぐには飲み込めない。
「もうあなたには関係の無い世界と人々ね。でも〈ここ〉が壊れると、わたしにはちょっと困る事があるの。人も世界も、災難など避けられるのなら避けた方がいいわ。緑豊かな日本のド田舎――地球トップクラスの技術と神性が同居する国か……ゾッとするわね。ふふっ」
アビーが小さく笑った後、突然結衣子の腕は引っ張られた。
アビーが飛び降りたのだ。
結衣子は空中で「きゃあああ!」と絶叫をしているうちに、激しく強く自我を取り戻した。
寝ぼけていた時に頬を叩かれたような、強い刺激であった。
地面の直前でアビーに抱かれ、着地する。背中と膝裏を支えられたまま、アビーにしがみつき震える。
「すっごい叫び声だったわ。少しはお目覚め? お姫様」
楽しそうなアビーの声に、結衣子はカッとなった。恥ずかしすぎて、それが怒りに似た感情となる。
「ひっ酷い、酷いわっ。突然こんな事っ……えっと、えっと!」
感情が上手く言葉にならない。必死に訴えようとアビーを睨みつけているのだが、彼女は涼しげに微笑み、結衣子の怒りを受け流しているようだった。
「なんで笑うの……アビー、意地悪だわっ」
「ふふっ。だって結衣子、可愛い」
――うっ。
結衣子は息が詰まった。そんな言葉は遠い昔、両親に言われて以来だ。
「人の為に沈む事を進んで受け入れるような処女、ねぇ。あなたを選んだ人は慧眼だったのね、きっと。だから今でもここは、こんなに穏やかなのだわ」
結衣子はアビーから下ろされて、自分の足で再び立った。
「ほら、たくさん〈居る〉でしょ」
結衣子はアビーの指す方を見た。雑草が伸び放題の地面に、チョコマカとした影が見える。
「妖精に精霊。都会の真ん中にさえ存在して人と共存しているのだもの、驚かずには居られない国だわ。だけどここは特別に質がいいから、水で押しつぶし、流してしまうのは勿体ないわよ」
確かに、災害など無い方がいい。自分はその為にあの時、水に沈められたのに。
「あたし、戻らなきゃ」
「え」
「だってあたし、あそこから村を守らなきゃ」
結衣子は見上げた。ひとりではとても上れそうにない高さの貯水池。
「もう〈あそこ〉に居なくていいのよ?」
アビーの言葉に結衣子は驚く。
「あなたの地縛はわたしが解いたから」
「えっ、そんなっ。ならあたし、どうすればいいのっ」
居場所が無いとなれば、自分に存在する価値など無い。
「ど……どこに行こう」
「バカね、あなたはもう自由なのよ」
「それは、アビーが勝手に」
「そう。確かに勝手に解いたわよ。でもそれは〈時〉が来たから。あなたは開放されるべき時を迎えたの、それだけよ」
「どう言う事?」
「巡り合わせね。分からなければいいわよ、理解しなくても別に」
そんな冷たい言い方。アビーが解いたくせに、無責任ではないか。
「ただわたしは、結衣子を見つけたから解いた。嵐が来るからよ」
そう言えばそんな事を言っていたな。
「お天気が悪くなるの?」
「ただの嵐ならいいけど……嫌な予感がするの」
「予感って何?」
「さぁ? でもあのままあそこに居たって、あのヒビはどうしようもなかったでしょ。だって結衣子は気づくどころか、眠ってたのだから」
そう言われると、文句も言えなくなる。確かに居眠りしていた自分の方が悪いのだ。
「なにショボンとしてるのよ。そんな顔をする暇があるなら、行くわよ」
「どこへ」
「集めに行くの。もう結衣子ひとりで頑張らなくていいのっ」
再びアビーに右腕を引っ張られ、結衣子の足は地面から浮き上がる。周囲の大きな木すらあっと言う間に遥か足の下、である。
「き……っ、きゃああああ! ヤだヤだ、怖いぃ!」
「あぁ、もう……今更なに言ってるのよ。落ちたところで結衣子はケガなんかしないって」
そうは言っても、言われても。怖いものは怖いのだ。昔も、吊り橋や木登りすら苦手だったのに。
「そんな事、言ったって……腕だけじゃ、心細いんだもん」
自分を支えている物がアビーに掴まれている右腕だけ、だなんて。しかも手首。
「もぉ、しょーがないなぁ」
結衣子はグイッと引っ張られ、アビーの胸に抱きしめられた。
「これでいい? これでいいの?」
それは勿論、さっきよりは全然いいけれど。でも、顔や耳が熱くて熱くて、恥ずかしくてたまらない。
「結衣子っ」
「はっはい……! い、いいです」
そして結衣子も恐る恐る、アビーの身体に腕を回してみた。最初はゆっくり。それから勇気を出してきゅっ。と。
「甘えんぼ」
「そ……そんなじゃないもん。怖いだけだもん」
どこに行くのか。何をしに行くのか。結衣子には何も分からない。
ただ綺麗な女の子に抱きしめられて水色の空を飛ぶのは、なんて気持ちがいいのだろう。と、気が遠くなりそうな意識の中で、ポツリと考えた。