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■01■
晴れていた。空は高く、水色だ。
少年は今年入学した高校の体操服の上から、学校指定の薄手コートを着てバス停に立っている。
黒い髪は短めで、整髪料で整えられてさっぱりしている。体つきは骨格が大きいらしく、一年生にしては大きく見えた。手足も長く、身長もクラスでは高い方だ。決して華奢ではい。
彼は時刻表と行き先案内表を交互に見て、これから行く陸上競技場へのルートを確認していた。
四月の最終土曜日で、風はまだまだ冷たい。
普段は電車通学なのだが今日はバスだ。乗り馴れなくてちょっと緊張している。
「龍壱、おはよー」とひとりの少女が声をかけて来た。
栗色の明るい髪が軽くウェーブし、腰まで伸びている。それをふたつに分け、リボンの着いたアクセサリーで束ねていた。
華やかな髪質に似合いの、あか抜けた顔立ちをしている。メイクなどしていないのにまつげは長く、瞳は涼しげで、クランベリージャムのような色彩のくちびるをしていた。
身長は同学年女子の平均よりは少し高く、体つきはほっそりとしている。
龍壱と呼ばれた少年は視線を動かし「おー、おはよミハリ」と言った。
水玻璃、と言う名の少女は龍壱の足下に視線を落とした。学校指定コートの裾から、体操服のジャージが見えている。
それを確認してからニコッと微笑み、水玻璃は「よしよし。やる気充分ね」と満足そうに頷いた。
「お前はいいよなぁー。四百メートルも走らされるんだぞ、オレ」
「出場しないのに応援させられるこっちだって面倒なのよ? ちゃんと出席取るぞ、制服で来い、って言うしさー」
今日は、市が昔から主催している陸上競技会である。
市内の全高校一年生が強制参加させられる競技会なのだ。私立も公立も関係無い。
各学校からは数人ずつがいくつかの競技にエントリーさせられており、龍壱もそのひとりだった。
出場者は各学校の教師達で適当に決定すると聞いている。競技経験や成績など、あまり考慮されてはいないはず。
なぜなら、龍壱がそうだからだ。短距離も長距離も目立った活躍などした事は無く、陸上関係の活動など未経験だった。
結局、これは春恒例の〈お祭り〉なのだ。花見みたいなものだろう。
「市が主催とか言ったってさ、市長は開会式でスピーチだけして、どーせすぐ帰るんだろ」
龍壱は「ケッ」と小さく息を吐き出した。
「一日居られても困るよ、偉い人が居たら邪魔じゃん。それにちゃんと、他の仕事もしてもらわなきゃね。前の市長が財政ムチャクチャにしたって噂だけど、そのマイナスも埋めてもらわなきゃいけないんだから」
「お前、意外と政治にうるさいんだな」
「まぁイタリアに数年居たわたしとしては、日本人の政治への無関心ぶりには驚かされるばかりだけど? あんたもさぁ、そんなところだけはリアルな未成年よねぇ」
「イタリアの経済もかなりいい加減じゃね? 楽天的過ぎるって言うか。いつも楓が愚痴ってるぞ、もっと財政シッカリすればいいのに、てかもっとマジメに働けばいいのに、って。ユーロは参加国の格差が激しいしイザコザも多過ぎるから、もう中国みたいに割れてしまえばいいのにな、ってさ」
「……楽天的な気質を突かれると弱いわっ」
そんな事を話しているうちに、バスが到着した。行き先を確認して、乗り込む。
バスはもう既に人がいっぱいで、入り口付近に立つしかなかった。
「まぁ救いと言えば、ここから乗り換え無しでよかったってコトかな。結構近いんだよな、競技場。バス停、七個目くらいで降りたらいいんだっけ?」
「今日もうまく乗り切りなさいよねー。あんた、中学校の時の友達なんて居ないんだから」
「大丈夫。オレ、家庭の事情で県外から越して来たって言ってあるから」
バスが動き始める。ふたりの身体もゆっくり動いた。手すりのパイプを掴む腕に力が入り、脚は踏ん張り、一瞬揺れたバランスを戻す。
「バスか、乗り慣れねーな。このヌンメリとした雰囲気、苦手かも」
「お年寄りも乗車してるからね、安全第一だし。それよりあんたはあんたで、今日も一日頑張って〈人のフリ〉するのよ?」
「分かってる分かってる。四百メートルでドギツい記録の塗り替えなんかしやしないからさー。てか、んなコト出来ないし」
「その身体、大切に使いなさいよねー」
「分かってる分かってる。ヘマしたらお前がチクるしな」
「だって頼まれたんだもん。だからわたし、今ここに居るんだもん」
「はいはい、今日も監視ご苦労様~」
「監視なんて失礼ねっ、みんな心配してくれてるだけなのに」
「分かってるって、それもこれも。全部」
最寄りのバス停で降りると、もう周囲は同じ目的の高校一年生だらけだった。あちこちの制服が入り乱れて、再会を喜んでいる。
「オレらの学校の集合場所って、第二グランドのトラック、だっけ?」
「そうだったと思う、よ」
立ち止まり、水玻璃がポケットから一枚の紙を取り出した。先日配られたプリントだ。
「えっと、そうねぇ」と呟いた時、龍壱の背中に何かがぶつかって来た。クラスメートの誰かだろう、と数人の男子の顔が脳裏を横切ったのだが。
「んだよー」と低い声で言いながら振り返った時、そこに居たのはクラスメートの男ではなく、見知らぬ女の子だった。
水玻璃よりも少し背が低くて、丸い輪郭の中で大きな目が丸く見開かれている。驚いた表情で、こちらを見上げているのだ。
ストレートの髪は肩より少し長い。制服は違う学校のブレザーであった。
そして、甘い果実のような……とてもいい匂い。
「あ……ごっごめんなさいっ」
彼女の声は動揺していた。
知らない人にぶつかれば誰だって慌てるだろうが、彼女はどうもそれだけではないようだ。顔が引きつっている。
――オーバーだな、こいつ。てか俺、ぶつかられただけで、相手をぶん殴りそうに見えてたりするのか?
龍壱が少し戸惑いを感じたその時、水玻璃が「あっ」と短い声を上げた。
「えっ、ナンだよ」
「ティッシュ……龍壱、向こう向いてっ」と水玻璃に肩を殴られた。
「ヤだもう……アイスクリームっ!」
水玻璃の声に龍壱も「えっ!」と思わず声を出した。
改めて背後の子を見ると、その手にアイスバーが握られていた。ミルクだかバニラだかヨーグルトだかは分からないが、とにかく白いアイスだった。
「ごめんなさいごめんなさいぃ~」と何度も頭を下げられる。声が半泣きだ。
「いやあの、何も泣かなくても」
「だ……だけど」
「あんたの外見が怖いんじゃないの。目つき悪いからね」
「んだと!」
「梨果、あたし達先に行くからねっ」
彼女の友達と思われるふたりの女の子が、こちらを見ながら走り出した。
「えーっ、そんなぁ!」
「だってユカリ先輩怖いじゃないのよーっ。待たせてイライラさせてもいい事無いんだしさぁっ」
「えええーっ! 私だって先輩怖いよぉ! あの、あの、本当にごめんなさいっ」
彼女はバックから何かを取り出し、水玻璃に渡した。こちらに深く頭を下げた後、そのままダッシュして行ってしまった。
「な……何なんだあの子達。朝からアイスとかダッシュとかすげー元気だな」
「見た事あるわ、あの制服。どこかの中等部よ」
「中学生ぇ? 今日のイベント関係無いじゃん~」
「だから言ってたじゃない。怖い先輩に呼ばれたんでしょ」
「ああ、そうね……で、アイス取れた?」
「ウエットティシュ置いて逃げたから、ベタベタはしないでしょ」
そう言いながら水玻璃に背中を拭いてもらっていると、通りすがりの同級生数人に冷やかされた。
水玻璃の外見は男子に好かれるらしく、とても人気がある。
学年で一番どころか、ひょっとしたら学校で一番可愛いのではないか、と言う奴らも居る。
だから水玻璃と一緒に居ると何かと目立つのだが……仕方ない。龍壱のお目付役なのだから、逃げられない。
朝の八時半から開会式で、龍壱達も第二グランドで放送に耳を傾ける。
セレモニー関係は苦手だ。ただジッと、お決まりの言葉を何分も聞かされるなんて地獄である。寒いし。
時々ハウリングを響かせながらも開会式は続く。
そして市長の挨拶が始まってすぐの事だった。
斜め前に立っている女子が、膝から崩れ落ちたのだ。
龍壱はギョッとした。聞いてはいたけれど、これが女の子の〈貧血〉と言うヤツか。
どうせダイエット中で食っていない、とかなのだろう。と心の中で呟いた時である。
ぱたぱたぱたぱた……と、周囲の人影が次々にしゃがみ込んでゆく。女子も男子も関係無いどころか、教職員まで。
見渡す限り龍壱と水玻璃以外の全ての人間が、地面に倒れている。
あっと言う間の、数秒の出来事だった。
「な……ナンだコレっ。人間って貧血とかメマイまで共鳴するモンなのかっ。しかも全員って」
「そんなわけないでしょ! 異常事態よエマージェンシー!」
うちの学校の隣に集合していた他の学校の人達も、その向こうの学校の人達も、誰もかも。
「もしかして他のトラックに居る奴らもか?」
「わたし見て来るっ」
水玻璃が倒れた人達を避けながら向こうに行こうとしている。
「ちょっ待てっ。オレも行くっ」と龍壱が慌てて水玻璃を追いかけ始めた時だった。
「き……きゃーっ!」と女の子の悲鳴が聞こえて来たのは。
その声はテニスコート、いや、駐車場方面から聞こえたような気がする。どっちにしても、ここから左手に向かった、競技場の入り口方面だ。
とにかく走る。
「誰か……誰か居ないの?」
――この声……。
屋内競技場の壁際の、植垣の向こうに人影が見えた。
「あ、あの子さっきの」
水玻璃の声に気づいたのか、彼女はこちらを見た。
アイスの子だ。
甘くて美味しそうなイメージの女の子。
水玻璃が彼女に駆け寄ってゆくので、龍壱もその後に続いた。
「どうなってるんですか? どうしてみんな、倒れちゃったの……」
「梨果ちゃん、だっけ? 大丈夫っ?」
泣きながら水玻璃の胸に倒れ込む。
水玻璃は彼女を受け止め、困惑した表情をこちらに向けた。
「何も言わずに突然……みんな、突然……っ」
梨果は怯えていた。それはそうだ。龍壱にも訳が分からない。普通の女の子なら、中学生なら、泣く程の恐怖を感じても仕方ない気がする。
――オレ達はともかく、どうしてこの子は無事なんだ……?
その時、場の雰囲気を読みもせず龍壱の腹が鳴った。ぐうぅ~、と。空腹時の音である。
「……ちょっと」
水玻璃がもの凄く冷めた目でこちらを見る。
「待て。朝飯は食って来た。そんな目でオレを見るな」
何と、言うか。
この子――梨果を見ると甘い物が脳裏を過るのだ。
「あ、ごめんなさいっ」と言って梨果は突然、水玻璃から離れた。さっきまで引きつっていたけれど、今は理性を取り戻したような表情をしている。
「少し落ち着いた?」と水玻璃が言うと、梨果は頬を染めて苦笑いを浮かべた。そしてこちらを見上げる。
「だって、ヘンな音が鳴ったから」
――う。
「ヘンな音で悪かったな。育ち盛りなんだよっ」
「龍壱、とりあえず救急車呼んでよ」
龍壱はコートのポケットに腕を突っ込み、携帯を取り出す。
「けど、どー説明するよ? オレら以外の全員がぶっ倒れてますとか言って、スンナリ話通るかなぁ」
「押し問答くらいあるかもね。とりあえずわたしは、他に無事な人が居ないかどうか見に行って来るから」
「あ、あの私も一緒に行っていいですか」
――オレと一緒はイヤか。まぁそーかも知れんが。
「いいよ、一緒に行こう」
――でもひとりぼっちにされると、それはそれで心細いじゃねーか。イタズラ電話と疑われるのは濃厚だ
しさー。
だが「待ってくれ」なんて言えない。「ひとりは心細い」とか、さすがに恥ずかしい。
諦めて発信を押し、耳に当てた。
――ん?
数秒、違和感を我慢してみたけれど。
携帯を耳から離して画面を見る。
「うっわ、圏外じゃんっ。ウッソだろ?」
山奥でも何でもない、こんな場所で通話圏外などありえない。
周囲は商店が並び、オフィスビルもたくさんある。居住区と繁華街の中間ほどの距離にあり、決して人が居ない場所ではないのだ。
思わずキョロキョロと周囲を見回す。
見回しても誰も居ないのに、それは分かっているのに。
電話が使用出来ないと言う動揺が、助けを求めるように周囲に協力者を見出そうとしている。
で、その時だ。
敷地の出入り口に立ち、こっちを見ている男が居るのに気づいたのは。
ジャージ姿で年齢も自分達と同じくらいだ。きっとどこかの一年生なのだろう。
だけどなぜ彼は、あそこでボケッとしているのか。
――んっ? て言う事は、アイツも無事な人間のひとりってコトだな。て言うか、外の人達はどうなんだよっ。
龍壱は入り口に向かって走った。
敷地の外では、車も自転車も行き交っている。車に乗っている人も、敷地の外に居る男も、無事のようだ。
――まさか、この中の人間だけ?
疑問を抱きながら龍壱は、そこに立つ男に挨拶をしてみた。
「おはよう。遅刻だよ?」と。
すると彼は苦笑いを浮かべ「南高校です。あの、入れてください」と言う。ゲートは閉じてなどいないのに。
「いや、入れば?」
「入れないんです。どうやって入ったんですか」
「普通に」
「具体的には?」
「歩いて」
「どこから」
「もちろんココから……」
龍壱の足が止まった。
敷地の内と外。その境界線から出ようとしたのだけれど。
足がコツンと、まるで壁を蹴ったかのように弾き返されたのである。
右足を数度、前に出す。壁を蹴るつもりで。
すると壁を蹴ったかのように、足は弾き返された。
男の顔を見る。
「ね?」と言われて「ああ」と応える。
「あのさ。携帯持ってる?」
「持ってる、けど……」
「圏外?」
彼は「はぁ? まさか」と言って自分の携帯を取り出し、その画面を見せてくれた。
うん。どう見ても圏外ではない。だけど。
「オレの。どうよ?」
「……圏外、だね」
「ちょっと今、困ってるんだよね」
「何が?」
「人がいっぱい、倒れちゃってさ。いっぱいって言うより、ほとんどの人が」
「はぁ?」
「悪いんだけど、救急車呼んでもらえる?」
「いやだよ、イタ電なんてっ」
「だよねー」
「ねぇ、中に入れてってば」
「オレ、出たいけど出られないんだよ。どっちがマシだと思うわけ?」
数秒の沈黙の後、彼は呟いた。
「それは……俺。俺の方がマシなのかな」
「だろ? とりあえず救出を期待してるからな」
「ちょ……本当にっ?」
「ああ、頼む。とにかくオレは他に出入り出来そうな所を探すからさー」
龍壱はその場から離れ、敷地内を見回る事にした。
やはりこれは異常事態だ。貧血の連鎖などであるはずがない。
――陸上競技のトラックと、テニスやサッカー、そして野球とかのグランドと、室内競技用の体育館。あと他にどんな施設があったっけ? ここって。
とにかく広くて、様々な競技が出来る作りになっている。そして収容者数も多い。
だから、出入り口があそこだけのはずはない。
公共交通機関を利用する人達には一番使いやすい出入り口がさっきの所だと言うだけで、他にも絶対あるはず。
普段はライブとかにも使われてるらしいし、ならば大型トラックが出入り出来るような、通用口方面の出入り口もあるはず。
――あったところで出入り出来なきゃ同じコトだけどさー。
たとえフェンスが穴空きだろうと、壁が壊れていようと、出入り出来なければ意味が無い。
だが、同じ場所でボケッと救出を待っていられるわけもなく、龍壱はとにかく敷地内を見回った。
――くそぉ……電話さえ通じればなぁ。ウチのオッサン達に相談だって出来たのによぉ。
龍壱の暮らす家には、家族でもない男が三人同居している。龍壱を入れて四人、だ。
彼らは少しだけ、常識とはズレた法則を駆使したりする。いわゆるオカルティストで、それは、龍壱には出来ない事だった。
――あのオッサン達なら、まずどうするかな。……現状の把握だろうな。
龍壱は自分を落ち着けようと、深呼吸をした。
一度目を閉じ、開く。
自分も、幽霊や精霊くらいなら頑張れば〈見える〉のだ。
それらを見るつもりで意識を集中すれば、〈何か〉見つけられるかも知れない。