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砂丘

愛情とは何か?

省二郎は考え込まざるを得ない。

第2章――砂丘にて

第2章――その1 寮


三笠梱包運輸は車両三十台を擁する中規模な運送会社であるが、それは現在の話であって、十年前はその半分ほどの規模だったという。

「今は違う」

と、国道百五十号線を走るクラウンの中で利谷が言っているのは、車体の色の事である。

「昔はそんな色の時もあったそうだ」

車は福田町を過ぎて大須賀町に向かっているが、この辺りから黒松を中心とした防砂林が多く、かつ広域を占めるようになり、偏形した磯馴松が所どころに見受けられるようになる。

なるほど、見渡す限りに真夏の太陽の下、松林が続いて潮風を受け松籟の音が清々しい。

時折り行き交う車も大半がサーフボードをルーフデッキに取り付けている。

右手の海岸沿いは切れ目なく松林が続いているが、あの向こうには延々と砂丘が続いているのであろう。

空が青い。


―― 九年前、彼らはここにいた

省二郎はどうしても確認したい。

珍しく運転している利谷は、彼なりに何か思うところがあるのか、口数が少ない。

真田は後部座席で寝ている。

そんな男三人を乗せた車が大東町に入った時だった。

「そうか!」

と、利谷が頓狂な声を上げた。

そして省二郎に「すし鉄」の団体客の事を根掘り葉掘り聞いて、言った。

「―― という事は、その名古屋からという十五人の団体客は、お前のアリバイを崩すために雇われた、あるいは本人たちは知らなくとも、誰かによってそのように使われた。だからその団体客がどこの誰だか判れば、西岡か山崎の身元が浮かび上がる。そう考えているんだな」

省二郎は笑って答える。

「そうです・・・だけど突き止めるのは至難の業ですよ」

利谷もサングラスを外して笑い、しかし、自信あり気に言う。

「三日間で捜し出してやるよ」

そして、もう一度確認をしておくが、と言った。

「いいか、人数は十五名、そしてお前が鎌倉へ電話をしてから丸三日目の事だな。時間にすれば八十時間弱だ。―― 間違いないか?」

省二郎は利谷が何を考えているのか判らなかったが

「その通りだ」

と答えた。

利谷はサングラスを目に当てながら、口元を緩め

「そちらは俺が引き受けた。―― 節子では無理だろう」

と言ってしばらく考え、三日間で大丈夫だ、と断定的に言った。


敷地五百坪ほどの三笠梱包運輸に着いたのは、四時半ばであった。

四トントラックが四−五台と、トレーラーヘッドが二−三台、午後の油のような光は差し込むプラットホームに停まっている。

蝉がうるさい。

入り口のプラットホームに続く二階建ての白い建物が本社らしい。

クラウンを社屋の前に着け、一呼吸おいてから

「―― 行くか」

と、利谷が省二郎に言った。

しかし二人の対応に出た津野という総務課長の話に、二人は失望とも落胆ともつかぬ気持ちを味あわねばならなかった。

「ほいね、うちが権利を買い取ったんは七−八年前だかんのう。ほい、判らんじゃんねえ」

と、西岡と白壁の写真を見比べて言うのである。

運送業には運送業の、何らかの権利でもあるのだろう。津野という眼鏡を掛けた三十歳くらいの男が言うには、権利を買い取ったという「三笠運輸」の車の車体こそ緑地に二本の赤線というのだが、今は全員辞めたというのである。

そこで旧三笠運輸の社長に会うにはどうしたら良いのか、と訊くと

「亡くなったからさ、奥さんが売りに出したんじゃんねえ」

と言う。

「じゃあ、その頃の事を知っている人って、誰かいませんか?」

というと、顔を撫で回してから

「ええっと・・・誰もいないやあ」

と小声で言い、ちょっと待っててくれと面倒くさそうに席を立ち奥にある自分の席に戻って行った。

利谷は憮然とした態度で煙草を吸っている。

―― ここで諦めるわけにはいかない

もしここで埒が明かないようであれば、今日はこの辺りに泊まって旧三笠運輸に勤めていた人を捜さなければならない。

奥のほうで三人の事務員と話をしていた津野が、頷きながら席に戻って来て

「古川君がやあ、知っとるらしんよ」

と言った。

古川勝也。五十六歳、出戻りだという。

この会社に入社したのは三年前だが、旧三笠運輸に勤めていたと言う。

「古川君なあ、今日は岐阜の高山に行ってるのさねえ。・・・ほい、八時か九時には帰るよ」

利谷が携帯の電話番号を教えてくれ、と言うと、個人の番号は教えられないと言って

「代わりに掛けてあげるよう」

と、玄関口まで立って行き、案内用の電話から古川の携帯に電話をして利谷を呼んだ。

利谷も立って津野の所まで行き何やら話していた。やがて帰って来て

「待っててくれってさ」

と、省二郎に言った。


食堂で時間を潰して、八時からプラットホームの所で待ったのだが、九時を過ぎても古川は現れなかった。

時折、節子から連絡が利谷に入る。いつの間にか、節子の報告を利谷が受けるような格好になっている。

その内リフトに乗って構内作業をしている男が、十時になったら閉門するからと言いに来て

「あんたら、古川君を待つなら寮の方が良いんじゃない」

と言う。

「寮――?」

目の前の百五十号線を浜岡原発のほうに折れ、一キロほど行くと砂地試験場があり、それを通り越して更に一キロも行けば右手の松林の中にあると言い、遅くなったら

「古川君はそちらに直行するよ」

と言った。

「馬鹿野郎、初めからそれを言え」

と、車に乗ったあと利谷は毒づいて憤っていたが、とにかく車をそちらに走らせた。

右手前方にある原発の照明灯を遠く見ながら走っていくと、砂地試験場と書かれた県立農業試験場の看板があり、それを越えて更に行くと闇の中に、言われたような二階建てのアパートのような建物があった。

ただっ広い駐車場に車を停め、ライトを消すと真田が車から降りて右側の明かりが点いている部屋へ走って行き、中の人と何やら話をしていたが、やがて走って帰って来て

「あの真ん中の部屋」

と言って二階の中ほどの部屋を指でさした。

松林で囲まれた寮である。

―― 暗い

窓を開けてエンジンを止めると、松籟の音に混じって遠く海の音がしている。

時刻は十一時になった。

既に真田は軽い寝息をたてている。


第2章――その2 浜昼顔


「おい、有本」

と、静まり返った車の、暗闇の中で利谷が言った。

「あと何日で西岡を捕まえられる?」

「・・・無理でしょう・・・」

「ふむ、しかし俺も約束した手前があるしなあ。―― それにだ、もし団体客の身元が割れたら?」

省二郎は返答に窮する。

「・・・判りますかね?」

「ああ、おそらくな」

「反撃もなしに?」

「反撃?」

利谷は暗闇の中で意外な事を聞く、といった顔をさせている。

省二郎は利谷が無鉄砲な形で西岡たちの影を追っている事の危惧感を述べた。すると利谷は

「お前え――」

と言ってから声を立てて笑い、言う。

「俺は道具にされていたわけか」

「・・・だけど現れなかった。警告はされたけどね」

省二郎も声こそ出さなかったが、笑った。

「馬鹿野郎、お前の考えはだ、俺が動き回っていれば危機感を持った奴らが襲いに来る。そこを捕らえようという魂胆だったんだろう。だからお前はマンションに戻り、会社に出勤していたわけだ」

そして省二郎を見て、首を左右に振り

「俺を道具扱いにするとは、お前も大したもんだぜ。―― いや、こりゃあ参ったよ」

と言って、また声を立てて笑った。


その時、二人の顔をライトが走った。

こちらへトラックが近づいて来る。

やがて五メートルほど離れた所にトラックが停まったが、凄い砂埃である。

ライトが消え、男が一人降り立った。

利谷と省二郎は車を降り、男に近づいた。

砂埃と暗さではっきりしないが、男は自分に近づく二つの影を認めたのか、立ち止まってこちらを見ている。

「古川さん?」

「・・・そうだけど・・・あんた達かい?」

省二郎が手短に用件を話すと

「いいよ」

と言って、すたすたと寮の方へ歩いて行き、振り返って

「何してるの?」

と言う。付いて来いという意味らしかった。


古川という五十路の男は、気さくとか、開けっぴろげとかを通り越した、何と言うのか、自分と他人との境目がないような男だった。半分以上白髪になっている髪の毛をぼりぼりやりながら、二人を家具がほとんど無いにも拘らず屑籠のようになっている部屋に招じ入れた後、窓を開け放し、冷蔵庫から発泡酒のロング缶を二本持って来てグラスを・・・いやコップを、飯台代わりになっているコタツ板の上に三個並べた。

心なしか、何か腐った臭いがする、ような気がする。

「竹輪しかないやあ」

そう言い、皿に十本ほどの竹輪を盛って来て、醤油を垂らした、というか、ぶっ掛けた。爪は黒く、手は垢で縞々になったように見える。

そしてそれで満足したのか、汗がそのままシミになったような顔を歪めてニッと笑った。

「俺、ちょっと水かぶってくるでー―」

そう言って古川は浴室に消えた。

いつも小うるさく、近頃は険のある顔をする事が多い利谷も、毒気を抜かれたのか、汚い畳の上に胡坐をかいて、顎に手をやり

「ほうー―」

と感心している。

六畳の部屋に座っているのであるが、ベランダに続く掃出し窓の横にぺちゃんこになった布団が一組二つ折りにして置かれており、寝る時はおそらくそれを伸ばして使うのであろう。

とにかく室内は、菓子袋、雑誌、新聞、広告、衣類、ビニール袋と、散らかし放題に散らかっている。

利谷が汚れて半透明になったコップを持ち上げ

「では馳走になろうか、ご同輩」

と、わざと強張った顔をして発泡酒を二つのコップに注いだ。古川に当てられているのか、利谷には珍しい冗談を言った。

やがて古川がパンツ姿で浴室から出て来て、薄汚れたタオルで頭を拭きながら二つ折りの布団を引き寄せ、その上に座ると、利谷が古川の前のコップに発泡酒を注いだ。

古川は片手を上げて、やっやっやっと言い、美味そうに発泡酒を飲み乾し

「何い・・・三笠運輸の何が知りたいって?」

と、皺の多い顔を省二郎に向けた。

利谷がまた発泡酒を注いでいる。

省二郎は十年近く前の話だが、と断って白壁と西岡の写真を並べ、知っているだろうかと尋ねた。

すると西岡の写真を手に取り

「為ちゃんやな」

と言ってから白壁の写真を手にし、迷いながら言う。

「この仁は・・・ええっと、なんて言ったかやあ。明子さんの旦那さん何やけど・・・」

「―― 白壁」

「せや、せや・・・白さんや、ははあ」

と言って、歯の抜けた口を開いて懐かしそうに微笑んでから、不意に立ち上がった。そして冷蔵庫へ行ってまた二本発泡酒を持って来てコタツ板の上に並べ

「写真なら儂も持っとるで」

と言った。

冷蔵庫の横にある箪笥の引き出しを開けて、何やらごそごそしていたかと思うとアルバムを持って戻って来て

「これに写っているやろ」

と、コタツ板の上に広げた。

省二郎は、写真に見入った。

「それは柏崎の帰りの時の写真やな」

と懐かしそうに言う。

「・・・柏崎?」

「大きな仕事があってんさ。会社の車全部で、ここの発電所から柏崎へ荷物を運んだんだよ。3日間ぐらいその仕事ばかりやったねえ。その帰りに、全員で一泊したんよ。社長も写ってるやろ」

思い出の写真ででもあるのか、十枚近いスナップ写真が並んでいる。白壁が写っている、西岡も写っている、山崎も・・・みんな笑っている。

その中に一枚、巍巍とした黒岩を背景に、十八人の人間が写っている写真が省二郎を惹きつける。あの時は単なる団体の固まりに見えたが、今は一人ひとりの表情が省二郎の胸を締め付ける。

五年前、理香が省二郎に見せたあの一枚も、焼き増ししたのであろう、その中にある。

この一枚の写真が、裏に書かれていた電話番号と共に、三人の男たちの接点に繋がる写真だったのだ。

彼らは、どうしてもこの写真が取り返したかったに違いない。

偽刑事に扮した山崎が、この写真をどうしても警察に渡すわけにはいかないと決心した理由が、今にして判る。

省二郎が一枚の写真を指して

「・・・この人の名前は?」

と聞くと、蚊が飛んでいるのか、団扇でぱたぱたと身体を煽っていた古川がどれどれといった感じで首を伸ばした。

「ああ、山ちゃんやな。・・・ええっと、山崎・・・何って言ったっけ、忘れちゃったよ」

「―― 栄次郎?」

「そうか、そうだったかねえ。山崎栄次郎って言ったかねえ」

その後、省二郎は気を落ち着かせて、一つ一つ丹念に聞いた。

三人はいつ頃入社したのか?

そして退社したのか?

今はどうしているのか?

会社にいた時はどんなふうだったのか?

そんな事を時間をかけて一つ一つ聞いた。


古川は発泡酒がなくなると焼酎を持ち出してきて、二人に勧め、自分もそれに氷を入れて飲み、遠い記憶を手繰るようによく喋った。

聞けば、入社も退社もこの三人の男はばらばらであった。

正確な記憶ではないが、山崎は二人が入社するより二年も前からここに勤めており、次に西岡、そして半年ほど後に白壁が入社したと言う。

逆算すれば、白壁が姫路から姿を消した平成七年七月頃に白壁は入社した事になりそれより半年前に西岡が入社したのであれば、宮城刑務所を出所した三月頃に西岡は入社したのであろう。

「白壁さんが入社した時、女の人を連れていませんでした? 明子という彼の奥さんなんですが?」

古川は、明子さんの事ならようく憶えていると言い

「きれいな人やったし・・・問題ばかり起こしていたからねえ」

と言った。

「来てから一ヶ月ほど後やったから、十月の初め頃やったかいなあ」

救急車で運ばれた、と言う。

「救急車?」

「うん、手を切ったんや」

と、古川が語るところに拠れば、当時はまだ古川の女房も生きており、又このアパートも平屋の長屋が三棟建っているだけの侘しい物であったが、ある朝、みんなが出勤した後で、明子は手首を切ったという。

「・・・」

「儂あ、それだけでもびっくりしたんやがー―」

二−三週間後に、傷が癒えて長屋に戻って来て二日目

「今度は海に身投げやでー―」

死を願う人間が本当にいる事に驚いたという。あんな人間は最初にして最後だとー―

「・・・死んだ?」

「いいやあ、生きとったよ」

そもそもこの辺りの海は、見かけによらず海流の流れが激しいのである。一度巻き込まれたら海底に引きずり込まれ、なかなか浮かび上がらず、多くは御前崎の沖まで流されて駿河湾に溺死体となって晒される。

「夜やってんなあ。白ちゃんが寝てる間に抜け出して、海に入ったんやろうねえ・・・朝早かったから」

明子は十一月の冷たい朝陽の射す浜辺に、打ち上げられていたという。

「儂も見に行ったよ・・・」

あの光景は忘れられないと言い、毛布が被せてあって、白い透けたような顔に黒い髪が幾筋もまとわり付いて

「怒られるかも知れんけど、美しいと思ったよ」

けれど

「白ちゃんが大声で泣きよるし、もう大変やったわ」

と言って、ニッと笑った。


網戸を通して潮風が入って来ており、利谷が吸う煙草の煙を一定方向へ流している。

潮騒が、遠く聞こえる。

省二郎は尋ねる。

「―― それで?」

「どうもないよ、また病院へ運ばれて行ったけど、そのまんま三日ほどして消えたらしいから」

「―― 消えた?」

「白ちゃん、房江さんと一緒に会社休んで捜し回っていたけど・・・まあ、あれや、逃げられたんやろ」

「・・・房江さん?」

「山ちゃんの奥さんや」

聞けば山崎の奥さんで、ちょうどあの頃ここに居たと言う。何でも二年間くらい病院に入院していたとかで、退院して帰って来たと。

「暗い奥さんやったねえ。うちの女房とは親しかったんやけど、付き合いのない人やったよ」

けれど隣に住む明子とは気が合うのか、よく明子を抱きかかえるようにして歩いていたと言う。

―― そうかも知れない

「するとその後、白壁さんは・・・?」

「いやあ、あの後すぐ辞めたねえ」

古川はそう言って焼酎をグビッと飲んでは、団扇で足元をぱたぱたやっている。

そしてコタツ板の上に広げてあるアルバムの、一枚の写真を指して

「これや、房江さんや」

見ると女性が二人並んでいる。

目元の涼し気な、半そで姿の女性が写っている。

―― この人も笑っている

「こちらの人は?」

省二郎がもう一人の女性の指して言うと、古川はしばらく黙っていたが

「俺の女房や」

と、ぽつりと言った。

利谷が言う。

「西岡ってのに奥さんのような人はいなかったのかい?」

「うん、為ちゃんは堅物だったからな」

と言って、あの人はと続けた。

「あの人は何も喋らんし、近寄り難い雰囲気やったしねえ。気色が悪くて、怖かったしなあ」

「―― 怖い?」

山崎のように気さくに挨拶する訳でもなし、仕事でも誰とも同乗したがらなかったと言って

「いつも木刀持ってさ、浜で素振りしてんのよ・・・あの頃、儂、犬飼うてたやろ。そいで毎朝散歩に行くとな、海に向かって木刀振ってんのよ。あれは身体を鍛えてるという訳でもなさそうだし、気色悪かったなあ」

けれど、別な意味で山崎も気持ちのいい人間ではなかったと言い

「猟銃持っててさ」

見た事があると言う。

「そうするとこの三人は親しかった訳じゃないの?」

利谷が煙草の煙を吐きながらそう言うと、古川は少し考えてから言った。

「・・・どうかなあ。浜でさ、浜ったってあんた砂丘だけどね。そこで為ちゃんが素振りしている時なんか、山ちゃんが膝抱えてはよく海を見ていたけどなあ」

そんな印象が残っていると言って、しかしと、古川勝也は言う。

二人はともかく、白壁は女房同士ほどには親しくなかった、と。ここに居たのも三ヶ月くらいだったと。

しかし、傍目には如何に見えようとも、あるいは期間が如何に短かろうと、三人の「交差の点」はここである事に間違いはない。

時刻は三時を回っている。

省二郎が時計を気にすると、自分は明日は遅番だからと言って立ち上がり、また冷蔵庫に行って氷を持ち出して三人のコップに放り込み、焼酎を注いだ。

そして記憶が次第に鮮明になって来たのか、酔いの回った舌で

「明子さんやろ、あの人なあ、来た当初この人は何やろうて思ったよ。身体の具合が悪かったんやろうと思うでえ、家の前を通るといつも唸り声が聞こえてねえ」

最初は昼間からようやるわと噂をしていたと言う。

「だって、そっくりな声やもん」

しかしそれは病気であったらしく、それを隣に住んでいて、ちょうど退院して来た山崎の奥さんである房江さんが、いつの頃からか看病していた記憶があると言う。

「せや、せや、ほいで二週間もしてから抱いて歩いていたんやな」

古川は一人合点して頷いている。

ヤク漬けにされた身体なのだ。それを出所して間もない房江が、秘かに看病していたのであろう。

その時、この二人の女性の間には如何なる会話がなされたのであろう?

「今はどうしているんでしょう?」

「さあなあ、誰も知らんやろう」

古川の話によると、平成七年の終わりに白壁が退社し、その後山崎が半年ほどして会社を辞めたという。そして、その半年後、西岡がここを去ったのだとー―

省二郎の頭はフル回転している。

その間、三人の男たちは連絡を取り合っていて、一つの企画の元に一人ずつ、誰にも知られる事なくここを去って行ったのだ。

何故なら、西岡が旧三笠運送を最後に退社したという平成九年二月こそ、白壁が浅井という名になって、しかも億という金を持って、千葉恒産の巽ヶ丘詐欺事件を起こす準備をすべく名東荘を借りた時なのだ。

更にその一月後には洞貝が行方不明になり、それに加えて更に、その年六月にはついに巽ヶ丘の詐欺事件が表面に浮かんで来る。

それを考えれば、この飛砂防備保安林に囲まれた、今はなき三軒長屋こそ三人の男たちの暗い合意が形成された場所なのだ。

そう、そして時が経ちそれぞれの立場が出来て、白壁は殺されたのだ。

蚊が何匹か飛んでいるが、誰も気にしなくなっている。

窓を見ると、空が白みがかっている。

時刻は四時半である。

古川は眠そうな目を瞬かせている。

利谷が省二郎に目配せをしている。もうこれ以上聞く事はない。しかし、省二郎は、最後にと言って尋ねた。

「どういう男たちだったんです?」

「はあ・・・?」

省二郎の言っている意味が判らないのか、古川は省二郎を見て不思議そうな顔つきをする。

省二郎も自分の質問の余りな漠然さに、苦笑した。

「いや、山崎という人なんかは、リーダーシップがありそうに思えるんですけどね」

古川は顔を傾けて

「リーダー・・・シップ・・・そんなもんは知らんよ・・・どんな男たちって聞かれて・・・判らんよ。冬なんかあんなに寒いのにさ、いつも海ばかり見てて・・・水平線に何かあったんじゃない」

そう言った。


くどいようだが、追い込まれた母を焼身自殺で亡くし、そのために人を斬り殺して刑務所に入った男と、三角商法に拠る偽装倒産に巻き込まれて財産を失い、そのために子供が死に、妻が刑務所に入らざるを得なかった男と、暴走族に付きまとわれて最愛の妻が面白半分に陵辱の限りを尽くされた男と、その三人が期せずして十数年前にここにあったという、三軒長屋で顔を合わせたのである。

―― 暗い合意に形成

秘かなる意図がここで生まれたのだ。誰にも理解されず、されようともしない暗い意図が生まれたのだ。こういう人たちは、自分の喜びや悲しみを、埋火のように埋もれさせて生きて行くものなのだろう。

「・・・」

黙り込んでいる省二郎に、利谷が言った。

「行くか?」

「ああ・・・」

古川は焦点の合わなくなっている目で二人を見比べていたが、やがて

「泊まって行けよ」

と言った。


部屋の外に出て車の所へ行くと、真田が口を開けてだらしなく寝ている。

利谷と省二郎はどちらからともなく顔を見合わせ、どちらからともなく足を海へ向けた。

寮の横から細い道が一本、薄暗い松林の中に続いている。緩やかなその坂道を四−五十メートル登って行くと潮騒が徐々に大きく響くようになり、やがて藍色の海が見え、それに呼応するかのように純白の砂浜が見えた。

砂浜と言うより、これは砂丘であろう。

海に至るまでには百メートルほどの幅があり、その間隔を保って起伏の緩やかな砂山が御前崎まで、見はるかす続いている。いや右側、反対の砂山を見れば遠く浜松の中田島砂丘まで続いているのだ。

陽が上ったのであろうか、御前崎の前方の海が真っ白で目に痛い。

彼方に二つほどテントが見えるのは、若者がキャンプでも張っているのであろう。

朝早いというのに足元の風紋の描かれた砂地に、淡い桜色の昼顔が咲いて、潮風に吹かれて揺れている。

利谷が靴を脱ぎ、それを手に持って砂丘の中を歩いて行く。途中で立ち止まり、振り向いて省二郎を呼んでいる。

省二郎は手で合図を送り、二十メートルほど遅れて歩く。やがて利谷に追い着き、海に出たが、海は凪いでいなかった。

近くまで来ると、穏やかに見えた波が一メートルほどの高低を持っており、次から次へと押し寄せている。

潮風が気持ち良い。

砂山で立ったまま海を見ていた利谷が、服を脱いでいる省二郎を見て

「―― 何やってんだ?」

と聞いた。

「泳ぐのさ」

勝手にしろ、という仕草をして、利谷は視線を海に戻した。

省二郎はパンツ一枚になって海へ身体を浸し、沖へ向かって泳いだ。

冷たかった。

ずいぶん遠くまで泳いだ心算だったが、後ろを見ると煙草を咥えた利谷が案外近くに見える。

―― 辻さん、怒っているだろうなあ

空を見ると、星が三つほど、薄明かりの中に瞬いていた。



第2章――その3 縮小版


静岡市立中央図書館は、浅間神社の大きな鳥居の前を北へ向かって五百メートルほど行った、右側にある二階建ての建物である。

と書けば、簡単に行けるように思えるが、その説明だけで行く人は、おそらく運転免許試験場に通じる県道二十七号線に入ってしまうであろう。

真田が運転するクラウンもそうであった。

八月三日の炎天下の中を、行きつ戻りつしてようやく着いた時には十一時を回っていた。

ぐっすり寝込んでいた省二郎は、そこで起こされ利谷たちと別れた。

四日前に会社に出勤して、そのまま名古屋に向かって現在に至っている訳であったから、格好としてはスーツ姿であったが、ネクタイは外して下着類を入れた紙袋の中に入れている。

省二郎はこの図書館で、平成八年に起こった静岡県内の事件を調べてみる心算である。

彼らが旧三笠運輸を退社したのは、概ねであるが白壁が前年十二月、西岡が同年六月、山崎が同年十二月、という事である。

そして翌年二月には億の金を手にした彼らが東京に姿を現す以上、平成八年には特別な意味がある。

順次、目立たぬように退社をし、姿を隠しながら、何らかの事件を起こしているのではないか?

当然の疑問であり、それに間違いは無いであろう。それも、三人がチームを組んで起こしたはずであろうから、浜岡の三笠運輸から遠くない場所で起こしているはずだ。あの場所からだと、高速を使っても愛知まで二時間、神奈川まで二時間半、それも県内に入ったというだけの事だからどう考えても事件は静岡県内で起こしている。

一人か二人は運転手という仕事をしながら、残る二人か一人が専従となって起こしたはずだ。

運転手という仕事をカモフラージュに広域な捜査撹乱をし、専従者は実行者として確実に目的を達成する、と言うやり方を取ったであろう。

そう思って静岡県内の平成八年の新聞縮小版を広げて、丹念に三面記事に始まり色んな記事に目を通すのだが、それらしい記事はない。

当時流行ったパチンコ屋を舞台にした変造プリベイドカード事件などが、らしいと言えばらしいのだが、残念な事に犯人は捕まっている。

それに、平成八年の前半は小さな事件も割合載っているのだが、後半七月以降は当時話題になった女学生誘拐事件があったり、アトランタオリンピックが始まったりした為、小さな事件は掲載がカットされた模様で余り載っていないのである。

二時近くまで調べていたが。目が痛くなってきて、近くの喫茶店で遅い昼食を食べた。

食べている時、どういう風の吹き回しなのか、久しぶりに柴垣から電話があった。どうだ、どうなった、と心配していたが省二郎は今までの経過を話し、心配するなと言うと、そうか大詰めを迎えているんだな、と興奮している様子である。

―― そうじゃないんだが・・・

省二郎は柴垣の事はさておき、彼らが起こしたであろう事件を、コーヒーを飲んで考える。

―― 新聞にも載らない事件か


どうしたものかと思案したが良い知恵も浮かばず、また図書館へ戻って続きの縮小版を見ようと、縮小版がずらりと並んだ棚を見ていて、そういえば、と思い出した。

五年前に捕まる時、一度中央図書館へ行って縮小版を見ようとした事があった。あれは、理香の新婚旅行の中止理由を知ろうと思った時だったが、万里子に会うため途中で中止をしてしまった。

・・・何か気になる。

平成十一年の縮小版の七月の記事を見てみた。確か、理香は六月に白壁とアパートで一緒に暮らし始め、結婚式などの話もしていたがマンションを買っただけで、七月には何となくその話はなくなった、と言っていた。

七月に、急に結婚式や新婚旅行を止めたくなるような記事は、やはり、これと言って見当たらない。世界中、航空機事故など、何もない。

しかし、省二郎はページをめくっていて、七月二十一日の記事に釘付けになった。

五年前に見ようとして見る事が出来なかった、平成十一年度の縮小版だった。見出しは

―― 形骸を断ず

となっていた。

江藤淳という評論家が、体調不良のために自殺した、というものであった。しかし記事をよく読むと、先年死去した妻の、後追い自殺であろうと結んである。

省二郎は図書館のパソコンで、江藤淳の略歴を見てみた。

著書の中に「妻と私」という本がある。

―― 課題図書「妻と私」・・・

解説は、その評論家が彼の夫人の末期がん病闘の一年余りの出来事を綴りながら、最愛の妻の死後の喪失感と孤独を書いたものである、としてあった。

喪失を抱えながら無為に生きる事を形骸と表現し、わが身を処決し、断ずるとしてある。

省二郎は全てが繋がった事を確信した。


白壁は、明子失踪から丸二年経って理香と出会った。その後一年、白壁は理香と暮らし始め、もう明子の事を忘れて理香と結婚しようとしたのだ・・・明子の事は忘れようと・・・

その年七月、思いもかけずこの事件が起きた。白壁はこの評論家と自分を対比させ、自分の内にある「冒してはならないもの」に対する、自分の裏切りが赦せなかった。明子を守れなかった自分が、目の前にある幸せを掴もうとした事、それが赦せなかった。

だから、理香と一緒に住み始めてしまった状態を続けながら、結婚という一つの形式にまで踏み込む事が出来なくなってしまった。

二年経ち、その状態もやがて薄れ、今度こそけりを付けようと白壁は岡山へ寄った。そして、明子の影に出会い、自分の本当の居場所は明子の所でしかない事をはっきり自覚したのだ。

そして翌年、一月十三日、テレビでその評論家の死の解説を聞くに及び、己の死を決心したのであろう。

省二郎はそう考え至ると、一見矛盾だらけのように見えた白壁の言動が、よく理解できる気がした。

白壁は最後まで、明子を愛していたのだ。

問題は、死を決心した白壁が西岡たちと何らかの対決をして殺されたのか、あるいは単なる自殺だったのかだ。

省二郎は長い間、考え事をしていたようであった。気が付くと、図書館の窓辺に飾ってあるサギ草をじっと見ている自分があった。



第2章――その4 ダリアスバンク


感慨に耽りながら、平成八年の縮小版を見ていた為かちっとも頭に入らなかった。

五年前にもしこれを見ていたら、どうだっただろう? この記事が目に入ったろうか? 白壁と明子の関係を知っている今だからこそ、敏感に反応しただけで、あの時見ても何も思わなかっただろうと思う。

今だから判ることなのだ。

そんな事を考えながら、平成八年度版を見ているので、なかなか集中出来ない。

大きな活字だけが目に入る。

相変わらず女学生の誘拐記事が多い。

「裕子ちゃん宅へ非情な手紙」などという大きな活字が・・・

―― 裕子?

省二郎は、不思議な気が湧き起こるのと同時に、頭の中の霧が晴れ渡って焦点を結ぶのを感じた。

「・・・裕子?」

確か盗まれた詩集の著者らしき人間の署名も「ゆう子」だった。

2001年の時点で五年の歳月が流れた、と、あの詩集からは読み取れる。すると平成八年、すなわち1996年の出来事があの詩集に書かれているのだ。


事件は歩調を合わせるかのように平成八年七月二十三日に発生していた。

それは、次のような状況下で発生したのである。


中野裕子は当時十七歳、浜松に住む私立聖路加女学院高等部の二年生であり、その生家は十六代に続く材木商を営んでいた。資産は現在の浜松市天竜区西北部の山林六百町歩と旧浜松市内に多くの不動産を所有していた。

その中野裕子が夏季休暇が始まってすぐの七月二十三日午後二時ごろ、所属している水泳部の練習を終えて、浜松医科大学の白い病棟を右手に見上げ、なだらかに続く坂道を歩いていた時である。

夏の気だるい午後、蝉時雨の中を裕子は歩いていたのだが、バス停を降りた辺りから男が一人、十メートルほどの間隔を空けて歩いてくる。

地質学者に拠ればこの辺りは昔、天竜川に洗われた箇所であるため、それに削られて現在は高低差が三十メートルほどある、崖に近いような山道になっている。

当然人家は少なく、樹木が連なって森閑としている。

蝉が鳴き、鳥が飛び、人の近づく気配を察するのか、蛇の目蝶がはたはたと逃げ散る、そんな所である。

後ろの男以外は人影が見えない、その坂道を、大きく右に曲がり木陰に沿って歩いていくと、白いマツダのボンゴが停まっていた。

傍らに眼鏡を掛けた男がしゃがんで、地図を広げている。

裕子が通り過ぎようとすると、その男が地図を差し出し、松野小学校へはどう行ったら良いのかと尋ねた。

裕子が地図を覗き説明しようとすると、その時であった。背後から強い力で口を塞がれ、抵抗する間もなく車に押し込まれてしまったのである。

すぐさま猿ぐつわと目隠しをされ、手足を縛られた。

暴れなければ、と思うのだが、身体が硬直していう事をきかない。

誰かもう一人いたのか、とうに車は動いている。

男の一人が低い声で

「危害は加えない」

と言ったのを合図に裕子は猛然と暴れたのだが、時は既に遅過ぎるほど遅く棺桶のような木箱に裕子は入れられてしまったのだった。

晴天の続く浜松市有玉西の路上での出来事である。


経緯は書かない。

この犯罪のポイントだけを書く。

身代金目的の誘拐事件は現金の受け渡し時が一番の問題だそうだが、この事件に現金の直接の受け渡しはない。

振込みであった。

アメリカより二百万US$余りの決済金が、当時解体の動きが急速に進むユーゴスラビアのモンテネグロに本店所在地の認可を受けているダリアスバンクに振り込まれただけである。ダリアスバンクは窓口のないプライベートバンクだったが、他行に依頼してスイフトなどを条件付で決済出来る機能を持っていた。しかもユーゴスラビアは統一国家とはいえない状況が1年ほど前から顕著になり、この翌年にはミロシュビッチ政権が誕生し、コソボ紛争の火蓋が切られる。その混沌とした状況下にあるモンテネグロへの送金である。マネーロンダリングの最前線であった。

モンテネグロ自体、その後セルビア・モンテネグロ共和国からモンテネグロ共和国へと変遷を繰り返す。

そして余談だが、ダリアスバンクはその後五年ほどあとに日本人が副頭取になり、東京を舞台に詐欺事件を頻発させる事になる。

さて決済金であるが、それは裕子の父親が経営する日本の材木会社がブラジルの木材をアメリカに転売した、その代金としての決済金である。

日本国内での犯人からの接触は全て手紙、一度も電話やネットを使った連絡は無かった。

消印は日本国内ばらばら、アナログな、けれど正体の掴めないのんびりした犯行だった。全体として、拉致犯行時以外は、その瞬間というものがないのである。

裕子は二ヵ月後、元気にその姿を現した。

けれど裕子は犯人の顔も何も見なかったと言うし、何処にいたのかもさっぱり判らない、と言った。


しかしその流れを、省二郎は時系列で丹念に読んだ。

―― これだ

この二時間余りで白壁の心の軌跡が判ったと思ったら、彼らが初動資金を作るため、最初に犯した犯罪まで判った。

省二郎はこの二十四時間の間に、続けざまに詳らかになっていく事実で精神的に大きなダメージ受けているのが判るが、そうもいっていられない。

時計を見ると四時四十分を過ぎている。

省二郎は表に出てタクシーを拾い、静岡駅へ向かった。そして、その途中にあるネットカフェーを見つけ、中に入る。オレンジジュースを頼んでパソコンの前に座り「中野裕子」で検索すると、事件が未解決という事もあって事件がらみの項目が多い。けれど中に一件、結婚と言う文字がついた記事があった。芸能人同士の結婚式の記事なのだが、このように書いてある。

「最高の結婚式を目撃。けれど、この式場のオープンウエディングはオーナーの九品寺泰蔵氏と中野裕子氏だそうで、その時には及ばないけれど今回・・・」



断章――会話


「まだ来ないな・・・それにしても文様が一致するなんてねえ」

「驚いたね。どうなってるんだろ?」

「しかし榎の爺さん、知らぬ存ぜぬとは恐れ入ったね」

「婆さんもだよ。・・・遅いね。ちょっと先に入ってみようか」

「そうだな。・・・しかし理由が判かんねえなあ・・・寒いね」

「・・・おっと失礼、危ないねえ・・・うわ、凄い臭いだね、こりゃ・・・あの横浜の探偵屋、利谷の女なんだろう?」

「ひでえな・・・そうだろう、あんな良い女に男がいないなんて事ないだろう・・・庇いやがって・・・知っていると言ったり、知らないと言ったり」

「犬飼も何にも喋らないし・・・ヤクザ同士の喧嘩で終わりだなこりゃあ」

「なんまんだぶ・・・これかい?」

「みたいですね・・・うわあ、涙が出るよ、これは」

「ひでえ、何てでかい顔だ。目玉が飛び出して・・・うわあ・・・この仏さん、誰なんでしょうねえ?・・・引き取り手がないなんてなあ」

「指紋照合も前科なし。きれいなもんだって」

「所見では心臓だってな。詰まってたってよ・・・そっと戻そう」

「ううん、ま・・・こっちの方が風向きが良いよ」

「ハンカチ要るかい。けどさ、榎も誰も違うって言うとなると、あの逃げ回っている利谷って男、命拾いになるな。もう七日だよ」

「あの黒子の母ちゃん、庭の男はこの男かどうか判らないてっね?」

「もう少しそちらへ行けないか・・・これは、ほんと酷い臭いだね・・・母ちゃんかい? まあね、あの母ちゃんだけだよ、まともなのは。文様も一致してるのに、どいつもこいつも」

「あれ、音がするね、来たのかな?」

「神妙にしないと・・・来ないね」

「・・・看護婦さんだったのかな・・・仏さん、仲間に捨てられたのかなあ?」

「いや、花まで添えてあったらしいし、課長が水葬だって言ってたぜ」

「水葬?」

「だから服装一式、靴も一緒にあったのさ」

「水葬なら浮かび上がることはないでしょうに・・・どうして浮いたんだい? 」

「知らねえよ。魚だって言ってたな、課長が・・・ラブカって言ったかな・・・そいつが噛み切ったってさ」

「ラブカ?」

「駿河湾の化け物だってよ」

「ふーん・・・あれ、誰か来るな、先生のお出ましかな? 」


第2章――その5 バスケット


省二郎が茅ヶ崎のマンションに帰り着いたのは、九時半であった。

名古屋に向かってからまだ四日目の土曜日だが、何だかずいぶん長かった気がする。

あの後も何度か柴垣から電話があり、マンションに着いたら電話をくれと言っていので、しなければなららないのだが、一度シャワーを浴び、身体をさっぱりさせたかった。

郵便箱には新聞だらけになっていたが、その中に二通、切手を貼った封筒と、何も貼ってない封筒があった。一通の切手が貼ってある封筒は住吉会計事務所からのもで、中を見ると、有本先輩に宜しくという短い手紙のほかに一枚、写真が同封されていた。

見れば十幾年か前の山崎の写真であったが、省二郎には既に不要の写真であった。不要の写真ではあったが、雪の中、赤いヤッケをかぶった山崎がスティックを持ち上げて裕福そうな笑顔をしている。

憎しみなどというものは、とうにないが、かといって親しみがあるわけでもない。追いかける省二郎から死を賭して身をかわし、対向車線の向こうから冷たく見ていた山崎・・・

もう一通の切手の貼ってない封筒は美佐子からのもので、日曜日のパーティーへの招待状だった。

―― 明日?

明日はどんな事があっても、裕子という女性に会わなければならない。

会社の事も気になって仕方がないが、それどころではない。

辻バイスマネージャーには、名古屋へ向かって駆け出した後すぐ電話を入れたのだが、その時は非情に怒っていた。美佐子も心配なのか、一−二度電話があった。最初美佐子は、内田が省二郎の配置転換を室賀常務に直接進言し、社内で大きな問題になっていると言ったが、一日置いた昨日、二度目の電話の時は明るい声で辻に連絡を取るようとの伝言を伝えて来た。

省二郎が電話をして不祥を詫びると、辻は

「君、何だか重要な問題を解決しているんだって。そうならそうと僕に言ってくれても構わないよ。会長から直接僕に電話があってね、反対に何かあったら君をサポートするようにって言われてさ、驚いたよ」

と言った。

シャワーを浴びてから缶ビールを片手に、柴垣に連絡を入れる。

「おお、今帰ったよ・・・ええ、今から!?」

柴垣は辻堂にある海岸沿いのホテルの名前を言い、誰にも悟られず来てくれと言う。

「・・・?」

柴垣は、俺が必要な時はいつでも言ってくれ、会社を辞めてでもお前を助ける、などと男気を見せているが、どうも柴垣ならやり兼ねないところがある。そう思って出所以来は突き放したような関係にしてある。

しかし今日の昼に電話があった時、西岡たちとの接点が判った事を伝えた。そのとき柴垣は、そうか、クライマックスが近づいているか、と妙な事に感心していたが・・・

省二郎は色んな事があり過ぎた事と睡眠不足のため寝たかったのだが、待っていると言われればそうもいかず、湘南街道をタクシーで走った。

土曜日の夜である。反対車線は若者を乗せた車で埋まり、その影響で上がり車線まで混雑している。

今は止んでいるが、夕方に降った夕立のせいで混雑の時間帯がずれているのかも知れない。

海岸沿いにあるホテルに着くと、今到着したのか派手な装いをした十人ほどの若者が嬌声を上げ、チェックインしている。

左手に大きな観葉植物があり、その脇を家族連れの一団が歩いている。

その向こうは大きな窓になっていて、昼間なら湘南の海が広がっているのであろうが今は江ノ島を中心にして、三浦半島沿いに光の帯が点滅しているだけである。

省二郎はオープンカフェの中で、立って手を振っている柴垣を見つけ

「おう」

と声を掛け、柴垣の方へ歩み寄ろうとして、動きを止めた。

「・・・」

後ろから誰かがぶつかって来る。

何か言っているが、耳に入らない。

柴垣がこちらを見て、頷いている。

柴垣の隣に座って、赤い服を着た四−五歳の女の子を、膝の上に抱えた女性が省二郎を見ている。

水色のワンピースの上に、チェックのサマージャケットを羽織った小柄な女性が、こちらを見ている。

長い眉、つんとした鼻、そして小さな品のいい口――

省二郎は頭が混乱しそうになった。

「・・・万里子」

柴垣が歩いて来て省二郎の前に立ち

「約束だからな」

と言った。

そして自分は向こうで待っているからと言って、離れていく。

省二郎は柴垣が何を言っているのか、耳に入らなかった。

ただ、言葉もなく立ち尽くしている。

「・・・万里子」

また、誰かがぶつかった。

万里子が膝に抱えていた女の子を降ろし、おかっぱ頭の髪の毛を掻き分けて何事か耳打ちすると、その女の子は

「・・・いやだ・・・」

と小さな声で言い、自分の頭ほどあるバスケットを抱えて万里子の後ろへまわり、万里子のスカートの影から省二郎を見ている。

省二郎は一歩一歩、ゆっくりと万里子に近寄った。

万里子は省二郎の顔を見ていたが、省二郎の手が肩に触れると、すっと視線を外し、目頭に指を当てた。その指に、ブルーサファイアが光っている。

―― ああ、婚約指輪のままだ



第2章――その6 お紅茶


翌八月四日、日曜日の朝、省二郎は九品寺裕子に会うべく、行動を開始した。

まず、電話をしようと思ったが電話番号はどうしても判らなかった。

九品寺家の関連する会社などはネットで簡単に検索出来たが、自宅はどうやっても判らない。

直接会う以外ないという考が固まり、ピーの餌と水が充分なのを確かめ、おかしな所でウンチはするなと厳命してから駅前のレンタカー屋へ行ってマツダファミリアを借り、一路横浜へと車を走らせた。

横浜の九品寺家といえば省二郎でも名前くらいは聞いたことがある、昔からの富豪である。

もしどうしても会えないなら、最悪、星野会長に言えば会えない事もないであろう。先日も九品寺家の所有するボートに星野常務が招待されたとか、誰かが言っていたし、地元の財界としての付き合いもあるであろう。

しかし、それは本当に最悪の場合であって、それをしたら省二郎は何ものかに負けた事になる。とにかく独力で解決しなくてはならない。

そう思って車を清水丘の九品寺家まで走らせた。

大きな家だった。坂道を利用して巨石を積み上げた白亜の洋館である。玄関横には車庫が掘られているが、見るからに頑丈そうなステンレス製のパイプシャッターが下ろされている。

その右側が入り口正門であるが鋳物製の、高さ二メートルを越す門扉によってぴたりと閉ざされている。

忍び込むのには無理がある。

実行すればいつぞやのように警報装置が作動するであろう。

しかもその後五十メートルは行かなければ家屋にたどり着かないのだ。

十重二十重とはいわないまでも二重三重にチェックポイントがありそうだ。

省二郎は正攻法で攻める事とし、門扉の横のインターホンを押した。

「はい、どちら様ですか?」

と言う声は、日本人のものではない。

「有本と言いますが、奥さんにお会いしたい」

と言うと、少し待って下さいと言ってからずいぶん待たされた。挙句に

「どちら様ですか?」

と、聞き返して来る。

「ですから、有本と言います」

と答えると、またずいぶん待たされた。そして

「奥さんはいません」

と言う。

「・・・?」

パイプシャッターの向こうには真っ赤なアストンマーチン・ラピードも置いてある。居留守を使っているが、何故だろう?

「では・・・」

と言って、裕子の主人である泰蔵氏への面会を頼むと、これはその場でイギリスへ出張しているという返事。

こうなればと思い、車を七十メートルほど離れた坂の上の木陰に停め、見張る事にした。

利谷からの朝の連絡では、今日、石黒が退院するので節子が迎えに行っていると言っていた。利谷は団体客の捜索に取り掛かっている。

坂の上に来て見張り出して気が付いたのだが、坂の下方に横浜の街が広がりその向こうに横浜港が広がっている。背を向けていたため、気が付かなかった。

人通りが少ない、というか、ない。

そうして待つ事二時間、午後一時過ぎ、パイプシャッターが上がったと思うと、真っ赤なアストンマーチンが滑り出てきて、真夏の光を浴びて反射を繰り返す坂道を下って行った。

乗っているのが誰かは判らなかったが、まずは裕子であろう。

省二郎は後を尾行る。

マーチンを運転しているのが誰かは判らなかったが、非情にわがままな運転をする事だけは確かだった。

マーチンは黄金町の節子の事務所の前を通り、右折して中村川に当たるとその左岸を下り、途中から細い道を右に曲がって急斜面を一気に登った。

省二郎は先ほどから覚悟している。

マーチンは省二郎が尾行ている事は先刻承知しているだろう。何せ、こんな道を右へ左へと後を追うのである。

しかし真っ赤なマーチンは、振り払うとか確認するとかの動きを一切しない。

二台の車は連れ添うように強い陽射しの中を、坂道を折れ元町を走っている。

長い髪が揺れているところを見れば、運転しているのは女のように見受けられる。

―― 裕子だ

諏訪町に入って少し行き、大きな赤い屋根が見えたと思うと、急にスピードを落とし、左側の樹木が生い茂るレストランに入った。

省二郎もそれに続く。

マーチンから髪の長い女が降り立ち黄色いスーツを風になびかせた。

そのマーチンの横にマツダファミリアを停めると、その女は省二郎の事を全く無視して店の入り口に入って行くところであった。

店の名を見ると金色の文字で「フリージア」と書かれている。

省二郎は追いかけるように店の中に入った。音楽が低く流れている。日曜なのか、客が多い。

見渡すと女はすでに店の一番奥で、ティーカップを口に運んでいる。

―― いつ頼んだんだ?

省二郎は腹を括って歩いて行った。そしてその女の前に立ち、失礼ですが、と言おうとすると

「どうぞ」

とその女が先に言って、前の椅子を目で示した。

「如何なさって? お座りになったら?」

「・・・わたしは」

「有本さんでしょう。今朝から何度も伺ってましてよ」

「・・・」

「どうぞ、お紅茶が冷めますわ。それとも、冷たいものの方がよろしかったかしら?」

見れば、なるほど目の前にティーカップが置かれていて、湯気を立てているではないか。

省二郎が座りながら

「裕子さん?」

と聞くと、微笑みながら顔を傾けた。

その物腰はとても二十七歳には見えない。切れ長の目を省二郎に向けているが、鼻筋が通り、左右のバランスがきっちりとし、黒髪をそのまま肩でウエーブさせていて匂い立つような美人である。

化粧は殆どしていないようである。

「私にご用があるんでしょう?」

省二郎は気圧されるのを感じるが、誘拐犯を知っていると言えば少しは協力的になるであろう。まずは挨拶からと思い

「有本と言います」

と言ってから

「少しお尋ねしたいことがあるんです。実はこの三人の男なんですが・・・」

と、芸が無いなと思いながら、古川から借りた三人の写るスナップ写真をテーブルの上に置いた。

裕子は一瞥して

―― それが・・・?

という表情で省二郎を見た。

「あなたは昔、誘拐された事がありますね。その時の犯人だと思うんです。よくごらんになって下さい」

すると裕子は微かに微笑んで

「このお紅茶、スリランカで採れた今年最高のお紅茶なんですって。お飲みにならないと、冷めますわよ」

と言った。

省二郎はむっとして紅茶を見、ティーカップを持ち上げて匂いを嗅いでから、用意されている砂糖もミルクもレモンも何も入れないで一口飲んでみた。

―― まあ、こんなもんだろう

「・・・紅茶の種類は私には判りません。それより、あなたは全てを知っているはずだ。あなたを誘拐したのは、ここに写っている三人だ。ご覧になって下さい」

と少し語気強く言うと、また先ほどのように、目の端で写真を一瞥して

「・・・昔、この店の入り口のところで私を睨んでいた、怖い人がいたわ・・・あなたそっくり」

と言って、視線を窓の外に投げた。

それがどうした、と思って省二郎は聞いている。

しかし彼の中にいるもう一人の省二郎は、しまった、と思っている。あまりにも準備不足だった。裕子という存在への完璧なる認識不足だ。自分が何かとんでもない間違いを犯している事を感じ取っている。

「いや、私が聞きたいのは・・・」

と、省二郎が惰性のまま重ねるように言いかけると、それを遮るように裕子が言った。

「有本さん、私に何をお聞きにたりたいの? あなたは、誰?」

「・・・?」

省二郎が言葉に詰まると、裕子は

「ちょっと失礼」

と言って立ち上がり、洗面所の方へ歩いていった。

省二郎は大失態を演じている自分が判る。

確かに語りかけ方が直線的であった事は認めるが、そういう技術的な問題ではなく、裕子という女性とこの問題について話をするには、もっと深い理解を必要とする人間と人間の問題の何かが足らない事を告げていた。もっともっと煮えたぎった後の、言葉のエッセンスが要る。しかもそれを語れる、自分が要る。裕子という存在はそれほど濃密で、自分が抱える問題の核心の存在だ。その態度、物腰、言いよう、それらは全てそれを暗示している。

省二郎が腕を組んでこの失敗をどう挽回したらいいものかと考えていると、ウエイトレスが来て裕子のティーカップを下げようとする。まだ、紅茶も半分入ったままだ。

「え・・・今の、女性は?」

「奥様はお帰りになりましたけどー―」

憮然とした気持ちのまま、省二郎も店を出たが、いいようにあしらわれたという不快感と、それを裏返したような裕子の行動の、余りな見事さの対比が、省二郎の心を金縛りにしているようであった。

時間にすれば五分もなかったであったろう・・・


第2章――死んじゃったんだもん


車に戻り利谷に連絡を入れると、ちょうど良い、横浜にいるなら節子の所へ行ってくれと言う。

「俺はお尋ね者じゃなくなったらしい」

だから、俺も節子の事務所へ行くからそこで落ち合おうという事だった。

節子に連絡を入れて、今からそちらへ行くと言うと

「利ちゃんは八王子だから、まだ一時間は掛かるわ」

だから今近くのファミリーレストランにいるので、良かったらこちらに来てと言う。

そこで節子の指定した桜木町のレストランへ行くと、日曜日なので家族連れが多い中、奥のほうに節子がいた。近寄っていくと、節子は右手に包帯を巻いて、それを首からぶら下げている男と一緒にいた。

「こちら石黒君、初対面の気がしないでしょう?」

と言ってヒッヒッヒッと笑う。

節子のそういう態度はそれなりに魅力があるのだが、どうしても先ほど別れた裕子と比べてしまう。

しかし節子はそんな事お構いなく、昨日利谷に会って指示を受けたのだと言って

「今日マーちゃんを引き取ってから、ついでに品川と川崎のホテルを回ったのよ。ねえ」

と難しい顔をしている石黒に相槌を求めた。

省二郎は利谷が如何なる自信があるのか、数日中に十五名の団体客の泊まったホテルを特定すると言っていた具体的な中身を知らない。

節子は、利ちゃんって頭が良いのよねえ、と石黒に言った。

聞けば、利谷はこう考えたのだという。

すなわち、まず考えなければいけない事は、彼らは寿司屋を選んでから宿泊施設を選んだのか、あるいはその反対か?

答えは、宿泊先からである。何故なら、彼らに許された時間は八十時間、具体的には西岡が省二郎から電話を受けた日曜の午後から、省二郎に扮した男が「寿司鉄」に現れる火曜日の夜中までの時間なのだ。

しかし、宿泊先の確保は当日では余りにも無理がある。十五名の団体客なのだ。

火曜日にこちらへ宿泊となれば、その前日にホテルが決まったというのも余りにも変である。となれば、日曜に宿泊先を決めるべく、必死で探したに違いない。

半日であと二日後と決まっている十五人の宿泊先を確保するとなると、その方法はきわめて限られたものになる。

ネット予約の制度が無かった当時、方法としてはホテルガイドの本を利用したに違いない。旅行屋への依頼はするまい。犯罪が絡んでいる。

日曜日の午後、鎌倉にいた西岡は、翌日の月曜日の朝には宮古にいた訳だから、西岡が手配は出来ない。

名古屋の団体客なので、名古屋から東京の宿泊先の電話番号を知ると仮定すると、電話帳かネットしかない。電話帳は名古屋では関東の物を手に入れるには日曜日で無理。

あとは当時盛んだったハローサービスか時刻表の案内欄だろうが、これも無理だ。

どう考えても、ホテルガイドかネットしかないが、今と違ってネットに宿泊施設の予約が無かった事を考えると、やはりホテルガイドの本だ。

利谷は節子に言って平成十三年の各種ホテルガイドの本を、丸一日走り回って集めてみた。

そうすると掲載先が殆ど重複しており調査対象は三十を超えない。

だから今日から利谷のグループと節子のグループに分かれて探しているのだという。

「二日間で全部回れるから、明日には判るよねえ、マーちゃん」

と節子は石黒を見て言った。

石黒は、はいと言って小さく頷いた。

―― そうだろうか?

省二郎が窓の外を行き交う車の流れを見て、考えに耽っていると

「そんな事じゃないのよ。大変な事ってー―」

と深刻そうな顔をさせて節子が言った。

お昼に携帯へいつもの刑事から連絡があり、二時間ほど前に事務所で会ったところ、節子に一枚の写真を見せて

「知っているか?」

と聞くのである。それが

「鬼のような顔になっていたけど、宮下だったのよ」

「鬼・・・? 宮下・・・?」

聞いた気がするが、省二郎には判らない。

「ええっと、何だっけ、ほら・・・山崎さん、あの山崎栄次郎って人なのよ」

「何だって!刑事が山崎の写真を持って来た?」

―― 刑事が、何故?

「そんなに驚かないでよ・・・それが、デスマスクなのよ。水死体ってね、目玉とか唇が水分で膨れあっがて鬼みたいな顔のなるのね。死に顔なのよ」

「ええ!」

わけの判らない衝撃が省二郎を貫く。

「駿河湾に浮いていたんですってー― そいでね、榎を刺した人間は彼に間違いないって判ったんですって。だから、利ちゃんに出頭するよう伝えろって言うのよ」

省二郎は気持ちを落ち着かせて聞いた。

「・・・どう言う事?」

「判んないわよ。警察としては宮下さん・・・じゃなくて山崎さんのね、身元が判らないから利ちゃんなら知っていると思っているみたいなの」

そう言って節子が水を飲んだ時、節子の携帯が鳴った。

利谷から、もすぐ事務所に着くから全員集合という事だった。



省二郎たちはすぐそのレストランを引き払い、節子の事務所に向かった。日曜なのだが、初めて見る高木香保と挨拶を交わし応接室の扉を開けると、すでに利谷はソファーに横になっていて

「ノックぐらいしろよ」

と、省二郎を見上げた。

真田が窓の所で腕立て伏せをしている。

利谷は起き上がりながら

「どうする?」

と聞いた。

「俺はもうお尋ね者ではなくなったそうだ。犬飼にも確認した」

「どうするって聞かれて・・・利谷さんの方はもう終了かなあ?」

省二郎と利谷の置かれている互いの状況が一変して、利害関係がなくなったのである。

利谷が

「俺の方は終わっちまった。で、お前、どうする?」

と、省二郎に向かって言うと、腕立て伏せを終えて石黒と話をしていた真田が、横から

「終わっちまった、じゃ気が納まらんでしょうが」

と、この男には珍しく激しい口調で言った。

利谷が困ったなといった顔をして、今度は真田に向かって言う。

「ゴール寸前の最終局面で差されたわけだ。しかしだ、二着ではあっても連複の馬券は当たった・・・満足出来んか」

「当たり前でしょう。だったらこの十日間は何だったんだって事になりますよ。利谷さんらしくない。引き下がる手はないって。終わったとか、まだだとかの問題じゃない。生き方の問題だ」

と、何かのコンクールのような言い方をした。

何を感じたのか

「それって良いね」

とみんなから少し離れて椅子に座っている石黒が、小さな声で間が抜けた事を言うと、それまで何も言わず男たちの会話を聞いていた節子が

「だけど、もう良いんじゃあない。犯人も死んじゃったって言うしさあ」

と冷めた言い方をした。

それを聞くと、真田が猛然と言った。

「じゃあ節ちゃん。オーラスでよ、トップひっくり返されてよ、二着で賞金もらったから良いや。負けたけど帰ろうって思う? 勝負はこれからだって」

節子も低い声で言う。

「だって犯人は死んじゃったんだもん。勝つも負けるもないじゃん」

真田は興奮しているのか、赤い顔をして何か言いたそうにしているのだが、いい言葉が見つからないようである。

そんな二人を見比べていて、利谷が言った。

「店長、止めなよ。俺も判って言ってんだ・・・こういう時は男と女って、二極に分かれるものなんだよ。お互い頭で判っていても、どちらかを選ぶかって時にはこうなるんだ。二つを一緒には選べない」

と言って大きく息を吸い込み、しょうがねえなあといった面持ちで

「要するに、勝ち方とか負け方とかの、カタの問題なんだ。勝ち負けじゃないんだ。納得できない成功より、納得できる失敗を選ぶ時が男にはあるって事さ」

そう言った。

省二郎は高木香保が運んできたお茶を口に含んで、利谷が言うとどうして気障な言葉が気障でなくなるのか、と思っている。錆びた声のせいだろうか?

その省二郎に

「とにかく、進むところまで進んで来ている。奴らが何を考え、何をしようとしたのか、それが判るまで追及は止めん・・・お前だってそうだろう」

と、省二郎に向かって、語気鋭く言った。


その後お互いの知りえた情報を交換しあって、夜八時、省二郎と別れて利谷は久しぶりにG−グラスホテルに帰った。

フロントの愛子がにっこりして、大変でしたわねと言う言葉を背に部屋へ戻り、冷蔵庫からミネラルを取り出して喉に流した。

冷蔵庫の上に青いメガホンが置いてある。

カーテンを開けると見慣れた横浜港の夜景が広がる。ちょうど十日振りである。変な形だが、節子との約束は果たした。

利谷は省二郎の事を考える。

初めは頼りのない奴だと思っていたが、それも西岡に襲わせるための偽装であったと判り、ここ二−三日でその認識は一変している。

あの頭の回転の速さ、そして重い思考力。そして何よりも彼を特徴付けているのはあの悠揚とした態度であろう。

利谷は自分が省二郎に惹かれているのを感じる。

行動力では引けを取らないと自負は出来ても、九品寺裕子が鍵だと、そこまで追い詰めた鮮やかさは到底自分には真似が出来ない。

いつの間にか省二郎に指示されながら動いている自分がいる。

先ほどの別れ際、二人きりになった時もそうだった。

省二郎は駄目だと言う。今のような捜し方では、名古屋の客は捕捉できないと。

そして、リストに載っていない二軒のホテルの名を挙げ、必ずその二軒のどちらかに宿泊しているはずだと断言した。

利谷は明日、その二軒のホテルを回ってみる心算である。

いずれにしろこの三週間にわたって続いたごちゃごちゃも、あと二−三日で終わる。

利谷はもう一度ミネラルを一口飲んでからベッドに腰掛けた。

上着の内ポケットから節子のブレスレットを取り出すと、数条のきらめきが利谷の目を射る。

しばらくして携帯のボタンを押す。利谷の声が部屋に静かに響いた。

「あ、私、利谷ですが、奥様ですか・・・ご無沙汰しております。野田社長はお帰りでしょうか?」

左手でBGMのスイッチを回す。音楽が流れる。

「あ、私です・・・盆明けには出社しようと思いますので手配をお願いします・・・いや、早くは出来ません。女の事でやらなきゃならない事が出来ましたので・・・」


終章――喪失の青空

断章――日記


今日、堀井に会った。

堀井は、私が思っていた通りの、いい目をしていた。いい目はしていたが、私はあのような性急さを好まない。

私と話がしたいのなら、有本ではなく、堀井省二郎として私の前に立って欲しい。自分を有本と名乗り、私が「有本さん?」と呼んでも、あたり前のような顔をしているような男とは、話もしたくない。

山崎さんや西岡さんは、彼を買いかぶり過ぎていたのではないか? 彼はあなたたちとは全く違う人間のように思えるが・・・?


人には超えることの出来ない、目には見えない線がある。人は誰でもここから引き返す。

けれど、その一線を越えて、旅立たねばならなかった人間も、またいるのだ。

堀井よ、あなたが旅立たねばならなかった人間の悲しみが判る人間ならば、それなりの人間として私に会いに来て欲しい。

それが、私とあなたとの間に斃れている人間たちへの、最後の礼儀というものではないか。


堀井は私に、あなたは全てを知っている、と言っていたが、言った堀井自身そうは思っていまい。

私が知っている?―― 何を? 何を私が知っていると言うのだ。

私が知っているのは、あの夏の暑さと、節穴から見えた空の青さだけだ。ということを、堀井は知るまい。

それにしても十年前のあの夏、初めの動揺が去った後の、あの白々とした心の静けさは、何だったのだろう?・・・無為の日々・・・

私は、何を考えていたのかー―?


思い出す、あの嵐の夜の白壁さんをー―

白壁さんは、逃げ出して道に迷い、ずぶ濡れになった私を抱きしめ

「帰りたいだろう。待っている人のところへ、帰りたいだろう・・・裕子ちゃん、君はいつでも帰れるんだよ。君の、権利なんだ」

と、搾り出すような声で言った。

あの漆黒の闇の山中に、呆然と立ち尽くしていたのは、確かに私だ。

怖かったー―

だけど私は、あのような形の愛情を、父親からさえ受けたことはない。

ターニングポイントというものがあったとすれば、それはあの時だったのだろう。あれ以後、私が帰りたいと言えば、いつでも帰れたのだから・・・


誰だって、人の窺い知れない秘密を持っているものなのだ。

語り伝えたいと願っても、どうしても相手に伝えられない感情、というものは確かに存在する。

太陽のせいだ、と言うのが、何らかの正当性を持っているとするならば、私の正当性とは、青空のせいだ、と言えなくもない。


犯罪とは、強烈な目的性を帯びているものなのだが、被害者がその目的性に巻き込まれて精神の拘束を受けてしまうことを、心理学者は難しい理屈をこねて指摘する。けれど、事はそんなに難しいものではない。

少なくとも、私はそうだった。

私は、あの三人の男たちの弁護がしたい。

法の狭間に落ち込んだ人間が、次に為しえる行為は三通りしか残されていないのだ。

諦念か、復讐か、あるいは自決かー―

しかし、山崎さんも西岡さんも、そして白壁さんも、私の弁護に対して表情ひとつ変えるでもなく

「裕子ちゃん、ありがとう」

と、いつものように笑うだけであろう。

彼らにとって、一連の出来事は復讐ではなく、過去への決別のために乗り越えなければならない「何か」であったのだからー―


もし私が今、堀井に伝えたい事があるとすれば、もう戦闘は終了している、という事だ。これ以上の闘いは、無益だ。

しかし、堀井はまだ私に対して闘いを挑んで来るであろう。限界とは、オーバーランして、初めて判ることなのだからー―


私は未だ会ったことのない明子さんの事を思う。

同じ女性として、明子さんの命の軌跡は、私の心の支えになっている部分がある。

北の街、札幌に住むという明子さんに、会いたいと思う時があるのだ。

会って、何をしたい、と言うわけでもない。

話す、言葉がある、と言うわけでもない。

ただ、その為に生き、その為に死んだ白壁さんに代わって、会いたいと、心の底から思うのだ。


明日は朝早く、成田に行かなくてはならない。行って、旅立つ西岡さんに、最後の「さようなら」を言わなくてはならない。

それが私の、過去への別れになるだろう。


                 2007・8・4   ゆう子



終章――その1 ピー


もう十時半になっている。

後ろの座席ではピーが寝ている。

ピー、子猫の名前である。いや、タマの子、と言ったほうが判り易いかも知れない。

一昨日、万里子の後ろの陰に隠れるようにしていた女の子が

「あげる」

と言って渡されたのが、アメリカンショートヘヤーのピーである。

「達雄兄ちゃんの家のね、タマの赤ちゃんをもらったの」

それを綾子はどうしてもお父さんにあげると言って利かないからー― と万里子は言った。

自分に娘がいた。

そんな事、夢想だにしなかった。

万里子は

「柴垣さんに守ってもらっていたからー―」

と言うが、当の本人は

「お前がああなった以上、万理ちゃんだって危険だからな。何がどうなっているのかさっぱり判らんのだから」

だから万里子と相談をして、お前には勿論、誰にも綾子の事は話していないと言う。ただ、死んだお前のお袋さんには死ぬ間際に一度会ってるからな、と言った。

その夜は二時間ほど万里子たちと過ごし、省二郎の指を握って離さない綾子を宥めてから

「一週間以内には迎えに行く」

と、省二郎は二人に約束した。

そのとき綾子からバスケットに入れたピーを渡されたのであるが、飼い方が判らなかった。昔、二−三日タマを連れ回したが、あの時以来である。

とにかく昨日は出かける時に餌と水を用意し、新聞紙を広げてうんちはここにするよう厳命したのだが、帰ってみると約束は守られていなかった。

そこで昨夜、町のペットショップへ行って猫のうんち用のキャットレーを買って用意をし、今日はピーを車に乗せたまま裕子の家の前の木陰で昨日のように見張っているわけであるが、先ほどまでうるさかったピーが今は後部座席で寝ている。


今日も暑い一日が始まっている。すでにここから薄っすらと見える房総半島の上に、積乱雲が湧き出しているのだ。

今日はもう一度、どうあっても裕子に会わなければならない。そう思って朝の八時にここへ来たのだが、その時すでにアストンマーチンがなかった。月曜日と言うことも考えて

―― 出勤したのかな?

とも思ったが、あの裕子である。あり得ない。しかしこんな朝早くからどこへ行ったのだろう? 待つ事にした。

昨日は大失敗だった。昨日のあの五分ほどで、裕子の人となりが省二郎には判る。馬鹿だった。まさか、被害者と思っていた裕子から、あのように強烈な反撃を受けるとは思っていなかったのだ。

あなたは誰? と裕子は謎をかけたが、省二郎は答えられなかった。

こうなれば、生半可なことでは裕子は心を開かないだろう。

どうする・・・?

海を見ながら待っていると、船が往き、空を飛行機が飛んでいく。

―― どこへ行ったんだろう?

そうして待つ事に二時間半――

陽が高くなって来たので車を少し動かそうとギアーに手をかけ、ブレーキを外した時、坂道の下から真っ赤なアストンマーチンが現れた。

マーチンが車庫の前で停まるとパイプシャッターが上がり始める。

省二郎は既に判断を下している。

距離は七十メートル、躊躇は出来ない。アイドリングしていた車のギアーをDに入れ、思いっきり車を発進させる。

―― 無理かも知れない

マーチンが車庫に入って行く。

シャッターが上で一旦止まる。

坂道のため加速が早い。思いっ切り、アクセルを踏む。

前方、マーチンのリアー部分が消え、シャッターが下り始めている。

あと二十五メートル!

カッカッカー! 焦点がぶれる!

よしっとブレーキを力いっぱい踏み込み、ギアーをLに落として車をスピンさせ、車庫の中に突っ込む!

ギャーギッギュ―ンギギッ!!

車が九十度近く回転し、タイヤが軋み、煙を上げる。

「・・・!」

コンクリートの白い壁が目前に迫る!

が、ハンドルを切り過ぎて尻が大回りをし、真っ赤なマーチンの左扉に右リアーサイドが激しく当たった。

大きな音が耳をつんざく。

反動で横の壁にぶつかり

「がくん」

として止った。

ほこりが舞い上がり、ゴムの焦げる臭いが鼻をつく。

後ろでシャッターが下り、止まった音がした。

身体全体がジーンとしているが、省二郎はすかさずドアーを開けようとノブを引き、身体ごと押す。が、フェンダーの当たり所が悪かったのか開かない。

瞬時、省二郎は身体を横にして、両脚でドアーを蹴った。

一度、二度――

ドアーが半開きになる。

その半開きになったドアーから上体を出そうとすると、ピーが外に飛び出していく・・・

あっと思ったが遅かった。

外に出てマーチンを見るとファミリアの右後部がマーチンの車体左に当たったのかサイドミラーがちぎれて転がっている。

「おい、ピー」

半開きになったドアーから逃げ出したピーの名前を呼ぶが、何処へ隠れたのかピーの姿が見えない。車の下かと思って覗くがいない。

「おい、ピー」

と捜していると

「何してらっしゃるの?」

と、車庫に続く芝生の上から声が聞こえた。

見上げると、今日は白いスーツに身を包んだ裕子がつばの広い青い帽子を目深にして、手に持ったサングラスをクルクル回しながら

「変わった停め方をなさるのね」

と言った。そして四つんばいになっている省二郎を見て

「何してるの? 私に用事じゃない事?」

と、言ってから背を向けて歩き始めた。そして肩越しに

「―― 訂正しておいてあげる。・・・そっくりだわ」

と言った。


終章――裕子


裕子の部屋の床は、五ミリはありそうなシルク段通が敷き詰められていた。

美術織物で出来たフランス襞のカーテンがゆったりと垂れ下がる窓辺から、二メートルほど離れて、裕子の居間で二人は向かい合っている。

ふた間続きの裕子の部屋の、この居間の部分だけでも二百五十平米はある。

天井も、高い。

家具はロココ調の凝った木製家具で統一されており、ダークブラウンの壁と色合いを調整してあるようだ。

大きな書庫が、二つも連らなっている。

裕子は昨日と同じように脚を組み、何かご質問? というような表情をして省二郎と向かい会っている。が、昨日と違い二人とも殆ど話をしない。間のテーブルの上には、薄紅色のバラが活けてあり、それを挟んだまま五分は経過している。

裕子は相変わらず冷たい、冷ややかな視線を省二郎に浴びせるだけで、何も言わない。組んだ脚を時折組みかえるのだが、その脚の先にある青いハイヒールが鈍く光る。

かちっとした、硬質の雰囲気を持つ裕子だが、今日は濃紺の縁取りのある白いスーツを着ていて、首にプラチナのネックレスが巻かれている。そのネックレスに五カラットもあるようなダイヤが光っている。

そうやって見てみると、なるほど、この女にはダイヤがよく似合う。

無言で対座しているだけであったが、その無言の中に、省二郎は裕子という人間の息づきを感じ取っている。

裕子は時々、ふっと窓の外に視線を走らせ、一見ボンヤリしているような時があるのだが、それが計算づくではない事は今の省二郎には、よく理解できる。

出来るどころか、裕子から見れば省二郎がそう写っているはずだ。

―― 西岡もそうだった

そうか、思い出す。この男をどこかで見た事があると思ったのは、白壁の視線だ。二人とも、いつもあらぬところを見ているような眼差しをしていた。それだったのだ。

それならば、話のしようもある。無言の対話ならこの五年間、それだけをしていたと言ってもいい。昨日のような重石のない言葉は、裕子との会話には必要がない。削ぎ落とされた会話のみが要る・・・

窓の外には、横浜の港が見えている。

十分ほどした時、ノックする音がして、メイドがワゴン車を運んで来た。

省二郎と裕子の前にグラスを置き、その場でオレンジを搾ってからメープルシロップを入れ、炭酸を注いだ。そして片言の日本語で

「失礼します」

と言うと、裕子が、ワゴンはそのままにして置くように言い、続けて

「私の事は留守にしておいてね」

と言った。

メイドが了解した事を伝え、退きさがった。

裕子はまた何も言わずグラスを取り上げて、形の良い口にストローを運び、一口飲んだようだった。

省二郎もグラスを取り上げ、グラスから泡立つ炭酸が窓から差し込む光に弾けるのを眺め、一口飲んで又テーブルに戻した。

蝉の声が聞こえている。

・・・時が、流れる。

省二郎を見て、裕子が口を開いた。

「いつから私を待っていたの?」

省二郎は答える。

「朝八時から」

「そう・・・朝早くから私がどこへ行っていたのか、あなたはその内に知るでしょうね」

「・・・?」

裕子は省二郎から視線を外して言った。

「音楽でもお聞きになる?」

省二郎はそれに対して何も答えず、裕子を見て言った。

「私は昨日、あなたに悪い事をした。とても失礼な事をした・・・許して欲しい・・・」

もう、充分対話はした。間違いなく、裕子もそうである筈だ。

「それがお判りになる? 本当に?」

「・・・私はあなたの最後の問いに、答えなければならない」

「・・・」

「私の名前は、堀井省二郎だ」

裕子は微笑む。

「じゃあ、私もあなたの問いに答えなければならないわね。何がお聞きになりたいの?」

第一関門は突破した。

「あなたは私を知っている。それもずいぶん昔から・・・そうですね?」

「さあ、どうかしら?」

「・・・判っている・・・あなたに言われるまでもなく、判っている・・・解決にはならない」

「だったら、お帰りになる?」

「いや、事件の解決にはならなくても、私自身の解決にはなる」

「・・・」

室内には二人だけの会話が、伸びきった糸が今にも切れてしまいそうな切実感をはらみながら続いている。

「裕子さん、私は知る権利があり、あなたは教える義務がある」

「・・・そうなの? それでいいの? 権利とか義務とかの問題で、いいの?」

裕子は、するどい。ここでの返答如何では、省二郎に対して裕子の心は永遠に閉ざされ、軽蔑だけが残る。

「・・・あなたが、正しい。それは私の弱さだ・・・ありのままを言えば、おそらく私は真実を知らなければ、これからを生きていけないのだろう。そう考えれば、勝手な私のわがままだ」

裕子は微笑んで、小首を傾げた。

「どうしても?」

「どうしても」

裕子はしばらく黙っていたが、やがて

「・・・みんな一緒ね、バカみたい」

と、省二郎の顔から目を離して言った。

省二郎は閉ざされていた裕子の、心の扉が開いた事が判る。裕子は省二郎を、未知なる世界へ招待しているのだ。

「私が知りたいのは二つだ」

「ふたつ?」

「彼はどうして殺されたのか? そして、何故、私だったのか?」

裕子は脚を組みなおし、遠くを見る目付きをして

「・・・白壁さん・・・」

と、呟いて、続けた。

「人間は自分で死を選ぶ時だってあるわ。ああいう場合は、そう考えるのが一番素直じゃないかしら」

監獄で省二郎は、考えうる限りの、幾通りものシナリオを考えた。その中に、いま裕子が言ったシナリオも考えなかった訳ではない。

一つの映像が、省二郎の中で焦点を結ぶ。

おそらく、白壁は何らかの事情で睡眠薬自殺をした。いや、しようとした。二人の男・・・そこにもう一人女がいたかも知れないが、彼らは白壁が、錠剤が足りなかったのか、途中で吐いたのか、あるいは助けようとしてなお中途半端な最悪の事態に陥ったのか、いずれにしろ死に切れずに苦悶をしている白壁と対面した時、どうしたろう? 白壁との接点は秘密にしなければならなかった。限られた時間のなかで、助けを他に求める手段が、彼らにはなかった。

「そうなると、場所はホテルですね?」

「・・・あら。何でもお見通しってわけね」

窓から見えるベイブリッジの下を、豪華客船が航行して行く。航跡が白く続いている。

かもめが群れになって、飛んでいる。

「青酸カリは、あなたが運んだ?」

裕子は、ゆっくりと表情を変え

「山崎さんは、いつも言ってた。僕は、死ぬ時は、場所を選ばないんだって・・・死んだら、その場所に捨ててくれって・・・いつも死ぬ用意のある人たちだったのよ」

そう静かに言って、港の方を長い間見ていた。そして

「お紅茶、如何? 昨日はお飲みにならなかったんでしょう」

と、ワゴンを手元に引き寄せて、裕子は言った。

風の具合なのか、柔らかい匂いが流れて来る。

「スリランカの、うち農園で作ったのよ」

「いや、昨日は一口だけど飲みました」

裕子は笑う。

「ああいうのは飲んだって言わないの」

省二郎は苦笑する。

省二郎は白壁の死に対して、最後の念を押しておきたかった。

「彼は・・・白壁はどうして死を選んだのだろう?」

裕子の動作が止まり、長い沈黙が続いた。

「愛情って、なんなんでしょうね」

それが、長い沈黙のあとに続けて出て来た、裕子の言葉だった。そして、答えだった。

―― 間違いはない。明子への想いが死の原因だ。

省二郎は、先日静岡の図書館に咲いていたサギ草を思い出していた。ひっそりとした、そういう世界もあるのだろう・・・

「最後の質問をしたい」

裕子は紅茶をいれるため、ティーカップを取り出している。

「私を殺人者に仕立てたのは、何故?」

裕子の手が、またちょっと止まった。そしてまた続けながら言った。

「私はね、いつも思わせ振りな女って見られるの。だけど、本当はそうじゃない。知っている事を話すって、恐ろしい事なのよ・・・いつか、それが自分に跳ね返って来る」

「・・・」

「今のあなたには判る筈よ。あなたは最初、電話で西岡さんに何を喋ったの? 全てはそこから始まった」

そうだ、思い出す。最初、省二郎は彼らしか知らないホットライン用の電話を西岡に掛けて、白壁の失踪を話し、捜索の協力を頼んだのだ。西岡にしてみれば脅威だっただろう。

「しかし、それが私を陥れる理由になるのだろうか?」

「・・・陥れる? まさか・・・」

そう言って笑い

「・・・そうねえ」

と、裕子は続けた。紅茶を省二郎の前に置く。

「堀井さん、先ほど言ったように、あなたの為にあなたに教える義務は私にはないわ。それは死んだ人に対してとても失礼な事。けれど、死んでしまった人たちの為に、あなたに教えなければならない義務なら、私にはあるような気がする」

「・・・」

「答えは、偶然よ」

「―― ぐうぜん?」

「あなたにアリバイが無いなんて、まさか、西岡さんも山崎さんも知らなかったわ。財布の中のカードだって、一度でも使ってあればアリバイは崩れるはずだった。知っていたのは、五千万円を持っているという事だけよ・・・だって言ってたもの、一週間以内だってー―」

話が、核心に近づいている。

「一週間以内―― 何が?」

「資産の処分よ。あなたが警察に拘留されるのは、どう考えても四−五日、いくら長くても一週間が限度、その間にあの人たちは資産を処分して、姿を隠さなければならなかった」

「・・・」

「必ず警察は自分たちを追って来るって、覚悟を決めて行動してたのよ。必死だったの・・・不動産の売却を助けようとしていたら、刑事が私のお店に来た事がある。あの時には、これでもう終わりだと思った」

「・・・」

「だから、翌日国外に逃げたのよ。それが・・・どういう訳か、あなたが真犯人という事になってしまった」

「・・・」

正午になったのか、どこからかチャイムの音が聞こえている。

省二郎は胸が苦しくなるのを感じる。

最後の抵抗をしてみた。

「嘱託殺人というなら、自首する方法もあったはずだが・・・」

「山に埋めたのは、私を守るためなの・・・私があの人たちと連絡が取れている、となれば私がどうなるか・・・お判りでしょう?」

そうなのかも知れない。裕子の言う通りなのだろう。しかし、その後に続く空白の五年間を、それで納得したければならないのだろうか?

「あなたは二ヶ月だが、私は五年だ」

「だから・・・慰めて欲しいの?」

「・・・すまなかった・・・どうしても感情が表に出てしまう・・・そうだね、あなたはあなた、私は私だ」

省二郎は

「失礼」

と、言って立ち上がり、二つある本棚まで歩いて行った。

高さだけでも二メートル以上あるが、特注の書庫なのであろう。木彫りの装飾で統一されている。

省二郎はぎっしりした本を目で追って行き、やがて、一冊の小冊子を取り出した。

ページをめくると、巻頭の詩が目に入る。


・・・

・・・

なのに  伝えたいと願うわたしには

涙を流す以外

他に何が  出来たというのだろうか

―― あの真っ赤なカンナはどうなったのか・・・


壁にもたれている

表情を失くしたあとの表情が  わたしには分かる


心を捨てる  という意味が

わたしと同じように  あなたに分かっていたように

けれどあなたは  わたしと共に

青空を見ている以外

他に何が  許されていたのだろう

―― 過去への仮説はいつも空しい・・・


そう  わたしに分かることは

青空を見ている あなたの悲しみだけ


2001年5月     ゆう子



「青空」というこの詩を、省二郎は五年前、ベッドで寝転んで見た事がある。あの時はわけも判らず頭が痛いだけだったが、今の省二郎は違う。

これは、俘囚の歌だ。

いや、囚われ人が囚われ人に対する、共感の歌だ。

省二郎は思い出す。

獄舎の壁にもたれて、ひざを抱え、鉄格子のはまった窓の、小さな青空ばかり見ていた事をー― あの、遠い日々の事――

今の省二郎には、この歌の意味が朧気ながら判る気がする。何ものか得体の知れない感動が、胸にひたひたと迫って来る気がするのだ。


そうして佇んでいると、扉をノックしてメイドが入って来た。

裕子が何やら対応していたがやがて立ち上がり、省二郎の所へ来て

「外でね、トシタニって人が騒いでいるんですって、どうなさる?」

と聞いた。

省二郎はメイドに、すぐ行くって伝えて下さい、と言って、今度は裕子に向き直り、ありがとうと言った。

「ありがとう。あなたは私の思っていた通りの人だった」

裕子は肩をすぼめる仕草をして

「あら、お株を取られちゃったわね」

と言って微笑んでから

「長い付き合いになりそうな気がするわね」

と言った。

さっぱりとした香水の匂いが、省二郎の鼻を掠めた。


終章――その3 遺髪


利谷と省二郎を乗せた車は、東名高速の東郷パーキングエリアの辺りを走っている。

時刻は午後六時を過ぎ、張り出している雲の頂点が澄み切った空に伸びている。

夕日が左前方から射し込んで、まぶしい。

あと三十分もすれば、長久手にある山崎に家に着くであろう。

運転している利谷が喋っている。

「何言やあがる。二つのホテルのオーナーが九品寺のものだって判りゃあ、お前の居場所も判るさ・・・しかし、お前いつも携帯切ってるな」

省二郎は利谷の喋るのを聞きながら、他ごとを考えている。

死ぬに際して場所を選ばずと山崎は言っていたというが、自分はそこまでの決心はつかないであろう。青酸カリをいつも携え、そこまで決心をして、初めて生きていけた山崎と言う男は、どういう男だったのだろう。

「・・・おい。何考えている、返事もせずに」

と、利谷が言った。

「いや三人の男たちの事ですよ」

「三人といっても、山崎も白壁も死んで、残っているのは西岡だけだろう?―― 奴を捕まえる気か?」

「いや、警告もされた事だし・・・いや、それは冗談としても、そこまでやる気はなくなりました」

「だろうなあ。何処の誰かが判り、それの理由さえ判ればそれで良いのだろうなあ・・・悪意でもあったならまた話は違うだろうがー―」

それに、と利谷はしばらく考えてから言った。

「お前、奴らにどこか似てるぜ」

省二郎は否定もしなかったが肯定もしなかった。ただ

「そうかも知れませんね」

と呟いてはみたが、自分は決してああいう風にはならない、という確信はある。

万里子が待っている。そして綾子が・・・

いや、たとえ万里子が待っていなくても、自分は同じ石に躓きはしない。

必ず、陽の当たる道を歩むのだ。

省二郎は意味なく尋ねた。

「そのスポーツ用品店はまだやっているんです?」

「いや、房江に聞いたら、売っちまったてよ。山崎は警察が来ると思ったんだろうな。余ほど資産の処分を急いだのだろう、そこで世話をした人を招待するって名目で人を集めたんだからー―」

物思いに耽っている省二郎に

「しかし、あの明子ってのは何処へ消えちまったんだ?」

と言った。

車は名古屋のトールゲートを越えて、右折して長久手を走っている。

「さあねえ。興味も無くなくなりましたよ」

「ふーん、ま、そういう事にしておこう・・・けど、その、白壁の自殺も俺にはよく判らん。だってよ、明子はまだ生きてるんだろう?」

「ええ、後追い自殺っていうのは聞きますがね・・・群発自殺っていうのもあるらしいですよ・・・けど・・・」

「けど?」

省二郎はそれ以上何も言わなかった。どんな名称が付けられていても、白壁の心の軌跡は、省二郎には判るような気がするが、気がするだけで、結局こういう問題は本人しか判らないのだろう。判っている事といえば白壁は典子に向かって、明子を守ってやれなかった自分を、涙と共に責めていたという事実だけだ。

間を置いて利谷が言った。

「ところで、裕子ってのは何者なんだ?」

省二郎は首をひねりながら苦笑する。

「パトリシア・ハーストって、知ってます?」

「知らねえよ」

「ストックホルムシンドロームは?」

「お前、俺を馬鹿にしてるんだろう」

利谷が笑って言う。

「うーん、まあ、私たちには関係のない、訳の判らん世界があるってことです」

「ふーん」

省二郎は裕子の言葉を思い出していた。

裕子は省二郎に、これから長い付き合いになる、と言ったが省二郎には判らなかった。

―― そうだろうか?

しかし、裕子と自分にしか判らない、二人だけの感情の塊りがある。おそらく生涯、人には窺い知られる事のない、狂おしいほど静かな思いが二人だけにはある。そう思うと、長くなると言う裕子の言葉は正しいのかも知れないが・・・

省二郎が考え込んでいると利谷が、省二郎の足元を見て

「お前、変な物を持ってるな」

と顎でしゃくった。

今日の昼ファミリアを壊してしまったので、レンタカー屋へ車を返しに行く時、利谷が運転するクラウンと二台連ねて一緒に行った。そしたらレンタカー屋に、清算は後でよいが、私物は今持って行ってくれと言われ、そのままキャットレーを持ち歩いている。

「うん」

省二郎は経緯が面倒なので説明しなかった。

夕陽が沈んで、名古屋の街を残照が包んでいる。

もう一度、考えてみた。

古川は三人の男たちの事を、冬の海の水平線を見ているような男たちだったと言ったが、自分はそういう光景にはそぐわないと思う。自分は藤木や赤松のように、自分の前にある道を一歩一歩、歩いて行く人間なのだ。いや、そういう人間になるのだ。

利谷はまだ言っている。

「しかし、白壁を山に埋めたのは判ったとしても、山崎を海に沈めたのは何故だ?」

「判りませんね。彼らの事情があったんでしょう。だけど、房江さんに会えば判りますよ」

車が停まった。

「着いたぜ」

利谷の錆びのある声がする。

表札のない家に、省二郎たちが来るのを待っているのであろう、打ち水をした庭に続く門扉が開いている。

飛び石が光っている。

利谷に続いて省二郎も車から降りる。

あと省二郎に残されている事といえばこの家の中にあるであろう、遺骨のない・・・というか、恐らくは遺髪のみが安置されている仏壇の、これまた恐らく戒名のない位牌に、房江に見守られて焼香する事だけであった。

そしてまた明日から、会社だ。

美佐子の顔がちらっと浮かんだ。




エピローグー― 手紙


こちら札幌は、九月末だというのに朝夕の空気がピンと張り詰めて、ひんやりと冷たく感じられる日が続いております。

アンカレッジでは、いかがお過ごしですか? やはり札幌よりも、うんと寒いのでしょうね。

あなたがカナダへ発ってから、すでに一ヶ月余り経ちました。もう日本には帰らないとの事でしたので、是非にもお見送りしたかったのですけれど、余りに突然の事なので間に合わず失礼いたしました。

昨日「AKI」がお休みでしたので、久しぶりにアモールへ行ってまいりました。ポプラ並木を歩きながら、あなたとの事を考えてみたかったのです。

バスと電車を乗り継いで、一時間もかかりました。

昨日はあなたにお褒めにあずかった、野菊の花柄をあしらった日傘の出番はありませんでしたが、その代わり芝の中のあちらこちらに子供の背丈ほどの姫シオンが咲き乱れて、静かな陽射しの中、長い影を引いておりました。

アモール、覚えておいでですか?

二年前の八月十九日、あなたが初めて岩見沢に私を訪ねておいでになった日、二人で入った大きな窓が五つも並んでいるカフェーの名前です。

あなたが着ていらしった沈んだグレーのスーツが、びっくりするほど映えた、薄いブルーの羊革の椅子のお店ですけど、お忘れかしら?

私がアイスココアをオーダーすると、あなたはカフェオーレのオーダーを突然アイスオーレに変えたりして、ウエートレスを困らせたお店です。

私、あの日のことは決して忘れておりません。

白壁のこと、わたし、自分ではすっかり清算し終えたつもりでいたんですけど、本当は身体全身でそれを覚えていたんだという事。それにこだわらないよう意識する事で、反対にそれに縋って生きていたんだという事、それを私はあの日あなたに教えられたんです。

帰りの道すがら、ポプラ並木に吹く風と、あの喧騒としたエゾ蝉の声、そして澄み切った真夏の午後の強い陽射しー―

あなたに白壁の逝ったことを聞いて、辛かった白壁との思い出が青空にさざめくポプラのそよぎの中に、一つひとつ剥がされていくかのようでした。

とても悲しい、青空でした。

私の心のどこかにあって、瞬時に砕け散った、硝子とも見える青空の悲しみが、あなたにはどれ程お判りになった事かしら?

私の八年間の希望と絶望とが、あの青空には詰まっておりました。

それがあなたにお会いして、二人きりで誰も居ない岩見沢公園のハマナスの丘を歩きながら、青空高くそよぐポプラを見ておりますと、何ですか、そういったものがもうどうでも良いかのように、私には思われていきました。

私って、単純で忘れっぽくって、最後まで人を恨む事の出来ない、幸せな女なんだなあって、自分でも嫌になる位でした。

過ぎ去った日々の事を忘れろとは言わないが、これからやって来る日の事を考えてもいい頃じゃあないか、と、あなたは仰いました。やり直すために、時間はあるんだとーー

あの日のあなたは、僕は遣り残した事があるからまだ立ち直る訳にはいかないが、あなただけには立ち直って欲しい、などと言って、とてもちぐはぐでしたけど、あの言葉だけは忘れません。

私、あの当時、きっとああいう言葉を待っていたんだと思います。何かに、飢えていたんです。

いつの間にか、知らず知らず、本当にいつの間にか癒されていたんですね。

あの時あなたは、脱皮という言葉をお使いになったーー。


今、夜の十一時を回って、一人きりの食事を終えたところです。

今日は六時以降のお客様が誰もパーマをお掛けにならなかったので、帰宅したのがいつもより少し早目でした。七時のお客様がパーマをお掛けになると、このマンションに帰るのが十時を過ぎて、そんな時は朝の早いお隣にバスルームの音でずい分と気を使います。

そして今が、こうやって夜一人、赤いシェードを被ったスタンドの前に座った時が「明子の時間」なんです。

今日はあなたにお手紙を書いておりますが、ここ一週間程はマーテルエクストラをお水で割り、氷を浮かべて、あなたに差し上げるお手紙をどういう風に書けばいいものか、そればかりを考えておりました。

純情なのに驚きましてーー? あるいは「AKI」の開店のお祝いで、あなたとお食事をした全日空ホテルでのディナーの時、ワインを口に含んだだけで赤い顔をしていたのが嘘のようだと、お叱りを受けますかしらーー


さて、そろそろ逃げ場もなくなってまいりました。ご用件を書きます。

二年前に白壁が残したものだからと、過分なお金を頂戴いたしました。それが、あなたの脱皮のためにも必要なんだとーー

しかし、僕にはもう必要のないお金だからと言って今回振り込まれましたお金は、頂く訳にはまいりません。頂戴するには余りにも金額が多すぎます。

どうやって送金したらいいのか、お教え下さい。

でも、もし宜しかったらお言葉に甘えて、来月にでも、アンカレッジ郊外の雪をいだいたロッキー山脈の上の、空一面が燃えているかのようなバーミリオンの夕日とやらを、私も見たいと思います。

お許し願えればその時、持って参じたいと思いますがご迷惑でしょうか?

心弾むご返事を、お待ち致しております。


    西岡 様

               2007年9月27日   明子


P.S

先日のお便りに書きましたアメリカンショートヘアーの子猫、覚えておいでですか?

横浜から来たという、とても上品なお客様に頂いたグレーの子猫の事ですけど、チーコという名前にしたそうです。

咲ちゃんが伝えて欲しいとの事でした。



  喪失の青空   完


後書きです。

長い読み物を最後まで読んでいただいて有難うございました。

修正したい箇所がまだありますが、今私はバンコクとプノンペンを行ったり来たりしております。ネット環境が非常に悪く、立ち上げるでけでも10分を要する有様です。

一度日本に帰国した折、きちっと手直ししたいと思っております。


私が書きたかったこと、それは「愛情とは何か」という事です。

愛する相手が死んだ時、自分も死んでしまいたい、と思う人は沢山います。それを実行に移す人も時々ですがいます。

そのような行動を選択する人の心が、判らないようで判る、と言うのか、判るようで判らない、と言うのかは紙一重のような気がします。

いずれにしろ、そのような事例に出くわす度に,言い知れぬ程の「いたたまれない感動に」襲われるのは私だけなのでしょうか?


        堀田

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