青いメガホン
利谷と省二郎は不思議な形でであったのだが・・・
第2章――青いメガホン
第2章――その1 奈美江
有本省二郎が何故、田代耕一邸に現れたのか、それを知るためには柏木奈美江が昨日、すなわち十九日夜、帰りがけのフルーツショップでスイカを買うところから話を始めた方がよさそうである。
奈美江がJR総武線の本八幡駅北口を出て、パティオの前を通り、右折してそのまま斜めに商店街を歩いて行くと、フルーツショップ「フジ」の親父に声を掛けられた。
「奥さん、いいスイカ入ってるよ」
奈美江は自分の生家が三浦半島の高円坊の農家だった事もあって、子供の頃から、夏にはスイカと決めている。わけでもないのだが、スイカが好きで帰りに「フジ」でよくスイカを買った。
奥さんと呼ばれると面映いけど、店主に誘われるまま奈美江はスイカを買った。そして店内から通りに出ると、自分を見ている男がいる。目が合った。
「・・・」
雑踏の中に有本省二郎が立っていて、奈美江に向かって深深と頭を下げている。
十九日の夕刻、六時半近くの事であった。
省二郎は今日を遡ること四日前の十六日、勤め先の星野電機を早退し、千葉恒産社長・榎 圭次を訪ねた。
千葉恒産が省二郎の前に立ち現れたのは、成田市にある巽ヶ丘の調査をしている時だった。
省二郎は星野電機に勤める傍ら、ゆっくりと西岡たちの影を追った。
具体的には土日を利用して図書館へ行き、自分の事件は勿論、佐橋から聞いた宮古事件、姫路における白壁の放火、そして洞貝と金森に関する事件等、とにかく西岡に繋がる可能性のある事柄を、当時の新聞、雑誌、活字になっているものを片っ端から調べた。
気になっていた荒川区のコンクリート詰め死体遺棄事件はその二年後に、田所新二の自首と言う結末を迎えていた。
そのように事実関係を把握する事、それに重点を置いたのだ。
ネットの調査では、限界がある。
その点、図書館は使い方では最高の情報の宝庫である。
調べれば、事件の起きた地方の新聞には、佐橋が言っていた事を裏書するような事が書かれている。
過去において、事件はそれぞれの性格を持って、確かに発生していたのだ。
省二郎が知りたいもの。それは、個々ばらばらに発生した事件が、必ず収斂される何か、それが事件なのか何か判らないが、必ず何かがある筈なのである。
そこに、白壁と西岡、そしてもう一人の男が立っている筈なのだ。
省二郎が図書館などを使って粗方な確認を済ませた後、次にやらなくてはならない事が六つ残った。
1、狛江の「すし鉄」の親父に会うこと
理由 自分を見たという親父の証言によって自分の全ての証言は虚構と見なされたから
2、行方不明になっている洞貝の妻に会うこと
理由 洞貝の行方を知っているかも知れないし、洞貝は西岡を知っている可能性が高い
3、出所しているであろう、金森に会うこと
理由 2に同じ。ただし、佐橋刑事には知らないと言っているが・・・
4、成田市の巽ヶ丘を調べること
理由 白壁が理香と一緒になる前、浅井という名を名乗っていた時、巽ヶ丘のパンフレットや謄本を持っていたと言うから
5、白壁夫婦の最後の住居である名古屋の「波寄荘」と勤め先である「金龍」へ行くこと
理由 名古屋以後の二人の移転先に関して、何らかの示唆するものがある可能性があるから
6、明子の実家、及び典子に会うこと
理由 明子こそ、全ての鍵を握る人物の可能性が高いから
以上六項目であるが、省二郎はまず巽ヶ丘の造成地から調べる事にした。何故なら、他の五項目と違って人間が出てこないし、事件の核心から一番遠そうに見えたからである。
本当はこういう場合、何が何でも核心を突かなければならないのだが、省二郎は出所してまだ四ヶ月、監獄ボケが治っていないのだ。だから、外堀を埋める要領で、ゆっくり西岡に接近する心算なのである。
しかし考えても見よ、姫路の街の炎に哭いた白壁が、一年余の後、億単位の金と巽ヶ丘のパンフレットを持って東京に姿を現したのだ。何かある、と思わねばならない。
巽ヶ丘は、成田市東部に拓いた新興住宅地であるが、調べた限りでは開発に関して事件も何もない。白壁が巽ヶ丘に関心を持っていた時期は、平成十年から十一年にかけてである。となれば、山林を造成している最中のはずである。
省二郎は千葉県庁の土木課に保管されている、開発登録簿を閲覧した。
開発主体が「株式会社千葉恒産」となっていた。
そこで、ついでだと思い、その帰りに千葉恒産本社に立ち寄り、社長、榎 圭次に面会を求めたのである。
手ぶらではない。雑誌などからコピーした白壁と西岡の写真を添えてである。軽い気持ちだった。
受付の細面の娘が内線電話をしてから五分もすると、秘書と名乗る三十歳前半の神経質そうな女性が現れ、省二郎から写真を受け取って
「しばらくお待ち下さい」
と、硬い口調で半分も言ったか、言わないかのうちに、写真を見つめ
「――浅井さん・・・!」
と、省二郎にも聞き取れるような声を出し、改めて省二郎を見直し
「・・・ちょっとお待ち下さい」
と言って、駆け足でエレベーターへ消えた。
省二郎は、うろたえた。うろたえた、どころか逃げ出したくなった。
無防備のまま敵の真っ只中に飛び込んでしまったような、後悔とも焦燥とも付かない念に駆られた。まさかこんなところで、いとも簡単に浅井の名を聞くなどと、夢想だにしていなかったのだ。
しかし、省二郎は長い間待たされた挙句、社長はこの方を存じておりませんので、という断り文句で追い払われたのであった。
省二郎は帰る間際に、受付の娘に秘書の名前を聞いた。
「柏木奈美江さんです」
それから三日間、省二郎は迷いに迷った末、十九日の夕方、退社する柏木奈美江の後を尾行、本八幡の八百屋・・・看板はフルーツショップであるが、でスイカを買って出て来た彼女の前に立ち、頭を下げたのである。
奈美江は当たり前だが、非常に迷惑そうにしていた。
しかし、省二郎が二度三度頭を下げ
「プライベートな事なんです。僕はどうしても彼の事を知らなければならない、義務があるんです。お願いです」
と、言うと、クスッと笑って言った。
「義務なんですの?」
そして省二郎がお茶でもと言うと、仕方ないわね、と言って通りの二階にある殺風景な喫茶店に案内した。
奈美江はソバージュにした黒髪を、時どき両手でぽんぽん叩きながら、話をした。
「私では駄目よ」
私はスケジュール秘書だからと、奈美江は二度三度言って笑ったが、それでも省二郎は本当に有難かった。
奈美江は自分で言う通り、余り会社の実態は知らないようだった。が、自分の会社の事を「強姦会社」と、突き放して言う位の認識は持っていた。
十年ほど前までは、子会社を作っては倒産させていたのだと言い、当時はね
「私も若かったのよね」
それが悪の華である事が判らなかったのだと言う。
「榎 社長になってずい分落ち着いたみたいね。だけど私も、今度ボーナスもらったら辞める心算」
そんな事を話していて、アイスティーのストローを口にくわえ、省二郎の顔を盗み見るようにして言った。
「浅井さんて、敵ながら天晴れだと思ったわ。・・・彼って、凄い人よ」
奈美江の言うところの「凄い人」の起こした事件、というものを、次に要約してみよう。
平成十年六月、梅雨の晴れ間の紫陽花がきれいな日であったという。
一人の男が当時の社長、田代耕一に会いに来た。当然アポイントを取ってからの面会であり、奈美江の記憶では東京の不動産屋の紹介であったと言う。
男は、浅井修一と名乗り、現在、成田市巽ヶ丘で造成中の区画の五分の一、三千坪ほどを購入したい、という申し出であった。
日本経済がバブルの底を打ち、ようやく立ち直りを見せていた頃の事である。現状有姿で坪十七万円、整地済みなら坪三十万円前後といえば、ごく普通の単価といえた。
その土地を、三千坪である。
坪二十五万円で計算しても七億を超える。
浅井は当該物件に銀行の抵当権が付いていることを知っており、整地が終わるまではそれに加筆するだけで良い、という、間の抜けたような条件で購入を希望した。
ただし、当面は予約の仮登記であり、浅井方は頭金として二十%を支払った。当然、資金証明を添付している。
都市計画法第四十一条は、開発行為の青田売りに関する前渡金の保全措置を細かく規定している条項であるが、これと別途のところで公正証書を根拠にした裁判所の判決をもらい、差し押さえをしてしまう。
単純な訴訟詐欺である。といって、これを実行するにはまとまった資金と、準備と、姿を消さなければならない人間が最低一人はいる。いや、二人と言ったほうがいい。そして何よりも、度胸がなければ出来ない。
奈美江は、続ける。
「完璧に内の社長の負けね。気が付いたら頭金の二億円が残っただけで、三千坪の土地が塩付け。解除に四億円も使ったのよ」
「浅井は一人でやったんだろうか・・・?」
「一人?――それは無理でしょう。ただ、うちの会社に来る時はいつも一人だったわ。それにね、田代会長・・・当時は社長だったけど、その社長が言っていたもの、あいつ俺に仕返ししやがったってーー」
店内は若者の溜り場になっているのか、いつの間にか甲高い嬌声があがったり、ゲーム機の電子音がしている。
「あいつが、仕返し・・・」
省二郎の胸に響く、何かがあった。省二郎はテーブルの上に西岡と写真を出して聞いた。
「この人に記憶は?」
奈美江は頭を横に振った。
「田代さんを恨んでいる人は居るの?」
と、省二郎が訊くと、奈美江は身体をのけ反らしせ、口を押さえて笑い
「居すぎるわよ」
と言った。
「あなた、何も判っていないのね。私、あなたの事、好きになりそう」
「茶化すなよ」
「ううん、本当よ。会社に現れてあんな事をして、今度は私の前に突然現れて・・・怖いものなしなんだから・・・」
「・・・」
「私はともかく、会社にあんな形で来て無事に帰れただけでも、あなたは幸運だわ」
「・・・」
「あそこはね、ややこしい人がいつも二階に詰めてるの。フロント企業なのよ。
そこへ浅井さんの写真だもの・・・それにね」
榎社長は、二週間ほど前からピリピリしている、という。
「だってね、脅迫状が届いたらしいのよ」
それ自体は珍しい事でもないのだが、どうもその内容が
「特定の人しか知らない事が書いてあったみたいね」
それに続けて
「社長を尾行してる人が居てね。誰だか判んないけど、二階のメンバーの話し振りでは、あなたが来た前の日に、きっと痛い目に合ったんじゃないかな」
だからそれ以上のゴタゴタを避けるために
「あの時あなたは無事だったわけ。判った?」
と、奈美江は長々と言って、喋りすぎている自分に嫌悪を感じているのか、もう出ましょうかと、辺りを見回した。
実際、奈美江は自分で自分が不思議でならない。どちらかと言えば、自分は無口なほうだし、初対面に人間に「実は・・・」などと知ったか振りをするような悪趣味は持ち合わせていない。対座しているこの男にしても、質問はしても強制さは全くない。
―― どうかしているな
奈美江が自問していると
「いや、もう少し聞きたい事があるんだ。田代さんを恨んでいた人の中に、金縁の眼鏡を掛けた人は居なかっただろうか?・・・古い話だと思うけど・・・」
「金縁眼鏡――?・・・さあ?」
と、奈美江は考えている。
「自殺した人だって三−四人いるのよ。その中に眼鏡を掛けた人も居たかも知れないけど、覚えていないなあ。それにね、ほとんど会社の倒産に絡んでいるわけだし、倒産したのは子会社だからねえ・・・とても間接的なんだもの・・・」
と、そこまで喋ってから、ずい分長い間を置いて
「・・・山崎さんの事かな」
と言った。
奈美江は、山崎という人が千葉恒産とどういう関係か知らない、と言った。
眼鏡にしても、金縁かどうか知らない。だって会った事もないし、自分の入社以前の事だしね、と言った。
「だけど田代社長がね、ダンプカーで寝込みを襲われて、猟銃で乱射された事があるらしいの。私が入社した年だから十三年前のことよーー。その時、田代社長は背中に散弾を二−三発打ち込まれてね、十日くらい入院したんだってーー」
自分が入社する三ヶ月ほど前のことで、まだ事件が会社にも生生しかった。
「その時、何かの折に、山崎と言う名が出てたのよねーー」
あの眼鏡野郎って、そう言っていた記憶があると言う。
―― 猟銃・・・
確信は、段々と鮮明な形を整えていく。
「だけど、山崎という人がどういう人か、今から調べるのは難しいのじゃないかな? だって事件は迷宮入りですもんね」
結局、どうしても山崎某の事が知りたいのなら、現在の田代会長を直接訪ねて会う以外ない、という奈美江の意見であった。
奈美江は
「明日は土曜日だけど、会社はあんのよ。だからそうねえ、二時か三時には会長の住所を調べて、電話してあげるわ」
と言ってから、やはり今日の自分はどうかしている、と思った。
本来自分は排他的で、攻撃精神に富んでいる。だから今日まで、あんな会社の、飾り物とはいえ秘書を勤めることが出来たのだ。それが・・・
―― いけない
奈美江は、この有本という不躾な男に危険なものを感じた。
怖いとか、危害が加わるとかではなく、引きずり込まれてしまう自分を感じるのである。女が、何とかしてあげたくなるような、そんな切ないような雰囲気を持っているのだ。
第2章――その2 赤松たち
約束どおり奈美江から電話があったのは、翌二十日の土曜日、三時前であった。携帯の番号は教えたくなかったので、部屋の固定電話にかかってきたのだ。
その日省二郎は、いつものように茅ヶ崎海岸で早朝のジョギングを行い、その後は上場関係の規則集を読んで過した。
星野電機は来年後半、上場をする。
省二郎はそれが自分の直接の仕事ではなかったが、経理一課がそれを軸にして動くことを見越し、自分なりに予習でもあり復習でもある勉強をしているのである。
ただ上場の手続きを再確認しているのではない。上場に当たっての星野一族の資産の切り離しと、その運営会社のタックスヘイブン先、そして十数社ある子会社の再編成と資本の移動を金融工学的に処理しなければならないのだ。
全てが闇の監獄で、ひとつの灯りを求めるように、勉強だけは続けた。
今、それが活きている。
主要各国の税務体系や会計処理などはほとんど頭に入っている。
しかし、奈美江の電話がある三時間ほど前に、会社の同僚である高科美佐子と鈴村ひとみを連れて、上役である藤木三郎と赤松剛が訪ねてきた。
同僚、上役といってもこのメンバーは全員が独身で、藤木だけが省二郎より二つ年上の三十四歳で、後はみんな二十歳代である。
ゴルフに行っていたのだが、あまりの暑さにハーフで切り上げ、帰る途中、近くを通りかかったので、という理由であった。同じ独身という気安さでここへ来たのであろう。
省二郎は今、国道百三十四号線から一本裏に入った「ラフィナス湘南」という賃貸マンションの二階に住んでいる。隣の家の大屋根越しに防砂林である松林があり、その向こうに湘南の海が見える。借りる時、万が一にも西岡が現れた場合、襲われるのに都合がいいと思ってこの部屋を借りた。省二郎としては襲われたいのである。
入室などのセキュリティーは問題がないが、隣の家の大屋根がベランダの下に来ているのだ。しかし、襲われるのに都合が良いとは、逃げるにも都合が良いわけだが、省二郎は省二郎でその辺りは計算していた。
その二LDKの部屋に四人で押しかけて来て、昼食に行こうと誘われた。
「赤松さんがパスタの美味しいお店を見つけたんですってーー」
「いやあ、部屋を空けられないんだ」
「誰か来るの?」
「誰も来ないけど・・・」
じゃあここで食事をしよう、という事になり赤松が弁当を買いに行った。
省二郎は机の上に広げてあった上場関係の書籍などを素早く片付け、冷蔵庫からコーラを持ってこようとすると、鈴村ひとみが
「私がやりまあす」
と、明るい声を上げた。
その間、残る二人は窓辺で海を見ながら何かを話しているようであったが、藤木三郎の方は二つの書庫にビッシリ並んでいる本が気になるのか、時どき視線が横にずれた。本と言っても会計の本ばかりであり、それも英文の本が半分近くを占めている。
二十分もして赤松と鈴村が帰って来てから、五人で弁当を食べたが、五人分の椅子がないため十畳の部屋で車座になって食べた。
「遠足みたいね」
と、鈴村ひとみがはしゃいだ声で言ったりした。
そして食べ終わるや、四人とも
「おじゃまさまあ」
と言い残して、来た時と同じように賑やかに帰って行った。
省二郎は、まぶしかった。
―― 素直で、明るい生活がある
その後は本を読む意欲も萎えて、ベッドに横になり、どんよりと張り出し始めた雨雲を見ていた。
うとうとしていると、電話が鳴り、それが奈美江だった。
奈美江は田代の住所を教えた後
「あなたの知りたがっている浅井さんとは関係ないかも知れないけど、今日ね、利谷っていう人が来たわよ」
「トシタニーー?」
「何でも、怪我をした人の事で来たって言うんだけれど、それを社長が追い払ったわけ。そしたら栗原さん、受付の娘だけど、その娘が言うにはよ、会社のガードマンたちに、俺は利谷だって凄んだんですってーー」
「俺は利谷だーー?」
「ええ、それがね、それだけの事で会社の連中ったら、震え上がったらしいのよ。見ものだったってーー」
「そう・・・」
「有本さん」
「え?」
「あなたには、もう会う事も話す事もないでしょうけど、頑張んなさい。あなた、素敵よ」
「・・・?」
第2章――その3 雨
省二郎はポツリポツリと降り出した雨の中を、奈美江に聞いた千葉黒砂台に向かった。
千葉駅でお茶を飲んで時間を潰し、タクシーに乗って田代の家に着いたのは六時半近くである。
辺りはすでに暗く、雨が降り出していた。
省二郎はインターホンを押した。返答がない。
左上方に監視カメラが備えてある。
玄関の灯りも点いているし、庭の水銀灯も点いている。
玄関の門扉を透かし、家の引き戸の奥にも明かりが垣間見える。
「・・・?」
駐車場にクラウンが止まっているが、まだスペースが二台ほど空いているところを見れば、まだ帰宅していないのだろうか?
あるいは返事がないところを見れば、家族全員が外出しているのか?
省二郎は雨の中、田代の家の周りを歩いてみる事にした。
ずい分歩いて、裏山の崖も見た。
一時間近く経ったが、まだ誰も帰ってこない。
往ったり来たりしていると、玄関前にジャガーが止まり人の降りるのが見えた。玄関に入って行く。
どう言って声を掛けたらいいのかと、思案しながらジャガーのそばに近寄った。
雨が降っている。
「ビイイ・・・ビイイ」という鈍い音響がジャガーの中から聞こえた、と思うやジャガーのドアーが突然開き、大男が飛び出して来て奇声を発し、玄関の門扉に体当たりをし始めたのである。
省二郎は余りに突然の事なので、何がどうなっているのか、さっぱり判らなかった。道端で突然犬に吠えかけられたような、驚きがあるだけだ。
見ていると、門扉に体当たりしていた大男が、門扉を破壊するのは諦めたのか、門扉に続くブロック塀によじ登って向こう側へと消えた。省二郎は大男のその後の様子を見ようと、何気なく門扉を透かして庭へ視線を移した。
「・・・!」
大男の背後遠く、二人の人間の影が、雑木林に向かって走っている。と、
ビーッビーッ
警報音が辺りに響き始めた。
―― 逃げよう
仮釈放の身だ。下手をしたら、また刑務所だ。
しかし、省二郎の身体は傘を放り出して、意識とは反対にブロック塀に突進した。
間違いはない。水銀灯に照らし出された二つの影は、西岡と眼鏡だ!
塀をよじ登り、ステンレスの外柵を跨ぎ、庭に飛び降りた。そして雑木林に向かって走ろうとすると、大男が行く手を遮り怒鳴った。
「貴様かあ!」
「知らん。どけ!」
省二郎は大男など眼中にない。脇をすり抜けて雑木林に向かおうとした時、大男の左脚が腹に炸裂した。
「ウッ」
つんのめるようにして、横の馬酔木の茂みに倒れ込んだ。
泥が飛び散る。
左眉の辺りを木の枝で擦ったのか、痛い、という遠い意識があったが、それは後で思い出した事である。
省二郎は起き上がって、またも大男の脇を走り抜けようとした。
西岡を追わなければ・・・その事だけで身体中が熱くなっている。すると今度は、身体の重心が奇妙な動き方をした。
―― あれ、投げられてるのかな?
家が変な形に傾いて見える。
肩の辺りに衝撃が走る。
「オウッ」
省二郎は右手を軸にして起き上がり、大男と初めて向き合った。
「どけ!」
「貴様あ、何をした!」
大男が怒鳴り返した。
馬鹿野郎、そんな事知るか、と思っている省二郎の目に、大男の右後方を走る二人の影がある。
家の向こう側だ、遠い。
追わなければ、という思いと同時に、どうして戻って来たのだろう、という疑問が頭を掠める。
その時、誰かが対峙している大男の横へ走って来たと思うや、木刀のような物を大男の顔面に振り下ろした。
ギャオッ!
というような絶叫を発して大男が後ろへぶっ倒れるのを、チラッと横目で見て、省二郎は玄関へ向かって走った。西岡を追って、走った。
門扉が開いている。
誰もいない。
道路に飛び出すと、三叉路である。
たたらを踏んで立ち止まり、耳を澄ませたが「ビーッ」という警報音が断続的に鳴り響いているだけで、何も聞こえない。
後ろのほうで、この野郎、と、誰かが怒鳴っている。
「・・・!」
小雨が、降っている。
―― 遅かったか・・・
道路の彼方には、彼等の姿はない。どこかの物陰か、横道か・・・何処かへ、消えてしまっている。
省二郎は、呆然と立ち尽くしている。
家の中から、今ごろになって女の助けを求める声がする。
するとそこへ一人の男が後ろから走って来て
「―― おい、こっちだ!」
と言って、ズタズタになっている省二郎のワイシャツを引っ張った。
ハッと我に立ち返り、周りを見ると、近所の家から四−五人の人が出て来てこちらを見ている。窓から見ている人もいるようだ。
仮釈放、の三文字が頭を横切る。
緻密な計算も、大胆な行動も、今は何の役にもたたない。ただ、その場その場の瞬時の判断があるのみだ。
―― 逃げなければ!
省二郎はわけも判らないまま、先を走る男に続いて走り始めたが、あっと気がついた。
インターホンにも外柵にも指紋が付いている。監視カメラはどうする?傘はどこだ?
やれるだけの事はやって、現場を離脱しなければならない。
―― 急げ!
監視カメラを始末するのは諦めたが、後は全部片付け、男が遠く車に乗るのを見ながら、その車めがけて、雨の中を省二郎は走った。
断章――調書
昨日、平成十九年七月二十一日午後十時半ごろ、私、神成栄子と主人である神成茂雄とで、自宅の一階居間でテレビを見ておりましたところ庭で物音がしたような気がしましたので、私が窓から見てみましたが雨が降っているだけで何事もありませんでした。
その時は主人は猫ではないかと言っていました。
夕方七時過ぎから主人と二人で夕食をとりましたが、アルコール類は主人と二人でビールを一本空け、私はコップに一杯飲んだだけです。
私たちはその前、午後の三時二十分からエアコンを入れた居間でテレビをつけていました。その為なのか救急車やパトカーのサイレンは一度も聞こえませんでした。
テレビを見ておりましたが、十一時まではニュースを見なかったので私の家の近くで強盗事件が起きた事は知りませんでした。その時は庭の物音の事もすっかり忘れていて、主人が先に風呂に入り、続けて私が入りました。
十二時少し前に、主人と二人で二階の寝室へ行き電気を消して寝ましたが、十分もするとまた庭で物音がしました。
注意しないと聞こえないような音でしたが、何かが唸っているような感じの音でした。それが、二分間隔くらいで聞こえたり聞こえなかったりしました。主人は眠っていましたので起こしたのですが、寝入りばなで怒って「気になるならお前が見て来い」と言います。
私は怖かったのですが電気を点けないようにして階段を下り、台所へ行って窓を五センチくらい開けました。
そこからですと居間から見るのと違って、斜めから庭を見ることになりますがそうやって見てみますと、庭の南西の椿と柘植の木との間に人間が二人いるのが判りました。道路にある街路灯のために逆光になり、影しか判りませんでしたが、間違いなく二人の人間の形で動いていました。男か女かは判りません。 年齢も判りません。
しかし間違いなく一人が屈んで、一人が横になっていました。
うめき声は動き方からして横になっている人間で、屈んでいる人間は背中か腕か判りませんが、さすっているような動き方でした。
見ていたのは二分くらいだったと思います。私はその後、物音を立てないようにして二階へ戻り、主人を起こして、二階から主人の携帯で警察に電話をしたのです。
警察が来る間に、主人がそっと見に行きましたが、その時、七月二十二日午前零時二十五分ころには姿がありませんでした。
平成十九年七月二十二日
千葉県若葉区黒砂台三丁目××××
神成栄子 押印
第2章――その4 星野電機製作所
仕事をこなすとは、人間関係をこなす事でもある。
仕事の出来る人間は、必ず人の窺い知れないところで、上下の、あるいは同僚との人間関係を巧みに処理している。
辻課長は、有本が不思議な人間に見えて仕方がない。
仕事に関しては文句の付けようがないのだが、人付き合いが余り良いとはいえないのである。何を考えているのか、判らない時がある。
だから、右のような理屈に従うなら、有本はみんなから白眼視されるような型の男のはずだ。そもそも、入社の仕方からして嫌われる要素の多い男のはずなのである。
それなのに、どうした事なのだろう、有本は人望といえば大げさだが、人気がある。
辻はある時、省二郎の教育係りである藤木に、有本はどうかと、漠然と聞いてみた。
藤木はしばらく考えてから、言った。
「私のほうが教育されているような気がしますね」
藤木三郎は辛口の男である。その彼からして、そうであった。どこで覚えたのか、会計にも精通しているという。
辻は考え込まざるを得ない。
それと言うのも、次のような人事の動きがあるからである。
先月末に決算が終わり、例年なら今頃の経理一課は少し気の緩んだところがあるのだが、今回はちょっと事情が違った。
来年末には東証上場を予定しており、経理一課十七名の中からリーダーを入れて四名の陣容で、準備チームを組むという、その人選が遅れているのである。
事が事だけに室賀常務を筆頭とした経理課の意向を尊重する、というのは表面上だけの事であろう。
会社上層部の意向もあるであろうが、オーナー社長である星野一族の資産に直接タッチする事になるため、星野社長の息子である星野常務からも人事課に要請が来ているという話である。
準備室メンバーは現社長の星野健太郎が室長になり、室賀常務がその補佐、辻課長がリーダーで後の三人を実働部隊とするのであるが、その実働部隊の人選が面倒だった。
しかし、室賀常務と辻を加えた二人の課長の協議の末、経理一課から推挙した三人のメンバーの内、内諾を得たのは高科美佐子と内田悟だけだった。残る一人は有本省二郎を当てるという、経営会議からの内々の報告であった。
高科美佐子は星野一族の縁者であり、アメリカ留学から帰国して企業診断士の資格まで取得しているという経歴からもして外しようがなかった。すると、経理課の意向は二人の内一人だけという事になる。
辻は不愉快であった。
何の資格もない、経歴もはっきりしない、入社したてのそんな男が何故なんだ。
どうしても辻の、省二郎を見る目は険しくなる。
が、その有本省二郎が一仕事終えて、自分の前に立ち
「これで宜しいでしょうか?」
と、監査証跡の明細を示し、欠番管理ファイルの取り消し理由を手短に話すと、その仕事の明晰さに惚れ惚れしてしまう辻であった。
有本省二郎に関してだけ辻は、そういう、右とも左ともつかない不透明な中にいる。
社内食堂での昼食を終え、省二郎は陽差しの強い構内グランドの横の楠木の木陰に歩いて行き、芝に上に座った。
今日はあれから四日経ち、すでに二十三日火曜日である。
青い芝がチクチクと気持ち良い。
グラウンドの向こうの社屋の陰で、五−六人がキャッチボールをし、その周りの木陰やベンチには、昼休みのひと時を過す社員が、あちらこちらと固まっている。
ふっと、千葉刑務所の昼休みを、痛い疼きと共に思い出す。
腕を枕にして仰向けになり、空を見た。
雲が流れている。
―― 空ばかり見ていたなあ
出所して半年にもならないのに、遠い過去のような気がする。
目をつぶると、遠くでキャッチボールの音がする。
―― 利谷の方はどうなっているんだろう?
軽い焦燥感が湧いてくる。
会社に出社している場合か、攻撃に移らないと又、後手を踏む事になるんじゃないのか。
耳元で、誰かが自分の名前を呼んだ、ような気がする。
「・・・?」
「―― 有本さん」
「・・・どうしたんだよ?」
いつのまに高科美佐子が隣に座っていた。
「寝てらしたんですか? 何度か呼んだんですけど・・・」
「そう、いやあ悪かった」
省二郎は上半身を起き上がらせながら、美佐子に目を移した。
「辻課長さんがずい分と探していたみたいですよ」
「辻さんが・・・何だろうな」
「何って、課長さんに頼まれていたんでしょう?」
「連結決算の、固定資産のことかな」
「頼んだ事スッポカして何処へ行ったんだってーー」
「コード別にして机の上に置いておいたんだけど、足りないものでもあったのかな? バンコク工場の分は計算方法が違うんで、その事かな?」
「良いんですか?」
「良いって、何が?」
美佐子は癖なのか、クスッと笑い
「有本さんて、おかしな方ですね」
と言った。
そう言われれば、省二郎には苦笑する以外に方法はない。
―― そうかも知れない
あの空白の五年間が、自分の内面の何かを変えてしまい、漂白された部分が天性の性格のようになって残っているのだ。
美佐子は、何気なくそれを指摘しているのであろう。
「だって、課長が探してらっしゃるて言うのに、平然としているんですものー―」
「そうでもないんだがなあ」
グラウンド寄りの、少し離れた所にあるメタセコイアの木から油蝉の鳴き声が聞こえる。
「どうかしたんですか?」
美佐子が、省二郎の左眉を見て言った。
「うん、ちょっとね」
左眉のところにバンドエイドが貼ってあるのだが、まさか、四日前の事を話すわけにもいかない。田代耕一が帰宅して強盗に出くわし、日本刀で刺されて重傷を負ったニュースが大きく報道された直後だ。
あの影は、間違いなく西岡たちだった・・・
西岡たちがあの家にいたのなら、監視カメラで自分を認めたはずだが・・・その後、警察からも何も言って来ないという事は、彼らがデーターを持って行ったのか? おそらく、そうであろう。
「・・・有本さん?」
「えっ何?」
「もう、嫌だあーー」
「何が・・・?」
「何がって、私二回も有本さんの名前呼んだんですよ」
「・・・いつ?」
「今ですよ。目をどうかしたんですか?って聞いたら、ちょっとねって言って、キャッチボールばかり見ているんですもの」
「―― そうかな?」
「そうですよ」
そう美佐子は言って、またクスッと笑った。
「泳ぎに行きますか?」
「泳ぎにーー?」
「ええ、今度の土曜日にみんなで行くんです」
今度の土曜日に先日のゴルフメンバーに後三人加えて、サザンビーチに行くのだが、一緒に行かないかと言う。
省二郎が返答に窮していると
「美佐」
と、背後で美佐子を呼ぶ声がする。鈴村ひとみである。
「わあ、有本さんも一緒だ」
と言って、美佐子の隣に座ってから
「デートだった?」
と、おどけた調子で言った。
「ううん。今度の海水浴、一緒にどうですかって聞いていたのーー」
「もち?」
「さあ、まだ返事は聞いていないから・・・」
美佐子が答えると、ひとみはヒョイと省二郎を見て
「有本さん、行きましょうね」
と、歌うようにして言った。
省二郎は、返事はもう少し待って欲しいと言い
「まだ四−五日あるからーー」
と言うと、ひとみは
「へええ・・・」
と、まじまじと省二郎を見返して、興味深そうに頷きながら
「信じらんないじゃん」
と言った。
時計を見ると、十二時四十五分である。そこで、そろそろ事務所に戻ろうかと思い、省二郎が立とうとすると
「有本さん」
とひとみが呼び止めて言った。
「藤木さんがこぼしていましたよ」
ひとみが言うには、省二郎の教育係りになっている藤木が、有本君から何の相談もないし、飲みに行こうか、と誘ってもいつも断られるばかりで、自分は指導係り失格かなあと、そんなことを言っていると言うのである。
「あ、そう」
と、省二郎が答えると、ひとみはケタケタと声を上げて笑い
「私、言ってあげたんですよ。有本さんに悪意なんてありませんって」
「悪意?」
「藤木さんね、自分に相談がないから、嫌われたと思っているんですよ」
「判った。」
と省二郎は答えてから、自分は今それどころではないのだが、押さえるところだけは押さえておかないといけないなと思った。
「ありがとう」
省二郎がそう言うと、ひとみは被せるようにして言った。
「わあ、その笑顔、すっごく評判がいいんですよ」
第2章――その5 ナイター
その日、七月二十三日の火曜日の事であるが、省二郎は仕事が終わるや、その足で横浜に向かった。
茅ヶ崎から横浜の関内までは、JR線で三十分ほどである。
六時四十分過ぎに、利谷との待ち合わせ場所である横浜スタジアムのライト側入り口から入って、指定された外野席の場所に着いたが、利谷が見つからない。
指定席でもないこんな所で、この人混みの中で待ち合わせて相手が識別出来るのだろうか?
携帯で呼び出すと、ここだ、ここだと人混みの方を指定する。見ると、下方の中段の所に利谷が立って青いメガホンを振っている。
人混みをかき分けて利谷の所へ行くと、席が一つ確保してあった。
「座れよ」
「やあ」
「いい試合になりそうなんだが、どうも歩が悪い。今年の中日は強いぜ。森野の活躍が利いている。その点、わがベイスターズは寂しいね。またBクラスだな・・・おい、まだ聞いてなかったな、お前、どこのファンなんだ?」
そう利谷は言って、隣の席の女性からビールを受け取り、それを省二郎に渡した。
照明が人工芝を炙り出すように浮かび上がらせ、鮮やかな緑が美しい。
スコアボードを見ると試合は三回の裏の途中で、ベイスターズが攻撃をしているようである。
「ジャイアンツに決まってるじゃない。・・・生まれる前からだ」
「そんな顔だな」
と利谷は言って、隣の女性を振り返り、紹介しておこう、と続けた。
「車の持ち主で、横井節子って言うんだ。美人だからって、手を出すなよ。とりあえずは今、俺が交渉中なんだからな」
利谷はそんな風にして、淡いピンクの半袖ブラウスを着ている節子を紹介したあと、おもむろに
「警察が来たぜ」
と言った。
節子の所に警察が来た。
ある程度は予期した事である。とはいえ、動きが早い。あの騒動だ、住民の誰かが車のナンバーを控えていたのかも知れない。
省二郎は身の竦むような思いに駆られる。
「それで・・・」
と省二郎が話を促すと、利谷は
「大丈夫だ」
と答えた。
車のナンバーは特定されている訳ではない。部分的に判明しているだけのようだ。
しかし警察はしつこいであろう。二人の人間が重傷を負っており、間接的とはいえ、俺は利谷だと、千葉恒産で名前を吠えているのだ。しかも、省二郎は奈美江に電話番号まで教えている。
「心配はいらん。若しもの時でも、俺はお前の名前は出さん」
と、利谷は言うが、個人の善意を超えて、何処でどんなどんでん返しがあるか、判ったものではない。
「さあ、どうするね。これから・・・」
と、利谷はセカンドの野中のプレーに声援を送りながら、他人事のように言うが、その思慮の前提を、少し話さなければならない。
あの日、省二郎は、事態がここまで来た以上、利谷という男に自分を賭けなければならぬものを感じ、差し障りない範囲で自分があそこに居た理由を話した。
そして、二人は利谷のホテルで、夜明け近くまで協議した。
利谷にしろ省二郎にしろ、どちらかといえば一匹狼のような立場である。しかし、お互いがお互いを必要とする場合があるかも知れない、という事では一致した。
テレビ、あるいは新聞での報道によると、二十日の土曜日、午前二時に田代耕一の家に、裏山の雑木林の崖を登攀して強盗が侵入したというのである。ところが、強盗はそのまま家人三人を監禁し、同日午後八時まで、計十八時間に亘って同家に居続け、妾宅から帰宅した田代耕一を日本刀で刺し、家にあった六百万円の現金を盗って逃走した。逃走を助けるため、仲間二人が車で迎えに来たが救出に失敗し、ばらばらで逃げた。という事になっている。しかも、崖の向こうの空き地には、別途、逃走用に用意したと思われる盗難車が二日後に発見されている。
そして逃走途中、取り押さえようとした田代の警備員の犬飼 蔵太を、手助けをしに来た仲間が庭で滅多打ちにした。という事にもなっている。
逃走後、三時間以上経過した後、庭に潜んでいるところを付近の住民に目撃された男二人がいるが、この正犯らしい二人の男もそこから更に逃走を繰り返し行方を絶った。
監禁されていた田代の妻、操によれば、犯人たち二人は金の話ばかりしていて、田代耕一に危害を加えるのが目的であったとは思えない、という事になっているが、それは何かの誤りであろう。操か警察か、どちらかが、何らかの目的を持って嘘を言っている。
しかし、これだけ計画的な犯行に及んだ犯人たちも、予期せぬ雨によって一頓挫をきたしている。
翌朝、雑木林に続く崖にロープ等が散乱しているのが発見されたが、それは逃走時に崖を降りるための物らしかった。が、折からの雨である。
犯人たちはロープを持ったまま、夜の闇の中で雨の降りしきる崖の上に立ち尽くし、そこからの逃走を断念。別途、仲間が用意した車で逃走を図ったのだが、何らかの事情が発生し、二手に分かれてそれぞれ別系統で逃走した。
最初から迎えに来た車で逃げればいいじゃないか?
警察も苦慮しているのだろう。
犯人は二人だった。が、どうも外部から二人の仲間が手助けに来たようだ。庭の靴跡から見て、そう判断できる。
しかし、そうなら何故、一緒に逃げなかったのだ? 仲間割れか?
騒動に参加した省二郎にもわけが判らなかったのだ。警察はなお更、わけが判らないだろう。
試合は速いスピードで進んでいる。
八時を過ぎて、昼間の熱気が冷め、涼しげな風が球場を包み始めたころ、ドラゴンズの三番荒木が、ベイスターズのピッチャー秦からツーランを放った。
六回表で0−3である。
「ハタあ!しっかりせんか!」
利谷がメガホンを口に当て大声を出したが、周りの喧騒にかき消されて、目立たない。
「よしなさいよ。暑くなるじゃない。恥ずかしいし」
節子がポップコーンを頬ばりながら言った。
「そうかな。本人は暑気払いのつもりだ」
と、利谷は言い、下方を歩いている売り子に向かってメガホンを口に当て
「おーい、ビール」
と叫んだ。
三杯目のビールを省二郎に渡し
「逃げようがなくなってきたぜ。どうする?」
と言った。
その意味は、省二郎に、こうなれば全てを話さない以上有効な手は打てない、だから全部を話すか、それともお互い自分勝手にやるか、どちらかにしろ、と、選択を迫っているのである。
先日、利谷のホテルでは、余り深い話しはしていない。
「どうする?」
「・・・」
「言え。どんな理由で奴らを追っている。――そもそも、お前は何だ。何者だ?」
周りの雑音も歓声も消えてしまい、照明に照らされたダイヤモンドの中のライトブルーのユニフォームが、やけに大きく感じられる。
利谷を信用しよう。いつか、どこかで垣根は超えなければならない。
「・・・西岡を見たんだ」
「ニシオカーー?」
「田代を襲った人間だよ」
「お前、犯人が判ってんのか?」
利谷は省二郎の顔を覗きこんだ。
省二郎はゲームを目で追いながら、五年前の事件をポツリポツリと話した。
利谷はホエールズに声援を送りながら、肝心なところなどでは質問を挟んだりして、目立たないように聞いている。
節子も気になるのか、利谷に身体を預けるようにして聞き入っている。
話が省二郎の逮捕に及び、佳境に入ったころには、利谷も大声を出すのも忘れて聞き入っていた。時として大声を張り上げても、間が抜けていて、反対に目立ってしまう具合であった。
「とすると、今回の事件に対して、お前は全く別の見解を持っているわけだ」
試合は七回裏に進行していて、四対三の接戦になっていた。
「心配か?」
「―― 彼らが私の存在を確認していたら、近じか、必ず私の身辺で何かが起きる」
「その心配はあるまい。奴らも逃げるのが精一杯だったと思うぜ」
「いや、玄関の監視カメラで、彼らは私を確認したはずだ。その後は庭で見かけただけだが、その時はどうだったのかな・・・? 私は、声を上げたかな?」
省二郎が頭を傾げると、利谷は言った。
「いや、俺が知っている限りお前は、どけって叫んだだけだな。あとは投げられていただけだろう」
「・・・」
ファウルボールが近くまで飛んで来たため、省二郎も利谷もボールを避けるように身体を傾けてその行方を追う。
省二郎が
「私は、この事件を見ていて思うのだが・・・」
と言いかけると、利谷がそれを遮り
「待ちなよ、話を進めるな。その前に、俺はお前に石黒のことを話さなければならん」と言った。
「イシグローー?」
「よし、話の続きは飲みながらだ」
そう利谷は言い、節子を振り向いた。
「俺たち、今からクリスタルに行くけど、一緒に行くかい?」
「もう八回じゃん。1点差だしさあ。終わったら行くから、先に行っててよ」
「りょうかい」
利谷はメガホンを節子に渡し、立ち上がった。
第2章――その6 グレンリベット
クリスタルの窓から見えるベイブリッジの、いつもながらの飛行警告灯を横目に、マッカランのロックを一くち喉に流し込んで
「榎 圭次は囮にされたんだ」
と、省二郎は言った。
西岡たちは田代耕一を襲うため、まず千葉恒産社長、榎圭次に脅迫状を出した。
内容は不明ながら、柏木奈美江の言うことから推しても、榎の弱点をするどく衝くものであったに相違ない。
榎は、動揺した。
そこに、そうとも知らず石黒達治は、宮本と名乗る眼鏡の男に依頼されて尾行を開始した。それも、ほとんど素人のこれ見よがしの尾行であり、依頼に忠実に写真を撮りまくった。
榎のガードは固くなり、石黒は襲われる羽目になった。
その榎の焦りを待っていたかのように、西岡たちはガードの薄くなった田代を襲ったのだ。
そうすれば、全ての説明がつく。
利谷もその考え方に異存がないらしく、つまみのピーナッツを口に放り込んで、難しい顔をしながら頷いた。
そして、ジントニックのグラスを持ち上げて、指でぴんぴんさせながら省二郎に言った。
「しかし、宮下・・・山崎なのかな、奴と最後の連絡が取れたのが十九日の午後1時くらいだ。翌日の午前二時に田代に家に押し入ったのだから一日半でやつらはあそこまでの事をやった事になる。準備は万全、石黒が襲われるのを待って居やがったわけだ」
「・・・」
「しかし、お前が言うように凄まじい行動力だな」
「そう、彼らはそういう男たちだ」
「ふーん。ところで西岡たちは、田代を殺すつもりだったと思うか?」
「いや、殺すつもりはなかったと思う。自分たちの存在を知らしめ、いつでも殺すことが出来る事を証明出来さえすれば、それで良かったのじゃないかな」
利谷はジントニック飲むわけでもなく、グラスを口に当てたまま、しばし考えに耽っている。
その時ドアーが開いて、青いメガホンを持った節子が店に現れた。
そして利谷を見つけると横に来て腰を下ろし
「疲れちゃった」
と言って、利谷にメガホンを渡してから
「何飲んでるの?」
と聞いて、返事も待たずにカウンターに向かって言った。
「亜紀ちゃん、ウイスキーの水割りね。喉が渇いてるから薄くしてよね」
亜紀ちゃんと呼ばれた娘が軽い返事をした。
利谷が、遅かったじゃないかと言うと
「負けちゃった」
と言って、天井を仰いだ。
「もうクルーンったら不甲斐ないんだからあ」
九回裏に代打種田のホームランで同点になり延長戦になったのだが、十回の表でクルーンが代打立浪に二塁適時打を浴び、これが決勝点になってベイスターズが負けたと言う。
店の女の娘が水割りを節子の前に置くと、一息で飲み干し、ふうと息を吐いて
「亜紀ちゃん、もう一杯ね。今度は普通の」
と、カウンターに向って言った。そして、小声で
「ねえ、利ちゃん、明日にも刑事がまた来ると思うのよ。どうしよう?」
と言った。
節子が心配しているのは、石黒の怪我と、今回の事件とを警察が結びつけて考えるのではないか、という事である。その点を警察に問い詰められると、節子としては答えられない。
しかし、それはないであろう、と言うのが利谷と省二郎の意見である。
千葉東署と木更津署とでは、同じ千葉県警といってもそこまでの連絡はないし、広域捜査となっても石黒と千葉恒産を結びつけるものは、横浜節子探偵事務所だけである。こちらから申告しない限り、判りっこない。
が、しかし、何らかの事情が絡んで、警察が千葉恒産を暴力団系のフロント企業であるとの先入観を廃し、本気で動き出せば、必ず焦点は横浜節子探偵事務所に絞られて来るであろう。
「それにしても、田代なり榎なりは犯人を知っているのではないか?――面識があると思うが・・・」
もしそうなら、何故、彼らは犯人が誰であるのかを警察に言わないのか? と言うのが利谷に疑問であり
「言えないのじゃないかな」
というのが、省二郎の答えである。
我われには判らない、何らかの複雑な事情があるのだ。それも、十数年前から続いている事情が・・・
山崎という眼鏡の男の、ダンプカーを使った猟銃事件を手短に話すと、利谷は難解な顔をして、入り組んでいるな、と言った。
一時間半近くそんな話をしていて時計を見ると、十一時を回っている。
店内は客が十人を超えて、ざわめいている。
難しい話をしているのが判るのか、気を使ってマスターも三人のボックスには声を掛けない。
「ねえ、そいでこれからどうすんの?」
と、緑色のアイシャドーに彩られた目元をパチクリさせて節子が言った。
「う〜ん、警察が本気で動くかどうかが、境目のようだな。今の状態が続いたまま、警察が本気で動けば我われ雑魚は挙げられ、西岡たちは蚊帳の外という図式だな」
「そのようですね・・・」
「しかし有本、お前も間抜けだな。お前が雨に打たれて田代の家の周りをうろついていた時、お前が捜し求めている西岡たちはその家の中にいたわけだ。美味しい物でも食べて、お前をカメラで見ていたんだ」
そういう具合に利谷に言われると、暗い想念を抱いて雨の中を歩いていた自分が、禅画の中の蛙のように見えてしまう。
省二郎が苦笑をしていると、利谷は節子から紙とボールペンを借りてさらさらと何やら書き始め、省二郎に渡してどうだと言った。
シナリオ1 このまま何も変化がなかった場合
利谷、有本、双方ともお互いのことは一切忘れる
シナリオ2 おにぎり頭が所属し、千葉恒産の暗部を担当するという笹山連合が、利谷に報復を試みた場合。あるいは、西岡たちが有本に攻撃をしてきた場合
利谷、有本、双方はお互いに対して如何なる責任も負わず、個人として一切を引き受け解決する。
シナリオ3 公権力が利谷、有本、あるいは横浜節子探偵事務所に、何らかの理由で的を絞ってきた場合
三者はお互い、自己の利益に拘泥する事なく、共同利益が全てに優先する事を遅疑せず、協力して闘う。
要領よくまとめてある。ま、そんなところであろう。省二郎にも異存はない。利谷が飲みかけのジントニックを一息で飲み干し、カウンターに向かって言った。
「亜紀ちゃん、グレンリベットのセラーコレクション持ってきてよ。ストレートグラス三個・・・いや四個だな」
亜紀ちゃんと呼ばれたバーテンダーがわざわざテーブルまで来て
「何か良いことがあったんですか?」
と言いながら腰を落とし、セラーコレクションとカットグラスを三個並べた。そして残る一つは自分の手に持っている。
「凄いですね。これの封を切るなんて勇気が要りますよ」
「まーな。この時のためにとっておいたんだ」
「利谷さん・・・約束ですよ」
亜紀が利谷を見て顔を傾ける。
利谷はにやっと笑う。
「判ってるよ。一杯だけだぜ」
「やったー! わたし、どうしてもこれの味を舌に残しておきたかったの」
利谷がコレクションの封を切る。
ふたを回してキャップを切り、三個のグラスと、残る一つのグラスにコレクションを注ぐ。そして、目の高さまで持ち上げ言った。
「じゃあ」
省二郎と節子、そして亜紀もそれに倣う。
「じゃあ」
三人と一人のグラスがカチンと合わさった。
「乾杯」
と、小さい声で節子と亜紀が言った。
節子の腕の、トリプルになった銀のブレスレットが、澄んだ光を放った。
第2章――その7 襲撃
利谷たちと別れて、タクシーでマンションに着いたのは、午前一時近かった。あの後すぐ帰るつもりだったのだが、ラーメンでも食べて行こうという事になり、それに付き合っていたので少し遅くなったのである。
裏の家の塀に沿った道でタクシーを降り、先日から習慣になっているようにしてマンションの裏から三階の自分の部屋を、ベランダ越しに確認した。
辺りは暗い。遠くの街路灯の回りを、虫が飛び交っている。
「・・・!」
カーテンが、ずれている。そして、揺れている。
よく見れば、掃出し窓の鍵の部分が、拳大に割られている。
―― 来たのか・・・?
省二郎は田代邸のことがあって以来、必ず西岡たちは自分を襲って来ると確信していた。人に言っても判らないであろうが、彼らは、そういう男たちなのだ。省二郎には痛いほど判る。
どこで、如何なる攻撃があるか判らなかったが、帰宅するのを待ち伏せている可能性が一番高いと思い、用心をしていたのだ。
それが、的中している。
ゴクリと、唾を飲み込んだ。
酔いが、一瞬にして消し飛ぶ。
塀の影に隠れるようにして迂回し、裏横の松林に足を踏み入れた。目を上げれば正面三階に、自分の部屋が見える。
神経が研ぎ澄まされる。
奴がこんなに簡単に罠に掛かるとは、思ってもいなかった。
ブルッと、腹の底からの武者震いが、省二郎を襲う。
ゆるく、風が吹いている。
靴を脱いだ。ついでに、靴下も脱ぐ。
素足のまま一足、一足とゆっくり脚を進めるのだが、踏みしだかれる松の葉の音が神経に障る。聞こえない事は判っている。・・・しかし・・・
省二郎はマンションの下に立ち、身を屈めて、先日隠しておいた短い金属バットを手にした。戦闘の用意は、出来ている。
そして、音の立たないよう気遣いながら、隣の家の塀によじ登り、二階の下屋に身体を移した。
先日一度、シュミレートはしてある。大丈夫だ。
風が、省二郎を捉える。
心臓が、高鳴る。
自分の部屋のベランダまで二メートル弱。跳び付けば、跳び移れる距離である。が、音が怖くて、それは出来ない。
省二郎は樋に手をかけ、霧除けに身体の重心を移してから、大屋根に登った。
息詰まる。
瓦が陶器瓦のため、滑りやすく、不安定だ。
しかし、体重を移動させて、そっと、ベランダに足を忍ばせる。
電気が消えた部屋に人気はないが、自分を襲おうとして、西岡が息を潜めているに違いない。
砕けた硝子が不用意に落ちないよう、窓硝子にガムテープが米印に貼ってある。
身体をビルの壁にピッタリ付けて隠し、割られた掃出し窓の桟に手をかけ、そっと押してみる。
―― 開く。
次に顔を窓枠に近づけ、中を覗く。
カーテンが邪魔だが、少し背を伸ばすようにすると、暗い室内が見える。
どこに潜んでいるかは、不明だ。が、大丈夫、潜む場所は玄関ドアーの左側にある梁の陰か、あるいは隣の部屋の納戸の横だ。
息を潜めて吸ったり吐いたりしているためか、動悸が頭まで伝わる。
汗が、流れる。
金属バットを持つ手も、汗で濡れている。
再度、中を窺う。
この部屋には居ないようだ。
息を大きく吸い込み、少しづつ硝子戸を押しやる。
音はしない。
戸が半分ほど開いた。カーテンが揺れる。
左脚を中に入れる。
床に落ちた硝子の破片を踏めば、音がする。フローリングの床に、注意して脚を下ろす。硝子破片はない。
ゆっくりと、身体を室内に移す。
息を殺して、爪先立ち、隣の部屋との仕切戸のところまで歩く。
ゆっくり・・・ゆっくり・・・
この仕切戸の向こうがダイニングキッチンだ。その右辺に納戸があり、その陰に西岡がいるはずだ。
目は、闇に慣れてきている。
汗が、耳の下を流れ、顎を伝わっている。
―― ようし!
左手を仕切戸にかけた。―― そして、一気に、開けた。
身体を移動させ、金属バットを振り上げ、そこにいる人影に向かって振り下ろそうとした。
が、誰もいない。
とっさに横にある電源スイッチを押し、辺りを見回す。
誰もいない。
納戸を開ける。いない。
風呂場を開けた。誰もいない。
洗面所にも、いない。トイレにもいない。次の部屋の押入れにもいない。洋服ダンスの中にも、ベッドの下、これは覗こうとしたが空間がなかった。
誰もいない・・・
省二郎はベッドに腰を投げ下ろした。
汗が、どっと吹き出る。
ひとり相撲かー― しかし、どうなっているのだろう?
息が乱れている。
五分ほどそうしていた。何がなんだか、わけが判らない。
「ふうっ」
省二郎は足の裏のごみを振り払って立ち上がり、エアコンのスイッチを入れてから洗面所へ行った。
汗でグッショリである。顔と手をまず洗ってから、もう少し考えてみよう。まさか、時限爆弾を仕掛けたわけでもあるまい。
蛇口をひねって、なま暖かい水で顔を洗った。そして、洗面所の大型化粧鏡に写った自分の顔を見ようとして顔を上げ、そのまま、省二郎は後ろへのけ反った。
「・・・!」
声にならない叫びが、省二郎の口から飛び出る。
化粧鏡には、太く、赤黒い血文字が書きなぐられている。
ておひけ
生臭い臭いでも漂ってきそうな、不揃いな筆致であった。