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太陽がいっぱい

熱気と喧騒の夏

               あるいは、太陽がいっぱい

断章――拉致


室内の硝子戸に向かって右側の男は木製の椅子に座っており、左側の男は床に座って四メートルほど離れたダブルベッドにもたれていた。

右側の眼鏡を掛けた男は、やはり木製のテーブルの上においてある携帯を眺めては、時々腕を組みなおしたりしている。が、左側の顎に深い傷を持つ男は胡坐を組んだまま、左手に赤樫の木刀を持ち、目を瞑って動かない。

二人とも、土足のままである。

そしてエアコンの効いた室内には、もう一人、若い女がいた。

その女はダブルベッドの足元の方で、横になっていた。死んでいるわけではない,が、後ろ手に縛られ、目と口にガムテープが貼られていた。白いスカートが腰の辺りまでめくり上がり、パンティーストッキングが立体感のある光沢を放っている。

その女は自分に注意が注がれるのが怖いのか、時々、本当に時々しか身体を動かさなかった。

どこかのマンションの一室らしく、室内は非常に明るい。


眼鏡の男が腕時計を確かめて

「遅いな・・・」

と、誰にともなくつぶやく。

時刻は、夜十一時を回っている。

その時テーブルの携帯が、小さな音楽を鳴らした。

空気が張り詰める。

眼鏡の男がそっと取り上げ、耳に当てた。

「・・・来たか?」

そう言ってから、相手の言っている事をじっと聞いているのか、一分ほど何も言わず携帯を耳に当てている。やがて、小さく舌打ちすると

「判った。続けてくれ」

と、言った。

そんなやり取りを幾度か繰り返しているのか、男の動作や口調には、ある種の焦りと同時に慣れが感じられる。

それから十分もしたであろうか、壁際のソファーの横にあるサイドテーブルの受話器から突然、呼び出し音が鳴った。

ピシッと、またも空気が張り詰めたような緊張感が室内を満たす。

そしてまるで電話の相手に見透かされるのを避けるように、二人の呼吸音が小さく、長くなる。

―― ルルル、ルルル

七回、八回と呼び出し音が続き、やがて諦めたようにベルが止まる。

空気が弛緩する。

「どうなっているんだ?」

と、眼鏡の男が言うと

「焦ってもしょうがなかろう。待とう」

と、木刀を持つ男が低い声で、静かに言った。

遠くで、列車の走る音がする。

幾度かの緊張と弛緩の繰り返しで、いよいよ室内はそれ自体が生き物のように、生臭い臭いを昴めていく。

またテーブルの携帯が、小さな音楽を鳴らす。

眼鏡の男はゆっくり携帯を取り上げ、耳に当てる。

男は何も言わなかったが、耳に当てた携帯からかすかに女の声が聞こえる。何やら気ぜわしく、状況の説明をしているようだ。

一分近く、じっと聞いていて、眼鏡の男は

「・・・判った。一人だな・・・ドアーをすぐ開けれるようにして、玄関の前に付けろ。・・・いいな、そうして待機しているんだ」

と言った。

それを受けるかのように顎に傷のある男が目を薄く開け、唇をぐっと引き締め、木刀を杖代わりにして立ち上がった。そして硝子戸の横の壁に、隠れるようして身を沈めた。

身を沈めて、木刀を腰の陰に構えた。

上着を着込んだままの姿であるが、ワイシャツからはネクタイが外されている。

腰の落とし方が、据わっている。

もう一人の男は携帯をワイシャツの胸ポケットに入れ、飾り棚の横に置いてある大型液晶テレビの所へ小走りに走り、スイッチを入れた。

テレビの笑い声が、室内を満たす。

そしてまた小走りに戻って来たかと思うと、テーブルの下に投げ出してあった細めのロープを拾い上げ、木刀を構えている男とは反対側の壁に、身を貼り付けるようにした。

エアコンが効いているにも拘らず、眼鏡の男の広い額に汗が光る。

硝子戸の向こうの玄関扉を

「ガチャリ」

と、誰かが鍵を開け、ノブをまわす音がする。

靴を脱いで、人が、入って来た。

二メートルほどの廊下を突き当れば、硝子戸である。

クイズ番組でもやっているのか、テレビからは絶え間なく笑い声が流れている。

「帰ったぞ、テレサ」

だみ声と同時に、硝子戸のトッテが下へ向き、戸がスローモーションの映画のように開く。

脚が、すうっと、入って来た。

瞬間、木刀がその脚を薙ぐように閃いた。

「うおっ!」

グギッと、脛骨の砕ける音がし、男は先ほど眼鏡の男が座っていた椅子の方へ、つんのめるようにして倒れ込んだ。

男の息詰まるような野太い叫びがしたかと思うと、椅子のひっくり返る音と、テーブルがずれて飾り棚にぶつかり、硝子が割れる音が同時にした。そして、どこに置いてあったのか、花瓶が床に落ちて砕ける音が、続いた。

テレビからは、相変わらず笑い声がしている。

木刀が、倒れた男の首の辺りに振り下ろされる。

間髪を入れず眼鏡の男がロープを輪にして飛び掛り、馬乗りになって両手を後ろ手に縛り上げた。

全ての所要時間は、二十秒くらいである。

倒れた男は髪を短くしてスポーツ刈りにしていたが、全く抵抗しなかった。最初の一撃で、昏倒したようだった。

顎に傷のある男が木刀を斜めになったテーブルに立て掛け、ガムテープを持って飛び跳ねるように倒れた男の所に行くと、眼鏡の男が

「駄目だ!」

と、小さく叫んだ。

倒れた男をひっくり返して上向きにすると、鼻から夥しい血を噴出させている。倒れた時、テーブルか椅子の角で、顔面を打ったようである。

苦痛に歪んだ顔は、普通の顔ではなかった。頬骨がなくなって平坦になった顔面左側の、こめかみから口元にかけて、引きつったような裂傷が走っており、そのために左目がひどい形で垂れていた。口元の方は左上唇が削げて無くなっており皮膚が直接口というか、歯になっていた。

そのお化けのような顔が、むせていた。むせて息を吐き出す度に、鼻から鮮血が飛び散る。

このままガムテープで口を塞げば、窒息してしまう。

「タオルはないか!」

と言った時、胸ポケットから小さい音で、音楽が鳴った。

素早く携帯を取り出し、小さく言った。

「何だ?」

眼鏡の男は聞きながら静かに立ち上がり、顎に傷のある男に、倒れこんでいる男の始末を続けるよう目で合図し、二−三歩硝子戸の方に向かった。

「・・・間違いないか?」

と、言った時、サイドテーブルの上の受話器から

「ルルル、ルルル・・・」

と、これもやはり、小さく呼び出し音が響いた。

二人の男の動作が、同時に止まる。

眼鏡の男が携帯を胸ポケットにいれ、顎に傷のある男と目を見合わせて、言った。

「誰か、来たようだ」

「・・・」

「・・・クソッ」

顎に傷のある男は、倒れた男の口にタオルを回して猿ぐつわとし、ロープで足首などを縛った。そして木刀を取り上げ立ち上がった時、倒れた男の腰の辺りから、今度は男の携帯の呼び出し音がし始めた。

事態は緊迫の度合いを強めているようだ。

ようやくにして呼び出し音が止まる。

顎に傷のある男は木刀を提げて、開け放たれている硝子戸を潜るようにして玄関扉の前に行き、横の洗面所の影に入った。

眼鏡の男はベッド脇のドレッサーの鏡に自分の顔を写し、頭髪などをいじり、身だしなみを整えている。

テレビからは笑い声。

インターホンの呼び出し音が鳴った。

眼鏡の男はインターホンの所には行かず、小走りに硝子戸の所へ行き靴を脱いで、意を決したように後ろ手で戸を閉めながら、大きく息を吸った。そして、言った。

「はい、どなたです」

言いながら、横の影で木刀を持って身構えている男と視線を交わし、ノブを回し、扉を開ける。

パンチパーマの男が立っていた。

「誰や?」

「誰って、誠三の親戚の者ですけど・・・」

「金やんの?」

「中で待ってますよ。どうぞ」

「・・・」

パンチパーマの男は用心深いのか、それ以上中に入ろうとしない。しばらくして後ずさり、大声で言った。

「おんどりゃあ、ズボンに血いが付いとるやないけ」

眼鏡の男はそう言われて、反射的に自分のズボンを見た。確かに、真新しい血が付いている。

「三浦んとこの者かい」

パンチパーマの男はそう言うと、上着の内ポケットのあたりに手を入れ、何かを探しているようであった。

それと歩調を合わせるかのように眼鏡の男が退き下がるのと、同時であった。入れ代わるようにして、顎に傷のある男がパンチパーマの男の前に飛び出し、木刀を振り下ろす。

しかし、その俊敏な動作は、最後まで続く事はなかった。

―― パン

という拳銃の射撃音がして、木刀を振り下ろし始めていた男の右肩が、ガクンと、後方へ押されるような動作に変わったのである。

が、しかし、男は手練ていたのかそのままの状態から左手一本で、赤樫の木刀をヒューッと伸ばした。

眉間に木刀の切尖を受けたパンチパーマは、向かいの部屋のガス給湯器の戸に、ドオーッと倒れた。

倒れたまま拳銃を二発、でたらめに発射させる。

―― パン。パン。

金属音と擦掠音が飛び交り、扉が衝撃を受けている。

顎に傷のある男は、怯む事なく突進し、木刀を横薙ぎに払った。パンチパーマの頭に衝撃が走る。

続けざま、柄の先を、身体ごとパンチパーマの鳩尾に落とした。

パンチパーマは、海老のように背中を丸め、口から何かを吐き出してのたうち回る。

その時、後ろから眼鏡の男が先ほど縛り上げた男を担いで現れ

「こっちだ!」

と叫び、斜め前のエレベータとは反対の方向へ走った。

あちらこちらの戸が開いて、五−六人の顔が見える。しかし、二人の男が連れ立って走って行くと、次々と戸が閉まる。

廊下の照明が、やけに明るい。

靴音が響く。

角を曲がると、そこにもエレベーターの昇降口があり、男たちが来るのを待っていたようにエレベーターは停まっている。

ボタンを押す。

エレベーターが開くと、担いでいた男を放り入れて、男たちも同時に雪崩れて倒れ込んだ。

二人の男から汗がドッと流れ出、呼吸が乱れに乱れている。

エレベーターが下降を始めた。

「大丈夫か!」

と、眼鏡の男が言うと、顎に傷のある男は、自分の右肩の辺りを見て言った。

「熱いもんだな・・・」

そして眼鏡の男に目を移し、心配そうに聞いた。

「お前、心臓は?」

「・・・下で、家の奴が・・・薬を持ってる・・・」

二人の男は荒い息をして、お互いを見詰めあう。

ガクンと、エレベーターが一階に着いたようだった。


平成十七年六月二十四日深夜、大阪府八尾市東山本新町五丁目にある、十二階建てマンションでの出来事である。

梅雨も開け、沖ノ鳥島の南方四十五キロ付近で、台風四号が発生したとニュースは伝えていた。その頃の出来事である。


第1章――出会い


第1章――その1 利谷


現代では子午線の四千万分の一が一メートルではない。オレンジ色に輝くという、クリプトン原子の光の波長の百数十倍が一メートル、というわけでもない。

一メートルとは、光が真空中を二億九千九百七十九万二千四百五十八分の一秒間に進む距離、という事になっている。

利谷幸一は、そんなことは知らない。知りはしないが、彼が今手に汗しているのは、やはり距離と速度の問題である。

利谷は新聞を頭の上にかざして、顔の部分にだけ陽影を作り、目を細める。

― 逃げ切れ!

関東地方に梅雨明けの予報はまだ出ていないが、今日はもう真夏日を思わせる空模様で、朝からの強烈な太陽の光が午後四時近くの馬場全体を包んでいる。

第四コーナーを回り、残り三百メートルの直線コースに入っても、ハイスターチの脚は衰えを見せない。

― いける!

後続馬との間隔は六馬身半はある。

騎手の、赤と緑に彩られた派手なチョッキが炎天下に躍動し、ゴールに向かって突き進む。

しかし、三枠のキサキオーサキの追い込みが急だ。馬体の伸びがいい。

砂が飛ぶ。

ハイスターチの逃げ足が鈍ったわけではないが、差が序序に縮まりを見せている。

キサキオーサキの外側大きく単独馬になっていた栗毛のタサキコンテマが、それ以上のスピードで追い込みを始めている。

鞭がうなる。

― 行け!

残り五十メートルになっても、ハイスターチは後続馬に四馬身の差をつけて駆けている。

罵声と絶叫と、それ以上の怒号が入り乱れて、場内は興奮の渦である。馬券が二−三ヶ所で、風のない空へ向かって放り投げられ始めた。無理もない。ガチガチといわれた本命も対抗も、後続の馬群の中に埋もれたまま二千三百メートルを走り続け、ついにゴールを迎えようとしているのだ。

ハイスターチが駆け抜け、二番手をキサキオーサキと争ったタサキコンテマが半馬身差で通り抜けると

ドオーッ

と場内が沸いて、浅い屋根しかない空へ喚声が広がった。


平成十九年七月五日、午後四時の川崎競馬場―。気温・摂氏三十二度


「ねえ、ねえ」

と、シャツを引っ張る節子の声で、利谷はやっとわれに返った心地がした。

「陽陰に行きましょうよ。暑くってー―」

[ああ・・・]

と、節子に従いながら、利谷は苦笑せずにはいられない。

節子も利谷に言われて、八−八のぞろ目を購入しているはずだ。オッズからしても万馬券は間違いない。だから躁げ、とは言わないまでも、もう少し嬉しそうな素振りをするとか、ニコッと微笑むとか、なんらかのアクションがあってもいいのではないか、と利谷は思う。

利谷は人混みの中を、節子と一緒に階段の下へと移動しながら、そのことを聞いてみた。

「うん、そりゃあ嬉しんだろうけど、とにかく暑くってさあ」

節子はそう言ってブラウスの胸の辺りを指で摘み、パタパタとハンカチで風を送った。

ウオーッ

と、上の方でどよめきがおきている。配当金が表示されたのだろう。三連単なら五十万円以上ついているはずだ。

「じゃあ、利ちゃんは嬉しいわけ?」

「なに言ってやあがる」

「だって、私に嬉しくないかってさあ、変なこと聞くんだもの。聞かれりゃあ、嬉よって答えるけど・・・」

だけど目的はお金儲けじゃなくて、競馬というものを一度体験したかったのだ、と言う。

口ぶりに、体験したから帰りたい、というニュアンスがある。

―― 適わないな

「判ったよ、帰ろう」

「うん、ごめんね」

ナイター競馬のために開門が午後二時半である。それに合わせる形で午後三時前に来て、今のレースで都合二レース目であるが、実を言えば帰ることに利谷も異存はない。

節子のように暑さに負けたわけではないが、利谷の目的も終わっている。

―― のめり込むかな?

追い込みが全盛の現代競馬界にあって、往年のヤマニンマサコのように逃げに徹する馬が、利谷の好みには合っている。

追う、という迫力より、追われる、という必死さが、利谷は好きなのである。

川崎競馬場にそういう馬がいると先日石黒から聞いて一度見てみたいと思っていた矢先の昨夜、節子がどういう風の吹き回しなのか一度競馬に連れて行って欲しいと言うのであった。

それが、この暑さに負けて、もう帰ると言っている。

いい加減な女だ、と、利谷は思っているわけではない。賭け事に対する彼女の淡白な性格を知っているからではなく、なまじっか他の賭け事を知っている彼女の様な人間には競馬や競艇はレースから次のレースに移る時間が、苦手なのである。「間」が持たないのだ。

しかし、帰りの車の中では、節子は目が醒めた如く饒舌になった。

「知らなかったのよ」

と、そんな言葉を枕にしては、ケラケラ笑った。

知らなかったのだ、と言う。配当金が一万四千三百円だから、自分に返って来るお金は二万八千六百円であると、そう思っていた、と言うのである。

挙句の果てに

「チックショウ、私、何で二千円しか買わなかったのかしら」

と言ったり

「もう一度やりにいこうか」

と言ったりしては、ハンドルを抱えるようにして突如、ケタケタと笑ったりした。



利谷幸一、四十一歳、数え年でいえば本厄に当たる。

五年前、離婚した。

子供が二人いた。

この五年間、別れた女房の順子にも子供にも会っていないが、たまに、子供に会いたいと思う時がある。上の坊主は今年で十二歳、中学一年になっているはずだ。下の娘は小学三年生――。自分で育てているわけでもなく、月々の決まった養育費を払っているわけでもないのに、毎年三月末になると、利谷は自分の中にだけいる子供の学年を数える。

別れた理由―?

事業の失敗、あるいはサラ金というのが一番判り易いだろう。順子の兄弟もそう思っているはずだ。しかし、それが真実ではない事は、自分と順子が一番よく知っている。月並みで気障な言い方をすれば、男の夢と女の現実、というギャップの問題なのだ。

夢があった。見果てぬ夢ではあったが、自分のすべてを賭けても悔いる事のないであろうと思われた夢が、あった。

十年前、利谷は人間関係のもつれから八年勤めた商事会社を辞し、株式会社野田企画という不動産会社に営業として再就職した。就職というようなものでもなく、女房に内緒でとりあえず潜り込んだというのが実体に近かったが、それが利谷の運命を変えた。

不動産会社といっても、北関東地方の山林を別荘地というふれ込みで整地し、首都圏への販売を中心とした、いわゆる悪い意味での開発屋である。間違っても、デベロッパーのようなものではない。

利谷が入社した平成九年ごろといえば、別荘地の販売などは既に見限られた業界だったし、社会はそれどころではなかった。金融不安が募り、証券会社や銀行などが相次いで破綻をした年である。

しかし、この業界は業界で、細々と生きながらえてはいたのだ。業界としては昭和五十年代がピークであったろうか。平成に入るころにはこういったまがい物の開発屋は、テレビや週刊誌などに叩かれて徐々に駆逐されていった。そしてバブルの崩壊と共にほぼ全滅した。

ただ、利谷が入社した時期は上記のごとく、庶民はまだ別荘どころではない。が、そこに面白味があった。

十数年のブランクは、知らぬ間に購買層が一巡していたのだ。

しかも、飛び込みという営業スタイルが利谷に合っていたのだろう、水を得た水澄ましのようなものだった。

当時の野田企画は、月一といって、月間に一本の契約を成立させればそれで良しとしたものだったが、利谷は入社初月から月間成約数が七本と、他を圧倒していた。

実入りは契約の金額や件数にも依るが、概してオーダー金額の二十三%が固定給に加算され、三ヶ月後の利谷の収入は三百万円を超えた。

夢のようであった。

野田企画は一応株式会社になってはいたが、営業マン十一人に事務員一人という、漫画のような会社であった。

それがこの不況業種の中で細々と生き永らえて来られたのは、社長である野田栄一の腰の粘りにあるといえた。もう行き詰まりか、という段になると、不思議とそれを乗り越える知恵が出てくる。発想が意表を衝いており、正に「ワープの野田」の異名は伊達ではないといえた。

どちらかといえば行動派であると利谷は、物事の本質を追及するようなところがある六つ年上の野田と馬が合った。といっても入社当時の利谷には馬とか牛とかいう以前の問題で、自分の勤める会社の社長と会社の行く末を語り合うという事自体が、今までの利谷の会社勤めから考えれば破天荒な事であった。

飲みに行った時などそんな具合に会社の将来を話しあう内、利谷は野田企画の運営に深く関わっていく事になり、実に多彩な経験を経ることになる。

「一利ヲ興スハ、一害ヲ除クニ如ズ」

というのは組織の鉄則である。

実は会社という組織も、外部からの挑戦によって敗れ去っていく、というのは稀である。一見そのように見えても、実態は内部の腐敗、という言葉が過激ならばモラルの低下、あるいは対処能力の欠如ということが前提としてあるのである。

業界全体が低迷に晒されている野田企画の場合も、規模こそ小さけれ、その例外ではなかった。たった十一人の営業マンに、派閥があったのである。利谷にも泥を被ったり被せたりの、内々で場外乱闘と呼称していた毎日が、仕事以外の空間にあった。

通常、入社して彗星のように光り輝いた営業マンもそういった泥濘に足を取られ始めると、営業グラフは急激に下降し、ただの人になっていく。

その点、利谷は特異であった。面目躍如というのか、泥濘が養分のような男なのである。

七ヶ月後には営業部長が四人の営業マンを連れて他社に奔り、利谷が営業全体を束ねるようになった。

そもそも営業会社というものは単純な、誰にでも判るシステムで運営されているものなのである。新参の利谷にも充分理解し、把握できた。

しかし、その「判る」事が魔物なのであった。

この場合「判る」ということは、先が読み取れる、ということであり、それは未来が己の掌の中で息づいている、ということに他ならない。

利谷は熱狂し、没頭した。業界の環境の善くなった四年後には、社員が百五十名を超え、浦和の本社に加えて新宿、松戸、横浜、そして大阪と営業所を拡げ、絶頂期を迎えた。いや、今振り返るからこそ絶頂期であったわけであるが、その時は絶頂であるなどと思いもしなかった。

未来という真紅の炎は、相変わらず己が掌の中で燃えている、と、思われた。

突発的な「振り込め詐欺」事件。

当初は「オレオレ詐欺」といわれたこの事件は、平成十三年から広く報道され始めたが、ちょうど野田企画が一年ほど前から営業方針を訪問販売から、電話を使ったテレアポへと切り替えたところだった。電話を使った営業が、ストップしたのである。

転機はまことにあっけなく訪れた。営業方法が似ている、それが致命傷だった。詐欺と営業方法が似ているというのもおかしなものだが、現実の問題だった。そのロスも拡大局面の組織ならば、どこかに吸収出来たかも知れない。が、丁度その頃、携帯電話の普及によってテレアポの獲得率が急降下しており、会社は会社で売り物件である福島二本松の造成地が、開発許可砂防指定地の作業申請に関して、県から、告訴も辞さずの勧告書を突きつけられ、下請け業者との板ばさみになってニッチもサッチもいかなくなっていた。

悪いことが重なりました、というのは第三者に対する判り易い言い訳であるが、利谷には内部的な崩壊、というイメージの方が強い。

負債総額三億六千万円

野田社長の失踪――

顧客からの預かり金返還要求と、それに続く告訴、刑事事件――

馬鹿馬鹿しい形で立件された詐欺罪の従犯として、刑期一年、執行猶予三年――

保証人になっていた市中金融の返済、追い込み、そして離婚――

五年前の事である。


「利ちゃん、カサブランカ行こうか?」

新車のクレスタを転がしながら、サングラスの奥から節子が言った。

「ホテルへ帰るよ」

眩しいほどな七月の光に晒された産業道路を、白いクレスタは走っている。しかし上方を湾岸道路から続く首都高速横羽線が塞いでいるため、車道の北側だけは陽影になっていて、排気ガスの微かな匂いさえ我慢すれば快適である。

右手前に横浜博の時の大観覧車が、低いビルとビルの間に見え隠れしている。

「じゃあ私、カサブランカに行っているからさあ、後で来てよ。今夜、飲もうよ」

「クリスタルかい?」

「いいじゃん。私の奢りということでさ」

「節っちゃんもいい加減だなあ。事務所の方はいいのかい?」

「う〜ん。それ言われると弱いなあ。だけど、香保さんが上手くやってくれるしさ、携帯も鳴らないから・・・」

「節っちゃん、営業でもやったら大成するぜ、保証してあげるよ」

「イッヒッヒ、みんなにそう言われるんだ。だけどね、わたしゃああいう事はしないんだな」

節子はサングラスを外しながらそう言い、利谷を見て、淡い緑のアイシャドーに彩られた左目で軽くウインクをした。

クレスタは生麦の交差点を左折し、利谷の住むG−グラスホテルへ向かった。


節子は、カサブランカでは「節っちゃん」が通り名なのだが、本名は横井節子

といい「横浜節子探偵事務所」という小さな興信所と、その事務所をパーテーションで区切った「横浜レンタル」という貸事務所を、京浜急行の黄金町駅の近くに開いている。

本人は利谷より五歳年下だと言っているが、少しサバを読んでいるのではないかと利谷は思っている。容姿は目と目の間隔の広い、美人というより可愛い感じの、小柄でスタイルの良い、いつも微かな香水の香りを放っているような、まあ、いい女である。ただ、性格の根っこに瓢衿なところがあり、利谷と一緒の時など十代の小娘のような表情を見せたりすることがある。

二人の間に、特別な関係、というものはない。節子も四−五年前に離婚したらしいが、利谷は深く尋ねたこともない。

節子と出会ったのは「カサブランカ」というバラ打ちの雀荘である。

カサブランカは横浜市内を中心として、都合六店舗の店をチェーン展開しているが、利谷が主に利用しているのは中華街の横手にある加賀町店である。近い、という理由だけではない。真田、という口ひげを生やした店長が気に入っているのである。


クレスタは桜木町から弁天橋を渡り、しばらくして細長いビルの前で停まった。G−グラスホテルと穿たれた金色のプレートが嵌め込まれたそのビルは、一階がラウンジ兼用の喫茶室なっていて、二階がフロントと和食の店、三階から八階までが客室になっている、ノッポのシティーホテルである。

利谷は丸五年、ここで生活している。

五年前に、身を潜めるような毎日を過していた時、偶然泊まったホテルであったが、以来今日までホームグランドの埼玉を離れ、何となくグズグズとこの横浜という小汚い街に居ついている利谷であった。



当てにするなよ、と言う利谷の錆のある声を無視するかのように

「じゃあ、待ってるね」

と節子は言って、車の流れの中に入っていった。

利谷は節子の車が見えなくなるのを確かめてから、空へ目を移した。青空をいく純白の雲が二−三片浮いていて、五時近いのに太陽が眩しい。街全体が陽当りと陽陰の、強烈な白黒のコントラストに還元された相貌を示している。

ゆらめくような、夏が来ているのだ。

― 暑い

利谷は充分過ぎるほど太陽の光線を意識してから、三0三号室の自分の部屋へ帰るべく、ホテルの中に入って行った。

部屋へ帰って、何かする当てがあるわけではない。冷たいシャワーを浴びてから、ハイスターチの走りっぷりでも回想して、午睡でもしようかと思っている。今の時間からでは、パチンコもつまらない。

利谷は麻雀とパチンコだけで生計を成り立たせている。一日、二万五千円の稼ぎが、利谷が自分に科したノルマである。五年間、日毎のノルマの上下はあっても、月間五十万円を切ったことはない。

何故なのだろう? どういう訳か、他人から見て放埓としか考えられないような、訪問販売の営業とか、今のような生活が利谷の性格には合っているようであった。暗い、博才のようなものがあるのである。

しかし、ここへ来た時から今日を目指したわけではない。反対に、ここへ来た時から、この境遇を抜け出すべく努力しているようなものであった。

ところが、半年もして、身の回りの問題が納まるところへ納まるころには、野田企画の対抗会社であった丸の内開発から手腕を見込まれ、新設の第二営業部長として入社を請われた時、利谷はアッサリとその話を袖にした。

袖にしてから、断った自分に自分で驚いた具合だった。



フロントでキーを受け取り、クリーニングの確認をしていると

「あっそうだった。メッセージが入っていたんだわ」

と、チョコレート色の制服に体を包んだ愛子が、利谷に言った。

「メッセージ?」

「ええ、一時間ほど前だったかしら、野田って言えば判るからって・・・」

「えっ・・・?」

野田、と聞いて利谷の胸に激しい感情が走る。懐かしいくせに苦いような、複雑な感情が喉元まで押し寄せる。

愛子は利谷の心の揺れが判らないのか

「はい、これ」

と、にこやかに言って、利谷にメモ用紙を渡した。

PM三:三0と、受け付けた時間の下に「いつでもいいから電話をくれ」と、電話番号が書かれてある。

―― 石黒が教えたのかな?

利谷は愛子と少し話を交わしてから部屋へ行き、エアコンをセットして、火照った身体に頭から冷たいシャワーを浴びせた。

バスルームから出てベッドに腰を掛け、バックの中から百四十三万円の束を取り出して、百三十万円だけを傍らのアタッシュケースの中へ移した。

―― それにしても

利谷はパドックを回っていた時のハイスターチの目を思い出す。

周囲の思惑などそっちのけで、うつむき加減に歩いていたハイスターチが利谷の近くまで来た時、ヒョイと立ち止まって空を見た。

青空が映ったような、あの目がよかった。

―― のめり込むかな

そんな思いは絶えずしているが、それは裏返せば、のめり込みたいという利谷の願望に他ならない。

一時の感情の昂ぶりを、自分で弄んでいるに過ぎないのだ。

何事にせよ熱中するという事は、今の利谷には出来ない事であろう。自分に向かっての冷たい計算が出来るようになっている。

ベッドに横になって、天井を見詰めた。

天井の右端のクロスのジョイント部分が僅かにずれていて、横になる度にそれが気になる。

―― 野田社長・・・

どうして自分の居場所が野田社長に判ったのか、少し考えてから、野田社長は今どうしているのかと思った。あの知恵の塊のような野田社長のことである。あの修羅場でさえも、痕跡を留めぬ一瞬の泡沫として切り抜けたに相違ないと思う。

連絡をするかどうかは、石黒に問い糺してからにしよう。利谷はそう考えてから、浅い眠りに落ちた。



雀荘カサブランカの加賀町店は、人通りの多い繁華街に面した雑居ビルの二階にあることもあって、客の出入りが激しい。卓を囲めば四人のうち一人は、まず初対面である。三十坪強の店舗に十三の卓を持ち、メンバーさんと呼ぶ店員が店長の真田を入れて八人いる。

七時過ぎに利谷が店の中に足を入れると、独特のざわめきの中から

「チップは一枚ずつね」

と、石黒の声が奥の方から聞こえた。

木目を鮮やかに出したカウンターの中で、他のメンバーと話をしていた真田が利谷を認めて、ニヤッと笑い、目で挨拶を送ってくる。

「遅かったですねえ」

「うん、ちょっとね」

「節っちゃんが八時までには戻るから、待ってて欲しいって言ってましたよ」

「そう・・・」

「六時少し過ぎてたかなあ、携帯で呼び出されたんです」

石黒はメンバーの制服である黒のチョッキに黒の蝶ネクタイをしているが、色の黒い角ばった顔に口ひげを生やしている石黒には、どう贔屓目に見ても似合わない。せめて髪を綺麗にセットでもすれば良いかも知れないが、いつも油気のないパサパサの髪を手でなでて整えたつもりでいる。

「今日、凄かったんですって?」

「・・・馬かい?」

「節っちゃんがね、わたしゃこれから競馬ギャルになるんだって、張り切っていましたよ。利谷さん・・・引きずり込んだら駄目ですよ」

真田がそう言って笑い、カウンターに凭れている利谷の前にアイスコーヒーを置いた。

「マー坊、今日はついてますよ。半チャン六回で四回トップ、マイナスなしの成績です」

「ふうん。困ったことだ」

「まだ気にしてるんですか?」

「どうかな?」

利谷は小首を傾ける仕草をした。

「勝ったじゃないですか」

「そう、お前の言う神様に点棒では勝っただろう。しかしね、ああいうのは勝ったとは言わないんだよ」

利谷はグラスからストローを取り出し、直接グラスを口に当ててアイスコーヒーをすすった。

二人の会話の説明が要る。

真田が、篠田という男がいるが

「あれは神様だ」

と言い、利谷に是非一度、卓を囲んで診てやって下さいと言う。

了解すると、待ってましたと真田はその為のメンバー選びを楽しんでいた。そして二週間ほど前にメンバーが決まり、場が立った。

最初、利谷は神様だという篠田のことなど眼中になかった。それが、途中から、妙に気になりだした。すっきりしない。

場の主導権を握って振り回す利谷に対して、真田ともう一人は連係プレーとも思える打ち方をして、何とか利谷の勢いを止めようとするのだが、篠田はその戦いに入って来なかった。

篠田の打ち方は悄然というのか従容というのか、独りで何ものかに向かって「問うている」ような、打ち方だった。

それでいて最終局面ではいつもトップか、トップにピタリと照準を当てている。利谷とすれば、いつも背中に匕首を当てられているような、首輪をはめられた犬のような、妙な気持ちだった。それが、全局そうだった。

終局後、四人で飲みに行った。

「運の太さを、競うような麻雀だね」

利谷の麻雀を評して、篠田はそう言った。

あれ以来、麻雀がおかしくなっている。


利谷と真田がカウンターの隅で話をしている最中も、客がひっきりなしに来ては控えのソファーの所に集まる。

メンバーが空いた卓へ客を案内したり、終了卓へ行って計算をし、場代を徴収したりと、忙しく立ち働いている。金曜日だから、いつもより忙しいのかも知れない。

「利谷さん、打ちますか?」

と、メンバーの一人が言った時だった。節子が顔を覗かせ

「あ、居た居た」

と言い、スリッパに履き替えて利谷の横に来た。

「利ちゃん飲みに行こう」

「ちょっとまだ早いんじゃないか?」

時計を見ると、七時四十五分である。

節子は真田の方をチラッと見てから、話があるのだと嬉しそうに言う。

「カモが来たのよ」

「カモ・・・?」

「うん、いいからさあ。とにかく行こうよ」

利谷は真田に、後でクリスタルに来るよう石黒に言ってくれと伝言を頼み、促す節子の後に続いて店を出た。


バー・クリスタルは中華街に続くシルク通りにあって、九階建ての最上階の一角を占めている洒落た小さな店である。

ガラス窓に寄り添うようにして、四人掛けのボックスが二つと、それに対して斜めの角度に張ったカウンター席が十四−五席あるだけの店である。

利谷がこの店を好んでいるのは、マスターと気が合うからではない。亜紀という女性バーテンダーの作るジントニックが好きなのだ。

ボトルは「グレンリベット、セラーコレクション64年」を取り寄せて置いてあるのだが、それは棚に飾ってあるだけでまだ封も開けてない。それは見ているだけで気分が良いのだ。きっと近いうち、開ける日が来ると利谷は信じているのである。

実際に飲むものは、ほとんどその日の気分に合った物をショットで頼んでいる。

店内には二組の客がいて、カウンターで何やら話をしている。

利谷がボックスに座りハイネケンの生を頼むと、節子は、わたしもと言ってから

「今日はついてるんだ」

と言って、にっこりした。

ガラス窓を通して、横浜の夜景が美しい。

「どうしたんだよ?」

「うん、困ってるのよ」

節子が言うには、携帯で呼ばれて事務所に行くと、五十歳くらいかと思われる男が待っていて、千葉にある会社を調べて欲しい、と言ったというのである。

「私、断ろうかと思ったのよ」

そもそも探偵事務所と一口にいってもいろんなタイプの事務所があるわけであり、節子の事務所の場合は結婚に関する身元調査とか、浮気の調査といった、いわば浮世の人間関係の調査がほとんどであり、会社の調査などはあまり得意ではない。普通この業界のこんな場合は、受けるだけ受けてマージンを抜き、同業他社へ回すのだが、節子は僅かなマージンでリスクを負うのが嫌だといって「転がし」はいつも断る。

ところが、よく話を聞いてみると、企業調査といっても会社社長・榎 圭次個人の身辺調査だという。しかし節子は、やはり断ろうと思った。

「だってさあ、遠いじゃん」

榎 圭次の自宅は船橋市であり大取をしている株式会社千葉恒産の本社は千葉市内である。

けれど最終的には、節子はその依頼を受けた。理由は金額である。

「カモったのかい?」

と、利谷が訊くと、金額は相手が提示したのだという。

「一ト月で二百万円、経費別途だってー―」

節子はよほど気分が良いのか、ビールをもう一杯と頼んでから

「そこでお願いがあるんだけどー―」

そう言って利谷を斜めに見て、軽くウインクをした。

「バカ、俺はやらないよ」

「何でえ・・・利ちゃんこの間言ってたじゃん。こんな生活いつまでもしてらんないって。仕事でもしようかなってー―」

「おい、おい」

「笑ってごまかそうなんて駄目よ」

確かに利谷はそう言った記憶があるが、それは言葉としては正確であっても、意味するところは正しくない。しかし、節子がそう言うのも無理はない。節子は利谷の過去を知らないのだ。

「四分六でどう? 私が八十万で利ちゃんが百二十万」

節子の手首のブレスレットが、グラスを傾ける度にキラッと輝く。

「まあ、アドバイスくらいにしておいてくれよ。節ちゃんとは利害関係を持ちたくないんだ」

節子は頬杖をして利谷を睨んでいる。

「石黒に頼みな。それ位の調査なら奴にも出来るし、あいつこそ仕事がしたくて堪らないんだよ。もうすぐここへ来るはずだから、俺からも口添えしてあげるからさ」

「マーちゃんに・・・?」

と節子は言ってから、どういう関係なのかと、利谷と石黒との事を聞いた。

「昔の、俺の部下」

利谷はそのように当たり障りのない言い方をしたが、それはそうに違いないにせよ、二人の関係はそれを超えたところにある。

マー坊、こと石黒達治は、今年二十八歳の青年である。両親に見捨てられ、施設育ちの彼は、七年前に利谷に拾われて以来ずっと傍らを離れず、利谷を父親か兄貴のように慕っている。

利谷は、ふっと暗い表情をした。

―― お前が野田社長に連絡を取ったのか?

それを問い糺したい気持ちが、利谷の心の中に渦巻いている。

何故なのか、何に拘っているのか、それは本人である利谷自身にも判らなかった。



断章――リンチ


七月十八日――

気象庁によれば、この年は例年になく猛暑になるという事であったが、それが事実であることを実証するかのような高気圧が、早くも東日本を覆って、この日の首都圏は燃えるような一日であった。

千葉、東京、横浜をつなぐ湾岸道路は、首都圏を支える産業の幹線道路として、相変わらず車の群れに埋め尽くされていたが、時として百メートル程の車間が空くと、それだけの間隔であるにもかかわらずアスファルトの上には逃げ水が発生した。

陽が落ち、熱気が少し冷めたその夜のことであった。

田島数夫は勤め先の製本会社を八時半に退社し、JR房総線に揺られて長浦の駅を降り、自宅へ向かった。線路沿いに南下し、商店街が途切れた所から踏み切りを渡って少し行くと、左手に大きな倉庫が二棟建っており、その二棟の倉庫に挟まれて二百坪ほどの駐車場がある。

時刻は夜十時前である。

田島は、不審を抱いたと、後で証言することになる。

「あの辺りは暗い所でしょう。だから帰りが晩い時は駐車場の灯りで助かっていたんです」

それが、消えていた。

四つのライト全てが消えていたのも変だったし、何か「嫌あなもの」を感じた。

しかも通り抜けざま、灯りの消えた駐車場の虚空を覗いて見ると、微かだが人の話し声がするではないか。

「・・・?」

抑揚からして、何かを問い詰めているような声音に感じられる。

田島は関わらない方が良いと即断して、急ぎ帰宅した。

何故なのか?という警察の問いに、暴走族だと思った、と田島は答えるが、それは無理なからん事であった。

夏になると、確かにこの近くには国道十六号線を疾駆する俄か暴走族が出没し、毎年必ず二−三件の傷害事件を起こす。

しかし、田島にとって、事はそれで終わった訳ではなかった。

帰宅すると大学三年生になる一人息子がクラブ研究会のために遅くなっているということで、女房に言われるまま犬を散歩に連れ出したのである。

田島は犬を自転車に繋ぎ、人気のない所を回りながら、途中、先ほどの暴走族の事が気になり、ちょっと遠回りであったが灯りの消えた駐車場に自転車を走らせた。

倉庫の影が、半円の月に輪郭を現し始めたころ、距離にして七−八十メートルであったろうか、駐車場の裏手から続く田んぼの中を、人が走っていた。

走っていた、というより転げ回ると言った方が正しいような走り方である。

五十センチほどに育った稲を踏み分けるようにして走っているのであろうが、時節がら水が多い。

田島は自転車を止めた。

「・・・?」

月明かりの田んぼの中を転げ回って走っているのは、一人ではなかった。一人の男の影を、二人の男の影が追っているようである。無言のうちの荒い息遣いや、必死の動作が感得できる。

バシャッ、バシャッ

声は聞こえない。

緩く風が吹いている。

田島はゾクっと背筋に悪寒が走るのを感じた。

その時であった。

自転車に繋いであったボスが、猛然と吠え始めたのである。その吠え声に助力を認めたのか、追われている男が血を吐くような叫びをあげた。

「助けて!・・・助けてくれ!」

若い男の声であった。



第1章――その2 有本


神奈川県茅ヶ崎市は、人口二十五万人ばかりの静かな住宅の町である。

相模湾を南に受けて暖かく、後背遠く丹沢の山塊、そしてその合間をぬって富士を望む。高い建物はあまりなく、市の中心部であるJR駅近辺に僅かばかりのオフィスビルと、数件のスーパーがあるに過ぎない。

湘南の海岸に沿って松林と住宅街が続き、所々に海水浴客を見込んだホテルが建っている。

海水浴シーズンを除けば、陽の光の静かな、嘘のように落ち着いた街である。

その茅ヶ崎市の新湘南バイパス沿いに、星野電機製作所の本社があり、その本社の経理一課に有本省次郎という若者が中途入社したのは、今年の五月のことであった。

会社として中途採用が珍しいわけではなかったが、本社採用の、それも経理一課への配属社員となると、これは非常に珍しいというより初めての事であった。

八年前に経理課が一課と二課に分かれ、一課は財務を、二課は一般経理を担当する事になって以来、経理関係の新入社員は全て二課へ配属され、その上で一課へ昇格するという事になっており、中途採用の新入社員がはじめから一課へ配属された今回の人事は、社内に様ざまな波紋を呼んだ。

経理の責任者である室賀常務は序列意識の強い人であったが、その常務も不思議なことに何も語らない。その話題に対しては苦虫を噛み潰したような顔を見せるだけであった。

しかし、誰も常務の渋い表情を見て納得したわけではなく、陰で様ざまな批判や憶測が乱れ飛んだ。

経理畑の人間たちだけではない。

配電盤を主にしている上海工場と、プリント基板を中心とするバンコク工場を束ねる星野海外事業統括常務など、その人事に対して神経を尖らせているらしく、みんなの前で室賀常務にその理由を尋ねたくらいである。

そのうち人事課から、この人事は会長の星野八郎の指示である事が非公式に伝わり、以来批判派は表立ってこの問題を取り上げなくなった。が、経理課に利害関係を持つ人間を中心にして、相変わらず有本省次郎を見る目は冷たいものだった。

早く失敗でもしないかな、というのが、ほぼ全員の彼に対する期待である。

そういった人の思惑を知ってか知らずか、蛙の面に何とやらで、有本省次郎は入社の経緯に関して一切口を閉ざしている。

有本省二郎、旧姓、堀井省二郎。


闇の深さを知る人間にだけ、光はその暖かさの真の姿をみせる。

省次郎は三月の終わりに千葉刑務所を仮出所した。春の陽差しがようやくその匂いを撒き散らし始めており、硬かった桜のつぼみが柔らかさを増している季節だった。

まぶしかった。

全てが、まぶしかった。

乾いた土が小雨によって潤いを帯びていくように、省二郎の心は少しずつではあるが、確実に生気を取り戻していった。五年前のあの当時から考えると、省二郎を取り巻く環境はずいぶん変わっている。

三年前に母が死んでいた。脳卒中だったという。桜の花が美しく咲く青山の墓苑で、省二郎は独り泣いた。

省二郎が生まれ育った三鷹の家は、人手に渡っていた。そのことに対して兄は多くを語らなかったが、省二郎には判る気がする。あそこに居ることは、針のむしろであったであろう。

その兄は離婚していた。

全ての問題があの事件に収斂し、そしてそれを契機に全てが発生していた。

しかし、その激震も薄らいで来ているのか、新しい芽吹きもある。

一年前に兄が再婚し、双子の子供が出来ていた。

「ここはお前の家だ」

多摩丘陵が美しい分譲住宅に住む兄はそう言ったが、省二郎はその言葉に感謝こそすれ、甘える気持ちにはなれない。

それと、三鷹の家を売却したお金の一部だと言って、二千万円の預金が入った通帳を渡されたが、それは頑として断った。そんなお金を、受け取れる権利のあろうはずがないではないか。

身元引受人である兄の所に二週間程いてから、有本精一叔父の家に移った。

「家へ来い」

と言う精一叔父の言葉に従ったのである。そして

「内面も大事だが、人間は外面も大切にしなくてはならん。省二郎、堀井の姓を捨てろ」

そう言って省二郎を諭し、有本家の養子なることを勧めた。

その上で、東京には住みづらかろうと言い

「茅ヶ崎へ行け」

と、星野電機製作所への就職を世話してくれた。

星野電気の会長、星野八郎と精一叔父との繋がりは、一−二度叔父から聞いたことがある。

叔父は商社時代の武勇伝のように笑い話で済ませているが、1960年代にカンボジアのコンポンソムで海老の輸入をするため冷凍倉庫を作り、現地責任者として赴任したのが、企画立案、実行を担当した精一叔父と星野会長の二人だという。

気が付いた時には半年で世界情勢が激変し、共産ゲリラに拘束されてしまい、一月余り後に収容所を逃げ出して、密林の中を食うものも無く五日間逃げ迷った仲であるらしかった。

就職には実のところ、驚くことが多かった。

省二郎は獄舎にいた時から出所後の身の振り方で悩んでいたのだが、出所すると、兄からも友人たちからも沢山の就職の誘いがあったのである。

その中から、星野電機を選んだのには、省二郎なりの明確な理由がある。

―― 西岡為三を、捜さなければならない

その、一点である。

その為には鎌倉に近い所が良いに決まっている。

それに、省二郎には気になっている事があるのだ。西岡の、天麩羅屋「おか」での何気ない言葉

「緑化技術は日本が一番進んでいる」

あの言葉が忘れられなくて、逮捕される前日に中央図書館へ行ったくらいだ。鎌倉に近くて緑化最前線となれば、鎌倉から小田原を結ぶ海岸線に平均幅二十メートル余、長さ三十数キロに亘って断続的に続く湘南の防砂林ということになる。

しかし、かといってその防砂林が西岡とどんな関係にあるというのか?

西岡為三 ――

怨んでいるわけではない。

初めの二年間はともかく、今となっては怨んでいるわけではない。

―― 何故なんだ?

白壁の殺された理由も判らなければ、自分が標的にされた理由も判らない。それが、知りたい。

白壁貢を殺害したのは西岡である、と、激情の余り思い込んでいた。しかし、それさえも、冷静になって考えてみれば怪しいものであった。

省二郎は、どんな事があっても探し出して殺してやる、とまで西岡のことを思っていたのだが、五年の歳月は長い。もう一度自分の人生を築きあげよう、そう考えるようになるまでに僅か二年の月日しか要しなかった。

人間は過去に捉われて生き続けることは出来ない。そんな時間の、余裕はない。新しい生活を始めなければならないのだ。

しかし、かといって、あの事件を放っておく訳にもいかない。あれは、解決しなければならない。それが自分にとって、本当の意味での出発点になるであろう。

省二郎は、自分が渋谷署の留置場から東京拘置所に移送される前日の事を、折に触れては思い出す。


三月半ばの、明日は拘置所に移されるという、晴れた日の午後であった。一人の刑事が来て

「最後に聞いておきたい事がある」

と、省二郎を取り調べ室へ連行した。

顔だけ知っている刑事であったが、その刑事が己の名を、佐橋、と名乗り、その後長い沈黙をした。

コーラを省二郎に渡して

「飲みなー―」

と言った以外、何も言わなかった。

省二郎は冷たいコーラを飲みながら、鉄格子の嵌まった窓の外を流れる白い雲を、ぼんやり眺めていた記憶がある。

十分か十五分か、静止した時間の中に、二人だけの視線が絡み合う事もなく漂っていた。

「―― お前は、馬鹿だ」

唐突に、沈黙を破って佐橋は言った。

「今から俺が独り言を言う。ようく、頭に叩き込んでおけ」

そして宮古市における西岡の事件、そして白壁と明子夫婦の失踪の経緯を語った。

「俺はな、金沢刑務所に収監されている金森が西岡と面識がある、と思ったよ。しかし、なかった。そうなると、どうやっても白壁と西岡の接点は判らん。―― 姫路で消えて、浅井という名で東京に現れるまでの二年余、彼の身に何があったのか・・・?」

そう言って、無表情に窓の外を見ている省二郎の横顔に視線を当て

「以上だ。――後はお前の問題だ。自分で解決しろ」

そう言った。

省二郎は佐橋の独り言を聞いたが、衝撃などはなかった。何がどうなろうと、驚くような精神状態ではなかったのだ。

しかし、佐橋の独り言は、日を追うに従って省二郎の胸の中で大きく育っていった。

そうだ、佐橋の言う事が事実ならば、実に多くのケースが考えられる。そしてそれのポイントは、間違いなく佐橋の指摘する一年余の空白にあるに違いない。

―― 確認したい

省二郎は出所が待ち遠しかった。



省二郎は電機部品メーカー、といっても現在の主力商品は省エネ電線と自動車ユニットの配電盤であるが、その部品メーカーの星野電機製作所に入社することになった。資本金三十一億円、売上げ六千五百億円、国内従業員二千八百名余りを擁する中堅企業に入社出来るなどとは、獄舎にいる間、夢にも思っていなかった。殺人という前科があり、五年前とは違って、運転免許証以外の国家資格は全て剥奪されているのだ。

有本叔父と星野八郎会長の二人の特別な関係が、自分の入社に結びついている事は間違いなさそうであった。形式的な、一顧の面接、といっても東京のホテルのロビーで三人してお茶を飲んだだけであるが、それだけで入社したのである。

ただ省二郎が抱えている問題は星野会長にも伝わっているらしく、会長は

「省二郎君、会社の仕事なんか二の次だ。まず、自分を立て直すんだぞ。そこからしか出発はない」

という言葉をかけてくれた。

省二郎は自力、というものを取り敢えず捨てている。今はただ、他人の好意に身を委ねて、その中から少しずつ自分の将来を築いていこうと思っている。

だから、自分が経理一課へ配属された事で、経理課全員の注視を浴びている事は判っていた。それが、どちらかといえば冷たい視線である事も充分判っている。

しかし、そんな事は省二郎にとって、どうでも良い事だった。

そういう事に煩わされるには、まだ、省二郎は余りに闇の深さに心を閉ざしていた。

省二郎がこの会社に入社するに当たって、反対をした人間が一人だけいた。

柴垣、である。

「危ない」

というのがその理由であるが、省二郎はその辺りも充分計算している心算だった。

自分の所在を詳らかにしていれば、いつ、どういう形で、西岡たちに再度襲われるか予測がつかない。襲われない、かも知れない。

しかしだからといって、柴垣が言うように、ホテルを転々としながら対決をする、というような事をしようとは思わなかった。柴垣はあれ以来少し神経質になり過ぎている、と思う。

今、東京本社にいる柴垣には感謝の一言である。省二郎が獄舎にいる五年の間に、彼に預けてあった六百万円のお金が、三千万円弱になって運用されていたのである。

柴垣からその預り証をもらって「えっ」と驚いていると、一昨年のライブドア事件がなければ五千万円を超えていたと、更に驚くことを言ったのだった。

そしてそれとは別に1千万円近くを勝手に流用して目減りしているが、それは許せ、と柴垣は言った。何に使ったかを柴垣は言わなかったが、許すも許さないも、礼金として払ったようなものだった。

省二郎は1千万円だけを残して後は全て換金し、その資金を基にして将来に亘る基盤を作りながら、西岡たちの影をゆっくり追ってみようと思っている。

追う、と一言でいってみても、これがなかなか難しい。表立って動く事は、極力避けなければならない。自分を監視する目が、どこかにある、そう考えた方が危険は少ないのだ。

しかし、ゆっくり影を追う、という目論見は七月十九日の今日すでに綻びを見せ始めている。

そんな時間の止まったような考え方は、闇ばかり見ていた監獄ボケ以外の何ものでもない、という事を、省二郎はこれからの一ト月で嫌というほど知ることになる。

七月十九日といえば田島の飼い犬のボスが、怪しい人影に向かって敢然として吠えたあの夜の、翌日である。

省二郎は、女に会わなければならない。

柏木奈美江、彼女の退社時間に間に合うよう、今日は入社したての会社をまたもや早退しなければならない。

しかし細切のように舞台が移って煩わしいのだが、その前に焦点を利谷に移さなければならないであろう。

破綻は、意外なところから発生したのだから・・・


第1章――その3 勝野外科病院



石黒達治は七月五日の夜、節子から頼まれて千葉恒産社長、榎圭次の身辺調査をする事になった。

身辺調査といっても聞き取り調査なしの、ただ単に一日の行動を一ト月間連続して調べ、多めに写真を撮ればいいだけの事である。要は、尾行するだけの事である。

これが又、退屈であった。

榎は朝十時に二名のボディーガードマンが迎えに来ると、彼らを専属運転手の運転する車に乗せて家を出、十時四十分頃に会社に着く。大概はそのまま夕方七時近くまで会社にいて、それから夜の街に繰り出し、早ければ十一時、遅いときは午前二時くらいに家に帰る。その繰り返しなのである。ただし木曜日だけは中央区にある別のマンションに泊まるので、ここに彼女かいるのだろう。

―― どんな仕事をしているんだろう?

石黒は榎の消えてゆく千葉恒産の本社ビルを眺め、写真を撮ったりするだけで、後は毎日ぶらぶらと過した。日中はやることがなく、競馬新聞を買ってきてはノミ屋に流して時間を潰した。それ以外はほとんど車の中で雑誌などを読んで過した。

夜は夜で飲む事も遊ぶことも出来ず、千葉栄や東京銀座の、榎が入ってゆくクラブのネオンなどをデジカメに収めるだけで、腹立たしく見つめた。

―― もうこんな仕事はやらねえ

しかし、そんな石黒にも慰めがないわけではない。

外出する時、榎は常に二人の男に守られるようにして歩いていた。屈強そうな運転手は車の周りで待っている。榎が飲みに行く時もそうであった。

―― 運転手の奴も俺と一緒だね

そう思うことで少しだけ溜飲を下げることが出来た。馬鹿ばかしい話だが「よう」と、声を掛けたい衝動に駆られるくらいだった。

要するに、気の抜けた、いい加減な尾行をしていた訳であった。

それが、そんなことを繰り返して二週間ほどした七月十八日の夕方、八時を回っても榎は退社して来ないのである。

―― どうしたのかな?

と思って車のシートに身を凭れ掛けていると

ガスンッ

と、車に追突の衝撃を受けた。

慌てて外に飛び出すと、目の前に百九十センチはある片思いの運転手が立っており

「ウッ!」

と思う間もなく、腹と右頬に強烈な痛みを覚え、気が遠のいた。



節子が木更津署の刑事から、勝野外科病院に石黒が入院をしていることを知らされたのは十九日の朝、九時半であった。

全治二ヶ月の重傷であるという。

節子は「クラッ」と、目の前がかすんで行くような衝撃を受けた。すぐに利谷に連絡を入れたが、携帯の電源が切ってある。ホテルに連絡すると、不在だという。

昨夜から帰っていないと言うのである。

ホテルにはメッセージを残し、携帯にはメールを入れて、取る物もそこそこに木更津に車を走らせた。

病院では面会謝絶という訳でもなく、石黒は二人病室の窓側で、頭に包帯を巻き、右頬に大きなガーゼを当て、挙句に右腕をストレッチャーからぶら下げて、虚ろな目をして節子を見た。

髪の毛にまだ少し血がこびり付いている。

石黒は節子を認めると

「とうしまひょう?」

と、息がどこかに抜けていく様な声で、心配した。

「えっ何?」

石黒は今日の尾行が出来なくなった事を気にして、節子に謝っているのだった。

―― マーちゃん、ごめん

節子は涙が出て来るのを止めようがなかった。

節子はそんなこと気にしないでゆっくり休みなさい、と言いたかったのだが、そうもいかない。こんな場合だからこそ、善後策だけはキッチリとしておかなくてはいけない。

話を聞くと昨夜救急車で運ばれて以来、幾度か刑事が来ているのだという。

―― どうしよう?

節子にいい知恵があるわけでなし、第一、どうしてこんな事になってしまったのか、さっぱり判らないのだ。

節子はハンカチで目頭を押さえながら尋ねた。

「誰にやられたの?」

「えのきのホレーカーロマンれす」

「・・・」

「けいさつにいってはいけないれひょう?」

「そう・・・ねえ・・・」

節子は返答に窮した。

丸椅子に座って石黒の額に手をやり、溜息をついて窓の外を見ると、夏の陽光を受けた東京湾が広がっており、アクアラインのその向こう岸、スモッグに霞んだ街が見えている。横浜であろう。

石黒が節子を見て言った。

「ほんふひょうに、れんらくをしてくらさい」

節子は大きく頷きながら、その本部長に連絡が取れないのよ、と思っている。

その時だった、看護師が小走りに走って来て、電話が入っているという。

節子が受付の電話ボックスに行って電話を取ると、事務所にいる高木香保が出て、宮下さんから連絡があって連絡を欲しいと言っている、と言う。依頼人の宮下一郎は、電話での連絡はこちらからは取れない。いつもメールだけのやり取りなので、横浜を出る時にメールを流しておいたのだが、節子が病院内にいて電源を切っていた為、直接事務所に電話をしたらしい。

高木香保は連絡先の電話番号を、節子に教えた。

「判ったわ。すぐ電話をするけど、利谷さんからの連絡はまだない?」

ない、と言う。

節子はその場で宮下と連絡を取るべく、言われた通りの電話番号を押した。都内だった。

「はい、セリーナです」

「もしもし、あのう、宮下さんお見えですか?」

「はい、宮下さんですね。少々お待ち下さい」

喫茶店か何かであろう、受け答えがあっさりしている。

しばらくして、宮下が出た。

「もしもし、宮下です。えっと、何か大変なことが起きたとか・・・?」

「そうなんです。うちの調査員が大変なんです。すぐにでもお会い出来ませんか?」

「・・・どういう事なんです?」

「それが・・・詳しくはまだ判りませんが、昨夜、うちの調査員が榎社長のボディーガードマンにやられたらしくて・・・」

節子はそう言って石黒の容態と経緯を大雑把に述べ、病院の名前を告げた。

それは大変な事になった、と宮下は言い

「すぐに伺いましょう」

だから病院で待っているようにと、節子に言った。 

節子は依頼人と連絡が付いた事です少し「ほっ」として、ついでにその場で利谷の携帯に連絡を入れた。

利谷はすぐに出て、節ちゃんは連絡がつきにくいなあ、と言った。

―― もう、バカ

利谷はアクアラインの海の下だから、後四十分もすれば病院に着くという。

全てが順調に進み、歯車が回転し始めたようであった。

心の負担が序序に軽くなっていくのを、節子は感じていた。加害者を除く関係者全員が集まれば、いい知恵も出ようし、対策も容易のはずだった。

けれど節子は、帰りの車の中で利谷に言われなければならなかった。

「クライアントの住所くらいは把握しておけよ」

節子はションボリしている。

八時間待って、夜の十時になったのだが、宮下一郎は勝野外科病院についに現れなかったのである。



二人を乗せたクレスタはアクアラインを走っている。背の高い道路灯が一直線に東京湾の沖へ向かって連なっている。奥にある光の固まりはサービスエリアの「海ほたる」だろう。右手遠く、商船が浮かんでおり、その向こうに東京の夜景が広がっている。

節子は、マーちゃんだって判っている事といえば、車で競馬新聞を読んでいたら追突されて、慌てて外に出たら殴られた、という事だけだ、と言った。

「・・・?」

利谷にもさっぱり訳が判らない。

それよりも、利谷は自分がした処置が正しかったどうかを考える。現れなかった依頼者のために、ちょっとした齟齬が生じているのだ。

利谷が病院に着いたのが二時前だった。そして一時間ほどして刑事が来た時には、利谷は既に方針を決定していて、石黒に嘘を言わせた。

尾行の事や宮下の事、つまり仕事に関する事には一切触れず、ただ単に車を止めていたら追突され、因縁をつけられて見知らぬ駐車場に連れ込まれ、殴られた、という事にした。

しかしそれは、宮下というクライアントに会って、善後策を練る為の時間稼ぎになるはずだったのだ。それが、宮下が現れなかった為、構想が崩れた。事態が、複雑化してしまっている。

助手席に座って溜息を吐き、時どき思い出したかのように

「ごめんねえ」

と、節子は誰にともなく呟いている。

節子に詳しく話を聞くと、宮下とは連絡が取れないのだ、と言う。

「だってさあ、二百万円の料金先払いでよ、経費分として別途、百万円分預かっているんだもの・・・」

毎日の連絡はメールでしており、電話は宮下一郎と名乗った男の方から二日に一度の割でして来るだけ、という事になっているが、別段怪しいとも思わなかった、と言う。

利谷は、その宮下という男の容姿や特徴を節子に聞くと、痩せてた、と答えてから

「眼鏡を掛けてた」と言う。

眼鏡を掛けた男なんか

「うじゃうじゃ居るじゃねえか」

と言い返すと、節子は少し考える様子だったが、違う、と言う。

「あんな感じで、似合う」

そういう人間は余りいない、だからそれが特徴だと、わけの判らないことを言う。

「あれは冷たい、って言うのじゃないなあ。何かなあ・・・ヒアイって言うじゃない。あれって、そう言うもんじゃないのかなあ」


利谷は手掛かりを失った。

こうなれば千葉恒産社長、榎 圭次に自分が直接会う以外、方法はないだろう。そこからこの問題の突破口を見つけよう。

浮島インターを出て湾岸線を走っている。前方にベイブリッジが見えている。点滅を繰り返している飛行警告灯が、本来は華やかな彩りなのであろうが、今の節子の目にはもの悲し気に映る。いつもの香水も消え失せていた。

「利ちゃん、今日疲れちゃったね」

「そうだな。また明日だな」

「ねえ、利ちゃん。近頃さあ、わたし独りで生きていく事に限界を感じてるみたい・・・」

節子はポツリと、独白のようにして呟いた。


翌朝十時、利谷は、追突されて警察に預けられている節子の会社の車を引き取るために、真田を連れて千葉東署に行った。刑事に一時間ほどいろんなことを聞かれた後、真田に、受け取った車を節子に渡すよう頼み、別れた。

利谷は一人、クレスタを駆ってそのまま千葉恒産へ向かった。

大きなビルとビルの間に挟まれた、敷地四十坪ほどの細長いビルが建っており、それが千葉恒産の本社ビルだという。土曜日だが、やっているようだ。

―― ここか

一棟置いた隣に、二階建ての駐車場が建っており、灰色のプレジデントが停まっているのが見える。石黒はあの車を見張っていたのであろう。

利谷はビルの中に入った。

受付で来意を告げたが、榎 圭次に会うことは出来なかった。

面会はしない、と言うのである。

利谷はこっちが警察に内密にしている以上、主導権はこっちが持っていると思っていた。だから、石黒の怪我のことを匂わせ、相談があると言えばすぐに面会は出来ると思っていた。それが

「お引取り下さい。それが、社長よりの伝言です」

という受付の娘の言葉を聞いて

カアッ

と、頭に血が上った。

百五十名の訪販営業マンを束ねていた利谷である。

受付嬢の手元にある電話機を無言で取り上げ、コードを引きちぎり

「榎の部屋はどこだ?」

と、その錆のある声を一段と鎮めて言った。

受付に座っていた二十歳になるかならないかの細面の娘は、利谷の豹変に棒立ちになって、両手を口に当てたまま無言である。

「答えろ!」

利谷が迫ったその時だった。右前方の階段から三人の男が降りてくるのが見えた。

五年前の利谷ではない。この場で大立回りを演ずる阿保さ加減は抜けている。

腹の中で瞬時に計算をし、三人の男たちを睨め回して言った。

「ようし、榎に伝えろ。――俺は利谷だ。これからはこの俺が相手だ」

「・・・」

「腹からズックリいくから、その覚悟で居ろ。いくときゃあ、いくぜ」

そう言って身を翻し、ムウッとした熱気が充満する外界へ出てから

ベッ

と、唾を吐き棄て、後ろも振り向かずに車に乗った。

興奮の余韻がまだ残った頭で、利谷は変だな、と考え事をしていた。

今の三人は写真で見た三人とは違うようだ。石黒の言う三人ともどこか違う。

―― 隠したな

石黒は三人組の特徴を利谷に話す時、その中心人物と見られる運転手の一人について、かなり詳細な事を言っているのである。

「身長は百九十センチを超えていて、相撲取りのような体格をしている。一目見れば必ず判ります。とにかく、額が狭くて頭が尖った、三角形のおにぎりですからー― 調査の時にたくさん写真に撮りましたから・・・」

先ほど利谷の前に現れた三人の中に、それと覚しき人物は見当たらなかった。そうなると、利谷を追い払った事実と考え合わせると答えは出る。

―― 警察に行くなら行け、という事か

一体、千葉恒産とは如何なる会社なのか?

利谷は昨日の石黒の話を反芻してみた。石黒は私刑を受ける時、いろんなことを聞かれたといい、それを要約すれば次の五つになると言った。

1、どこの誰なのか

2、何故、榎を尾行するのか

3、尾行して、何が判ったのか

4、誰かに頼まれたのか、そうならそいつの名は

5、脅迫状は、お前か

石黒はそれらの問いに、全て知らぬ存ぜぬで押し通し、その為にあのような仕打ちを受けることになったのである。

五番目の脅迫状は含蓄が深いが、しかしどちらにしろ石黒の言うことから千葉恒産の内実は判らない。

よし、こうなれば謄本を挙げるところから始めるか、そう利谷は思い、車を法務局へ向わせようと思ったのだが、土曜日であることを思い出した。

携帯で節子を呼び出し、千葉恒産の謄本関係を問いただすと、事務所にあるから香保さんに聞いてと言い

「店長の車、まだ着かないわ」

と、真田のことを心配していた。

事務所に電話をいれ、高木香保に口頭で千葉恒産の履歴などを聞くと、どうやら千葉恒産は建築を主とする不動産と金融の会社らしかった。

―― 土建屋か

そんなことまで知らなかったのである。

しかし履歴を聞くと、榎 圭次は平成十五年九月に取締役から代表取締役になっているという。四年前のことである。

「・・・?」

それ以前の代表取締役は、田代耕一となっており、その人物は現在は役員欄に名前が記載されているという。

―― 相談役にでもなったのか?

株の移動は謄本からは判らないが、この田代耕一をまずは訪ねてみようと思った。

抹消登録のため黒線が引かれた時の田代耕一の住所は、若葉区の黒砂台だという。

車で飛ばせば三−四十分であろう。

利谷はメモを取ってから、田代の家へ向かって車を走らせた。途中にビルの工事現場があったので、ここで五十センチほどの鉄パイプを一本手に入れ、助手席の足元に忍ばせた。

利谷は、自分を駆り立てているのが、石黒の怪我のせいでも不愉快な千葉恒産の対応のせいでもない事を、よく知っている。

そういうものが直接の契機であることは否定出来ないが、根底には一昨日夜、東京で会った野田社長の問題がある。

「現役に復帰しないか?」

今度はマンション販売をするという野田社長の要請は、利谷の内面の何かを、グラグラ揺するのだ。

別れ際に、専務のポストを用意して待っている、と野田社長は言った。

「考えさせてください・・・」

そう言って別れたのだが、以来、地殻変動が起きたかのように、胸の中がフツフツとして、やり場のない怒りのようなものを抱えているのだ。

沈んだ表情をして車を走らせる利谷の回りを、小学生の子供たちが三々五々歩いている。

夏休みが始まっているのだ。


黒砂台の外れにある田代の家は、寄棟造りの本家普請の家であった。敷地は裏山の雑木林の一角を含むと思われるが、三−四百坪の大きさである。

庭が広い。

利谷は人気のない団地の坂道沿いに車を止めた。ここからだと、田代の家の庭が見える。利谷は通行人を装い、田代の家の周りを歩いてみた。太陽が真上から照りつけるため、日陰がなく、暑い。汗だくになる。

庭の横から家の裏へと続く雑木林は、部分的に一メートルほどの擁壁が設けられているが、庭と渾然一体となっている部分の方がはるかに多い。全面道路に面した所は二メートルほどのブロック塀の上に、スチール製の外柵が設けてあり、おまけに赤外線探知機が設置されている。

すごい警備だ。

それに比べて背後は、余りに無用心な感じがする。

―― どうなっている?

町の区画を大きく迂回して、裏庭から続く雑木林の反対側へ行くと、二メートルほどの擁壁の上に、更に五メートルほど、地肌のむき出した断崖になっている。

――ほう、すげえな

これでは進入は無理だ。

利谷は車に戻り、エンジンを掛けエアコンを入れた。汗だくになっている。

しばらく体を冷やしてから、田代の家の玄関へ行き、インターホンのボタンを押した。

誰も出ない。

横の大きな駐車場には一台クラウンが置いてあるが、まだ二台ほどのスペースが空いている。

―― 留守か?

雑木林から蝉の声がし、人気のない町は炎天下に茹だっている様にみえる。

時計を見ると、二時四十分を指している。

利谷は、石黒を見舞いに行こうと思った。

昼食をどこかで済ませ、石黒のところへ行き、その後でもう一度ここへ来てみよう、そう思った。

利谷はのんびりそんな事を考えている。

事態が急迫しているのだが、利谷には判らない。


第1章――その4 出会い


その日、七月二十日の天気は午後三時を過ぎてから急激に崩れ始め、四時には本格的な雨になった。七つ下がりの雨、である。

利谷は石黒の病室からその雨を眺めて、うっとうしい雨になった、と思っただけである。

節子から真田が車を届けてくれたという連絡があって、そちらは順調のようだった。

沖合いに浮かぶアクアラインの人工島、海ほたるが雨に煙っている。

まさか、この雨によって計画の頓挫をきたした人間たちがいて、そのトバッチリを自分が受けるとは、まだ夢想だにしていない。

六時に野田社長に連絡を取ったことを詫びる石黒を残し、勝野病院を後にした。雨のために、暗くなり始めている木更津の街を抜け、千葉若葉区区黒砂台に向かう。

途中ガソリンを入れ、七時四十五分、昼間と同じ坂道の上に車を止めてライトを消した。

雨が、降っている。

ワイパーが、規則正しく、フロント硝子を流れる水滴を取り除いている。駐車場には昼間と同じクラウンだけが止まっている。まだ帰宅していないようだ。

エアコンの音が、時どき強くなったりしている。

利谷の乗った車と、田代の家の玄関までの距離は六十メートルくらい。道の右側に街路灯が一本。

田代の家の庭と雑木林の間には三本の水銀灯が建っていて、青白色の光を放ち、雨脚が鈍くなっている空間を通して、百坪はあるであろう庭を照らしている。

その時、傘を差した一人の男が横道から出て来て田代の家の玄関へ行き、立ち止まりそうな気配を見せながら、通り過ぎ、右側の暗い道筋へと消えた。

「・・・?」

傘で顔は見えないが、ずい分大柄な男である。

男が去って、五分ほどしたであろうか、一台の外車、ジャガーが田代の家の前で止まり、後部座席から一人の男が降り立った。

小柄で、ユラッとしている。

男は傘もささず、車をそのままにして玄関の扉を開け、中へ入って行った。

扉が閉まる。

細かい雨が、降っている。

「・・・?」

見張っていたのだろうか、右側の道路から先ほどの大柄な男が現れ、ゆっくりとした足取りでジャガーに近づいて行く。

嫌な、胸騒ぎがする。

利谷は我知らず助手席の鉄パイプに手を伸ばし、膝に取り上げて握りしめた。

と、その時であった。

ジャガーの運転席から、大男が、大声を上げて飛び出して来たのである。

傘を差して立っている男と喧嘩になる、と、とっさに利谷は判断した。

ところが、ジャガーから飛び出した大男は、車に近づく大柄な男など眼中にないのか、小柄な男が消えた玄関の門扉に向かって、大声を張り上げ体当たりをし始めたのである。

二度三度と、鉄製の門扉に体当たりをしている。それを、五−六メートル離れた所から、傘をさした大柄な男が不思議そうに眺めている。

利谷は、鉄パイプを右手にしっかり握りしめ、小雨の降りしきる車の外に出て歩き始めた。

―― 野郎・・・

門扉に体当たりをしている男は、石黒の言う「オムスビ頭の相撲取り」なのである。間違いはない。

―― こんなところに隠れてやがって

オムスビ頭は体当たりが無駄なことを悟ったのか、後ずさりして周囲を窺い、ブロック塀によじ登り始めた。

利谷は顔面に当たる雨に目を細め、いつの間にか駆け足になった。この男の駆け足はここから始まる。

利谷は坂道を走りながら、オムスビ頭が庭に飛び降りるのを確認したが、オムスビ頭の死角になっている雑木林に向かって、田代の家の裏側から二人の人影が走るのを、奇異の思いを抱いて眺めた。

― どうなっている?

頭の隅をそんな思いが横切るが、身体は下り坂を思いっきり走っている。

ビーイッビーイッ

警報音が静寂をつんざき、鳴り響き始めた。塀の上の赤外線探知機のせいらしい。

すると、それまで部外者のように、そこで展開されている光景を見ていた大柄な男が、何を、どう思ったのか、弾かれたように傘を投げ捨て、ブロック塀をよじ登り始め、塀の向こう側へ飛び降りた。身のこなしが軽い。

「・・・?」

利谷は理由の判らないまま、とにかく駆けた。今更、立ち止まることなんか出来ない。心身ともに弾みがついてしまっているのだ。

―― ままよ

利谷は鉄パイプを背中のベルトに差込み、ブロック塀に取り付いた。

ビーイッビーイッ

警報音を遮るようにして、庭から怒号が聞こえる。

「貴様、だれだ!」

「どけ!」

利谷が、エイッと身体をブロック塀に預け、上の柵に手をかけて庭の中を眺めてみると、七−八メートル先の水銀灯の下で、オムスビ頭が大柄な男を投げ飛ばしたところであった。

投げ飛ばされた男も大きかったが、投げ飛ばしたオムスビ頭は、石黒が言う特徴をそっくり備えていて、自分が投げ飛ばした男に二次攻撃を加えるべく、突進する体制に移行している。

しかし、投げ飛ばされた男は、すでに身を翻すが如く立ち上がっていた。

利谷が、おっ、と目を見張るほど身のこなしが鮮やかで、美しくさえ見える。

「どけ!」

と、立ち上がった男が叫ぶ。

オムスビ頭は突進体制のまま吠える。

「貴様あ、何をした!」

利谷は声もなく外柵をまたいだ。

その時、先ほど雑木林に向かった人影が、何か事情が発生したのか、引き返して来て、今度は玄関に向かって走って行く。人影は、二人の男だった。

その動きを目の隅に入れながら、利谷は庭に飛び降り、オムスビ頭めがけて走った。そして背中から鉄パイプを引き抜き、無言でオムスビ頭の顔を狙って振り下ろした。

ガスッとも、ゴギッとも聞こえるような、異様な音がする。

オムスビ頭の大男は、腹から搾り出すような声を張り上げて、後ろへもんどり打って倒れた。倒れざまにごろりと転がって四つんばいになり、泥の付いた左手で顔面を押さえると、血がボトボト手の甲を伝って地面に滴る。

―― 野郎!

利谷に容赦はない。

この男は、やる時にはやる、という「絶対の哲学」を持っている男なのだ。

しゃがみ込んでいるオムスビ頭の背中へ、二度鉄パイプをぶちかました後、悲鳴を上げることも忘れて唸りながら、命終の蛇のようになって泥の中をのたうち回るオムスビ頭の、腰とはいわず脚とはいわず、十数回は鉄パイプを振り下ろした。

下半身くらいはカタワになるかも知れん。あるいは死ぬ事もあるだろう。そうなったらお前も俺も運が悪かった。それだけの事だ。

そう思っている。

背後で何やら女の悲鳴がするのを機に、打ち据えるのを止めて、肩で激しく息をしながら辺りを見回した。

雨が降っている。

ビーイッビーイッと、相変わらず警報音が鳴り響いている。

そして、誰もいなくなっている。

―― 逃げろ

利谷はいつの間にか開け放たれている玄関の門扉に向かって走った。

門扉を出て車に向かおうとすると、道路脇に、先ほどオムスビ頭に投げ飛ばされた男が、ズタズタに裂かれたワイシャツ姿のまま泥にまみれて立っていた。ネクタイがひん曲がっている。

小雨の降りしきる中、左手に続く道の彼方の闇を、呆然と見つめて立っている。

―― 何だ、この男は?

利谷は無視して走り過ぎようとした。

が、雨に打たれて立ち尽くすその男の、こういう場面にそぐわない、何ともいえぬ寂寥感が利谷の心を打った。

「・・・おい、こっちだ。捕まるぞ」

と、利谷は声をかけ、目で合図を送った。

男は、はっと我に返ったようであった。

そして、今度は利谷の後を追うように連れ立ち、車に向かって走りかけた。が、二−三メートル走って、急に男は立ち止まり、反対に後方へ引き返した。

「・・・?」

利谷は無視して車に向かい、走った。

道路上に、近くの住人なのであろうか、二人三人、こちらを見ている人影が見える。

走りながら利谷が、引き返した男を肩越しに見ると、男はブロック塀の上の外柵をワイシャツで拭っている。

― 指紋・・・か?

利谷は車に飛び込むや、ライトも点けず急発進し、フェンスから飛び降り、傘を拾ってこちらに走ってくる男の横に車を止めた。男が助手席に転がりこんで来る。

又もや急発進。

田代の家のブロック塀に沿うように左にハンドルを切り、もう一度左に入る脇道にハンドルをとってからライトを点け、後は盲目滅法走った。

タイヤの軋みが響くー―

激しい息遣いがするだけで、二人の男は互いに何も言わない。

二人とも、顔には雨なのか汗なのか、水滴が流れている。

五−六分もして住宅街を抜け、商店街に入る頃、遠くパトカーのサイレンが聞こえた。

車の列に割り込みながら

「おい、そのワイシャツ脱げよ。目立つぜ」

と、利谷は言った。まだまだ息が荒い。

「ああ、すまない」

男は水滴を手で拭っている。

「・・・後ろの紙バックの中にジャケットがあるだろう。それと、バスタオルがある。お前、身体中泥だらけだぞ・・・それからダッシュボードに絆創膏が入っているはずだ。眉毛のところから血が出てるぜ。・・・おい、バスタオルは俺が先だ」

男は無言で利谷に指示に従っている。

大柄な体格の割には機敏な動作だったが、車に入ってからはノッソリしている。ワイシャツを脱いで、ジャケットを羽織る時も幾度か着直した。石黒のやつなので、窮屈そうである。

「・・・小さいのは我慢しな」

「ああ・・・」

街中の人混みとネオンが、やたら暖かく懐かしく感じる。

前方からサイレンを鳴らして救急車が走ってきた。

二人とも、何も言わない。

やり過ごしてから、利谷は言った。

「大丈夫か?」

「ああ・・・」

「お前、ああばかりじゃなく、何か言えよ」

「ああ・・・そうですね。・・・ありがとう」

「ふむ」

互いに相手を量るようにしている、口数の少ない二人の男を乗せ、車は国道十六号線に出て、東関東自動車道の千葉北インターへ向かう。

こんな場合、利谷はアクアラインのように、自由が利かない道路を走る気はない。九時少し前であるが、雨のためなのか混雑が激しい。

途中、節子から携帯に何時に戻るのかという問い合わせがあり、利谷はそれを機にコンビに車を止めて缶コーヒーを買ってきた。

男に渡しながら、車を発進させ、利谷は聞いた。

「弁当持ちか?」

助手席の男は驚いたのか、横を振り向いて運転している利谷の顔を見た。利谷は続ける。

「指紋を拭いてくれて、ありがとよ」

利谷は相手の動揺を確かめ、図星か、と思っている。

弁当持ち、つまり、執行猶予中、あるいは仮釈放中かと聞いたのだが、その隠語に反応を示すということは、その通りという事なのであろう。

「名前は?」

「・・・」

男は少し考える様子であったが、何も言わない。

「言いたくないってか?」

「いや、そういう訳でもないんだが・・・」

男はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。

「お前、はっきりしねえ男だなあ」

「いや・・・ちょっと考え事があって・・・まとまらなくて・・・」


前方に千葉北インターが見えてきた。

利谷は自分が拾って来たこのヌボーッとした男を、どうしたものかと考えている。

後悔していた。

―― このまま別れるか

おにぎり頭と闘った時の動作は、驚くほど俊敏だったが、それだけの男のようだ。口ぶりからしても、頭がよさそうにも見えない。こんな、図体だけが大きい男は、足手まといになる。買いかぶり過ぎたようだ。このまま別れても、自分の足が付くような事にはならないだろう。お互い、名前なんか知らない方がいい。

「お前、どこで降りる」

「・・・どこでも良い・・けれど、しかし・・・」

「ふん。――雨降りの道路端では嫌か」

インターに入ると横浜まで行かなくてはならない。その前に降ろそう。しかし、釘だけは刺しておかなければならない。

「もう少し行ったら、お前には降りてもらう。しかし、さっき現場で見た事は誰にも言うな。お互い、その方が良さそうだからな。判ってるだろう」

利谷がそう言うと

「・・・そうですねえ・・・」

と、相変わらずの優柔不断振りを示しながら、男は大きく息を吸った。そして

「二人だけの胸に納めておく、という考えには賛成です」

と、今度はいやに明瞭に言ってから、考え事がまとまったのか一点を凝視するようにして、不意に

「利谷さん」

と呼びかけた。

「・・・えっ!」

利谷は、危うくブレーキを踏みそうになった。

「しかしね、利谷さん、私たちはこのまま簡単に別れる訳にはいかないんじゃないかな。少なくとも後二−三時間は一緒にいなくてはいけないと思う。先ほどの現場での出来事の意味が、あなたにも私にも、まだ判っていない面がある。

家の中で何があったのかーー? ひょっとすると警察が本格的に動くような出来事があったかも知れない・・・そうでなければ良いんだがーー」

利谷は、隣の男の横顔をまじまじと見た。

「もし警察が本格的に動くなら、二人で協力しなくてはいけない事が沢山出て来るかも知れない」

利谷の驚きと、その視線を能面のように受け止めて、男は静かに言った。

「私の名前は、有本です」



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