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歴史短編小説群

二世将軍の一徹

作者: 塔野武衛



「貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王の業、草創と守文と孰れか難き、と。尚書左僕射房玄齢対へて曰く、天地草昧にして、群雄競ひ起る。攻め破りて乃ち降し、戦ひ勝ちて乃ち剋つ。此に由りて之を言へば、草創を難しと為す、と……」

 学者の淡々とした朗読に、その場に居並ぶ全ての人間が聞き入っている。その顔触れはいずれも若く、少年と言って差し支えない。いずれも近習の類と見えた。

 その中に、特に熱心に聞き入っている少年がいる。その肌はやや浅黒く、背筋は真っ直ぐに伸びて些かの揺らぎもない。謹厳実直を絵に描いたような姿と言えた。彼の名は徳川秀忠。江戸大納言徳川家康の世継として、日頃研鑽に励む年頃の少年だった。

 彼らが今学んでいるのは貞観政要だ。家康が特に愛読する書物の一つであり、治世の要諦を学ばせるべく積極的に働きかけて下々に学ばせているものだ。秀忠とその近習達が特に学者の講義を受けているのもその延長線上の出来事と言えた。

(成程、父上が特にこの書を好まれる理由がよくわかる)

 貞観政要は古くから帝王学を学ぶに格好の教科書とされている。それは君主と臣下の問答という形式で君主の為すべき事、為さざるべき事が明瞭な形で示されているからである。父の跡を継ぎ、関八州太守としていずれ政務を執るべき身としては欠かすべからざる教養だと言える。

 それ故に、彼は愚直なまで熱心に学び、吸収しようとする。良く言えば生真面目、悪く言えば頑固とも言えるこの性質が、徳川秀忠という男の最大の特徴だった。

 不意に獣かなにかの咆哮が遠くから聞こえた。馬の嘶きではない。明らかになにか別の生き物の咆哮である。学者や近習達は驚きその方角を見るが、秀忠は見向きもしない。

「続きを」

 そう淡々と求めるだけである。若君の言葉を受けて学者が咳払いをし、講義を再開しようとする。

「……か、その牛を止めろぉっ!」

 今度は外の人間の慌てたような声が聞こえて来た。それに続くように、また咆哮が聞こえる。それは牛の発する声だった。皆が動揺し、囁くような声が室内に満ちた。秀忠は無言である。

 隣室から激しい物音がしたのはその直後であった。悲鳴に似たどよめきが辺りから聞こえる。秀忠は一瞥もくれない。

「早く押さえぬか! お近くに若様がおられるのだぞ!」

 隣室からは衝立や障子が薙ぎ倒される音、多くの武士達の怒号、そして猛牛が蹄を踏み鳴らす音がする。いつしか周りからは近習が居なくなっている。部屋に居残っているのは秀忠と腰を抜かして逃げ損ねた学者だけであった。秀忠は顔をしかめて学者を見た。

「なにをしておられる」

 学者は目を剥いた。何をしているとはこちらの言う台詞だ。こんな大騒ぎになっているのに、この若君は逃げるどころか怯える素振りすら見せないのである。とても十五にもならぬ少年とは思えなかった。

「まだ続きを聞いておりませぬ。魏徴が太宗に意見を申し上げるくだりを」

 その声は静かだったが、学者を見据える眼光は鋭いものがあった。それはどこか、彼の父家康を思わせるものがあった。

「続きを」

 有無を言わせぬ迫力を、学者は確かに感じた。今にも逃げ出したい気持ちを懸命に抑え、苦労して書を取る。

「で、では失礼をして……魏徴対へて曰く、帝王の起るや、必ず衰乱を承け、彼の昏狡を覆し、百姓、推すを楽しみ、四海、命に帰す。天授け人与ふ、乃ち難しと為さず。然れども既に得たるの後は、志趣驕逸す。百姓は静を欲すれども、徭役休まず。百姓凋残すれども、侈務息まず。国の衰弊は、恒に此に由りて起る。斯を以て言へば、守成は則ち難し、と……」

 やがて暴れ牛を押さえ込んだか隣室の物音は収まった。それを見た近習達が、恐る恐ると言った風情でぽつぽつと部屋に戻る。また若君の安否を知るべく別の者が隣室から駆け込んで来た。

彼らの眼は揃って驚愕に見開かれた。そこには平然と講義を続ける秀忠と学者の姿があったのだから。

「……太宗曰く、玄齢は昔、我に従つて天下を定め、備に艱苦を嘗め、万死を出でて一生に遇へり。草創の難きを見る所以なり。魏徴は、我と与に天下を安んじ、驕逸の端を生ぜば、必ず危亡の地を践まんことを慮る。守成の難きを見る所以なり。今、草創の難きは、既已に往けり。守成の難きは、当に公等と之を慎まんことを思ふべし、と」

 一節を読み終え、蒼褪めながら深々と溜め息をつく学者。それに対して秀忠は顔色一つ変えず、背筋はぴんと張られたままである。

「ご、ご無事でございますか、若様」

 誰かが言ったその言葉に、漸く秀忠が体を動かす。まず近習達をじろりと睨むように見据えた後、暴れ牛の鎮撫に勤しんでいた年長の武士に向き直った。

「隣の部屋はしかと片付けておくがよかろう」

 そう言った後、もう一度近習達を見た。その青い顔を見て、秀忠は顔をしかめる。

「早く席に戻らぬか。講義はまだ終わっておらぬ。そなた達は魏徴の返答の辺りで居なくなったのだから、まずそこから仕切り直しになるぞ」

 不機嫌そうに言ったきり、彼は再び書に戻ってしまった。一同は、暫し唖然としてその様を見る他なかった。




 江戸城大広間には在府の大名全員が列していた。そればかりではなく旗本達もその後ろに控える形で一堂に会している。だが彼らから緊張の類は感じられず、隣席の者との雑談に興じる光景があちこちで見られる。和やかと言ってよい雰囲気だった。

 やがて上様御成りとの声と共に囁き声がぴたりと止み、全員が平伏する。それを見届けたかのように、浅黒い肌をした男が遅すぎも早すぎもしない足取りで静かに歩き、上座に座った。

「面を上げよ」

 面を上げた列席の人々の表情に先程の緩みはない。だが戦や一大事に臨む過度の緊張もない。これから何が起こるのかを承知しているからだ。果たして将軍徳川秀忠は、少しばかり表情を和らげた。この堅物にしては珍しい仕草である。

「忙しい中登城大儀である。今年もささやかではあるが、そなた達の日頃の忠勤に対して菓子を授けようと思う」

 その言葉が終わるや、秀忠はさっと手を上げた。その合図と共に近習達が何かを手にぞろぞろと姿を現す。それは三方であり、そしてその中身は色とりどりの菓子であった。しかも各々三方を置くやまるで駆けるように下がり、また別の三方を手に戻って来るのである。異様と言えば異様な光景だった。

「では、一人ずつ取りに参れ」

 そう言うと秀忠は三方を捧げるように手に取る。結構な重さである。御意を得た大名達がそっと席を立ち、捧げ物を賜るように三方を受け取ってゆく。

「伊達殿。今年も半年過ぎたが、今後とも変わりなきよう頼むぞ」

「御意にございます」

「藤堂殿。亡き大御所様に対するのと同じように、変わらぬ忠誠を期待しておる」

「勿体なきお言葉」

 秀忠は次々とやって来る者一人一人に三方を手渡し、言葉を掛けた。それを数百という人数に対して行うのである。しかもこの日は六月も半ばで城内は蒸し暑さに包まれている。それでも秀忠は額に汗しながら一人、また一人とこなしていった。




「ううむ……毎年この時期はどうにも肩が凝るわ」

 渋い顔をして秀忠が唸る。相変わらず不快な蒸し暑さ漂う一日である。彼はぐるりと二度、三度と腕を回している。疲労の色が濃い。

「大丈夫ですか、父上」

 彼の息子竹千代がやや困惑の態で問う。いずれは秀忠の跡を継ぎ、三代将軍の職を引き継ぐべき少年だ。

「大事ない。少し肩と腕が痛むくらいのものだ。数日もすれば治る」

 秀忠がそう答えるのに、竹千代は思わず眉をひそめた。

 先に行われた行事は嘉祥と呼ばれる儀式である。元は六月十六日に十六個の菓子を供え、神に捧げた後にこれを食する事で厄を祓う儀式だとされる。確実な起源は定かならざる所だが、平安時代には既に宮中で執り行われていたと言われている。

それを形を変えて取り入れたのが、秀忠の父家康だった。伝説的には三方ヶ原合戦での敗北を忘れぬ為とも、逆に戦に勝つ為の縁起づけとも言われている。ともかく彼は毎年六月十六日に家臣を城に呼び集め、菓子を与えるという行事を定着させた。

 しかし三河時代ならいざ知らず、今や徳川家は天下を支配する『公儀』である。城に参上する人間の数は一大名時代の比ではない。家康は在位期間が短かったが、秀忠は十年以上も将軍の座にある。だが彼は一度たりともこの行事を欠かさず、しかも最後まで自分の手でやり通している。お陰で毎年この時期の彼は肩こりと筋肉痛とに悩まされる事になった。

「若い頃はもう少し治りが早かったのだがな。最近はなかなか痛みが引いてくれぬ。困ったものだ。寄る年波に勝てぬとは、言いたくないものだが」

 秀忠が渋面を浮かべながら愚痴を言った。気付けばもう四十に手が届こうという年齢である。肉体に衰えが表れるのは必然だが、武士にとってそれは喜ばしからざる所だ。例えそれが、自ら槍を取るべきでない地位にあったとしても。

「恐れながら父上。かようにお苦しみあらば、手ずから菓子をお渡しになるのは主立ちたる者に留め置き、後の者には自分で取らせるようにすればよろしゅうございませぬか」

 じろり。

 秀忠は変わらぬ渋面で竹千代を凝視した。それに怯んだか、竹千代が身を引く。

「わしは昔から律儀以外に何らの取り柄もない不器用者だ」

 目を書簡に戻しながら、秀忠は淡々と話し始める。

「関ヶ原の大戦には遅参致し、将軍になった後も大御所様ご後見の下に政務を執り仕切ったに過ぎぬ。わしの力など知れたものだ。そのわしが己が地位に胡坐をかき、傲慢に振る舞えばどうなる。大御所様ならいざ知らず、わし如きに高所から見下ろされれば戦場往来の古兵どもは面白くあるまい。律儀しか能がないのならば、それに徹して政を執り仕切る他はなし。嘉祥の儀もつまる所、そうした存念の下に行っておるのだ。蔑ろにする事は出来ぬ」

 筆を走らせる手を止め、再び竹千代を見る。今度は穏やかなそれに変わっていた。

「それはわしの心得であってそなたの心得ではない。いずれそなたが後を継いだならば好きにせよ。わしが口出しすべき事でもあるまいからな。だがわしが将軍の座にある限りは、このしきたりを改めるつもりもない。そなたの心遣いは胸に留めておくが無用の忠告だ」

 そう言い終えた後、秀忠は軽く手を振った。竹千代としては引き下がる他なかった。

(父上のご存念には一理あろう。だが……)

 部屋から引き取った竹千代は深々と溜め息をつく。

(……おれには真似出来ぬ。父上の仰せ通り、おれはおれの存念を通す事にしよう)




 その後嘉祥の儀は幕末まで存続する。十一代将軍家斉の代には江戸城大広間二の間から三の間にかけて一六一二膳を用意したと伝えられている。

だがその頃には、将軍が手ずから諸侯に菓子を授けるしきたりは有名無実化していた。最初だけ手渡しをして途中で奥に引っ込んでしまうのが通例で、残された菓子を諸侯が自分で取る形式に変わったとされる。

 そんな中、秀忠は最初から最後まで手ずから菓子を与え通した実質唯一の将軍とされている。秀忠という男がどんな性格だったかを象徴するものとして、今日に至るまで伝えられる所である。




 とかく徳川秀忠という男には、一度こうと決めたら梃子でも動かぬ頑固な一面がありました。鷹狩をすると言えば大雨でも降らぬ限り定められた時刻を守ってこれを行い、秀忠を気遣って家康が遣わした腰元も、丁重にもてなすだけでさっさと帰してしまうなど、堅物ぶりを示す逸話は枚挙に暇がありません。

 そんな中でもこの二つの逸話は、秀忠の頑固な性質を象徴しているように思えます。暴れ牛の話にしても、手ずから菓子を与える話にしても、尋常の『律儀』ではありません。家康の威光によって良くも悪くも地味だと言われがちですが、彼もまたある意味では十分過ぎるほどに際立った個性の持ち主だったと言うべきでしょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 秀忠について書かれた小説を探していて、発見いたしました。 暴れ牛のエピソードは秀忠の逸話の中でも有名なものですが、彼の冷静さと真面目さがよく現れているエピソードですよね。 菓子のエピソード…
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