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九月の雨の心臓  作者: miz
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九月の雨の心臓

 何年もつづけていたピアノ教室を辞める日、静かな雨が降っていた。

 雨のお陰で最後の演奏が台無しだ。

 いや、ごめん。今のは違う。僕が下手くそなだけだ。雨のせいにするほど僕は上手くない。スミマセン。

 最後に好きな曲を弾いて、と先生は言い、僕はベートーヴェンの曲を弾いた。

 好きなわけじゃない。先生が以前ベートーヴェンの曲は好きじゃない、と言っていた。だから弾いた。

 すると彼は「上手くなった」と笑う。嫌いな曲のくせに先生は、優しく笑う。普段意地悪なことしか言わないくせに優しく笑うのだ。

 そして癖のように僕の髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でる。

 触れられることが苦しくて触れらることが辛くて体が強張る。俯いてぎゅっと握った拳を見つめた。

 黒い制服に半袖のシャツから伸びる自分の腕はシャツと同じくらい白かった。

 モヤシ、と心の中で自分を貶す。

「姉をよろしくお願いします」

「まかせとけって言いたいけど、何、その言い方。嫁にもらうみたい。」

 ピアノを始めたきっかけは姉が始めたから、なんて理由ではない。それも少なからずあっ たかもしれないけれど、理由は不純。

 "立木(たちき)先生に一目惚れをしたから"だ。

 僕は小さなころから男が好きという自覚があった子供だ。だから先生に恋をしても驚くことはなく、ただ先生に近づくことを考えた。

 母と姉のお迎えに来て、話すだけでは満足できない。姉の弟、母のオマケで終わってしまう。どうにか先生に近づく方法はないものか、子供ながらによくやったと思う。

 だけどそんなことで自分の想いが届くことがないのは解っていたし、ピアノが上手くなるはずもなかった。

 教室に通い始めて、先生を想う気持ちと同じくらいピアノが大好きになりのめり込んだ。それと比例して上達出来たら良かったのだが、それまでだった。

 姉と僕の実力はひらくばかり。

 先生はいつものように意地悪は言うが、ピアノのことは何も言わなかった。

 偶然にも先生と姉のレッスンを見たことがある。

 姉の素晴らしい演奏に真剣な眼差しの先生―――

 胸がぎゅっと握られたように痛くなり、走ってその場から去った。

 何もかもを姉に盗られたような気がした。もちろん何ひとつ盗られたわけじゃないけど。

 姉が持っているピアノの才能と実力、そして僕に向けられることのない先生の真剣な眼差しに嫉妬していただけだ。

 それが苦しくて辛くなった。先生の傍にいることもピアノを続けることも苦痛としか思えなくなっていた。

 母にも姉にも相談せずにピアノを辞めることを先生に告げた。

 すると先生は予想に反して「なんで?」と聞いた。「上達しないので」と言った。半分本当で半分嘘だ。

「別にいいんじゃないの?楽しくできれば」

 引き止められると思っていなかったが「上達しない」という部分を先生は否定しなかった。

「上達しなけりゃ楽しくできません」

「……悩みでもあんの?」

 先生はそう言ってくれたけど僕は黙ったまま何も言わなかった。

 『ピアノが上手くなりたい』『先生に真剣な眼差しで見てもらいたい』『先生が好きだから僕のものになってほしい』なんて言えるわけない。

 長い沈黙がつづき、先に口を開いたのは先生だった。

 「わかった」と短く言って、僕の髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でた。


―――あの時も、今も、先生の目を見られないままだ。


 時計を見ると夜の7時を過ぎていた。レッスン時間、いや、僕のピアノは、終わったのだ。

 椅子から立ち上がると先生と目が合った。

「それもいいかも。姉は、先生がいなかったらここまでこれなかった。」

「……ふーん。高月(たかつき)は俺と義兄弟になりたいの?」

 先生は首を傾げ薄く笑いながら溜息を大きく吐いた。

 そのひとつひとつの動作が妖艶で顔が火照りそうになる。その気持ちを掻き消すように姉と先生が結婚したら、という想像を膨らませた。

「悪くないね」

「……お前、もしかして気づいてないの?」

「何がです」

 先生は更に溜息を吐き、大袈裟に肩を落とした。

「高月の言葉を借りる。……バカジャナイノ?」

 言わんとしていることが理解できなかった。ただ僕の真似をしながら「バカ」と言われたことに腹が立った。

「なっ、あんたに言われたくない」

 いつもなら反撃してくるはずの先生が何も言わずに、僕をじっと見つめた。

 目を見ていられなくて、とっさに俯く。

 俯いた途端、先生は遠慮することなく僕の目の前まで近づいて来た。心臓の音が聞こえてしまいそうなほど近寄られたことに驚いて後ずさる。

 すると後ろにはピアノがあり、気づかず指を鍵盤に掛けピアノの音が教室に響いた。

 心の中で「ファ、ソ」と響いた音をつぶやいた。

 強引に顎を掴まれ、先生と目が合う。

「お前、昔っからそうだけど自分から不幸になろうとするよな」

「……どういう意味」

 先生はいつものように不敵に笑い、もう一度「バカジャナイノ」と言って、唇を塞がれた。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。

 分からず、ただ茫然と静かに降り注ぐ雨の音が耳の奥まで響いていた。

 夏の終わり、久しぶりに降った雨はじめじめとしていて汗なのか湿気なのか分からないくらい体中がべたべたしていた。

 僕の腕と先生の腕、僕の唇と先生の唇が隙間なく密着していた。

 それは湿っていたせいなのか、それとも先生とするキスのせいなのかは分からないけれど、とても心地よかった。

 先生は長いキスをしたあと、二度短いキスをして唇を離した。

 そして僕を抱きしめたまま「お前の気持ちなんてバレバレだっての」と小さくつぶやいた。

「それでも……黙っておいたほうがいいこともあるでしょ」

「そうかもな」

 先生は何てことないというように答え、僕の頭に頬を添え変わらず髪を撫でていた。

 僕は、先生の背中に手を回しぎゅっとシャツを握った。

 涙が止まらなかった。

「バカじゃないの」

完結です。

お読み下さりありがとうございました。

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