第3章
あの時に筏釣りに父と行った事を思い出しながら、写真を見ていた。
「健治」
「…うん」
背中の方から声をかけてきたのは、母だった。
「ここに居たんね」
「…うん、いや…」
リュウマチに悩まされた左足を労わりながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
まだ若かった母は、父が亡くなってから人一倍働き、僕達兄妹を育て上げた。
住んでいたアパートが漁港に近かったせいもあるが、それに関わる生業で生計を賄っていた。
無理が祟った事もあり、関節炎を早くから患い、ここ数年前から酷くなっている。寒さが緩む季節になっても、まだ辛さを引きずるらしい。
その左足を伸ばしたまま、僕の左肩に母の手が掛かった。
僕は、母の右手の甲を包むように押えて、肩に力をいれた。母は、ゆっくりと腰を下ろした。
すぐさま、仏壇の父の写真に気づいた。
「それ、お父さんの写真だね」
「…うん、そう」
「あんたが供えたの」
父は、なかなか写真を撮らせてくれなかった。それは、母も知っている。
僕達兄妹の写真やビデオは沢山ある。自分の写真やビデオを撮らせる事は、なかなかさせてくれなかった。
「…結構良く撮れてるし、いい写真だね」
「そうね…」
「この写真、お父さんが単車に跨ってる時のだよ」
「そうだね、ご自慢の単車だったからね」
「僕は、オンボロでエンジンのかかりが悪い事しか覚えてないよ」
「それでも、あの単車があったから、うちは助かったもんよ」
「あんたは、よーく熱出したしね―」
「しょっちゅう、お父さんの背中に負ぶさって、単車で病院へ行ったもんよ」
「…そうかな」
幾度かは覚えているけど、素直に肯けなかった。いつもの事だったから
「そうよ、風邪引くと直ぐに熱を出すから、いつも冷凍庫のアイスノンを欠かさんかったんよ」
そう、小学校に上がる頃の事。単車の乗り心地も悪かった事。よく覚えてる
僕は小さい頃体が弱く、熱をよく出した。病院へもよく行った。
あの時も、単車のハンドルを握る父の背中で僕は呻っていた。
学校から帰って来て、気分が悪いのを母ちゃんに伝えた。
「熱あるんじゃない、横になってなさい 体温計もって来るからね」
「…」
母ちゃんは体温計を持ってくるなり、内輪を仰ぐような仕草で強く何度も振りかぶった。
水銀のメモリが下がったのを見て、僕のシャツをたくし上げ、冷たい体温計を左脇に挟み込んだ。
「…ひっ 冷たいよ」
「ちょっと我慢してね」
「…」
体温計の銀色の水銀がメモリを徐々に上がっていく。見なくても分かった。自分でも熱が高そうだと感じていた。
39.5度のところ辺りでメモリの動きが遅くなった。体温計を見ていた母ちゃんは、びっくりした。
「まあ、39.7度もあるよ」
「厚着して、熱を出そうね、はい、水分摂ろうね」
僕は、母ちゃんの言う通りに畳の部屋に敷かれた布団に寝かされた。
染みの浮いた天井の節が歪んで見えた。蛍光灯もぐるぐるしていた。きっと、熱のせいだろう。
瞼を閉じると目の奥のほうからぐるぐる回って、きつくてそのまま寝てしまった。
「健治、はい、白湯と薬よ、飲める」
「…」
頭の奥の方から、起こされた。母ちゃんの声が遠くで聞こえているようで。
僕は、ぼーっとして少し起きれた。
「…」
それでも、眠くておぼろげだった。
「健治、父ちゃんが病院に連れて行くよ、起きて」
もう一度、母ちゃんの声でようやく重たい瞼を持ち上げた。
部屋は薄暗くて、窓をカタカタと風が叩いていた。
どのくらい寝ただろう。いつの間にか眠り込んでいた。
声の聞こえる方に顔を向けると父ちゃんも横に座っていた。
「着替えるんで、父ちゃんが背負って病院へ連れて行くきね」
僕の汗かいた肌着を、母はすぐさま取り替えた。
着替え終えた僕に父ちゃんは背を向け、背中に凭れろ。そんな状態で僕が乗っかかるのを待っていた。
黙って、僕は父ちゃんの両肩へ両腕を回し、首を抱え込むように体を預けた。
父ちゃんは僕の両足のももを挟み込むようにし、ゆっくりと起き上がった。
母ちゃんがおんぶ用の紐で、僕を父ちゃんを縛り、しっかり固定した。
丹前をかぶって、更に寒さをしのぐようにした。
その頃、まだ父ちゃんは、車を持ってなかった。免許は持っていたが、車を買えるまでの生活に余裕がなかった。
その単車も125ccのオートバイだった。父ちゃんは、いつも単車で仕事へ行っていた。
「そいじゃ、母ちゃん、行って来るきね」
「あ、そうや保健証と少しお金をくれ」
妹の知恵は、母ちゃんの後ろに回り、エプロンの端を握ってこっちを見ている。
父は手際よく身支度を済ませ、玄関の戸を開けた。外は、更に暗くなって風も強く感じられた。
向かい風を受けながら走る単車、父ちゃんは寒かったはず。両肩の力が入り、僕の両腕を持ち上げるような感じだった。
僕は、熱があったせいか、以外と風が気持ちよかった。
20分くらい風の中を走っただろうか。
「健治、しっかりせーよ、もうじき、着くきな」
「……父ちゃん」
「何や、大丈夫か」
「……い、痛いよ」
「もう、病院は直ぐそこやきな」
「…て、てて」
ごろごろ石の砂利道。病院へ向かう道はまだ、アスファルト道路じゃない。
単車のハンドルを取られながらもお構いなしにぶっ飛ばしていた。
風邪のきつさより、体を縛っていた紐が食い込んで痛かった。
父ちゃんは、勘違いをしていたんだろうな。
それでも、僕は、父ちゃんにしがみついていた。大きな背中に…。