第2章
父が病院の床に伏せた頃からだった。田舎訛りを多く使うようになった。所々、言葉に詰りながらも無理にでも使おうとした。それは、亡くなる少し前まで使っていた。その頃の声は、喉の奥からがらがらで、言葉にはならないほどの声であった。
多分、精一杯の息継ぎしながらの声だったと思う。
それでも、僕に顔を向けながら、出ない声で話しかけてきた。僕達家族に自分の生まれた田舎の事、子供から大人になり、家族と共に暮らした事を振り返るように…。
気持ちが高ぶったり、何かあると田舎訛りになっていたと思う。
あの時も同じだった。僕と筏釣りに行った時だったと思う。父は方言丸出しで浮かれていた。多分、嬉しかったのだろう。いつもは一人で行く釣りであったが、その時だけは僕を誘って出かけた。
「おーい」
「健治――」
「引いちょるぞ」「針を持ってかれるんぞ」
「早く、合わせ――、餌とられるんぞ」
「…え」
僕は、遠くの船に気をとられていて、浮きが引き込まれてるのに気づかなかった。
目線を浮きの方へやるが、何処にあるのか見当つかんかった。とにかく「えい!」と竿を立てた。しなる竿の先からガツーンとした手応えが伝わってきた。
「健治、これは、でかいぞ、きっと大物だ」
父ちゃんの方が慌ててしまい、手に持っていた竿を放り投げた。
片手に大きな網を持ち、僕の方へ慌ててると言った方が良いのか。よろけると言った方がいいのか。とにかく歩み寄って来た。
「もう、しっかりのっちょるき」
「釣り糸を切られんようにせんと――」
「あわつーなよ」僕の横に立ち、耳元に響く大きな声を発した。
「…うん、わかった」
リールに巻いた2号もある釣り糸が切れそうで、手に汗が滲んだ。ぎりぎりとリールを巻いた。とにかく巻いた。
そして、目の前に現れた魚体は、銀色の体を光らせて最期まで抵抗していた。
「…父ちゃん たも、早く、たも」
「おー、そーやった」
「健治、あわつーなよ」
「…どっちが」
僕じゃなく、父ちゃんの方が興奮してる。やっとの思いで、銀色の魚は、父ちゃんの構えた網に収まった。
咥えた針を外しながら、「やったの――、50cmは超えちょるぞ、刺身が取れるぞ」
「…父ちゃん、これなんてー魚ね」
「ん、これか、こん魚は、鯔や」
「…え―、鯔やったらいらーん」
僕は、以前、テレビの釣り番組で見た釣り人が、鯔を海に放っていたのを思い出した。
きっと、不味い魚だから、放っていたのだと思い込んでいた。
「バカいえ、鯔でも沖鯔だったら、おいしんど。 刺身、酢味噌を着けて食べると旨いんや、 知らんのか」
「…知っとう、いー、僕、食べん」
「…逃がす」
「何言ようんか、早よ、絞めてからクーラーボックス入れんと」
そう言い終らぬまま、父ちゃんは、ジーパンのポケットからナイフを取り出して、鯔の目の上辺りにグイとねじ込んだ。
今まで、元気に尾びれをバタつかせていた鯔は痙攣した後、急に力尽きて父ちゃんの腕の中でピクリともしなくなっていた。
そのまま、クーラーボックスに滑るように放り込んだ。
少し夕日が沈みかけた時間まで粘ったが、鯔を釣った以後、僕も父ちゃんもさっぱりだった。
一日、いや一ヶ月分位の運を使ってしまったみたいで、当分釣りはさっぱりな様な気がしていた。
「健治、帰るか、早よー帰って、釣った鯔をさばいて一杯や」
「…ん」
もう少し、もうチョッとやったら、釣れそうやけど…。と思いながら、
「…そうやね、母ちゃんも知恵も待っちょうけん、帰ろ」
秋の夕暮れの時は早く、暗くなる筏の上で道具を片付けた。
父ちゃんは、焦る気持ちを抑えながらもハンドルを切り、緩やかなカーブを走り抜けてた。
きっと、鯔の刺身で一杯やりたい気持ちでいただろう。僕は、横目で父ちゃんを見ながら、揺れる車で眠くなっていた……。