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第1章

 外はよく晴れた雲が薄く流れるように青白い空、春の午後。

桜の花も幾分か散り始め、やっと好きな春らしい季節が訪れた。

少し桜散り行く頃、舞い散る桜に包まれ、ほんのり淋しさが感じられる。


 青白い空の漂う空気とは違う、少し指先がこわばる程の寒々としたこの部屋。

薄明かりの部屋の壁には、旧家の風格らしく先祖の写真が隙間なく並んで吊ってある。

茶色に変色し、少し埃を被った様は、長々とそこから、家族を見下ろす役目で時間と共に居座ってる。

 敷き詰められた畳も所々波打つへこみがあり、歩くと少しきしむ。多分、畳下の床が湿気に侵されてるのだろう。

飴色より少し鈍く黒ずんだ柱は、幾重にも連なる小さな傷も時間の流れを感じる。


 僕は、後ろを振り返りながら誰も見ていないか目配りをし、分厚く大きな刺繍ししゅうのしてある座布団へゆっくりと腰を下ろした。

仏壇の前には、袋に入った砂糖菓子がお供えされている。多分それは父が子供の頃、お婆ちゃんからおやつ代わりに貰った砂糖菓子だと思う。

僕は、父の生まれ育った家で一緒に暮らした訳じゃない。それでも、この家はとても久しく、懐かしく感じられる。

 仏壇のロウソクに火を灯し、仏壇の隅に置いてある箱から2本ほどの線香を手でつまみ、ロウソクにかざした。

なかなか火の点かない線香をぼんやり見ながら、左手で背広の右内ポケットに忍ばせておいた一枚の写真を取り出した。

 火の点いた線香を軽く息で吹き消し、仏壇に供えた。本当は、火を手でかき消せば良かったかな。

手に持った写真は少し折れ曲がっていた。そのまま、ポケットへ無造作に入れて持ち歩いていたから仕方ないだろう。

左手で擦るように伸ばして、曾じいちゃんの位牌いはいの横に寄り添う様にそっと並べて置いた。

 両手をゆっくりと合わせ、拝むと言うより、おでこを押し出すような姿勢で軽くうつむいた。

顔を上げ、写真に目を呉れた。軽く握った右手のこぶしをそっと右胸にあて、喉の奥まった場所から呟きみたいに、声のない声で語る。


 お父さん。

やっとここに帰って来れたね。

ここに帰って来たかったでしょ。

今はやっと、ほっとしてるかな。

ここに来るまでに10年かかったよ。

今、うれしいよ。こうしてお父さんの気持ちを運んで来れたのだから…。

一枚の写真だけど、ここに供えると父の里帰りで僕も帰って来たかのように思える。

今までの事、これからの事もすべて。


 それから、今日の知恵の結婚式、とっても良かった。

お父さんに見てほしくて、新郎の重雄君と知恵はここで式を挙げた。二人は亡き父をしのんでの事らしい。

とにかく、幸せな知恵の顔だった。今までにないくらいの悲しくも、うれしく泣いた顔を…。

 木々の間をぬって、春のやわらかな木漏れ日が、二人の結婚式を包んでた。とても気持ちいい風が桜の木々を揺らし、二人へ花びらが舞っていた。

 僕の目に映った二人、きっと忘れられない。この日のことを…。

 お父さんにも見せたあげたかった…。いや、見てるはず。知恵の事を…。

「………」


 父は、九州の片田舎、農家の次男としてこの家に生まれた。

兄と弟との3人兄弟、祖父母も同居しており、旧家の7人家族で幼少の時期をここで過ごした。

田舎なので小・中学校も少なく、高等学校へは家から遠く、毎日、国鉄で2時間程かけて通学していた。

自慢は、遅刻や休んだ事は一度もない事。以前、僕が病気をして、よく休んだ時、父本人から聞かされた事がある。

 高等学校を卒業後、東京の電気会社に就職。そしてある時期を境に自己退職。でもって、母方の故郷へと移り住んだ。

僕と妹の二人だけが唯一の子供である。最初の子供は結婚して直ぐ恵まれたが、この世を見ぬままだったらしい。

だから、本当は兄だか?姉だか?僕達兄妹には、もう一人居たのかもしれない。


 その父の出産は叔父さん達と違っていた。

横の納戸部屋でお父さんは産れたと。以前、お婆ちゃんに聞いたよ。もう40年前にもなる。

生まれる時、産婆さんが間に合わなかったらしい。

 なんで、待てなかったのかな。いつもせっかっちで、人の話を「はいはい」って言って、よう聞かんかった。

思い込みも激しく、いつも早合点で、自分を持って生きてた人だったな…。それでいて、語らず、人のことを気にかける。

 生まれる時がそうだから、それが性分なんだろう、きっと。その時代は、おじいちゃん。まあ、お父さんになる主人あるじが自転車やら、単車やらで産婆さんを迎えに行ったらしい。

だから、出産は大半が家だったらしく、大きなタライに熱いお湯を入れ、清潔な布を準備し、産婆さんの指示で主人あるじが右往左往して、この世に生を与えられていた。とにかく、出産は、昔も今も大行事である。父も同様であったはず…。

 そんな最中、父が生まれた時期は農繁期で人手がない。おじいちゃんが産婆さんを迎えに行くのに手間取って、そんな甲斐も無く、この家の納戸で産声を上げた。それは、産婆さんまだ到着する前だった。産婆さんは、へその緒を切って終わりだったらしい。

 人と少し違った始まりの人生。生まれ持った運命だったのかのように、何事も一人で生き抜いてきた父が、家族を持ち、幸せな人並の人生を送ると思っていたはず…。

 その本人がこの世に産んでくれた母より先に逝ってしまった。


 12年前だった。父の肺がんが発覚したのが。それから先は、あっけない程早かった。

定期健康診断で右胸に影らしき。再検査の通知を貰い、父は家族へ気にかかったような素振りも見せず、病院で検査を受けた。

結果はやはり、右胸部の肺がんと診断。幸いに初期症状だから、大丈夫と医者からの言葉。

その後の精密検査で早い時期に胸部切開手術に至った。

しかし、その後も3度の手術を繰り返し、薬餌療法、そして漢方治療と。無駄に思えるような治療を父は黙って頑張っていた。元々、昔ながらの人だったので、騒ぐわけでもない。多分、自分の先が僅かだと分かっていたんだと思う。

 3度目の手術後から、1年半の闘病生活。

病院と自宅の行き来を繰り返した後、父はそのまま病院で帰らない人となった。享年40歳と僅かだった。

 僕は中学校に上がったばかりで、妹の知恵はまだ小学校の1年生だった。

母は手術を受ける時から分かっていた。当然、担当医師からの宣告を受けていたはずだから。本人へ隠して話さずの時代だった。それを誰にも言えず、胸に抱えたままで一番辛かったのかも知れない。母の嘘笑い、子供ながらに解った。

入院中から、僕達兄妹にいつも心配ないと言う母の目はいつも薄らながらに、にじんでいた。


 最期の時、母は両手で顔を覆い、嗚咽おえつを吐きながら、むせび泣いていた。

妹の知恵は幼かった。死を理解できておらず、亡き父を見て、幼い言葉で問いかけていた。

「お父ちゃん! お父ちゃん! 死んだんね!」

「ねえ…、お兄ちゃん! お父ちゃん、死んだんね!」

父の亡き姿より、知恵の言葉で僕は、辛くて泣いた。

嗚咽おえつを吐いた、あの日の出来事。父が亡くなったあの時。

蒸し暑い真夏、鈍色にびいろに染まった空が僕達家族を見下ろしていた。

誰かが、自分の想いを悟ってくれる。

家族でなくても、相手に真直ぐに向き合うと気持ちは少しだけど、何か解るのかもしれない。

そんな事を伝えたい。代わりにしたあげることがあると思う。そんな事を表現したかったです。

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