会議終わりの雰囲気(読み切り)
会議は、もう終わっていた。
少なくとも、僕にはそう思えた。
最後の議題について社長が話し終えてから、もう何分か経っている。
誰も何も言わない。
会議室には、空調の音だけがしていた。
低い音だった。
一定の音で、ずっと同じところを回っている。
僕は目の前に置かれた資料を見た。
最後のページ。
そこには、さっき社長が話していた内容が印刷されている。
もう読むところはない。
それでも僕は、ページの端を指で押さえたままにしていた。
閉じるべきなのか。
それとも、まだ開いておくべきなのか。
そんなことを考えていた。
向かい側に座っている田中さんが、少しだけ椅子を動かした。
ギ、と小さな音がした。
僕は顔を上げた。
田中さんは社長を見ていた。
社長は資料を見ている。
田中さんは何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
田中さんの椅子が動いたのは、帰る準備なのだろうか。
それとも、単に座り直しただけなのだろうか。
分からない。
僕は資料に目を戻した。
そのとき、隣に座っていた佐藤さんが腕時計を見た。
ほんの一瞬だった。
僕はそれを見逃さなかった。
午後四時五十八分。
会議が始まったのは三時だったから、もう二時間近く経っている。
佐藤さんも帰りたいのかもしれない。
そう思った。
けれど、佐藤さんはすぐに腕を机の下へ戻した。
僕は何もなかったような顔をした。
いや。
僕が気にしすぎているだけなのかもしれない。
時間を確認しただけだ。
仕事をしていれば時計を見ることくらいある。
そう考えていると、今度は僕自身が時計を見たくなった。
でも、見なかった。
今ここで僕が時計を見たら、
「この人、帰りたいんだな」
と思われる気がした。
そんなことを考えている自分がおかしかった。
誰もそんなことを考えていないかもしれない。
それなのに、僕は誰かに見られているような気がしていた。
社長が資料を一枚めくった。
紙の音がした。
全員の視線が、一瞬だけ社長へ向いた。
僕も向けた。
社長は資料を見ている。
そして、またページをめくった。
僕は少しだけ背筋を伸ばした。
まだ終わっていないのかもしれない。
そう思った。
社長が資料をめくったということは、何か確認しているのだろう。
もしかしたら、まだ話がある。
そう考えた瞬間、田中さんがペンを置いた。
カチッ。
小さな音だった。
僕はまた田中さんを見た。
田中さんはペンを机の上に横向きに置いている。
さっきまで握っていたペンを置いただけ。
それだけのことなのに、僕にはそれが妙に大きな意味を持っているように見えた。
もう書くことはない。
だから置いた。
つまり、終わったと思っている。
そういうことだろうか。
僕は田中さんの顔を見た。
田中さんもこちらを見た。
一秒ほど目が合った。
田中さんは、ほんの少しだけ眉を上げた。
僕は何も言わなかった。
田中さんも何も言わなかった。
その視線の意味が分からなかった。
「まだかな」
だったのかもしれない。
「終わったよね」
だったのかもしれない。
あるいは、何も意味などなかったのかもしれない。
僕は視線を逸らした。
その直後、斜め前の女性社員が資料を重ね始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
紙が揃えられていく。
僕は思った。
終わる。
きっと終わる。
けれど、彼女は資料を揃え終えると、その上に両手を置いたまま動かなくなった。
立たない。
誰も立たない。
僕も立てない。
会議室には、四人の人間と、一人の社長がいる。
全員が座っている。
誰も「終わりましょう」と言わない。
時計の秒針の音が聞こえるような気がした。
実際には、この部屋の時計は秒針が音を立てるタイプではなかった。
それでも、時間だけが妙にはっきり感じられた。
四時五十九分。
あと一分で五時になる。
五時になったら、帰っていいのだろうか。
僕はそんなことを考えた。
でも、五時という時刻に意味があるわけではない。
仕事が終わる時間だからといって、会議が終わるとは限らない。
だから余計に困った。
五時になった。
誰も動かなかった。
僕は心の中で小さく息を吐いた。
五時になったことを、みんな知っている。
でも誰も時計を見ない。
誰もそれを話題にしない。
まるで、五時になったことを認めたら、誰かが「では、終わりましょう」と言わなければならなくなるみたいだった。
社長が咳払いをした。
「……」
全員が社長を見る。
社長は何も言わなかった。
ただ、少し喉を整えただけだったらしい。
僕は視線を資料に戻した。
恥ずかしくなった。
どうしてこんなに気にしているのだろう。
帰りたいなら帰ればいい。
そう思う。
でも、帰れない。
自分が最初に立つ勇気がない。
だったら誰かが立つのを待てばいい。
でも、みんな同じことを考えていたら?
そう考えたところで、僕は少し笑いそうになった。
もしかしたら、この部屋にいる全員が、
「誰かが立ったら立とう」
と思っているのかもしれない。
それなら、誰も立たない。
誰もが他人を待っているからだ。
そのとき、佐藤さんが鞄に手を伸ばした。
僕は見た。
田中さんも見た。
向かいの女性社員も見た。
佐藤さんは鞄の取っ手を握った。
持ち上げる。
……と思った。
しかし、佐藤さんは鞄を持ち上げなかった。
ただ、位置を少し直しただけだった。
僕は心の中で、
「ああ」
と思った。
そして同時に、
少しだけ安心した。
自分だけではなかった。
みんな、同じように迷っている。
そう思った。
社長が再び資料に目を落とした。
僕も資料を見た。
田中さんも資料を見た。
誰も読んでいない。
ただ、見ている。
会議は終わっている。
なのに、終わっていない。
その境目に、僕たちは座っていた。
四時五十八分から始まったような、五分にも満たない時間が、ひどく長く感じられた。
そして五分ほど経った頃。
社長が突然、資料を閉じた。
パタン。
今度は誰も社長を見なかった。
見てはいけないような気がした。
社長は資料を机の端へ置いた。
そして椅子の背もたれに、ゆっくり体を預けた。
それだけだった。
誰も言葉を発しない。
僕は隣を見た。
田中さんもこちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ。
そして田中さんが立った。
誰も止めなかった。
僕も立った。
すると、向かいの女性社員も立った。
佐藤さんも立った。
最後に社長が立ち上がった。
「……お疲れさまでした」
社長が言った。
「お疲れさまでした」
僕たちはほとんど同時に答えた。
会議は終わった。
けれど、僕には最後まで分からなかった。
あの五分間。
社長が終わらせるのを待っていたのは、僕たちだったのか。
それとも社長が、僕たちが立ち上がるのを待っていたのか。
たぶん、誰にも分からない。
ただ一つ分かるのは、
誰かが最初に立たなければ、
あの会議は、もう少し長く続いていたということだった。




