初恋の獣人騎士兄様と、絶対に彼の番じゃない私
「随分でけえ箱だな、これ。何が入ってんだ? ミリィ」
馴染みのある涼やかな声がして、それまで私の視界を塞いでいた大きな箱が、突然ひょいと取り上げられた。
十数メートル運んだだけで腕がプルプルと震えるほどの重さを一瞬で失った私は、反動でバランスを崩してしまう。
「わわっ」
「おっと、危ない」
仰け反る背中を支えられて事なきを得る。
総務課の制服越しに感じる大きな手のひらの感触に、思わず心臓が跳ねた。
「っ……ありがとう、フェルセオ兄様」
「おう。てか、お前が転びそうになったのって、俺が急にこいつを取り上げちまったせいだよな」
バツが悪そうに頬をかくフェルセオ兄様は、身体能力に優れた狼の獣人族だ。私にはあれほど重かった古い書類の詰まった木箱を、片腕で軽々と担いでいる。
「これ、総務課まで運ぶんだろ? このまま持っていってやるよ」
「そんなの悪いわ。兄様だって仕事中でしょう?」
「俺は午後から休みだから、街でミリィに食わせる差し入れ買ってきたとこなんだ。ほら。箱の代わりに、これ持っといて」
手渡されたバスケットは、木箱とは比べものにならないほど軽い。中には私が子どもの頃に好きだった、ふんわり系の焼き菓子が敷き詰められていた。
「ミリィの好物買ってきたから、いっぱい食って大きくなれよ。ミリィのことは、師匠から頼まれてるからな」
彼は私の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと無遠慮に撫で回す。
人族である私の頭の上には、兄様と同じ耳は付いていない。『兄様』と呼んでいるけれど、私と彼は血の繋がったきょうだいじゃなく、少し年の離れた幼馴染みなのだ。
私は今年で二十歳。三つ年上の彼は二十三歳になる。
私のお祖父様に剣術を習っていたフェルセオ兄様は、お祖父様のことを『師匠』と呼んで慕っていて、孫娘の私の遊び相手もしてくれていた。
「兄様。そうやっていつまでも子ども扱いしないで。ここは王宮内で、今は仕事中なんだから」
「誰もいねえから平気だって」
「それに、背の高い兄様の目には小さく見えるかもしれないけど、私はこれでも成人してるの。どれだけ食べたって、今さら背なんか一ミリも伸びないわよ」
「そうか? まだ伸び代あるかもしれないだろ」
私をからかう時、兄様は悪戯っぽく笑って頭の上の二つの耳をピコピコと動かし、尻尾をブンブン振り回す。
こういうところは昔からちっとも変わらない。でも大人になった今の彼は、王城に出入りする女性達の視線を釘付けにする存在だ。
アイスブルーの瞳の色も相まって、黙っているとクールに見える整った顔。肩口に垂らした髪と、狼耳と尻尾が全て白銀色だから『銀狼の騎士様』なんて二つ名まで付いているらしい。
均整の取れた長身に、濃紺の騎士服が本当によく似合っている。
「私の身長も体重も、人族の女性の平均よ」
「そんなにむくれるなって。ミリィが可愛いから、つい昔の調子で構っちまうんだよな」
「っ……」
「可愛い」なんて言われて、ついときめいてしまう。兄様にとっての私は妹分に過ぎないけど、私にとっての彼は、忘れられない初恋の人だから。
(……人の気も知らないで)
兄様の手を振り払って足早に歩いていると、あっという間に総務課に辿り着いてしまった。
私は一昨年王立学園を卒業した後、王宮に就職した。配属先は総務課だ。
人の出入りが多い総務課はドアが開けっ放しになっているから、デスクで紅茶片手にのんびり新聞を読んでいる課長の姿が、廊下から丸見えだった。
それを見た瞬間、兄様の表情と雰囲気がガラリと変わった。彼はツカツカと真っ直ぐそちらへ向かうと、あの重たい箱をドスン! と課長のデスクの上に落とした。
「い、いきなり何をするんだね。紅茶が溢れてしまったじゃないか」
「そりゃそうだろうな。これだけ重量のある箱だ。身体強化や重量操作が可能な魔法師でもない女性に、こんなものを運ばせるとはどういうことだ? それも、転送の魔道具も魔導台車も使わせずに」
「生憎と、どちらも出払っていてね」
「だったら別の日に運べばいいだろう!」
「うちの課の仕事内容は、君には関係ないのでは?」
怒りを隠そうともしない兄様に、課長は座ったままヘラヘラと対応する。
「関係ならある。俺はミリアムの祖父殿に彼女を見守るよう頼まれている。他国育ちの貴殿は知らないかもしれないが、彼女の祖父であるヨーゼフ殿は、先の陛下と共にこの国に平和をもたらした英雄だ」
「ああ、それなら聞いた覚えがあるよ。英雄といっても戦場で勇ましく戦ったわけじゃなく、安全な公開試合で勝利を収めただけなのだろう? 叙爵されて貴族にはなったが、元は卑しい平民だというし」
「貴様!」
「兄様。お願い、どうか落ち着いて」
兄様の耳と尻尾の毛がブワリと激しく逆立つのを見て、私は慌てて止めに入った。
大好きなお祖父様をバカにされて腹が立ったのは私も同じだけど、兄様は今にも剣を抜きかねない勢いだ。王宮内での私闘は、余程の事情がなければ厳罰が科せられてしまう。
キーンコーンと、そこでタイミングよく終業の鐘が鳴った。
「終業時間だわ!」
私はわざと大きく声を張り上げ、お菓子の盛られたバスケットを兄様に手渡した。
「急いで帰り支度をするから、兄様は先に廊下で待っていて」
「……わかった。だが少しでもミリィが出てくるのが遅いと思ったら、遠慮なく呼びにくるからな」
兄様は課長を睨みつけながらそう言うと、不承不承といった様子で総務課を出ていった。
「「キャー! 銀狼の騎士様だわ!」」
廊下から聞こえた黄色い声は、城内の各課から戻ってきた先輩達だ。総務課は課長ともう一人を除いて、全員が女性なのよね。
「ミリアム君。帰り支度をする前に、ちょっと隣室に来たまえ」
「何でしょうか、課長。お話ならここで伺います」
「個人的な話なんだ。なに、すぐに済むよ。遅くなると無礼な獣人騎士が怒鳴り込んでくるようだからね」
「……わかりました」
書棚や備品が所狭しと並んだ隣室に入ると、課長は後ろ手にドアを閉めた。
定年退職した先任の課長と入れ替わりで赴任した今の課長は、友好国の王族だった人だ。
継承順位の限りなく低い十二番目の王子だった彼は三十半ばまで自国で遊び暮らしていたところ、金髪碧眼のそれなりに整った容姿を見初められ、我が国の侯爵家に婿入りしたばかりだという。
「ミリアム君。自分の仕事を、他部署の者に任せちゃ駄目じゃないか。ん?」
「すみませんでした。ですが、自ら頼んだわけではありません」
「結果は同じことだよ。君はまだ若いから世渡りというものが分からないようだが、少しばかり要領良く立ち回ることを覚えれば、今よりずっと仕事が楽になるはずだ」
ニヤニヤと厭な笑いを浮かべて距離を詰めてくる課長は、課の中で私だけを「ミリアム君」と、家名ではなく名前で呼ぶ。
私は明るい茶色の髪にヘーゼルの瞳の、たまに人から可愛いとお世辞を言われる程度の見た目で、とびきりの美人ってわけじゃない。
私の家が男爵家だからか、課で一番若いから御しやすいだろうと侮られているからか……私は課長に、身体の関係をそれとなく迫られているのだ。
それをのらりくらりと断っていたら、今日みたいなパワハラを受けるようになった。
フェルセオ兄様が代わりに運んでくれたあの重い木箱には、五十年物の書類がみっしりと詰まっていた。
(あれを総務課から遠い王宮の地下倉庫から、私が一人で運ばされていたのよね……あんな焼却炉行き確定の書類を今さら総務課に移動させる意味なんてないし、転移の魔道具や魔導台車が出払ってたのも嘘。どの課にも貸し出した記録はないし、先輩達も誰も持ち出していなかったもの)
私は『剣聖』の称号を持つお祖父様から、兄様ほどじゃないけど剣術の手ほどきを受けて育った。いざとなったら課長なんて定規一本で倒せるから、身の危険は感じていない。
ただ課長のバックにはこの国の侯爵家と隣国の王家がついているだろうから、今のところ甘んじてパワハラを受けているのだった。
「ミリアム君は、もうその手の経験はあるのかな?」
繰り出された直球のセクハラ発言に、全身がゾワリと総毛立つ。
「そろそろ失礼します!」
肩に触れられそうになったのを躱し、私はダッシュで総務課を後にした。
帰りの馬車で、フェルセオ兄様は不機嫌全開だった。
「ミリィが出てくるのが、あと数秒遅かったら乗り込んでたとこだぜ。あの課長、ミリィに嫌がらせしてるんじゃねえのか?」
「そ、そんなことないわ。課長は他国の王族だった方だから、まだ仕事の勝手がつかめないのよ、きっと」
「そんなやつ課長にするなんて人選ミスにも程があるだろ。なあ、ミリィ。あいつに何かされそうになったら、絶対に俺に言うんだぞ」
「ええ。わかったわ、兄様」
私は兄様にうなずいてみせたけど、嫌がらせどころか愛人関係を迫られていることを知られたら刃傷沙汰になりそう。
獣人族には番っていう命よりも大切な存在がいて、兄様の番は私じゃないのは、とっくの昔にわかっている。
ただの妹分に過ぎない私のために兄様の立場を悪くするわけにはいかないから、課長のことは口が裂けても言えないわ。
◇ ◇
フェルセオ兄様は十歳から十五歳までの五年間、私のお祖父様のお屋敷で暮らしていたの。
私が住んでいる人族の国アーティアと兄様の故郷である獣人族の国デイゼルは『大森林』っていう小さな国一つ分もある広大な森を挟んで隣り合っている。
二つの国があまり仲良くなかったのは、隣国とはいえ距離が離れすぎていたのと、獣人族が自身の番だと認識した人族を強引に連れ去る事案が度々起きていたからだそう。
本能で番がわかる獣人に対して、人族には番の縁が結ばれていても認識できないのが仲違いの原因だった。
お祖父様がまだ青年だった頃、それが元で両国の仲は戦争寸前までこじれてしまい、そこへ待ったをかけたのが大森林に住むエルフ達だった。
アーティアとデイゼルの間に横たわる大森林を迂回するのは人力では何年もかかるし、魔法を使うにしてもかなりの魔力のロスになる。
戦争になれば最短距離で移動できる大森林の中を人や魔法が頻繁に行き交うことになるから、他種族嫌いで有名なエルフ達はそれをイヤがり、双方に通達を出したの。
『我らエルフに古来から伝わる極大魔法でお前らの国をまとめて更地にされるか、国の代表を選出してトーナメント試合をして白黒つけるか、どちらか好きなほうを選べ』
更地になるのを回避したい両国が厳正なクジ引きを行った結果、競技の内容は剣術・槍術・馬術・魔法という、フィジカルが物を言う競技に偏ってしまった。
身体能力の高い獣人族の圧勝だろうと誰もが予想していた中、剣術の代表に選ばれていたお祖父様と、魔法の代表だった先代陛下が全戦全勝して国同士の勝負は引き分けとなり、和平協定が結ばれることに。
それまでは一介の平民騎士に過ぎなかったお祖父様は国から伯爵位を叙爵され、領地と『剣聖』の称号も賜ったの。
総務課の今の課長は「戦場で武功を挙げたわけでもないし、勝てたのも対戦相手が弱かっただけだろう」と小馬鹿にするけど、お祖父様の強さは本物よ。
幼い頃から大好きな祖父母の屋敷に入り浸っていた私は、お祖父様に決闘や弟子入り志願にくる強そうな人達が軽くいなされ追い返されていく様子を毎日のように見ていたもの。
獣人の国デイゼルからやってきたフェルセオ兄様も、弟子入り志願の勝負を挑んで負けてしまった一人だった。
十歳のやんちゃな少年だった兄様は、貴族の子どもながら護衛もつけずに単身アーティアに渡ってきたの。強い獣人族では普通のことなのですって。
勝負に負けても兄様には剣士としての見込みがあった。それと年齢的に私の遊び相手にぴったりだからという理由で、お祖父様は兄様だけは追い返さず弟子にしたというわけ。
お祖父様に剣の稽古を受けながら私ともたくさん遊んでくれた兄様は、私に獣人族の番についても教えてくれた。
「俺たち獣人族には番っていう、めちゃくちゃ大切な相手がいるんだぜ。俺の父上と母上は、どっちも獣人族の番同士なんだ。会ったしゅんかんに二人ともビビビッてしびれる感じがして、父上はその場で母上にプロポーズして、母上も即OKしたって聞いた」
「ふうん。じゃあミリィは、ぜったいにフェルセオ兄さまの『つがい』じゃないわね。だって兄さまは、私と会ったしゅんかんに『お前はおれより年下だから、今日からおれの子分だな!』って言って、おじいさまにゲンコツされていたもの」
「なんだよ、そんなにほっぺたふくらませて。ミリィは俺の番になりたかったのか?」
「つがいのことは、よくわからないわ。兄さまに『子分になれ』って言われたとき、ものすごーくイヤな気持ちになったのを思いだしたのよ!」
「あははっ。悪かったって。あの頃は俺もまだガキだったからな」
「あれからまだ一年もたってないじゃない。兄様はまだ子どもよ」
「ミリィはほんとに賢いなあ。今は子分なんかじゃなくて、可愛い妹分だと思ってるよ。だから機嫌直してくれよな」
そう言って兄様がくしゃくしゃと頭を撫でてくれて、くすぐったい気持ちになったのを覚えている。あの頃は可愛い妹分だって言われたのが純粋に嬉しくて。
やがて十五歳になった兄様が、デイゼルの学校に入学するため帰国することになり──
私はその時初めて、兄様を慕う気持ちが恋愛感情に変わっていたことを自覚したの。
それと同時に失恋も確定した。だって私は、彼の番じゃないのだから。
「ミリィ、泣くな。必ずまた会いに来るよ。約束する」
泣きじゃくる私の頭を撫でてくれる兄様の手は、出会った頃よりずっと大きくなっていた。
それからしばらくは手紙のやり取りがあったものの、ある時を境にパタリと途絶えた。
兄様は番と出会えたのだと思った。
年の近い異性と手紙を交わしていたら番を不安にさせるから、私は切り捨てられたんだろうなって。
(兄様の嘘つき。『必ずまた会いに来る』って言ったのに、結局一度も来なかったじゃない)
二度と会うことはないだろうと思っていた彼と再会したのは、私が王宮に就職して二年目の春だった。
お祖父様が『剣聖』となった試合で和平協定が結ばれて以来、友好の証として人族の国アーティアからは魔法師団の小隊を、獣人族の国デイゼルからは騎士団の小隊を、それぞれ相手の国に派遣するようになっていた。
フェルセオ兄様は、獣人騎士の駐屯部隊の一員として、再びこの国に戻ってきたのだった。
『ははっ。何て顔してんだよ、ミリィ。必ず会いに来るって約束したろ?』
まさかの再会に言葉をなくしていた私に、彼はそう言って悪戯っぽく笑っていたわ。
(何よ、八年間も音信不通だったくせに……それに、この国に来たのだって仕事で派遣されたからじゃないの。相変わらず調子いいんだから)
酷い兄様に腹が立っても、どうしても嫌いにはなれなかった。
もういい大人になったのだから、ただの昔馴染みとして適切な距離を取りたくても、同じ王宮勤めの兄様は『師匠にミリィを頼まれているから』と総務課まで私の様子を毎日のように見に来るし、馬車での送迎も欠かさなかった。
一番困ったのは元々かっこよかった兄様が、八年の間に更に魅力的な大人の男性になっていたことだ。
兄様をずっと忘れられずにいた私。そんな彼から昔のように可愛がられて甘やかされるたび、堪らない気持ちになってしまう。
(バカみたいだわ。私は兄様の番じゃないのに)
『兄様は番と出会えたの?』
彼が何も言わないのをいいことに、それをまだ訊けないでいた。
◇ ◇
フェルセオ兄様が、課長と一触即発の事態になった翌日。
「ミリアム君。君の直属の先輩であるグレイソン君の家も男爵家なんだってね。それも先々代からの借金を家族一丸となって細々と返済しながら、五人の弟妹を養うために城で働いた給金をほとんど家に入れているそうじゃないか。実に涙ぐましい話だね」
なかなか折れない私に業を煮やしたのか、課長はとうとう無関係な先輩まで引き合いに出してきた。
彼に圧力を掛けられたくなければ、いい加減に身を差し出せと課長は仄めかしているのだ。
(昨日の今日で畳み掛けてくるわね)
グレイソン先輩は課長を除けばたった一人の総務課の男性職員で、課長のパワハラに気づくと、後輩の私をそれとなく庇ってくれていた。
幼い弟妹と美人で気立てのいい婚約者がいる優しい先輩を、私のとばっちりで不幸な目に遭わせられないわ。
「……わかりました、課長。明日一日だけ時間をください」
私が観念したように告げると、課長は満足げにうなずいた。
「いいとも。ミリアム君は明日、休暇を取っていたね。ゆっくりと羽を休めてきたまえ。明後日から楽しみにしているよ」
◇ ◇
したり顔をしていた課長は、自分の要求がようやく通ったと思ったのでしょう。だけど生憎、私にそんなつもりは微塵もないのよね。
──お祖父様は昔から、事あるごとに私にこう言っていたわ。
『ミリアムちゃんや。いつか困ったことがあったら、この爺を頼りんさい。ワシと先代陛下はズッ友じゃからのう。ワシの可愛い孫娘ミリアムちゃんのピンチには、惜しみなくロイヤルパワーを振りかざしてくれるそうじゃ』
お祖父様が剣術の選手として出場した対抗試合で共に戦って以来、二人は親友同士なんだとか。ちなみにズッ友っていうのは『ずっと友達』の略らしい。
お祖父様はちょっと話を盛るところがあるから、今まで話半分に受け止めていたけれど……課長の権力に対抗するためには、ロイヤルパワーに賭けてみるしかない。
お世話になっている先輩を巻き込みたくないし、学生時代に勉強に打ち込んで掴み取った王宮の仕事を課長のせいで辞めるなんて真っ平だもの。
そんなわけで本日休暇の私は、王都の転移門を利用して、お祖父様の伯爵領を訪れている。
転移魔法は一流の魔法師にしか使えないし個人で依頼するには高額だから、比較的安価で長距離を移動できる転移門が王国内の要所要所にある。
伯爵領に聳え立つ白亜の転移門は、王都のそれに引けをとらない立派な造りだ。
門の前のロータリーには乗り合い馬車の停留所や馬車寄せがあり、行き交う人々で賑わっている。
私はロータリーのベンチに腰かけ、伯爵家からの迎えを待つことにした。先触れは出してある。
この国は常春だけど、今日は薄手のワンピースだと少し汗ばむくらいの陽気だ。帽子も忘れてしまったし、日陰のベンチが心地よかった。
(お祖父様には課長の件と一緒に、これからはフェルセオ兄様の見守りも送迎も必要ないって伝えなくちゃ)
このまま優しい兄様に甘え続けて、これ以上好きになるのは辛過ぎるから。
「ミリアム!」
兄様のことを考えていたら、突然、目の前に彼が現れた。
「フェルセオ兄様……?」
毛並みの良い白銀の耳と尻尾。濃紺の騎士服に身を包んだ長身の美丈夫は、兄様で間違いない。
「どうしよう。とうとう幻覚を見てしまったわ。それにしても、兄様ったら幻覚でもかっこいいのね」
「俺は幻覚じゃない。魔法が得意な同僚に頼んで、追跡魔法と転移魔法でミリィがいる座標に送ってもらったんだ。ミリィ、あの課長の愛人になるなんて絶対に駄目だ。ミリィは俺のものなのに」
狼耳をピンと立たせた兄様が、ベンチに座る私の肩を両手で掴む。
いつもは飄々とふざけているのに、今は喉を低く唸らせ、ひどく真剣な眼差しだ。
(俺のもの、だなんて。そんなふうに言われたら、また勘違いしそうになるわ)
「……誰に何を聞いたのか知らないけど、課長の愛人になんかならないわ。今日はそのために、お祖父様に会いにきたんだもの」
「どうして俺に相談しなかった? 俺はミリィにとって、そんなに頼りない存在か?」
「いいえ。……ただ私、兄様に甘えすぎてるから、いい加減に兄離れしなくちゃと思って」
「兄離れなんて必要ない。ミリィは好きなだけ俺に甘えていろよ」
「っ……兄様はひどいわ。またそうやって、自分に溺れさせるようなことばかり。八年間も音信不通だったくせに」
「ミリィ」
その時、フェルセオ兄様の背後からひょっこりと姿を現したのは、なんとお祖父様だった。
「ミリアムちゃんや。今まで黙っとったがのう、フェルセオが八年間も連絡の一つも寄越さんかったのには理由があるんじゃよ」
「お、お祖父様?」
「うわっ、師匠。俺の真後ろにいたのかよ。気配の遮断上手すぎだろ」
「お主もまだまだ鍛錬が必要じゃな」
私よりも小柄なお祖父様が背の高い兄様の背中にすっぽりと隠れていたせいで、存在に気付かなかった。
幼い頃、つるつるの頭を撫でても怒るどころか、茶色のつぶらな瞳を嬉しそうに細めていたお祖父様。
いかにも好々爺っていう雰囲気で、初見の挑戦者達はギャップに騙されて叩きのめされていたわね。
「フェルセオは、あっちの国に帰ってからつい最近まで、自身の番と裁判で争ってたんじゃよ。獣人族は番に命懸けまくっとるからのう。そりゃもう泥沼だったようじゃ」
「番……? 兄様は、自分の番と出会えたの?」
「まあ、詳細は本人の口から聞きんさい。それより今は、ワシの大事な孫娘を愛人なんぞにしようとした不届者を成敗せにゃならん。急いで王都に向かうぞ、アっ君」
「任せろ、ヨーちゃん。マブダチのヨーちゃんの孫ミリアムちゃんは、ワシの孫も同然だからな。今こそロイヤルパワーが火を吹く時よ」
お祖父様が振り返った先にいたのは、お祖父様の茶飲み友達で、ひょろりと背の高いアっ君おじ様だった。
馬車寄せには伯爵家の馬車が停まっている。二人で私を迎えに来てくれていたのだわ。
アレクサンダーとヨーゼフで『アっ君』『ヨーちゃん』と呼びあっている彼ら。そういえば先王様のお名前はアレクサンダーだったような……お祖父様が先代陛下とズッ友なのは本当だったのね。
お祖父様とアっ君おじ様は、がしっと肩を組むなり、一瞬のうちに姿を消してしまった。アっ君おじ様の転移魔法で王都に向かったようだ。
「ミリィ……」
頭の上の耳をしょんぼりと寝かせ、兄様は縋るような瞳で私を見つめてくる。
「……兄様は王都に戻らなくていいの? お仕事中だったんでしょう?」
「さっき師匠が言ってたように、獣人族は番が命なんだ。俺の番が他の雄の愛人にされそうだって聞いて、隊の皆は血相変えて送り出してくれたよ」
「その愛人にされそうな番って……ひょっとして私のこと? 兄様は昔、私を番じゃないって言ったじゃない。それに、本当の番の人とは裁判で争っていたってお祖父様が」
「うん。……なあ、ミリィ。俺の話を聞いてくれるか?」
「立ったままじゃ話しづらいわ。ここに座ってちょうだい」
私がベンチの空いてるスペースをポンポンと叩くと、兄様は寝ていた耳をピンと立たせ、大きな尻尾をブンブン揺らして私の隣に腰を下ろした。
◇ ◇
フェルセオ兄様が自身の番と出会ったのは、獣人族の国デイゼルの貴族学校に入学してから半年ほど経った頃。
相手は外交官の父親と共にデイゼルを訪れていた、友好国の獣人族の女性だった。
デイゼルの公爵家の三男である兄様は、外交官の一団を歓待する昼餐会に駆り出され、そこで二人は初対面したの。
番の彼女はその時『この人は私の番じゃないかしら?』と疑いを持ったそう。
私のお祖父様に師事を乞うため十歳で単身アーティアに渡る前、兄様は自分からも他者からも番を認識できなくする魔法を国の専門機関で施していて、番の女性が兄様を番と感じたのが確信じゃなく疑いレベルだったのはそのせいだった。
その魔法は獣人族なら誰もが知っていたから、番の女性は父親のコネを使ってその専門機関に接触し、兄様が魔法で番を遮断している事実を開示させたの。
兄様は十五歳の時にデイゼルに帰国した直後、自分と番との縁を完全に断ち切る魔法の処置を受ける申請もしていた。
それはこれまでのように番と認識できなくするなんて生易しいものじゃなく、かけたが最後、取り返しのつかない強力な魔法だった。
だから兄様がまだ若いという理由で『これから番と出会えば気が変わるかもしれないので処置は時期尚早である』と保留にされていたのだそう。
その件も突き止めた番の女性は、兄様の番を断ち切る魔法の申請取り下げと、番の認識を遮断する魔法の解除を法廷に願い出た。
番を尊ぶ獣人の国では彼女の申し出は当然のように受理され、そこから八年弱に及ぶ泥沼の裁判が始まった。
番の女性の一族は過激な番至上主義だったこともあり兄様のことを最後まで諦めてくれず、裁判が長引いてしまったらしい。
「俺があっちに帰国してすぐ番との縁を断ち切ろうとしたのは、ミリィのことが好きだったからだよ。俺が番を拒む理由を過激思想を持つ相手側に知られたらミリィが狙われるかもしれないから、決着がつくまではミリィだけじゃなくアーティアの知り合い全員と完全に連絡を絶つしかなくて……悲しませちまったよな。ごめん、ミリィ」
「いいの。そんな理由があったなら。私こそ、何も知らずに責めてしまってごめんなさい。……でも兄様、私を好きって、本当に……?」
「ああ。俺がミリィを好きだって自覚したのは、十二歳のプレデビュタントの時だ」
「兄様がエスコート役を務めてくれたわよね。あの時の兄様、夜会服が似合っていて本当に素敵だったわ」
この国には本番のデビュタントの予行練習として、十歳前後の子どもが集められて夜会の真似事をするプレデビュタントというイベントがある。
「俺も綺麗に着飾ったミリィに、めちゃくちゃドキドキしてたよ。いつの間にか大人の女性に近づいてたミリィを見て、自分の気持ちに気付かされたんだ。周りの大人達が『これは釣書が殺到するわね』なんて言ってるのを聞いて、ミリィが他の男のものになるのは嫌だって、心の底から思ったんだ」
「そんな……兄様、そんなこと一言も言わなかったじゃない。私だって、兄様のことが」
「ミリィが俺への気持ちを自覚したのは、俺がデイゼルに帰国する直前だったろ? だから言えなかったんだ」
「確かにそうだけど……どうして兄様がそれを知ってるの? 私は兄様が好きなことを、今まで誰にも打ち明けていないわ」
「俺は狼獣人だぜ。ミリィの俺を好きっていうフェロモンっていうか匂いが、別れ際に一気にぶわわ〜って漂ってきたから、それでミリィの気持ちを知ったんだ」
「に、匂い?……いやだ、なんだか恥ずかしいわ」
「大丈夫だ、すげーいい匂いだから。今もしてるよ、ミリィが俺を好きだって匂い。八年会えなかった間にミリィの気持ちが変わってたらどうしようって不安も、この匂いのおかげで再会した瞬間に吹き飛んだし」
「もうっ」
私は自分の顔を両手で覆うしかなかった。恥ずかしさと嬉しさで、頭の中がどうにかなってしまいそうで。
「俺のことが大好きなミリアムさん。お願いだから可愛い顔を見せて?」
隣に座っている兄様が、私の腰にフサフサの尻尾を巻き付かせる。
私がおずおずと顔を上げると、兄様が熱のこもった瞳で私を見ていた。
「愛してる、ミリィ。俺の番になって」
「もちろんよ。ずっと兄様の番になりたかったの。私を兄様のお嫁さんにして」
私は彼の広い胸に、飛び込むように抱き着いた。
ベンチでしばらく抱き締め合うと、兄様は「ここは人目があるから」と言って、おでこに一度だけキスしてくれた。
それから私達は、転移門を利用して王都に引き返すことにしたけれど……
「どうした? ミリィ。なんだか浮かない顔してる」
「……ずっと好きだった兄様と想いが通じ合って浮かれていたけど……兄様の本当の番だった彼女には、酷いことをしてしまったわよね。八年間も裁判で争うほど兄様を求めていたのに」
裁判に辛勝した兄様と番との縁は、今は魔法で完全に断ち切られている。
「彼女には悪かったと思ってる。でも俺がもし裁判に負けて彼女と番うことになってたら、喧嘩が絶えなくてお互い不幸になってただろうな……彼女も友好国の高位貴族だから、裁判が決着するまで色んな圧力をかけられたんだ。メディアを買収して世論操作してデモを起こしたり、公爵領の産物の不買運動を呼びかけたりとかな。年も近くて綺麗な人だったけど、俺を番にするためには手段を選ばない苛烈な性格がどうしても受け付けなくてさ。特に不買運動は、領民の生活にも関わることだから」
これまでを思い出してか、遠い目をする兄様。
「だからミリィは気にしなくていいんだ。俺は番との縁を切った後で今後は誰とも縁付かないようにしてもらったけど、彼女の番の縁は、新しく別な誰かと繋がっただろし」
「そうなの? すごく不思議ね」
「そういうものなんだ。それに、全ての獣人族が番に巡り会えるわけじゃない。むしろ番同士で伴侶になるケースのほうが圧倒的に少ないんだ。だから番の縁を断ち切る魔法の行使が認められてる。今の伴侶との絆を守るためにな。……ミリィは酷い奴だって思うか? そんな貴重な番との出会いを拒んだ俺を」
兄様は少し辛そうな顔をした。きっと裁判の間、番を尊ぶ人達から色んなことを言われてきたのね。
「ううん。兄様が私をずっと好きでいてくれて嬉しかったもの。ありがとう、フェルセオ兄様」
「俺も。ミリィが俺だけを想い続けてくれて、最高に幸せだ。ありがとな。大好きだよ、ミリィ」
◇ ◇
翌日登城すると、課長は総務課からいなくなっていた。
先代陛下であるアッ君おじ様が、課長の婿入先の侯爵家の一族全員を城に呼びつけてお説教してくれたおかげで、課長はこれから領地に軟禁されて仕事漬けの毎日を送るとのこと。
空席となった課長の席は、真面目で気配り上手なグレイソン先輩が補佐になることを条件に、前任の課長が復職の打診を受けてくれたのだそう。
昨日、フェルセオ兄様が伯爵領にいた私のところに駆けつけてくれたのは、グレイソン先輩のおかげだった。
クビになった元課長は先輩に『君の家庭の事情をミリアム君に話したら、あれほど頑なだった彼女が何故だかとても素直になってくれてね。明日から楽しみだよ。ありがとう、グレイソン君』なんてことを言ったらしく、私の身を危ぶんだ先輩が、獣人の駐屯部隊を訪ねて兄様に知らせてくれたのだった。
先輩にお礼を言うと「頑張り屋の後輩が無事でよかったよ。それに僕、課長補佐になって給金が上がったんだ。むしろこっちこそお礼を言いたいな。我が家は常に火の車だから……」と、逆に感謝されてしまった。
それから兄様は、私に一冊の本を見せてくれた。
「『あなたの番が人族だった時に読む本』……?」
「うん。俺達獣人と違って番を認識する感覚が備わっていない人族に出会って即求愛するのは最悪の行動だって、これに書いてあるんだ。俺とミリィは初対面じゃないけど、離れていた期間が長かっただろ?」
それは獣人族の国で販売されているハウツー本で、アーティアとデイゼルの共通語で書かれていた。かなり読み込んだのか、ページが所々擦り切れている。
「だから兄様は再会した瞬間に両想いだと分かっていたのに、今まで伝えてくれなかったのね」
「ああ。何度かデートして、せめて半年以上経ってから告白するつもりでいたんだ。絶対ミリィに嫌われたくなかったから」
そう言って照れる彼を、可愛いと思ってしまった。
獣人族を伴侶にする人族向けのハウツー本も、書店に行けば手に入るかしら。
終




