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第五部:辿る糸と予期せぬ連鎖 - 3

 真新しいコンバットブーツの重い足音が、濃い黒のレザーロングコートの(すそ)(ひるがえ)し、夜の石畳に響く。


 出発前に、イヴリンは【腐食のポーション】が入ったガラス瓶を腰のベルトにしっかりと固定した。手に握られた【真鍮の羅針(らしん)】は依然としてインプの示した倉庫の座標を指し示し続けている。


 フードを目深(まぶか)にかぶり、夜陰(やいん)に紛れたイヴリンはグリフィン・プラザの裏手に広がる倉庫街へと向かった。ネオンの光が届かない薄暗い路地を抜け、羅針の示す目的地、レンガ造りの古びた倉庫の前に立つ。


 周囲には目立つような警備の気配はなかった。湿った夜の空気が重く(よど)んでいるだけだ。マフィアの重要な拠点にしては静かすぎる。しかし、イヴリンは油断しなかった。彼女は壁の陰に身を隠すと、懐から手鏡を取り出し、極めて低い声で命じた。


「インプ、壁の向こうを映しなさい。入り口付近に人は?」


 鏡面が揺らぎ、倉庫内部の薄暗い映像が浮かび上がった。


「……いないよ。人間どもは奥の方で固まって、何か下品な話で盛り上がってる。入り口近くは木箱の山だけだね」


「結構」


 イヴリンは手鏡をしまうと、インプが安全と断定した倉庫の裏手の小さな窓に近づいた。微かに漏れてくるタバコの残り香と遠くの話し声がインプの報告を裏付けていた。


 彼女は慎重に倉庫の裏手の小さな窓に近づき、試すように【腐食のポーション】を数滴垂らした。


 その濃緑色の液体が金属の窓枠に触れた瞬間、「シュウウウ」という高温の蒸発音と共に、窓枠は瞬時に灰色の(もろ)い塵と化した。窓の鍵と金属フレームは熱に(さら)された古い(ろう)のように音もなく溶け崩れた。イヴリンは戸惑うことなく崩れた窓枠から静かに内部へと侵入した。


 倉庫の中はインプの報告通り、現代的な物資で(あふ)れていた。積み上げられた大きな木箱の山、きらきらと光る新しい銃器の詰まった棚。そして、大量の白い粉の入った袋と薬品の強い匂いが充満していた。


 これらの物品は、彼女が図書館の古文書で読んだ魔女狩りの道具を現代の技術で再現したものに他ならなかった。それらは魔法を解さぬ人間が、その無知ゆえに生み出す組織的な破壊力を物語っていた。


「やはり、ここが奴らの拠点……」


 イヴリンは憎悪と決意を込めて呟いた。


 彼女は腰のベルトからガラス瓶を抜き取ると、慎重に蓋を開けた。濃緑色の液体には、常に彼女の工房に存在する安息作用を持つ薬草の成分が微量に残留していた。彼女はそれを知る由もなく、憎しみを込めて、液体を倉庫の床や物資に撒き散らした。


 液体が床に触れた瞬間、「ゴオオオッ」という不気味な音と共に、床の金属部分が瞬時に腐食し始めた。倉庫の骨組みが(きし)み、機械がショートし火花が散る。強烈な酸性の匂いが一瞬にして充満し、倉庫内の空気が熱を帯び始めた。


 しかし同時に、イヴリンの工房の匂い――ラベンダーやミントの異常なほど強く心地よい香りが、腐食の酸臭をかき消すように倉庫を満たし始めた。残留していた安息の薬草の成分が、倉庫内の麻薬の化学物質や偽札の特殊インクと予期せぬ反応を起こしたのだ。


 その時、倉庫の隅に設置されたプレハブ式の詰所のドアが乱暴に開いた。微かな話し声の源だったその場所から、濃く、青白いタバコの煙を立ち上らせながら、武装したマフィアの構成員が顔を歪ませながら飛び出してきた。彼らは金属が溶ける音と嗅いだことのない甘い香りの異常な組み合わせに、銃を構えながらも戸惑いの表情を浮かべていた。


 本来なら、彼らは激しい怒りを(あら)わにするはずだった。しかし、彼らの表情は奇妙なほど静かで、感情が脳内で停止したかのようだった。彼らは激怒を爆発させる代わりに、(うつ)ろな目つきで腐食していく自らの財産を見つめた。一部の者は、ハーブの香りに抗いがたい安堵(あんど)感を覚え、その場に立ち尽くしていた。何ヶ月も張り詰めていた緊張が急に解き放たれたような脱力感が彼らを襲っていた。


 イヴリンは物陰に潜みながら、その異様な光景に一瞬戸惑いを覚えた。しかし、彼女の視界には、無惨に腐食していく銃器の山と白い粉の袋、そして札束の山が映っていた。目の前の男たちは、彼女が想像していた彼らが得意とするはずの粗暴な暴力とは異なる、奇妙な反応を示している。


「やはり、彼らは取るに足らない」


 イヴリンは、そう自分に言い聞かせた。


 ――――


 ――時を(さかのぼ)ること、数日。


 リバーフォール郊外の丘陵(きゅうりょう)地帯、広大なワイン農園の奥まった事務所で、ボスであるサヴェージはドミニクのグループに関する報告を受けていた。彼の古風な伝統主義を示すかのように、事務所の壁には鹿のはく製と高そうな額縁に納められた油絵が並んでいた。


「で、どういうことだ? 繰り返せ」


 サヴェージの声は年の功による重みがあり、静かだった。報告役の男は汗を拭いながら声を絞り出した。


「ドミニクの連中が、裏路地で猫を一匹、『偵察兵』だと呼んで殺したそうです。その後、現場にあったアパートが荒らされたとか」


 サヴェージは鼻で笑った。彼の指に光る古い金の指輪が鈍く反射した。


「偵察兵? くだらん。我々が扱うのは麻薬と武器、そして血と金だ。猫をスパイだと信じるような馬鹿げた行動で俺を(わずら)わせるな」


 報告役の男が口ごもった。サヴェージはドミニクの代になってから勢力を急激に伸ばしてきた新興組織の不確実な動きを嫌悪していた。


「しかしボス、ドミニクは、以前から『わけのわからない動き』で我々を挑発している節があります。彼の暴力にはルールがない。義理を欠いた行為です」


 サヴェージはグラスの赤ワインを飲み干した。


「そうだな。奴は先にルールを破った。猫殺し、アパート荒らし。それが魔法使いの猫だろうが野良猫だろうが関係ない。問題なのは、奴が()()()()()()()()()を平気で振るい始めたということだ」


 サヴェージは苛立たしげに言った。


「マフィアの抗争とは、合理性の上に成り立つビジネスだ。だが奴は、猫などという下らぬ『遊び』でルールを嘲笑(ちょうしょう)し始めた。予測不能な狂人はビジネスにとって最大のリスクだ。それは義理と秩序を重んじる我々への侮辱(ぶじょく)だ。奴が意味不明な手を使い始めたのなら、こちらもそれに応じた、筋を通すための報復が必要になる」


 サヴェージはすぐに部下に徹底的な情報収集を指示した。サヴェージの戦略は、裏社会の安定した予測可能性を維持することだった。


「ドミニクの次の計画を突き止めろ。些細(ささい)な情報も逃すな」


 それから数日、サヴェージの組織は情報収集に奔走(ほんそう)した。


 その調査の結果、彼らは思いがけない情報を掴んだ。


 グリフィン・プラザの再開発計画に反対する、保守層の政治家やジャーナリスト、活動家たちが、ここ数日で複数名、不審な死を遂げているというのだ。そして、その背後にはドミニクの組織に属するカレルとサムという二人の始末屋の影が見え隠れしていた。


「ドミニクの狙いは、我々の財産だけではない……街自体の掌握か?」


 サヴェージの声には怒りではなく深い警戒心が滲み出ていた。ドミニクの行動はマフィアの枠を超え、裏社会の安定そのものを脅かし始めていた。


 この警戒の結論が、サヴェージによる即座の牽制(けんせい)行動へと繋がった。彼はドミニクの計画を阻止するため、カレルとサムが使用するであろう次の襲撃経路に、報復の待ち伏せを仕掛けたのだ。


 それが、全く予期せぬ連鎖の始まりだった。


 裏社会の最も古く、最も安定を愛する組織が一匹の猫への勘違いによって動かされ、その行動が皮肉にも、魔女の復讐相手となる二人の殺し屋の進路を妨害するという事態を招いたのだ。


 サヴェージはドミニクの行動を義理を欠いたルール違反と解釈し、裏社会の均衡を取り戻すための()()()()()の準備を始めさせた。


 ――そして、その()()()()()のための違法取引の場所こそ、イヴリンが破壊した倉庫だった。


 倉庫の破壊と異常な鎮静効果を目の当たりにしたマフィアの構成員たちは、ボスであるサヴェージに報告を入れた。だが、それは日が高く昇ってからだった。報告を受けたサヴェージの混乱は最大になった。


 サヴェージは広大な農園の事務所で、昼の光が差し込む窓を背に、報告役の男を見据えた。彼の顔は怒りというよりは、理解不能な事態に直面した戸惑いで歪んでいた。


「もう一度言ってみろ。倉庫が溶けた、だと? ドミニクは爆薬を使ったのではないのか? 奴は殺しに派手な見せしめを好むだろうが!」


 報告役の男は恐怖から口ごもり、言葉を震わせた。


「ボス、爆発ではありません。倉庫の金属が……何かに溶かされたんです。跡形もなく、ただ崩れ落ちていました。それ以上に奇妙なのは、現場の匂いです。強烈な酸の臭いに混じって、妙に落ち着く花のような香りが充満していて、警備の連中が皆、腑抜(ふぬ)けたように静かになっています」


 サヴェージは高価なウォルナット材の机を拳で叩きつけた。彼が知る裏社会の抗争には明確なルールと結末がある。鉛の弾は人を殺し、爆薬は建物を壊す。だが、金属を塵に変え、男たちの心を鎮静させるような、わけのわからない力は存在しない。故に、彼はそれを自らの知る()()()()()()()()へと分類した。これは、彼が最も嫌悪する予測不能な要素だった。


「ドミニクの野郎、何をしやがった。新手の化学兵器か? 神経ガスと強力な酸を組み合わせたテロ兵器……義理もへったくれもない、禁じ手だ」


 サヴェージの胸中には二重の焦燥感が渦巻いていた。第一に、違法取引の倉庫であり、抗争に対する準備が理解不能な兵器によって白日(はくじつ)(もと)(さら)されたことへの激しい怒り。第二に、ドミニクが裏社会の暗黙の了解を完全に破棄し、軍事レベルの破壊工作に手を染めたという、決定的な確信だ。


「この件は、もはや単なる縄張り争いではない。奴は我々の基盤そのものを狙っている。この混乱はドミニクによる全面戦争の合図だ」


 サヴェージはグラスを強く握りしめた。彼はドミニクの暴走を止めることが裏社会の秩序を守る古き血の仁義だと即座に判断した。魔法という不条理な力を、化学兵器という現実的な脅威へと誤読したまま。


 復讐の糸は、今、絡み合い、都市の闇の中で一つの巨大な運命の渦を巻き起こし始めていた。

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