第二部:不確かな記憶と運命の対価
これは、カレルという名の男が、その運命の糸を手繰り寄せ、この店を訪れる前の出来事である。
「で、聞いた? マフィアよ、マフィア。あのグリフィン・プラザを拠点にしてる、趣味の悪い連中」
ウェルズにある、グリムリー・アンド・サンズ魔法道具店の奥の棚の裏で、オーウェンの店の客である若い魔法使い、エヴァが身を乗り出した。彼女は見るからに新社会人といったところで、真新しいローブのところどころに、インクの染みがついていた。
エヴァの隣で若い男性、リアムが、商品棚に並べられたオパールの魔力チップの入ったガラスケースを覗き込み、一つのペンダントを手に取った。それはいびつな三角形の合成オパールが埋め込まれた真鍮製のペンダントで、安っぽいながらも内部で虹色に揺らめく光を放っている。
リアムはペンダントを自身のスマートフォンの写真と見比べ、オパールの理想的な色彩と、ルーン文字の配列が最新の魔術規格に適合しているかを厳しくチェックしていた。
「ああ、また何かやったんじゃないか? あいつら、俺らにとっての幽霊みたいなものだろ。実在するはずなのに、誰も見ようとしない」
「幽霊にしては、随分と金回りだけはいいわよね。いい? 今回の話は最高よ。彼らがね、ライバル組織の魔法使いが使ってる使い魔の猫を殺したらしいの」
エヴァは声を潜めたが、その興奮は隠しきれなかった。彼女にとって、マフィアと魔法使いという異質な世界の交錯は、最高のゴシップだった。
彼らの持つ情報への欲求は、彼らが持つ魔法の力よりも、はるかに愚かで底が浅い。
リアムは精査する手を止め、怪訝な顔をした。
「使い魔? 本気で? あの連中、魔法なんて信じてないでしょ」
「信じてないどころか、大真面目に殺したんだよ! マフィアの連中が、例のスパイア地区で大騒ぎしてたのを、路地の裏で聞いてた人がいたの。猫が毎日決まった時間に同じ場所をうろついてたのを、マフィアのボスが『偵察兵だ』と断定したんだって」
リアムは、思わず吹き出した。
「馬鹿だね。猫はただ、日課で散歩してただけだろうに。本当に使い魔なら、そんな露骨な巡回はしないだろ。しかも、マフィアみたいな鈍感な連中に見つかるなんて、三流もいいところだね。その使い魔の主は、よっぽど腕の悪い魔法使いだったんでしょ」
「そうね。マフィアの無知はいつものことだけど、それにしても、わざわざ見つかってしまうような使い魔を使うなんて、魔法使いの恥だわ」
二人は顔を見合わせ、声を抑えながら笑い合った。彼らにとって、マフィアの行動は荒唐無稽であり、見つかった使い魔の主は、SNSで炎上した一般人のように、能力の低い愚か者でしかなかった。
彼らの世代は、魔法学校で精霊との契約が、どれほど古く、血と犠牲の上に築かれたものであるか、その歴史と代償を厳格に教えられていた。しかし、彼らが心から理解し、価値を置くのは、マニュアル化され、本やネット上で共有される手軽で即効性のある魔法のトリックだけだ。彼らは教えられた重い知識を、古めかしい、時代遅れの教科書の注釈としてしか見ていなかった。
そして、画面の向こうの悲劇は、スワイプすれば消える他人事だ。猫が殺されたこと、その背後にあるマフィアの不安定さがどれほど危険なものであるかなど、彼らの傲慢な頭の中には一切なかった。その無知は、彼らが着る真新しいローブのインクの染みよりも、遥かに深い汚点だった。
傲慢さとは、人間の持つ最も安価で、最も危険な自己欺瞞の呪文である。
その時、奥の振り子時計が、重々しく時を刻んだ。その音は、彼らの軽薄な笑い声を打ち消すように店内に響き渡った。
二人の若者の会話を、隅の椅子に座っていた老婆が静かに聞いていた。彼女の名はヘレナ。ウェルズの古い街に長年暮らし、この魔法道具店にオーウェンがまだ勤務していない頃から通い、骨董品と古書の匂いを嗅ぎにくる常連客の一人だった。彼女の姿勢は常にまっすぐで、何らかの魔道具、あるいは魔法薬のせいか、見た目は実際の年齢よりもはるかに若く、上品な貴婦人然とした服装に身を包んでいた。彼女の瞳は、若者たちの軽薄さとは対照的な、すべてを見通すような深さを宿していた。
ヘレナはゆっくりと立ち上がると、若者たちの前へ向かった。彼女の足取りは遅いが、その動きには、この世の厄介事をすべて見てきた者特有の静かな重みがあった。
「その話、本当かい?」
彼女の声は、乾いた葉が擦れるような、老いと経験が削り出した音だった。どんな魔法を使っても、その本質的な時間は騙せないという事実をその声が体現していた。
ヘレナの問いかけに、エヴァとリアムは頭を冷やされたかのように、笑みを消した。
「ええと……」
エヴァはたじろいだ。
「使い魔が、猫が、殺されたという話です。スパイアの方で、マフィアにって」
リアムは急に真面目な顔をして答えた。
「ああ、どうやら本当らしいですね。愚かな話ですが、三流の使い魔だったようですよ。魔法使いの恥です」
ヘレナは、リアムの傲慢な評価を一瞥しただけで、店のドアを見つめた。この若者たちは、自分たちの世界の小さな秩序が、今、決定的に破られようとしていることに気づかない。
「使い魔が、殺された……」
ヘレナは言葉を噛みしめるように繰り返した。彼女の顔に、血の気が失せていくのが見えた。
彼女は、スパイア地区の隅で静かに魔法薬の店を営む、イヴリンという若い魔女のことを知っていた。ヘレナの昔の友人にその魔女の家系の者がいたのだ。イヴリンは、人間との摩擦を避け、ひっそりと暮らすことを選んだ孤独な存在だ。そして、彼女の連れていた黒猫がただの猫ではないことを、有名な召喚士の血を引くヘレナは見抜いていた。
精霊が宿った使い魔との契約が、人間の手によって暴力的に断ち切られたとき、大なり小なり、必ず世界に亀裂を生む。ヘレナの脳裏には、遠い過去の恐ろしい記憶が蘇っていた。
下位精霊が宿った使い魔の存在は、あの娘の生命線だ。それを断ち切ることは、単なる殺害ではない。静かに生きる者への、一方的な宣戦布告だ。
「どこかの愚かな魔法使いが、マフィア相手に遊んだのさ」
リアムは、まだ事態の深刻さに気づかず、自分の分析を続けた。
ヘレナは、グリムリー・アンド・サンズ魔法道具店の奥の壁にある十字架を見つめた。彼女の脳裏には、かつて人間社会の暴力によって、ひっそりと暮らしていた魔法使いたちが、いかに簡単に裏切られ、裁かれ、追いやられたかの記憶が映し出されていた。そして、その視線は店に差し込む午後の光の揺らぎの中で、恐るべき予感へと変わっていった。
「これは、あまりに静かすぎる」
ヘレナは、誰もいない空間に向かって、そう囁いた。外の通りの喧騒は聞こえる。店の振り子時計も動いている。だが、彼女の肌を撫でる魔力の流れだけが、誰かが世界の一部分を強引に切り取ったかのように、不自然に凪いでいた。
ウェルズの静かな世界は、ある一点の衝撃によってバランスを崩した。それは、古都の地下を密かに流れる魔力の水脈を、暴力的な波紋が伝っていくかのようだった。そして、その波紋の中心は、猫を殺した愚かなマフィアが拠点とするグリフィン・プラザではなく、愛する精霊を失った魔女の、深い、深い沈黙だった。
――――
場面は変わり、次の日。
「失礼。この店は『グリムリー・アンド・サンズ古美術店』で間違いないか?」
カレルは、車の喧騒が届かない、霧に包まれたウェルズ地区の旧市街地の石畳に佇む古びた店のドアを開けた。彼の仕立ての良いスーツは、店の薄暗い雰囲気の中でいっそう場違いに映った。彼はドミニクから渡された紙切れに記された住所を再確認した。
店の内部は、照明が抑えられ、どこか埃っぽい匂いが漂っていた。陳列棚には、古めかしい装飾品、地図、そして埃を被った書籍が雑然と並べられている。ここには、彼が普段関わる、金と暴力に満ちた現代社会のルールは存在しないように見えた。
カウンターの奥に、一人の青年が立っていた。彼はこの店の店員、オーウェンだった。彼は、カレルの姿を一瞥しただけで、再び手元のタブレット端末へと視線を戻した。彼のいつものジャケットは清潔で、店の雰囲気とは異なり、知的な印象を与える。オーウェンは、カレルが想像していた、いかにもな骨董品屋の主人とは、まったくかけ離れていた。
「ええ、間違いありません。表の看板にも、そう書いてあるはずですが」
オーウェンは顔を上げずに淡々と答えた。
カレルは肩をすくめた。
「悪いが、俺はこういう趣味の店には慣れてなくてね。だが、上司に言われたんですよ。ここに来れば、俺の任務を助けてくれる、特別な本があると」
カレルは紙切れをカウンターに滑らせた。オーウェンは、指先で紙切れに触れた。その指先が僅かにピクリと動いた。
「特別な本、ですか。当店には、文字通り特別な本が山ほどありますが」
オーウェンの目は、探るような、警戒の色を帯びていた。
「まあ、また来ましたわね、道具を求める哀れな人間が。この店の扉は、知恵の深淵への入り口とでも思われているのでしょう。人間は自分たちでは到底解けない問いを、どこかの古びた紙束に押し付けたがる」
エルスペスの声が、オーウェンの耳に直接響いた。精霊の存在は、魔法使いしか感知できない。
「我々の世界では、誰でも特別な本なんてものを欲しがりますからね。『マイノリティ・リポート』に出てくるプリコグみたいに、未来を覗き見たいと願う連中ばかりだ」
カレルは、皮肉たっぷりに言った。
「俺の上司もご多分に漏れず、自分に都合のいい予言を信じたいらしい。おかげで、俺はこんな古めかしい場所にまでお使いに来させられた」
オーウェンは、カレルのスーツと、その言葉の裏にある不穏な空気を値踏みした。彼は、カレルが魔法界の人間ではないことをすぐに悟った。その紙切れに書かれた本の名前は、オーウェンにとって、知識の深淵を覗くことを意味する。そして、それは、決して素人が関わるべきものではない。
「その本は、確かにここにあります。ですが、あなたのような方が、その本を手にしても良いことはありません」
オーウェンは、冷たく言った。
「ほう? それは、売り物じゃない、という意味で?」
カレルは、面白がるように笑った。だが、目だけは笑っていなかった。
「いいえ。知識、という意味です」
オーウェンは、静かに答えた。
「知らなくていいことを知ろうとすると、その代償は、あなた自身の精神で払うことになります。その本がもたらすのは、未来ではありません。ただ、見たくもない、真実の断片です。そして、その断片に触れた者は、その代償を支払うまで、決して元の自分には戻れない」
オーウェンは、カウンター下の引き出しに手を伸ばした。金属が擦れるような低い音が響き、彼は古びた革で覆われた一冊の本を取り出した。
それは、一見すると何の変哲もない年代物の聖書のように見えたが、カレルの目が捉えたのは、その装丁の表面を微かに走る、心臓の鼓動のような脈動だった。本はまるで生き物のように呼吸しているかのようだった。その表紙には、金色の糸で複雑に絡み合った楕円の模様が織り込まれており、それは、どこまでも続いていく物語の、登場人物たちの運命の糸のようにも見えた。
人間は常に、自分たちの愚かさが導く未来を恐れ、知りたがる。そのために精霊に頼り、神に祈る。だが、精霊にすら、流動的な時の流れの先など、正確にはわからない。人間が知りたがるのは、彼らが自ら書き上げた、悲劇の脚本の結末にすぎない。そして、彼らはその物語に深く入り込み、最後には自分が誰であったかすら忘れてしまうのだ。
オーウェンの言葉は、彼が店員として話せる限界を示していた。カレルは、その言葉の裏にある真の警告を理解しようと、口元に不自然な笑みを浮かべたまま、オーウェンを見つめ返した。彼の脳裏には、ドミニクの指にはめられた歪んだ銀の指輪の輝きと、猫を殺したときの乾いた、あの不吉な音が蘇っていた。
「なるほど。つまり、これは対価付きの知識だ、と」
カレルはそう言うと、仕立ての良いスーツの内ポケットから分厚い札束を取り出した。
「だが、俺たちは常に対価を払って生きていますからね。その本が、俺の命よりも高い、なんてことはないでしょう?」
カレルは札束をカウンターに置き、無言でその魔導書を指差した。
エルスペスの光のシルエットが微かに揺らめいた。精霊である彼女にとって、人間たちが信頼と価値を見出すその薄い紙切れは、彼らが自身の生命力を削って生み出した虚構の証書にすぎなかった。
オーウェンは、カレルの態度に何も言わなかった。彼に、ここで断る権限はない。店主代理としての彼の役割は、運命を求める者に道具を渡すことだけだ。彼はカウンターの端に置かれた札束を一瞥すると、本をカレルの前に静かに押し出した。
オーウェンは、この本が過去にもたらした有名な結末――それは必ずしも悲劇ではなかった――を思い浮かべた。彼は、せめて今回の書物の登場人物が、有益な結果を手に入れる筋書きになることを、密かに願った。
カレルは、その本が自分の運命を変える鍵だと信じ、躊躇なく脇に抱え込んだ。彼がその本を手に取った瞬間、革の表紙が指先に吸い付くような感触があった。
カレルは、店の暗がりでカウンターの隅に置かれた小さな名刺入れに視線を向けた。名刺には、オーウェンの名前が整った文字で記されていた。
「ありがとう、ミスター・オーウェン。また、次の脚本が必要になったら、訪ねますよ」
カレルは皮肉たっぷりにそう言い残し、古美術店のドアを開けて、再びウェルズの石畳の霧の中へと消えていった。




