終章:自由と脚本の結末
グリフィン・プラザ・タワーの最上階、壊滅したオフィスに、朝の光が差し込んでいた。
カレルは瓦礫の中で肺から血の泡を吐き出しながら、痙攣する指先で床を掻いた。サムの放った弾丸は心臓からわずかに外れていた。だが、それは慈悲ではない。ただ、彼の物語をあと数ページだけ引き伸ばすための、残酷な運命の悪戯だった。
痛みが遠のく。
代わりに頭蓋の裏側で、あの魔導書が荒れ狂うように命令を喚き散らしている。
『俺の物語は終わっていない。結末が書かれていない。俺は誰だ? 俺は空っぽだ』
それはサイラスの独白であり、カレルへの強制的な命令だった。
カレルは機械的な動作で立ち上がった。骨が軋み、内臓が焼けるように痛むが、彼はそれらすべてを切り捨てた。彼の瞳からは、サムに向けられていた友情も、ドミニクへの忠誠も消え失せていた。残っているのは、読みかけの本を閉じられない読者のような病的な渇望だけだ。
「……サイラス……」
カレルは割れた窓枠に手をかけ、眼下の朝霧に包まれた対岸のウェルズ地区を睨みつけた。撃たれて薄れゆく意識の中で、サムとイヴリンが交わしていた会話の断片が、ノイズ交じりの音声データとして再生される。
『グリムリー・アンド・サンズ』
あそこだ。あの古びた店に、全ての元凶がある。そして、そこに彼がいるはずだ。
カレルは体を揺らし、どす黒い血の軌跡をカーペットに残しながらエレベーターへと向かった。インクの切れかけたペンが、最後の一行を書き殴るためだけに動いているようなものだった。
――――
ウェルズ地区の朝は、グリフィン・プラザでの騒動が嘘のように静まり返っていた。川から立ち上る霧が、通りに並ぶヴィンテージショップやパブの軒先を幽玄に包み込んでいる。
イヴリンとサムは路地を抜け、『グリムリー・アンド・サンズ魔法道具店』の重厚な扉の前に立った。サムは肩で息をし、イヴリンは失われた血で顔色が青白かった。しかし二人の間には、やり遂げたという奇妙な連帯感があった。
「……ここね」
イヴリンが震える手でドアベルを鳴らした。
チリーン。
澄んだ音が、彼らを時間の止まった空間へと招き入れた。
店内の空気は、外の陰鬱な霧とは対照的に、暖かなランプの光に照らされ、ほのかなインクと古い紙、そして乾燥したハーブの香りに満ちていた。
「……誰もいないのか?」
サムは周囲を見回した。店主であるオーウェンの姿はなかった。代わりに、カウンターの前に一人の先客が立っていた。無地のシャツに、シワ一つないチノパンを履いた男だ。彼は、背後に血と煙の匂いを纏った二人が入ってきたことにも気付かず、マネキンのように動かずに店の奥を見つめていた。
「店員さんは奥にいるみたいね」
イヴリンは小声で言い、緊張をほぐすように店内の陳列棚に視線を巡らせた。そこには、サムの瞳にはただのガラクタとしか映らないであろう品々が所狭しと並んでいた。だが、魔女である彼女の瞳だけは、その表面に纏わり付く魔力を鮮明に捉えていた。
棚の端に転がる、ペーパーナイフのように加工された水晶の破片を覗き込めば、反射した景色がぐにゃりと歪み、周囲の魔力を無理やり異界へ送り返そうとする不可視の奔流が渦巻いている。その隣の木製の天測儀は、歯車が噛み合うたびに極彩色の魔力が沸き立ち、この世ならぬ異界の地図を空間に瞬かせた。さらにその奥、鉄帯で補強された小ぶりな陶器とガラスの壺の中には、薄紫色の雲が微睡み、誰かのささやかな記憶の断片を束の間の白昼夢として封じ込めている。
それらは世界を滅ぼすような大それた力など持っていない、小さな魔法の品々だった。復讐と殺戮の一夜を終えたイヴリンにとって、そのささやかな神秘は、どこか懐かしく、心をくすぐる光景だった。
そしてイヴリンの視線が、棚の隅にある一つの真鍮製品に釘付けになった。金箔が剥げ落ちた、古びた方位磁針。
「……【真鍮の羅針】?」
イヴリンは震える手でそれを手に取った。間違いなかった。彼女がいずこかで落とし、失ったはずの彼女の道標だ。
「どうして、これがここに……」
彼女が針盤を覗き込むと、その針は北を指さず、くるくると回っている。まるで、彼女の今後の未来はまだ何一つ決まっていないとでも告げているかのようだった。
「おい、イヴリン。こいつを見てみろ」
サムの声に振り返ると、彼はショーケースの上にある傘立てのような場所に無造作に突っ込まれた、一本の杖を指差していた。
「魔法使いってのは大体こんな杖を持ってるイメージだ。俺は木の棒よりは、信頼できる銃の方がいいが」
イヴリンは息を飲んだ。さきほどの愛らしい魔法の品々とは比較にならない、底知れない死臭に満ちた魔力の波動を感じ取った。それは接骨木で作られ、奇妙な生物の背骨が連なっているかのように節くれ立っていた。
「……信じられない。伝説上の杖よ。持ち主を次々と入れ替えながら最強の力を継承していく、死の杖……もし、本物ならね。どうしてこんな危険なものが傘立てみたいな場所に無造作に置かれているの?」
イヴリンが魅入られたように、恐る恐るその杖に手を伸ばしたその時、店の奥から足音が響いた。
オーウェンが重厚なジュラルミンケースを抱えてカウンターに戻ってきた。彼はイヴリンとサムの姿に気づき、軽く会釈をすると、まずは先客であるチノパンの男に向き直った。
「お待たせいたしました。倉庫の最深部から見つけ出しましたよ」
オーウェンはケースを開き、中から一丁の拳銃のようなものを男に示した。
それはSF映画の小道具と見間違えるような、二つの引き金を持つ無骨なブラスターだった。グリップはチープな半透明の樹脂製で、バレル側面のLEDがまるで玩具のように赤く明滅し、そこから漏れ出る微かな電子音は店内の静寂を不快に震わせていた。
「これがお客様が探されていた『ブラスター』です」
オーウェンは警告するように男を見た。
「忠告しておきます。この銃が飛ばすのは弾丸ではありません。これの引き金を引くために必要とするのは、使用者の自己認識です」
オーウェンの声が低くなる。
「この銃は対象の『魂』の有無を判別し、魂を持たぬ者のみを破壊します。そして発砲した瞬間、自分が誰であるかという認識が失われます。これを使ったが最後、あなたは『人間』であるかどうかの証明すら失うことになるかもしれません」
チノパンの男――サイラスは、感情のない瞳でその鈍く光る銃を見つめた。
「構わない。俺にはそれが必要だ。それがあれば、俺は……俺が何者なのか、確かめられる」
サイラスの手がブラスターに伸びた。
――ドンッ!!
店のドアが乱暴に蹴り開けられた。ベルの音が悲鳴のように鳴り響く中、血まみれのカレルが店内になだれ込んできた。
「カレル!?」
サムが叫び、反射的に腰の銃に手を伸ばす。イヴリンも息を飲んで後ずさった。だが、カレルはサムやイヴリンには目もくれなかった。その虚ろな瞳は、カウンターの前に立つ、チノパンの男だけに固定されていた。
魔導書の記述と、目の前の男が完全に一致したのだ。
「……見つけたぞ。サイラス」
カレルが喉の奥で笑った。狂気と歓喜が入り混じった、壊れたレコードのような笑い声だった。
「これが結末だ」
彼は震える手で、愛用のピストルをサイラスに向けた。
その殺気にサイラスが反応した。彼は表情一つ変えずに、カウンター上のブラスターを掴み取った。彼の動きは訓練された兵士のように洗練されていた――あるいは、そうプログラムされていたかのように。
イヴリンは咄嗟に、手に持っていた接骨木の杖をカレルに向けた。彼女には死は、もうたくさんだった。
「動かないで! 武器よ去れ……!」
彼女は杖で相手の武器を吹き飛ばす魔法を放とうとした。だが、杖は沈黙したままだった。接骨木の杖は、彼女を所有者として認めていなかったのだ。先端から情けない火花がパチリと散っただけで、魔法は不発に終わった。
そして、その一瞬の隙に、運命は決定づけられた。
パン!!
ヒュイィィン――ボッ!!
二つの異なる発射音が同時に店内で炸裂した。
カレルのピストルから放たれた9ミリ弾が、正確にサイラスの眉間を貫いた。サイラスのブラスターから放たれた赤い閃光は、カレルの胸部を直撃した。
衝撃で二人の体は真後ろに吹き飛んだ。
カレルは激突したドアと共に外の石畳に崩れ落ちた。胸には大きな風穴が開き、そこから肉の焼ける煙が上がっている。サイラスは仰向けに倒れ、その頭部は物語を語る口を持たない無惨な姿になっていた。
店内に、硝煙と焦げ付いたオゾンの匂いが充満する。
カレルの内ポケットから魔導書が滑り落ち、パサリと床に落ちた。ページが風にめくられ、やがて白紙のページで止まった。
店内に静寂が戻る。それは、あまりにもあっけない、唐突な幕切れだった。
「……カレル」
サムは呆然と遺体に歩み寄った。カレルの顔には、奇妙なほど安らかな表情が浮かんでいた。彼は最後の瞬間に、自分の手で物語を完結させたことに満足したのだろうか。それとも、ただプログラムが停止しただけなのか。
サムはポケットの砂時計を握りしめた。中の砂は、もう二度と戻らない。彼の中にカレルへの友情の痛みはない。あるのは、ただ「かつて相棒だった男が死んだ」という、あまりに簡潔な事実だけだった。
「最後まで、プロのままだったな」
サムは短く呟くと、カレルの瞼をそっと閉じた。
イヴリンは手の中で沈黙する杖を見つめ、自嘲気味に笑った。そして、それをそっと元の傘立てに戻した。
「私には、過ぎた力だったみたいね」
彼女の手には安っぽい【真鍮の羅針】だけが残った。最強の杖などいらない。彼女に必要なのは、自分の足で進むべき方向を示す、この小さな針だけだったのだ。
オーウェンは、カウンターで静かに壊れたブラスターと血に濡れた魔導書を回収していた。その横で光の粒子が集まり、エルスペスの姿を形作る。
彼女は倒れた二人の男と、生き残った二人を見下ろし、優雅に、しかし冷ややかな声で囁いた。
「まあ、なんて散らかった結末でしょう。人間が自分自身を定義しようとする試みは、いつもこうやって滑稽な悲劇で幕を閉じるのですわ」
彼女はサムとイヴリンの周りをふわりと旋回した。
「でも、脚本のない明日を生きるのも、それはそれで退屈しなくていいのかもしれませんわね」
店の奥の古い振り子時計が、ゴーン、ゴーンと午前十時を告げた。
霧が晴れ、ウェルズの石畳に、いつもと変わらぬ退屈な昼の光が差し込み始めていた。
(了)
アウトロダクション
さあ、これにて閉幕です。ご満足いただけましたか? 最初にお約束した通り、十分に退屈で、そして滑稽なほど醜い劇だったでしょう?
ご覧なさい、この散らかった舞台裏を。床には血の跡、壊れたオモチャ、そして役目を終えて動かなくなった人形が二体。
結局のところ、必死に「自分」という脚本を書こうとした者たちは退場し、脚本を捨てて「何者でもない」ことを受け入れた者たちだけが、あてのない明日へと歩き出しました。ええ、三流の劇作家が好みそうな、ありふれた結論ですわね。自由とは何かを手に入れることではなく、すべてを諦めた後に残る、虚無の別名なのかもしれません。
さて、私の愛すべき――そして絶望的なほど退屈な店主、オーウェンをご覧なさい。彼はもう、死体の転がる床をモップで拭きながら、サムが置いていった砂時計の査定と壊れたブラスターの損失計上を計算し始めていますわ。目の前で二つの魂が消滅したというのに、彼が気にしているのは「店の修理代をどう経費で処理するか」だけ。
ああ、これぞ究極の合理主義、あるいは感情という機能をコストカットした、悲しき現代人の完成形ですわね。彼にとっては未知の魔導書よりも、確定申告書の方がよほど怖いのでしょう。
あら、この批評に不服だとばかりに彼がこちらを睨んでいますけれど、彼が何を言おうと、私の見解は変わりませんわ。
さあ、お客様。もうお帰りなさい。ショーは終わりです。ガラスの向こうの、あなた方の安全で退屈な現実に戻る時間ですわ。そこには魔法も、ドラマチックな銃撃戦もありません。あるのは代わり映えのしない日常と、安らかな眠りだけ。
……あるいは。次に何かの間違いで、この店のベルを鳴らしてしまうのは、あなたかもしれませんけれど。
ごきげんよう。また退屈な夜にお会いしましょう。




