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第九部:灼熱の魔女と虚飾の王 - 3

 エグゼクティブ・エレベーターが最上階に到着し、扉が開いた。


 そこは雲の上に浮かぶ宮殿だった。床から天井まで届く巨大なガラス壁の向こうには、夜明け直前の、深く青いリバーフォールの街並みが広がっている。東の空がわずかに白み始め、夜と朝の境界線が曖昧に混じり合う()()()()()()の薄い帳が、眼下の混沌を覆い隠していた。


 その広大なオフィスの中心、巨大な黒檀のデスクの向こうに、ドミニクは立っていた。


 彼は階下で燃え盛る自身の城や、崩壊した地下駐車場の惨状など目に入らぬかのように、恍惚(こうこつ)とした表情で自身の左手を見つめていた。その指にはめられた銀の指輪が、不規則に、そして毒々しいほど鮮やかに脈動している。


「遅かったな、魔女。私に客人が来ることは予見していた」


 ドミニクが顔を上げた。その瞳孔は極限まで開き、眼球が小刻みに痙攣(けいれん)している。彼の精神は指輪への徴収によって食い荒らされ、すでに正気の縁から転落していた。彼に残されているのは、肥大化した自尊心と指輪が見せる幻覚じみた万能感だけだった。


 イヴリンは血に濡れた足を引きずりながら、一歩、また一歩と彼に近づいた。


「あなたは終わりよ。あなたの築いた嘘の城は土台から溶け落ちる」


 ドミニクは笑った。その笑い声は乾いており、どこか人間ではない何かが喉の奥で鳴いているように聞こえた。彼は左手をイヴリンに向けた。


 その瞬間、イヴリンの意識に粘着質な()が直接響いてきた。


『……(かわ)いているな、娘よ』


 それはドミニクの声ではなかった。指輪に宿る、古く、邪悪な精霊の囁きだった。


『お前の心には穴が開いている。復讐? くだらない。そんなものでは何一つ埋まらない。だが、私なら与えられる』


 イヴリンの全身が止まった。指輪の魔力が彼女の精神を容易くすり抜け、最も柔らかく、痛む部分を撫で回す。


『この男は空っぽだ。次は、お前がいい』


 視界が歪む。イヴリンの目の前にあり得ない光景が浮かび上がった。それは、いつもの穏やかな午後の工房。日だまりの中で、あの黒猫が丸くなって眠っている。失われたはずの温かい毛並みの感触。


『時間を巻き戻すことはできない。だが、世界を上書きすることはできる。私の力を使えば、あの猫を蘇らせることなど造作もない。この街の愚かな人間どもを消し去り、お前だけの静寂な楽園を作ることもできる……』


「あの子を……蘇らせる……?」


 イヴリンの瞳から復讐の炎が揺らいだ。彼女が求めていたのは破壊ではない。ただ、あの日々に戻りたいという、切実な願いだけだった。指輪はその渇望を的確に突き刺してきた。


 イヴリンの手が、無意識にドミニクの方へと伸びかける。


 その時。


 ――カタリ。


 オフィスの重厚な扉が開いた。


 現れたのは、仕立ての良いスーツとコートに身を包んだカレルだった。彼は部屋の状況を一瞥(いちべつ)し、銃を構えたまま静止した。


 その銃口は、イヴリンの眉間に正確に向けられていた。



 視線が交差する。


 カレルの瞳には敵意も殺意もなかった。あるのは、解剖学者がモルモットを見るような、底冷えするほどの観察の視線だけだった。


 イヴリンの背筋を、本能的な恐怖が駆け上がる。言葉を一言も交わさずとも、彼が持ち込んだ圧倒的な死の気配が部屋の空気を凍りつかせた。


 その一瞬の空白が、イヴリンを幻惑から引き戻した。彼女は、カレルの冷たい視線とドミニクの醜悪な欲望を見比べ、そして自分の左手の小指の付け根に刻まれた痛みを思い出した。イヴリンと黒猫の絆が繋がっていた証。


「……いいえ。私は、まやかしの楽園なんていらない」


 イヴリンは震える手でローブを掴んだ。指輪が見せる幻影の猫には、彼女が与えた名前も、共に過ごした時間の重みもなかった。それは彼女の記憶を食い物にするだけの、無意味な鏡像だ。


「あの子の死を、安っぽい奇跡で汚さないで!」


 イヴリンの拒絶が決定的な引き金となった。


 彼女は残った全ての生命力と魔力をローブの刺繍に注ぎ込んだ。血のインクが沸騰し、彼女の皮膚を焼き焦がす。


『殺せ。この女は危険だ』


 指輪の精霊の命令が響く。ドミニクはカレルに狂乱の声を上げた。


「カレル! 今すぐこの女を始末しろ!」


 しかし、カレルは手にピストルを持ったまま動かなかった。彼の視線はドミニクではなくイヴリンに釘付けになっていた。彼女こそが、サイラスの物語のページをめくる鍵。ここで彼女を殺せば、物語は永遠に失われる。


 カレルは銃口をわずかに下げた。


「消えなさい、亡霊!!」


 それはもはや洗練された魔術ではなく、ただの破壊を司る猛獣だった。衝撃波はドミニクを正面から捕らえ、背後の強化ガラスを、荒れ狂う焔の化身が透明な豪腕で壁を叩き割ったかのように、粉々に砕いた。


 ドミニクの体は意思を持たない紙切れのように、夜明け前の空へと放り出された。


「嘘だ……! 私の、私の幸運が、こんなところで……」


 落下する風の中、ドミニクは(すが)るような思いで自身の左手を握りしめた。彼は魔術の行使も精霊の名も知らない。ただ十年間、自分に幸運をもたらし続けた銀の環に、祈るような盲信と共に己の全存在を託した。


 だが、指輪は沈黙していた。すでに搾り取れる理性の欠片すら残っていないドミニクは、指輪にとって、もはや使い古された無価値な殻に過ぎなかった。


 そして、信じがたいことが起きた。


 彼の肉に深く食い込み、逃げられぬ呪いのように皮膚を歪ませていた銀の環が、不意にその締め付けを解いたのだ。鬱血(うっけつ)していた指から、自ら意志を持って離脱するかのように滑り落ちた。


 それは、運命を共にするのを拒み、沈みゆく船から逃げ出す獣のような、あまりに鮮やかな()()()だった。


「な、あ、ああああ……っ!」


 ドミニクは絶叫した。自分の才能だと信じていた幸運の残滓が、指先からこぼれ、夜の闇へと先に吸い込まれていくのを、絶望の目で見送ることしかできなかった。


 水柱が上がり、リバーフォールの黒い川面が貪欲な口を開けて彼を飲み込んだ。重い銀の指輪は、かつて持ち主だった男の骸など目もくれず、深い川底の堆積した泥の中へと沈んでいった。いつかまた、その歪んだ意志を呼び覚ます、新たな担い手が現れるその日まで。


 ――――


 炎の衝撃波によって粉砕された窓の開口部から、室内に充満していた灼熱の熱気が一気に夜明け前の外気へと放出されていく。その際に立ち込めた微かな湯気が、薄くガラスの破片を覆った。


 オフィスには、割れた窓から吹き込む風の音と、遥か階下のグリフィン・プラザ広場から響いてくる消防車や救急車両のけたたましいサイレンだけが残された。


 彼女が着ていた黒いローブは、魔力の暴走によって灰となり、さらさらと床に崩れ落ちた。レザーコートには刺繍の跡が焼け焦げとして刻まれているが、もうそこには何の力も宿っていない。炎の精霊との契約は、媒介の消失と共に強制的に切断された。


 彼女はただの傷ついた一人の女性に戻っていた。


 外からの音が復讐の熱狂を打ち破り、イヴリンの意識を現実へと引き戻した。彼女はその場に崩れ落ちた。


「……はぁ、はぁ……」


 イヴリンは荒い息を吐きながら、床に手をついた。復讐は終わった。だが、心に残ったのは達成感ではなく、焼け野原のような虚無感だけだった。


 カツ、カツ、カツ。


 革靴の音が近づいてくる。


 イヴリンが顔を上げると、カレルが彼女を見下ろしていた。彼はドミニクが落ちた割れた窓には目もくれず、無感情な瞳で彼女だけを捉えていた。


「ドミニクは落ちた……それで、貴様は満足か?」


 カレルの声は平坦だった。上司の死も、目の前の超常現象も、彼にとっては些末(さまつ)な事象に過ぎないようだった。


 イヴリンは困惑した。この男はドミニクの部下のはずだ。なぜ、自分を撃たないのか。


「……ええ。全部、終わったわ」


「違う。まだ終わっていない」


 カレルは一歩踏み出し、彼女に銃口を向けた。殺意というよりは、情報を強要するための道具として。


「話せ。お前は何を知っている?」


「……何の話?」


「サイラスだ。お前はあの工房で、彼と会っているはずだ」


 カレルの瞳の奥に狂気じみた渇望が渦巻いているのを、イヴリンは見た。それはドミニクの欲深さとは違う、もっと虚ろで、寄る辺ない迷子の目だった。


「サイラス……? 知らないわ、そんな名前……」


 イヴリンは首を振った。復讐の激しい余韻で頭が痺れ、男の言っている意味が理解できない。


「嘘だ。お前はあの場所の主だ。彼がたどり着いた場所の」


 カレルの指が引き金にかかる。彼のプログラムは、障害の排除と情報の取得を天秤にかけ、短絡的な結論へと傾き始めていた。


「答えろ。答えないなら、お前は不要なノイズだ」


 イヴリンは向けられた銃口を見つめた。魔法はもう使えない。体も動かない。これが、復讐の果てに待っていた結末なのか。


 彼女が目を閉じた、その時だった。


「そこまでだ、カレル」


 聞き慣れた、しかし切迫した声が響いた。


 カレルとイヴリンが同時に視線を向けると、息を切らせたサムが入り口に立っていた。彼の手には銃ではなく、古びた青銅製の砂時計が握られていた。


「サム……」


 カレルは銃口をイヴリンに向けたまま、わずかに眉をひそめた。長年ともに働いた相棒の行動を、この場所でも完全に予測し損ねた。


 サムは【魂の砂時計】を高く掲げ、カレルに見せつけるようにして、勢いよくひっくり返した。


「貸し借りは、これでチャラだ」


 サラサラという音が、不思議なほど大きくオフィスに響き渡る。


 砂時計の中を、どす黒い紫色の砂が落ちていく。だが、サムの目には、それが砂ではなく、光り輝きながら零れ落ちる記憶の断片に見えた。


 ――半年前の港の倉庫。敵に囲まれた絶体絶命の夜。笑ったカレルの顔。背中を預け合って駆け抜けた、数え切れないほどの修羅場と、確かな信頼。車内で交わした、あらすじさえ忘れたドラマの議論。


 それら全ての絆が、砂となってサムの魂から剥ぎ取られ、砂時計の底へと吸い込まれていく。胸の奥が(えぐ)られるような喪失感。しかし、それさえも砂が落ちる音と共に遠ざかり、やがて何も感じなくなった。


 同時に、カレルの様子が激変した。


「ぐっ……ああっ!?」


 カレルは頭を抱えてよろめいた。魔導書によって植え付けられた、サイラスの空っぽの絶望が、サムから送られてきた温かい感情の奔流によって一時的に押し流される。彼の瞳から、虚無に支配された機械の光が消え、人間らしい苦悶と、そして理性の光が戻ってきた。


 数秒後、砂が落ちきった時、サムの中から何かが断絶した。友情の記憶は、行間を埋める情緒をすべて失い、単なる既成事実を記した無味乾燥な報告書へと書き換えられた。


 カレルは荒い息をつきながら、汗に濡れた顔を上げ、サムを見た。その目には、かつての相棒への親愛と状況を理解した困惑があった。


「……サム? 一体……」


 対するサムは氷のように冷めた瞳でカレルを見返していた。彼の中には、もうカレルを相棒と呼ぶ情熱も、彼を救いたいという焦燥も残っていない。ただ、「砂時計を使い、この男を救うことを選択した」という単純な事実だけが、二人の間に剥き出しのまま横たわっていた。


「ドミニクは死んだ。組織の秘密も全てばら撒いた」


 サムの声は事務的で、平坦だった。


「この組織はもう終わりだ。これ以上、俺たちを狙う合理的な理由はない。カレル、お前もプロなら、無駄な殺し合いはやめて引け」


 カレルは、サムの変貌を鋭敏に感じ取った。自分に向けられていたはずの熱が、完全に消失している。


 カレルは苦笑いした。かつての皮肉屋の顔で。


「なるほど。俺を正気に戻すために、お前は俺への『関心』を代償にしたわけか……随分と高い席料を払ったな」


 カレルは銃を下ろさなかった。人間性は戻った。だが、彼は骨の髄まで組織の人間であり、一度始まった物語を途中で降りられない性分だった。


「だが、残念だ、サム。俺たちの脚本は、ここでハッピーエンドとはいかないらしい」


 カレルは内ポケットから一枚の写真を取り出し、床に滑らせた。それは、イヴリンと黒猫が写った写真だった。


「俺は知りたいんだよ、サム。なぜお前が、その女を守っているのかを」


 カレルはイヴリンに視線を移し、冷酷な事実を告げた。


「なあ、魔女さんよ。あんたが必死に探していた(かたき)は、ドミニクだけじゃない」


 イヴリンが怪訝(けげん)な顔をする。


「その黒猫をさらって、ドミニクに差し出した実行犯は……俺と、そこにいるサムだ」


 イヴリンの時が止まった。彼女はゆっくりと、信じられないものを見る目でサムを振り返った。サムは否定しなかった。ただ、無表情に立ち尽くしている。


「……あなた、が?」


 イヴリンの声が震えた。彼女が救った命が、全ての悲劇の始まりだったという事実。彼女の心が動揺し、視線がサムに釘付けになる。


 サムの注意が()れ、彼の視線が一瞬だけイヴリンの動揺した瞳にわずかにちらついた。


「よそ見をするなよ」


 カレルは、プロの冷徹さでその隙を見逃さなかった。彼は銃口をサムに向け、躊躇なく引き金を絞った。


 パパンッ!


 乾いた銃声が、二つ響いた。


 崩れ落ちたのは、カレルだった。


 彼は胸部を押さえ、デスクにもたれかかるようにして座り込んだ。彼の銃弾はサムの足元を(かす)めていたが、サムの早撃ちは正確にカレルのボディを捉えていた。


 ハンドガンの銃口からは細い煙が立ち昇っていた。サムの手には迷いも震えもなかった。友情を捨てた彼にとって、カレルを撃つことは障害物を排除する作業と同義だった。


「……ははっ。腕は、鈍ってないな……サム」


 カレルは口から血を(こぼ)しながら、力なく笑った。その瞳には、かつての相棒に見事に出し抜かれたことへの、どこか満足げな色が浮かんでいた。そして、そのまま床に崩れ伏し、動かなくなった。


 オフィスに、重苦しい沈黙が降りた。


 イヴリンは、倒れたカレルと銃を下ろしたサムを交互に見た。


 怒り、悲しみ、裏切り。


 様々な感情が胸の中で渦巻いたが、彼女はそれを飲み込んだ。


「……彼が言ったことは、本当なの?」


「ああ、事実だ」


 サムは振り返りもせず、淡々と答えた。


「あの夜、猫をさらったのは俺たちだ。あんたに黙っていたことも、謝罪するつもりはない。それが俺の仕事だった」


 サムの言葉は冷たかったが、イヴリンは気づいていた。彼が今、手に握りしめている青銅の砂時計。それが何を意味するのかを。


 彼は、イヴリンへの命の借りを返すために、かつての相棒を救い、そしてその相棒との絆を自ら切り捨てて、彼女を守るために撃ったのだ。


 イヴリンは責める言葉を失った。サムもまた、運命という名の魔導書に、無理やり登場人物として書き込まれた一人に過ぎない。彼の行動原理を支配していたのは、彼自身ではない別の力だ。


「……行きましょう。ここに長居は無用よ」


 イヴリンは静かに言った。彼女の声には、許しとも諦めともつかない、深い疲労が滲んでいた。


 サムは頷き、手の中の砂時計を見つめた。


「こいつは、どうすればいい?」


「手放すのが一番よ。それは魔法使い以外が持っていても、不幸を呼ぶだけの呪いの品だわ」


「そうだな……グリムリー・アンド・サンズの店。あそこなら引き取ってくれるだろう」


 サムは少し間を置いてから、顔を上げた。


「……魔法の世界にクーリング・オフはきくのか?」


 イヴリンはわずかに唇の端を上げた。


「あの店なら気の利いたジョークを返してくれるでしょう。多分」


 二人は倒れたカレルを残し、朝日が差し込み始めたオフィスを後にした。


 サムは一度も振り返らなかった。彼の中の()()()()()()()()()は、もう砂時計の底で眠っていたからだ。

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