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第一部:くだらない脚本と歪んだ予兆

「なぁ、サム。『ファーゴ』ってドラマ観たか? シーズン2。あれ、俺は好きだよ。なんだか、俺たちの仕事を見ているみたいでさ」


 黒く塗りつぶされた高級セダンの車内、相棒であるサムがハンドルを握りながら、静かに夜の街を走らせていた。助手席に座るカレルは、仕立ての良いスーツの肘を窓枠にかけ、流れる夜景を眺めていた。彼の饒舌(じょうぜつ)な言葉だけが、彼らの退屈な日常にドラマチックな意味を持たせるかのように、車内の沈黙を切り裂く。


「あのさ、あの小さな町の理容師の女が、車でひき逃げしちまうんだ。それがこの世の終わりみてぇな大惨事に繋がっていく。なんでだと思う?」


 サムは、無表情にフロントガラスを見つめる。その瞳の奥には、カレルの言葉に対する興味など微塵(みじん)もない。だが、この饒舌な相棒が沈黙した時こそ、本当の危機が訪れることをサムは本能で知っていた。だから彼は、この退屈な()()に付き合う忍耐強さを保ち続けていた。


「……知るか。くだらねぇ」


「いや、くだらなくない。あのなぁ、サム。あれってただのひき逃げじゃねぇんだぜ? あの女、車のフロントガラスを割ってパニックになってから、後戻りできなくなっちまった。ただそれだけだ。で、そこからカンザスシティ・マフィアってのが出てきて、俺たちと同じプロ、マイク・ミリガンを巻き込んでいく。奴は完璧なプロだった。だが、最後はどうなった?」


 カレルの言葉に、サムはハンドルを握る手に僅かに力を込めた。エンジンの音がカレルの講釈にリズムを刻む。


「……それで?」


「どうなったと思う? 昇進したと思ったら、窮屈な一室のオフィスで、誰でもできるようなデスクワークをさせられるんだ。まるで、脚本家が『お前はもう用済みだ』って宣告したみたいにな。あれは笑えるような話じゃない。悲劇だよ」


 そのカレルの饒舌な言葉は、どこか深い諦めを帯びていた。


「お前がその役を演じたいなら別だがな」


 サムは、皮肉を込めて一言そう言うと、右折のためにハンドルを切った。


「冗談を言うな。俺は、そういうくだらねぇ役はごめんだ。だいたい、脇役の末路なんて、誰も見ちゃいねぇ。なぁ、サム。俺たちの人生の脚本もさ、どこかでひどく間抜けな、作者の意図しないひき逃げから始まってたらどうするよ。そして、俺たちは、それがいつだったのかも知らずに、ただ、その結末に向かって走り続けてるだけなのかもしれねぇな」


 カレルの言葉が終わると、車内には彼が投げかけた哲学的な皮肉の余韻だけが、重く漂っていた。


 黒塗りのセダンは、大通りを滑るように突き進んだ。巨大なデジタル広告板から放たれるネオンの光が、アスファルトを白昼のように照らし出していた。


「この仕事、本当に意味があるのか?」


 サムの唐突な問いかけに、カレルは窓の外を見ていた顔をサムの方へと向けた。


「ん? 何がだ、サム。猫の誘拐か? ドン引きするほどくだらねぇよな。せいぜい、ただの()()だ。こんな低レベルな仕事に俺たちが動く必要がどこにある。だが、ボスがライバル組織の偵察だと言えば、それが俺たちの仕事になる。俺たちは理由を問うプロじゃねぇだろ?」


「いや、そうじゃない。リスクと報酬のバランスがおかしい。組織の人間を消すわけでも、金を運ぶわけでもない。ただの動物だ。こんなことで敵との間に余計な火種を作ってどうするつもりだ」


 カレルは静かに笑った。その笑いには、哲学的探究心と、現実への嫌味が混ざっていた。


「それこそが、脚本家の意図だよ、サム。理容師の女が起こした事故一つで、カンザスシティのプロが動かされる。重要性の低い、くだらない仕事こそが、常に大きな破滅のトリガーになる。俺たちはただ、その役を演じきればいい。マイク・ミリガンのように、脚本家の都合でデスクに座らされるまではな」


 サムは、それ以上の言葉を継ごうとはしなかった。


「……次の角だ。口を閉じろ」


 サムの言葉に、カレルは口元に不自然な笑みを浮かべ、夜の街を見つめ続けた。


 車は右折し、川沿いの輝かしい再開発エリアから一歩裏へと入っていく。急に道幅が狭まり、車は迷路に迷い込んだかのように、複雑に入り組んだ石畳の路地を進み始めた。サスペンションが不快な振動を拾い始める。


 夜空に、高く、そして重々しくそびえる尖塔(スパイア)のシルエットが浮かび上がってきた。それは、この街の空に突き刺さるように建ち、古い城壁の連想を呼び起こす。この塔と壁は、かつて愚かな大魔術師が、自らの権力を永遠にするために築き上げたものだ。彼は壁の内側で魔法の力を独占しようとした。結局、壁は彼の傲慢(ごうまん)さを閉じ込めるだけの、壮大な墓標と化した。


 スパイア地区は、街の他の部分とは一線を画していた。光に満ちた商業地区や、活気ある歓楽街とは異なり、そこは秘密と歴史が幾重にも折り重なった場所だった。そして、その尖塔が、周囲の空気の密度を歪ませ、鉛のように重い沈黙の中で月の光を反射していた。


 車が停車すると、カレルはすぐにドアを開け、冷たい夜の空気を吸い込んだ。路地裏に立ち並ぶ、ひっそりと営業する土産物屋や怪しげなバーの看板が、ぼんやりと光を放っている。


「……ここが猫の巡回ルート、なんだとよ」


 カレルは、サムを振り返る。サムは口を開くことなく、アパートの裏路地へと続く、暗い階段を見つめていた。


「この裏路地から、川沿いの再開発エリアまでを毎日うろついてるんだと。ボスは『ライバル組織の使い魔が、俺たちの取引ルートを偵察している』って断言してたが、本当に笑っちまうよな」


 カレルは、不自然なほど楽しそうに言葉を続けた。


「魔女だか魔法使いだか知らねぇが、使い魔がただの猫だぜ? しかも、毎日同じルートを通るなんて、犬の散歩じゃねぇか。そんな、頭の悪い使い魔を送り込む組織が、俺たちの敵になるなんて、笑える冗談だ。なあ、サム。やっぱり俺たちの人生の脚本は、くだらねぇひき逃げから始まってたんだよ。そうでなきゃ、こんな不毛な仕事、誰も引き受けねぇ」


 サムは無言でカレルの横を通り過ぎ、アパートの裏路地へと続く階段を降り始めた。彼の無駄のない動きは、彼がこの仕事にどれだけ集中しているかを示していた。カレルもそれに続き、二人は暗闇に溶け込んだ。


 数分後、カレルは、アパートの裏手に回り込んだ。そこに、一匹の黒猫がいた。


 猫は、彼らの侵入に驚く様子もなく、ただ冷静に二人を見つめている。その猫は、影が形を得たかのように、黒く、そして不気味なほど静かだった。月明かりの下、猫の影が本体の動作とは無関係に、一瞬、壁をよじ登るように伸びた気がしたが、カレルはそれを単なる疲れ目のせいだと片付けた。


「おとなしくしろよ。ただの仕事だ」


 カレルがそう言うと、猫は彼の言葉を理解しているかのように、ゆっくりと立ち上がり、カレルをじっと見つめ返した。その金色の瞳には、彼らが演じる馬鹿げた芝居に対し、わずかばかりの侮蔑(ぶべつ)を浮かべている。


「おい、こいつ、何か言いたげな顔してやがるぜ」


 カレルがそう言って笑うと、猫はカレルから視線を外し、無言で立つサムの足元へと移した。その瞳は、彼らが履くピカピカに磨かれた靴を値踏みしているかのようだった。


 この黒猫は、人間たちが信じる()()()()()というものが、いかに薄っぺらいかを知っていた。この街の石畳が、何世紀にもわたって人間たちの秘密、約束、そして血を吸い上げてきたことを。そして、彼ら二人が履く最新の靴が数年後には塵と化し、その浅はかな行動が、歴史の嘲笑の対象となることも。


 サムは一言も発さず、手際よく猫を捕らえ、用意していた袋の中に放り込んだ。


 猫は抵抗することもなく、ただじっと、彼らの行動を受け入れていた。だが、その身体に触れた瞬間、サムの指先に静電気のような不快な感触が走った。猫の毛がわずかに逆立ち、雷に打たれた後のように、不自然に波打っていた。袋の中に消える直前、力なく垂れたしっぽの先が、嫌悪感からか、かすかに震えていた。まるで、彼らが触れること自体が冒涜であるかのように。


 この仕事は彼らが思うよりも、もっと深い意味を持っていた。それは、カレルが口にした、()()()()()()()()()()()()()()へと繋がっていく、たった一場面に過ぎない。そして、最も哀れで恐ろしいのは、彼らがそのことに全く気づいていないことだ。


 彼らは、自らの手で運命の糸を選び取っていると信じながら、夜の闇から、まばゆい光の塔へと向かっていく。


 ――――


 カレルとサムは、小さな布袋に包まれた黒い塊を手に、巨大なタワーの最上階へと足を踏み入れた。そこには宮殿のような、豪華絢爛なオフィスが広がっていた。窓の外には、この街の夜景が宝石のように輝いている。部屋の中央にある巨大なデスクの後ろには、組織のボス、ドミニクが座っていた。


 彼の指には、十年前、偶然手に入れたという、何の装飾もない平凡な銀の指輪がはめられていた。それは彼の指に食い込み、周りの皮膚を不自然に歪ませ、どす黒く鬱血(うっけつ)させていた。指輪は微かに光を放ち、彼の精神を食い荒らすかのように不規則に揺らめく。


 それは単なる装飾品ではなかった。古代より伝わる、原始的な【依代よりしろ】の儀式が施された品。魔法界の誰もが、その存在はただの寓話だと信じている。


 指輪は、使い手の判断力を代償に、持ち主に歪んだ幸運をもたらす。しかし、その力はドミニクの精神を深く浸食し、彼から発せられる思考は、もはや彼自身の明確な意志ではない。その歪んだ意志は今、この都市の中で、新たな宿主となるべき、魔法の力を持つ者を静かに探し求めている。


「報告を」


 ドミニクの声はいつもより震えていた。その瞳の奥には、狂気に満ちた光が宿っていた。

 カレルはデスクの前に進み出ると、布袋を静かに床に置いた。


「目標を確保いたしました」


 ドミニクは、その言葉を聞くと笑みを浮かべたが、それは勝利を喜ぶ笑みではなかった。狂気と、そしてどこか満たされない飢えを感じさせる笑みだった。


 この男は、すでに人間ではない。ただ、食い尽くされるのを待つだけの哀れな器にすぎない。


「これで、我々の勝利は揺るがない」


 ドミニクはそう言うと、デスクの横に立っていた部下に、静かに頷いた。部下は無表情に一歩前に出ると、カレルが床に置いた布袋を手に取った。カレルとサムは、その光景をただじっと見つめていた。彼らの表情は、一瞬だけ戸惑いの色を浮かべたが、すぐに無表情に戻った。


 部下は布袋の口を開け、中の猫を掴んだ。猫は抵抗することなく、ただ静かに、その運命を受け入れている。その顔には、何十年もの歳月を生きてきたかのような、全てを知り尽くした、深い沈黙が刻まれていた。


 部下は、躊躇(ちゅうちょ)することなく、その命を絶った。


 乾いた音が、静かなオフィスに響き渡った。微かな、焦げ付くような硫黄の匂いが、誰も気づかぬうちに、偽りの権力の座にいる男たちの鼻孔をかすめた。それは血の匂いよりも強烈に、何かが()()()ことを告げていた。


 カレルは、その光景をただ見つめていた。彼は、今、この瞬間に何が起こったのか、頭の中で整理しようとしている。しかし、それは無意味なことだった。これは、ただの仕事だ。彼は、そう自分に言い聞かせた。


 彼らが破壊したのは、猫という一つの生命ではない。彼らは、精霊が宿るべき場所を破壊した。目に見えるものしか信じない人間は、その無知がどれほど大きな代償を払うことになるのかを知る由もない。


 全員が退出する中、ドミニクは、カレルだけを呼び止めた。


「これで奴らを(あざむ)くことができる。奴らは、我々の動きに気づくことなどできまい。この猫は、奴らの予知能力の鍵だった」


 彼は、狂気に満ちた笑みを浮かべ、カレルに次の任務を命じた。


「次はお前だ。サイラスを始末しろ」


 カレルは、一瞬、無言になった。その名前は、組織の古参である彼にとって、触れてはならない()()()()()と同義だった。


「ボス、そいつは……」


「奴は厄介な存在だ。だが、奴を殺すには、奴より先の未来を見なければならない」


 ドミニクはそう言うと、デスクの引き出しから、一枚の古い紙切れを取り出した。


「お前を助けてくれる特別な本がある。ある骨董品屋にあって、お前を助けてくれるだろう。奴を始末するには、その本がどうしても必要なのだ」


 カレルは、ドミニクの言葉に不気味さを感じつつも、それについては何も言わなかった。彼はこの任務が、彼がこれまで遂行してきたどの任務とも違うことを直感していた。ドミニクの目は、現実を見ていない。見てはいけない何かを見ている目だ。


「そいつはご冗談を、ボス。俺は占い師でも予言者でもありませんぜ」


 カレルは口元に不自然な笑みを浮かべ、肩をすくめた。


「人生ってやつは、チェスみたいなもんですからね。ですがこのゲームには、決して見えない駒がいる。俺が今までやってきたのは、そいつらの目を欺くことばかりだった。今更、俺がそいつらを出し抜けるわけがないでしょう」


 カレルはそう言うと、紙切れを受け取った。紙切れには、一つの店の名前と、住所が記されていた。


『グリムリー・アンド・サンズ古美術店』


 カレルは、その店の名前を頭の中で反芻(はんすう)した。彼はこの一連の流れが、彼の人生の脚本に新たな悲劇の一幕を付け加えることになることを、まだ知らなかった。自らの手で運命の糸を選び取っていると信じながら、彼はただ次の目的地へと向かうため、エレベーターへと足を踏み入れた。

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