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第九部:灼熱の魔女と虚飾の王 - 2

 同時刻、グリフィン・プラザ・タワーから数ブロック離れた路上。


 カレルは黒塗りのセダンの後部座席で、愛用のピストルと細身のナイフを念入りに点検していた。街灯の光が断続的に車内を走り、彼の手元の冷たい金属を一瞬だけ照らし出しては消えていく。


 彼がこの数時間、ドミニクの組織の連絡拠点を次々と回り、サムを捕縛しようと努めていたのは、組織に対する忠誠心からではない。サムと行動を共にしていた、あの写真の女――イヴリンの行先を知らねばならなかったからだ。彼女こそが、カレルの意識を支配する「サイラスの物語」の次章を開くための、唯一の鍵なのだ。


 しかし、カレルの行動は一歩も二歩も遅れていた。


 カレルは元相棒が、組織からの逃亡を選ぶか、あるいは反逆を選ぶのか、その行動原理を見失っていた。かつては阿吽(あうん)の呼吸で理解できたサムの思考が、今のカレルにはノイズ混じりのデータのように不鮮明だった。


 カレルが組織のネットワークを通じて得ることができたのは、サムがサヴェージに捕まった後、拠点の謎めいた爆発と共に逃げ出したということだけだった。その後、なぜ彼が魔女の工房でイヴリンと共にいたのか、その接点は依然として不明のままだった。


 信号待ちをしているときだった。


 ブブブブ……。


 運転手の端末とカレルの懐にある携帯端末が、同時にけたたましい緊急警報で振動した。


『緊急連絡。タワー地下駐車場にて爆発発生。大規模火災。侵入者あり』


 カレルは表情一つ変えず、静かにピストルをホルスターに収め、ナイフをコートの内側に隠した。


 地下駐車場での派手な爆発。それは、静かな仕事を好むサムの流儀ではない。それでいて、銃と数を頼みにするサヴェージの流儀ともまた違った。その爆発的な破壊の手法は、明らかにサムと行動を共にしている()()()()()()――イヴリンの存在を予想させた。


 カレルの脳内で、散らばっていた情報が一本の線で繋がった。


 サヴェージのワイン物流拠点が炎上した件。そして今、ドミニクの城であるタワーが燃えている件。この二つの事象の共通項は()()()()()()だ。


 サムはサヴェージの拠点に囚われていた。そこをイヴリンが襲撃し、その混乱に乗じて二人は手を組んだ。多少強引な推論だが、それ以外に、あのオカルティストと殺し屋という奇妙なコンビが成立する理由が見当たらない。


「イヴリンがタワーに侵入した……」


 カレルにとって、組織への防衛義務など、もはやどうでもよかった。最優先事項は混乱に乗じてイヴリンを確保し、彼女の口からサイラスの情報を引き出すことだ。


 カレルは内ポケットから、工房で回収した写真を再び取り出した。笑顔で黒猫を抱くイヴリンの姿。


 ドミニクの指示で、その猫を「偵察兵」として捕らえた夜のことを思い出した。あの時は、ただの退屈で意味のない()()だと思っていた仕事だ。だが、その些細な誘因が、サヴェージとの抗争を激化させ、魔女を戦場に引きずり出し、ついには鉄壁のタワーを炎上させるに至った。


 カレルの唇が、かつての皮肉な笑みの形に歪んだ。


「やはり、くだらない仕事こそがトリガーだった」


 あの夜、彼がサムに語った『ファーゴ』の話のとおりだ。理容師の女が起こした小さな事故がマフィアを巻き込む大惨事になったように、たった一匹の猫が、この街の破滅の引き金を引いたのだ。そして自分たちは、その脚本通りに踊らされているに過ぎない。


「タワーへ向かえ。急げ」


 カレルは運転手に短く指示を出した。黒塗りのセダンはタイヤを軋ませ、炎とサイレンが支配し始めた夜の街を裂くように走り出した。


 ――――


 イヴリンが地下駐車場で灼熱の嵐を巻き起こしていた頃、サムはタワーの中層階にあるセキュリティルームを目指して非常階段を駆け上がっていた。


 呼吸は荒く、心臓は早鐘を打っているが、サムの足取りは一定のリズムを崩さない。踊り場を回るたびに、銃口を死角へと走らせる。


 タン!


 上階から顔を出した警備員の肩を撃ち、サムはそのまま駆け抜ける。倒れた男がそれでも銃を向けようとすれば、すかさず頭を撃ち抜き、さらに上の階へ。彼の意識は、生存本能と任務遂行のために極限まで研ぎ澄まされていた。


「侵入者だ! 階段を登ってくるぞ!」


 無線で連携を取った増援部隊が、上階の扉を蹴り開けてなだれ込んでくる。


 サムは階段と手すりを上手く遮蔽物に使い、冷静に引き金を引いた。敵は足を撃たれて怯んだところを、次弾で確実に頭を抜かれた。狭い階段の空間に銃声が反響し、耳をつんざく。


 アサルトライフルを構えながら、廊下への扉を出た瞬間、フロアを守る三名の重武装した警備員と視線が交錯した。


「敵だ!」


 警備員が叫ぶよりも早く、サムの意識は照準と一体化する。


 タタン、タタン!


 乾いた銃声が四度響き、二名の警備員が胸部と頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちる。


 サムは足を止めず、最後の一名との距離を一気に詰めた。


 カチッ。


 ここで、手入れをしたとはいえ酷使されていたアサルトライフルが乾いた金属音を立てて弾切れを起こした。サムは迷うことなくその銃身を握り込んだ。イヴリンが野蛮な()()()と呼んだその重量物を、警備員の顔面に全力で投げつける。


 ゴッ!


「ぐっ!」


 鉄の塊を鼻面に受け警備員がのけぞる。その一瞬の隙に、サムは流れるような動作で懐に飛び込み、警備員の腕を極めながら腰のホルスターからハンドガンを奪った。


 タタン。


 至近距離から正確に心臓を二発撃ち抜く。警備員は声もなく崩れ落ちた。


 サムは荒い息を吐きながら、倒れた警備員の胸ポケットからIDカードを剥ぎ取り、セキュリティルームの電子ロックにかざした。


 ピッ、という電子音と共に、重い扉がスライドして開く。


 制御室の中には数名のオペレーターがいたが、返り血を浴び、銃を構えた男が侵入してきたのを見ると、悲鳴を上げて床に伏せた。


「動くな……いや、お前だけは立て」


 サムはメインコンソールに一番近い席にいた男の首根っこを掴み、無理やり椅子に座り直させた。他のオペレーターがシャツ姿であるのに対し、この男だけはネクタイを締め、上質なジャケットを羽織っている。この場の指揮官であることは明白だった。


「仕事を頼みたい」


 サムはハンドガンの銃口を男の後頭部に押し当て、冷たく囁いた。


「ドミニクの『裏帳簿』を開け」


 男は頭に死の感触を突き立てられ、石のように硬直した。キーボードの上に置かれた両手は、叩くことも逃げることもできずに、行き場を失って空中で小刻みに震えている。


「奴は疑い深く、几帳面な男だ。政治家への賄賂、違法な土地取引、マネーロンダリング……全ての汚れ仕事を記録に残して、万が一の保険にしているはずだ。お前なら、その格納場所を知っているな?」


「そ、それは……最高機密のサーバーです。アクセス権限があっても、そんなことをしたらボスに殺されます……!」


 オペレーターが泣きそうな声で拒絶しようとする。サムは表情一つ変えず、銃口を男の頭蓋にぐりと押し付け、トリガーにかけた人差し指にわずかに力を込めた。


「やらないなら、『後』はない。今すぐだ。選べ」


 究極の二択を突きつけられ、オペレーターは悲鳴のような声を漏らしながら、震える手でキーボードを叩き始めた。サムの監視の下、オペレーターは正規のアクセス権限を用いて、ドミニクがタワーの深層サーバーに隠していた暗部を暴き出した。モニターに膨大なブラックリストと契約書のデータが表示される。これこそが、この都市の闇の血脈そのものだ。


「いいぞ。その全データを市内の主要メディア、警察、司法省……送れる場所すべてにばら撒け」


「そ、送信……します」


 オペレーターが震える指でエンターキーを恐る恐る押し込むと同時に、ドミニクが何十年もかけて築き上げた世界が光の速さで電子の海へと霧散していった。


『アップロード開始……』


 サムは画面上のプログレスバーが伸びていくのを見届け、銃を下ろした。これでドミニクは、明日にもこの街で最も力を持つ男から、最も忌むべき犯罪者へと失墜する。


 次に、サムはセキュリティシステムに侵入し、タワー内のカメラ映像を呼び出した。


 地下駐車場のカメラは爆発と黒煙で視界不良だったが、熱源(サーマル)センサーのログと辛うじて生きているカメラを頼りに状況を把握した。そこには、信じがたい高熱の嵐が吹き荒れた痕跡と炭化した警備員たちの山があった。


「派手にやったな……」


 サムは頬をひきつらせつつ、エレベーターの制御パネルを操作した。彼はセキュリティロックを強制解除し、エグゼクティブ専用のエレベーターを、イヴリンがいる地下へと呼び寄せた。


 モニターの一つに黒煙の中から現れたイヴリンの姿が映し出された。彼女は血を流し、足を引きずりながらも、開いたエレベーターの扉へと向かっていく。その瞳には揺るぎない復讐の炎が宿っていた。


「行け、イヴリン。あんたの道は開いた」


 サムは安堵の息を吐いた。これで彼女への借りの一部は返したことになる。彼女はドミニクの元へたどり着くだろう。


 だがその直後、生き残っていた地下駐車場の入り口の監視カメラに映った映像が、サムの心臓を凍りつかせた。


 燃え盛る瓦礫と煙を裂くように、一台の黒塗りのセダンが滑り込んできたのだ。車から降り立ったのは、見間違えるはずもない、カレルだった。


 サムの喉の奥が乾いた。あの夜、傷ついた自分を見捨てて去った時のあの得体の知れない不気味さが、粗い走査線の向こう側で、何一つ変わることなくそこに在った。


 カレルは周囲の惨状に眉一つ動かさず、ピストルを片手に、何かを探すように視線を巡らせている。もう一方の手は、まるで大切な心臓でも押さえるかのように、上着の内ポケットに深く差し込まれたまま片時も離れようとしない。


 サムの動きが止まった。画面の中で、カレルがふと足を止め、コンクリートの床に視線を落とした。そこには、エレベーターへと続く、点々とした黒い染み――イヴリンが残した鮮血の跡があった。


 血溜まりのすぐ横には、焼死した警備員の死体が転がっていた。かつてのカレルであれば、プロの習性として死体の傷跡や倒れ方から侵入者の技量を分析したはずだ。だが、彼は死体には一切関心を示さず、ただ血痕だけを凝視していた。


 カレルはその場にゆっくりと(ひざまず)くと、手袋を外した素手で床の血痕を指先で拭い取った。その血は、消火剤の混ざった泥水の中でも、宝石のように鮮烈な赤を失っていなかった。彼は指先を鼻に近づけ、陶酔するようにその芳香を吸い込んだ。


 モニター越しのサムにはその匂いも、カレルの脳裏をよぎる思考も分からない。だが、カレルの顔に浮かんだ病的なまでの歓喜の表情は見えた。彼は立ち上がり、血に濡れた指先で、迷いなくエレベーターのボタンを押した。サムは確信する。彼が追っているのは組織の裏切り者ではない。()()だ。


 サムの胸中で、二つの巨大な「借り」が激突した。


 イヴリンには命を救ってもらった恩義がある。彼女を無事にドミニクの元へ送り届けることは、彼女との契約だ。しかしカレルには、プロとしての人生と、かつての友情という、言葉にできない長い借りが残っている。


 カレルは間違いなくイヴリンを追っている。もし二人が鉢合わせれば、どちらかが死ぬ。消耗しきったイヴリンか、魔本に侵食されマシーンと化したカレルか。


『アップロード完了』


 画面に表示された緑色の文字が、サムの思考を現実に引き戻した。


 組織の秘密は暴かれた。ドミニクの支配は終わる。だが、サムの仕事はまだ終わっていない。


 彼はポケットから、青銅製の重たい砂時計を取り出した。どす黒い紫色の宝石の粉末が、モニターの光を受けて不気味に反射する。


「……もう終わりだ、カレル」


 サムは青銅の砂時計を強く握りしめた。彼は躊躇(ためら)うことなくセキュリティルームを飛び出した。

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