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第九部:灼熱の魔女と虚飾の王 - 1

 リバーフォールの地下鉄のメンテナンス用通路は、都市のはらわたのように湿り気を帯びていた。川底の泥と錆びた鉄の腐臭が充満し、頭上の遥か彼方からは、眠らない都市の振動が、巨獣の脈動のように重く響いてくる。


「決行は午前三時だ。ドミニクの私設警備の交代時間と重なる。奴らの集中力が最も途切れる『魔の時間』だ」


 サムは懐中電灯を床に置き、光を壁に向けた。薄暗い間接照明の中、彼はダッフルバッグから、ワインの物流拠点で奪ったままのアサルトライフルを取り出した。


 それは多少の改造が施されているが、サヴェージが好みそうな古めかしい銃器だった。サムの愛用するポリマーフレームの最新鋭装備に比べれば、無骨で洗練されていない。だが、彼は慣れた手つきでそれをテキパキと分解し始めた。


 静寂な通路に、カチャリ、カチャリと、金属部品が噛み合う硬質な音だけが響く。彼にとってこの銃は拾った野良犬のようなものだ。血統書ブランドはないが、噛みつく力だけは信用できる。


 イヴリンはコンクリートの冷たい床に腰を下ろし、自身の黒いローブの(すそ)を整えた。


 彼女の細い指がローブの裏地に施された赤い刺繍をなぞる。刺繡は、もはやただの糸ではない。彼女自身の血をインクとして、炎の精霊を縛るために一針一針、呪詛と共に縫い込まれた魔術回路だ。


 彼女はふと、サムの足元に並べられた黒光りする金属部品と自身のローブの複雑な刺繍を見比べた。


 どちらも命を奪うためのものだ。しかし、その在り方はあまりに違う。


「そんな野蛮でうるさい鉄の塊をバラバラにしてしまって、元に戻る保証はあるの?」


 イヴリンは嫌悪感を隠さずに言った。彼女の目には、サムの行為は完成された魔法の杖をあえてへし折って遊んでいるようにしか見えなかった。


「うるさいのは認めよう。こいつにはサプレッサーがないからな」


 サムはバレルを布巾で丁寧に拭きながら、顔を上げずに答えた。


「だが、野蛮かどうかは議論の余地がある。魔法使い、よく見ろ。銃には原因と結果しかない。呪文も生贄も必要ない。これは機能美の産物だ」


 彼は、油で濡れて鈍く光る部品の一つを指先で弾いた。カチン、と小気味よい音が響く。


「機能美ですって?」


 イヴリンは呆れたように眉をひそめた。


「人を破壊する道具のどこに美しさがあるというの?」


 サムは弾倉を手に取り、中のスプリングの反発を親指で確認した。


「人間的な煩わしさが一切ない点だ。こいつは文句を言わないし、報酬を要求することもない。そして、正しく手入れをして引き金を引けば、常に要求された通りの結果を返す。……俺の知るどんな人間よりも、よほど信頼できる」


「……ふん。随分と寂しい信頼関係ね」


 サムの皮肉に満ちた道具愛に、イヴリンは肩をすくめただけで、それ以上は何も言わなかった。


 ――――


 沈黙が長く続きすぎた。手持無沙汰になったイヴリンは、懐から手鏡を取り出した。


 彼女は鏡面を口元に寄せ、サムに聞こえないほどの声で囁いた。


「……行きなさい、インプ。上の様子を」


 サムが怪訝(けげん)な顔で振り返ると、イヴリンの手鏡の表面が黒い水面のように波紋を広げ、揺らぎ始めた。


 次の瞬間、鏡面に鮮明な映像が映し出された。それは、夜空を滑空する鳥の視点だった。グリフィン・プラザ・タワーの屋上庭園、旋回する警備員、そして風に揺れる植栽が、真夜中とは思えないほど鮮明な色彩で映し出されている。時折、映像が生物的に(またた)き、ノイズが走って、魚眼レンズのようにぐにゃりと(ゆが)む。


 サムは思わず身を乗り出し、手鏡を覗き込んだ。


「どういう仕組みだ? ……高性能なドローンか?」


 彼は手鏡の裏側を確認しようとしたが、そこには古びたシジルが(きざ)まれているだけだった。ボタンも、アンテナも、バッテリーのスロットすら見当たらない。


「ドローン? 違うわ。この街には、電波では届かない情報もあるの。目に見えない協力者からの映像よ」


 イヴリンが指先で鏡面をなぞると、映像は急降下し、地下駐車場の入り口をすり抜けた。カメラワークは機械的な直進ではなく、まるで酔っ払ったコウモリのように不規則に揺れ動き、天井の配管や照明の隙間を縫っていく。


 時折、視点が急にブレて、虚ろな目をした警備員の顔や捨てられた吸い殻を不必要にクローズアップする。だがだが次の瞬間には、その視線はすぐに飽きてしまったかのように、天井の染みやタイヤ痕へとフラフラと移っていった。


「……ひどいカメラワークだ。三流のカメラマンだな」


「文句を言わないで。彼なりに頑張っているのよ。少し気が散りやすいのはどうにかしてほしいけど」


 イヴリンは映像の隅に映った赤い光の点を指差した。


「ところで、これは何かしら? 入り口に妙な光が見えるけれど」


「それは最新の熱感知サーマルセンサーだ。空気の流れと体温を同時に追う。優秀だが、電源を落とせばただの置物だ」


 サムはプロの目で映像を解析し、警備の配置と死角を瞬時に頭に叩き込んだ。


「タワーの周囲も、地下の駐車場も、今は警備は落ち着いているようね。設計図の情報は正確よ。監視カメラの位置はこれでわかるわ」


 サムは手鏡の中でふらふらと飛び回る視点を見つめながら、小さく(うな)った。厳戒態勢の敵陣の中を感知されることなく飛び回り、これほど鮮明な情報を持ち帰る技術。彼の知る軍事技術の常識からは逸脱していた。


「サヴェージの拠点に一人で攻め込んでこれた理由がこれか……あんたの世界の道具も、なかなかの機能美だな」


 サムの言葉には、理解不能な現象への畏怖と、プロとしての純粋な称賛が混じっていた。

 イヴリンは手鏡に向かって「もういいわ、戻りなさい」と命じると、サムに向かってかすかに微笑んだ。


「そうね。でも、メンテナンスを怠ると、すぐに不機嫌になって反逆するという点では、多分、あなたのその鉄の塊と似ているわ」


 彼女は手鏡をローブの奥深くにしまい、目を閉じて深く息を吸った。


 サムもまた、無言で最後の一発をマガジンに押し込み、アサルトライフルをフル装填した。カシャッ、という乾いた装填音が会話の終わりと仕事の始まりを告げた。


 二人は暗闇の中で、()()()()が訪れるのを、並んだ二体の石像のように静かに待ち続けた。


 ――――


 午前三時。都市の鼓動が最も弱まる刻。


 二人はついに、タワーの地下駐車場へと足を踏み入れた。


 そこはクリアなLED照明の下、整然と並べられた高級車が支配する静寂の空間だった。ドミニクの組織の圧倒的な財力を無言で誇示するかのように、かつてカレルとサムが乗っていたものと同型の、黒く塗りつぶされたセダンが何台も並んでいる。


 サムは身を低くし、ハンドサインだけでイヴリンに合図を送った。


 二人は物陰から物陰へと、死角を縫うように音もなく移動する。イヴリンは必死に彼の背中を追った。その間、彼女はローブの袖の下で、指先を細かく動かし続けていた。


 彼女が通り過ぎる柱の陰、車のバンパーの下、そして換気口の隙間。彼女が意識を向けた空間に、目に見えない熱の種子が植え付けられていく。それは圧縮された破壊の意思であり、彼女が指を鳴らせば弾ける寸前の、不可視の火薬庫だった。


 一つ、また一つ。


 空間に留め置いた破壊のエネルギーが増えるたび、イヴリンのこめかみに脂汗が(にじ)む。解き放たれたがる爆発の奔流(ほんりゅう)を、意志の力だけで無理やり押し留める作業は、素手で焼けた石炭を握り続けるに等しい精神的苦痛を伴った。


 目標の分岐点に到達した時、イヴリンの集中は限界に達しようとしていた。彼女は荒くなる呼吸を押し殺し、サムの背中にそっと手を触れた。


 ――準備完了。


 サムは短く頷くと、一瞬で身を(ひるがえ)した。彼はアサルトライフルを低く構え、セキュリティルームと非常階段がある方角の闇へと駆け出した。


 ――――


 サムの背中がコンクリートの柱の向こうに消えた、その直後だった。


 イヴリンは両手を広げ、ギリギリまで圧縮していた魔術の回路を解放した。ローブの裏地の赤い刺繍が、一瞬、血管のように脈動し、発光する。


「砕き、()ぜよ!」


 轟音!


 地下駐車場のあちこちで、イヴリンが植え付けた熱の種子が同時に芽吹き、そして炸裂した。


 真下から突き上げられた一台が、熱膨張で車体をくの字に折り曲げながら垂直に跳ね上がった。窓ガラスを粉砕させたその巨体は、炎の勢いそのままに横転し、他の駐車車両を巻き込んで派手に吹き飛んだ。


 爆発の衝撃波が金属製の標識を紙屑のように吹き飛ばし、千度を超える熱量が、周囲の高級車の塗装を瞬時に泡立たせ、醜く溶かしていく。車両の防犯ブザーの不協和音と同時に、タワー全体に非常事態を告げるけたたましいサイレンが鳴り響いた。


「侵入者だ! 地下エリア!」


 爆炎と黒煙の中、武装した警備員たちがピストルやサブマシンガンを構えて突入してきた。彼らがイヴリンに狙いを定めるより早く、彼女は腕を()ぎ払った。


「そこを通すわけにはいかない! 燃えよ、ふさげ!」


 彼女の意思に応じ、警備員たちが突入しようとする通路の床から、燃え盛る炎の壁が噴き上がった。揺らめく灼熱の障壁を前に、警備員たちはたじろぎ、足と顔を熱波に焼かれて後退した。


 だが、ここは最新鋭のビルだ。


 火災を感知した天井のスプリンクラーが一斉に作動した。消火剤の混じった水が豪雨のように通路に降り注ぐ。


 ジュウウウウウッ!


 凄まじい蒸気が立ち込め、魔法で作り出した炎の壁が、物理的な水量と化学消火剤によって急速に勢いを失っていく。自然界の法則と科学が、彼女の魔術を単なる()()として処理し、無効化していく。


 炎の精霊にとっての最大の屈辱は、自分の力を抹殺しようとするこのシステムが、己の正体を知りもしないことだった。破壊を司る劫火ごうかは、ここでは単なる熱源に過ぎない。スプリンクラーは、ただ決められた水量を淡々と排出し続けた。


 激しい熱と大量の水が衝突し、地下駐車場は視界を奪う白濁した蒸気で埋め尽くされた。その視界の隅で、炎の壁が弱まった隙を突き、通路の奥からフルフェイスのヘルメットを被った重装備の増援部隊が、蒸気を突き破って前進してくるのが見えた。


「まずい……!」


 近代的な防火設備と圧倒的な火力。数と技術の暴力が彼女を追い詰める。


くすぶり、散れ!」


 炎が完全に消える直前、イヴリンは咄嗟(とっさ)に残り火を爆ぜさせた。不完全燃焼を起こした炎は、分厚い黒煙の塊となって膨れ上がり、彼女の姿を隠した。


 タタタタッ!


 煙幕越しに闇雲に放たれた銃弾が近くの柱を削り、火花を散らす。数発が彼女の頭上をかすめ、耳元で死の風切り音を響かせた、その直後。一発の弾丸が、彼女の右太腿(ふともも)を鈍い音と共に貫いた。


「っ……!」


 激しい痛みにイヴリンの息が詰まる。温かい血がレザーを濡らし、コンクリート床に滑り落ちていく。


 イヴリンは柱の陰で荒い息を吐いた。煙幕は時間の稼ぎにしかならない。水は降り注ぎ続け、敵は包囲を狭めている。このままでは蜂の巣にされる。


 彼女は極限の焦燥の中で覚悟を決めた。生半可な魔法では、この状況は(くつがえ)せない。この鉄と水の檻を破るには、それ相応の()()が必要だ。


 イヴリンは懐から銀の儀式用ナイフを抜き取ると、迷いなく自らの左の手のひらに刃を当て、深く、横に切り裂いた。


 (あふ)れ出した鮮血がローブの刺繍に吸い込まれた瞬間、炎の精霊が歓喜の咆哮を上げた。契約の魔法陣が狂ったように熱を発し、彼女の肌を焦がした。


 彼女は痛みを怒りに変え、血に濡れた手をスプリンクラーの水が降り注ぐ空間へと突き出した。降り注ぐ冷水も、濡れそぼった衣服の重みも、彼女の体の内側で燃え盛る魔力の熱の前では、もはや無意味だった。


つどい、滅せよ、灼熱の風! 焼き尽くせ!」


 イヴリンが叫んだ瞬間、地下駐車場の空気が一瞬で真空のように収縮し――そして、爆発的に膨張した。


 ゴオオオオオオオッ!!


 天井のスプリンクラーから降り注ぐ水流ごと、一瞬で蒸発させるほどの理不尽な熱量が地下駐車場を蹂躙した。それはもはや炎というより、空間そのものを白熱させるエナジーの暴力だった。


 水蒸気爆発と高熱の嵐が重装備の警備員たちを飲み込む。彼らの防弾チョッキやヘルメットが飴細工のように溶け、絶叫すらあげる間もなく、その骨肉が炭化し崩れ落ちていく。


 嵐が過ぎ去った後には、赤熱した鉄骨のきしむ音とプラスチックの焦げた異臭だけが残された。天井の配管は溶解し、ひしゃげたスプリンクラーヘッドからは、もう水滴ひとつ落ちてこない。


 イヴリンはその場に片膝をついた。激しい水圧と熱風に(さら)されたせいで、(くく)っていた長い黒髪はほどけ、濡れた額と頬にべったりと張り付いていた。ずぶ濡れになったローブとコートからは、残留する熱で白い湯気が立ち上り、彼女の姿を幽鬼のように揺らめかせている。


 激しい耳鳴りが世界を遠ざけ、肺が焼けつくように痛い。切り裂いた左手からは止めどなく血が滴り落ち、コンクリートの地面に赤い染みを作っていた。


 火がぐずつく音以外の物音は、もう聞こえなかった。


 彼女は壁を背にして、ずるずると座り込んだ。撃たれた右太腿からも、自ら切り裂いた左手からも、絶え間なく鮮血が溢れ出し、冷え始めたコンクリートを赤く汚していく。魔力を限界まで絞り出した後の脱力感が、鉛のような重みとなって全身の輪郭を奪い、指先一つ動かすことさえ億劫(おっくう)だった。


 混濁する意識の中で、イヴリンは震える手で懐をまさぐり、一本の小瓶を掴み出した。中身は、以前サムの傷口に消毒代わりにかけたのと同じ、薄緑色の回復ポーションだ。しかし、その濃度は比較にならない。魔力を持たない普通の人間がこれを一滴でも飲めば、内臓が溶け落ちる劇物。


 栓を抜くと、ベースとなる蒸留酒の強烈な匂いが立ち昇った。その他の成分を力づくで抑え込むような、純アルコールに近い刺激臭が、朦朧(もうろう)としていた意識を無理やり現実に引き戻す。


 イヴリンは覚悟を決め、その毒液を一気に煽った。


「――っ!!」


 喉から胃へ、内側から火を付けられたような激痛。しかし、その苦痛と引き換えに、傷口の肉が盛り上がり、流れる血を()き止めていく。だが、弾丸が(えぐ)った穴は醜い(あと)を留めたままだ。完全な治癒には程遠い、ただの応急処置に過ぎない。


 そしてその代償は、イヴリンの容貌に現れた。


 淡い色彩を誇っていた瞳は黒く濁り、白目の部分は赤銅色に覆われていく。瞳孔は不気味なほどに大きく見開かれ、それはもはや人間の眼ではなく、闇夜で獲物を追う猛禽の眼へと変貌していた。


「……ぅ……」


 視界が狂う。地下駐車場の非常灯が閃光の槍となって変質した網膜を無慈悲に刺した。彼女は顔を歪め、手で光を遮った。


 これが人間には毒でしかない高濃度の魔法触媒を摂取した一時的な代償。毒素が血液と共に全身を一巡し、魔力として中和されるまでの一分間はこのままだ。


「……インプ。周りは?」


 イヴリンは(かす)れた声で、取り出した手鏡に問いかけた。鏡面に映ったインプは、惨状に顔を引きつらせながらも、周囲に生体反応がないことを告げた。


 イヴリンが呼吸を整えようとした、その時。


 ポーン。


 瓦礫と化した駐車場の隅で、場違いに軽やかな電子音が響いた。


 彼女の近くにある、エグゼクティブ専用のエレベーターのランプが点灯し、扉が静かに開いたのだ。


 中には誰もいない。エレベーターの制御盤のランプは、最上階を示すボタンだけが、まるで彼女を誘うように静かに点滅していた。


 イヴリンは血で濡れる手で壁を伝い、ゆっくりと立ち上がった。


 行き先は最上階。


 彼女はエレベーターへと進んだ。復讐の対象、ドミニクのいる頂上へ。

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