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第八部:混沌の渦と宿星の道標 - 2

 イヴリンとサムは、グリフィン・プラザ・タワーの設計を請け負った、ドミニクの息がかかった建築事務所へと向かうことを決めた。


 その建築事務所は、川を挟んでグリフィン・プラザの再開発地区と向き合うウェルズ地区にあった。事務所が入る建物は赤レンガ造りの重厚なもので、ウェルズ地区の伝統的な景観を保ちつつも、エントランスには巨大なガラス張りの回転ドアが()め込まれ、現代的なビジネスの冷淡さを主張していた。


 回転ドアをくぐる前に、サムはイヴリンに立ち止まるよう指示した。


「いいか、イヴリン。中では何も口に出すな。黙って後ろに斜に構えて立っているだけでいい」


 サムはイヴリンの全身を一瞥した。長く濃い黒髪、透き通るような白い肌、色素の薄い大きな目。彼女の黒いローブとレザーのロングコートの組み合わせは、このビジネス街において強烈な違和感と異質な美しさを放っていた。


「その全身黒ずくめは、それだけで十分効果的だ。俺は、少しばかり役者をやる」


 サムはスーツの襟を正した。この手の脅しや交渉は、いつもは口の達者なカレルの役割だった。サムはカレルがよく見せていた、感情を殺し、皮肉だけを残すような凍てついた表情を自分の顔に貼り付けようとした。それは元相棒のカリスマを模倣する、苦々しい試みだった。


 二人は自動ドアをくぐり、顧客を装って応接室へと通された。その部屋の窓からは、目的のグリフィン・プラザ・タワーが対岸で威圧的にそびえ立つのが見えた。応対に出たのは神経質そうな中年のプロジェクト・マネージャーだった。


 サムはネクタイを緩め席に着くと、新築のマンション建築の相談でもするかのようにマネージャーに話しかけた。イヴリンは言われた通り、サムの背後の壁際に、彫像のように静かに立っていた。


「悪いが、設計図の確認が必要になった。グリフィン・プラザ・タワーの最新の設計図だ。今すぐコピーを用意してくれ」


 サムは口調を穏やかに、だが目は笑わずに事務員を見た。まるでこれが彼の日常業務であるかのように。


 マネージャーは、サムの顔を注意深く見て、その尋常ではない要求に驚きと警戒の色を濃くした。目の前の男が組織の裏切り者として通知されてきた、()()()()()()()であることを悟った。


 マネージャーは椅子の背もたれに身を預け、わずかに距離を取った。


「申し訳ありません。クライアントの機密情報ですので、事前に許可がなければ、コピーはお出しできません」


 サムは、マネージャーから一切視線をずらさなかった。


 応接室の張り詰めた沈黙の中、壁に取り付けられた空調の(うな)り音だけが不自然なほど大きく響いていた。


 マネージャーは沈黙という圧力に耐えかねたように、視線をサムの後ろに立つイヴリンに移した。


 サムの高級スーツとは対照的な彼女の足元を見れば、高いヒールのコンバットブーツを履いていた。その靴は彼女の存在がビジネス上の交渉相手ではないこと、そして、この社会のルールを無視して踏み込んできた暴力装置の一部であることを雄弁に物語っていた。


「ク、クライアント本人からの承認なしには外部に出せないという契約になっています」


 サムはわずかに体を前に乗り出した。


「よく聞け。俺はここに遊びに来ているんじゃない。それに俺の後ろに立っている彼女も、ジョークのために全身黒ずくめをしているわけじゃない。ドミニクが君に与える報復は、あくまでビジネス上の罰則だ。だが、俺たちが君に与える結果は、もっと個人的で、取り返しのつかないものになる」


 マネージャーの額に脂汗が滲んだ。ドミニクの報復は恐ろしいが、サムという裏切り者が放つ予期せぬ暴力の予感の方が遥かに現実的だった。特に、背後の女がただ無言で、マネージャーの振る舞いを観察するかのように興味深げな視線を投げかけている。その理解不能な静けさが彼の恐怖心の許容量を超えさせた。


 マネージャーは震える手で一つの妥協案を提示した。


「わ、わかりました。コピーはできませんが……原本を閲覧し、写真を撮ることでしたら、データ漏洩の痕跡が残らないので……」


「それでいい。賢明な判断だ」


 サムは穏やかに答えた。彼は銃を使わずに目的を達成したことに、わずかな皮肉を噛み締めた。かつて命の取り立て屋だった男は、カレルの真似事をして、命を奪わずに事を進める道を選んだ。


 ――――


 事務所を出て、イヴリンはサムを見た。彼女はまだ、応接室での緊迫したやり取りの余韻を引きずっていた。


「脅しに慣れているのね。怖かったわ」


 サムは肩の緊張をゆっくりと解きながら、かすかに自嘲するように笑った。


「俺の元相棒は、もっと口が上手い。言葉だけで人を操るカリスマがあった。俺は常に実力行使が近いと思わせるタイプだ。ああでもしないと誰も動かない」


 イヴリンはサムの横顔を観察した。先ほどまで彼の顔に貼り付けられていた皮肉的な笑みは消え、疲労とわずかな後悔の色が浮かんでいた。


「私はただあそこに立っていただけよ。本当に私が必要だったの?」


 イヴリンの問いに、サムは立ち止まり、彼女をまっすぐ見た。


「ああ、必要だった。俺一人がやれば、ただの裏切り者の強盗だ。だが、あんたが後ろに立っていると、マネージャーには得体の知れない二人組に見える。あんたのそのコートと雰囲気は、この街の基準から外れている。それでドミニクのルールが通用しない相手だと思わせた」


 サムは少しだけ目を細めた。


「あんたは、この街で誰も予想しない『例外』だ。それが、今の俺たちの最大の武器になる」


「奇妙な褒め言葉ね」


「俺の世界じゃ、最高の褒め言葉だ」


 イヴリンは小さく肩をすくめた。


「光栄ね。でも、私の世界じゃ、あなたのように魔法に頼らない普通の人間のほうがよっぽど『例外』なのよ」


 サムは()()という言葉に、苦笑ともとれる微かな反応を見せた。イヴリンの瞳に映る彼は、血に汚れた暗殺者でも組織の裏切り者でもない。ただ()()()()()()()()()()()()()という、驚くほどにシンプルな分類の中にいた。数多の命を奪って生きてきたサムにとって、それは新鮮で、どこか救いようのない奇妙な響きを持っていた。


「あなたが客で来たのなら、ちゃんとしたハーブティーを淹れてあげる。……生きて帰れたら、の話だけど」


「……あの芳香剤みたいな匂いのやつをか?」


 サムはショッピングモールのフードコートで彼女が飲んでいた、あの妙に鼻につく香草の匂いを思い出した。そして同時に、朝の工房で無理やり流し込んだ、全身の血管を焼き切るような【小夜啼鳥ナイチンゲールのポーション】の劇薬じみた味も。


「あんたの店で飲んだ薬よりは、いくらかマシな味がするといいんだがな」


「あら、失礼ね。あれは特別製よ。薬効を引き出すのにどれだけ集中力がいるか……それに、渡す前に『味は保証しない』と言ったはずよ」


 イヴリンが不満げに唇を尖らせるのを見て、サムはわずかに口角を上げた。しかし、すぐに一呼吸置いて、意識を感情的な対話からミッションへと切り替えた。


 街の喧騒へと足を踏み出すと、ビルの隙間を通る川風が緊張感を塗り替えていく。二人の間には、互いを理解し始めた者同士の居心地のいい静寂が流れていた。


 サムはスマートフォンを取り出し、撮影した設計図の写真をイヴリンに見せた。


「さて、本題だ。弱点を探す」


 サムは画像を拡大し、タワーの地下構造のある一点を指さした。


「昼に言ったように、正面ロビーからの突入は監視が多すぎて無理だ。だが、こいつで避けられる」


 そこには整然としたCAD図面を汚すような、意図的に隠蔽された歪な線が走っていた。それはタワーの地下駐車場が、隣接する古い地下鉄駅のメンテナンス用通路と秘密の通路でつながっていることが示されていた。


「この通路はタワーができて何年にもなるのに、俺も知らなかった。おそらく知っているのはドミニク本人だけだ」


 イヴリンは設計図を覗き込んだ。


「なるほど。完璧な城を築いたつもりでも、王は必ず秘密の裏口を用意しておくもの。その裏口を、私たちは使わせてもらうわ」


「そういうことだ。行くぞ。地下鉄でタワーの影に入る」


 ――――


 二人は地下鉄へと向かった。


 構内は薄いベージュ色の湾曲したタイルの壁に囲まれ、蒸し暑いプラットフォームには様々な人種と階層の乗客がひしめき合っていた。遠くから、列車がレールを擦る甲高い金属音と地下特有の湿った風が流れ込んでくる。


 人々はマフィアの抗争など何も気付きもせず、スマートフォンや新聞に目を落とし、互いに無関心なままだ。リバーフォールでかき混ぜられている闇の戦争は、この都市を動かす巨大な群衆の意識に、泡一つ立てていない。


 車両に乗り込むと、イヴリンは他の乗客を眺めながら隣に立つサムに低い声で問いかけた。


「これでよかったの? あなたには、まだこの街から逃げる選択肢があるわ」


 イヴリンの心には不思議な道連れを得たことへの慰めと共に、復讐の対象者との全面対決を前にした激しい決意が満ちていた。彼女にとってドミニクのタワーは、彼女の世界を破壊し、平穏を奪ったすべての暴力の象徴だった。


 サムは揺れる車両の中で手すりを掴み、窓を見つめた。流れるトンネルの闇を瞳で追いながら、その奥にはいくつもの感情が渦巻いていた。


「逃げても何も解決しない。一度、組織の輪から外れれば、どこへ行っても追われる。それがこの世界だ」


 サムは背負うようにして持つダッフルバッグの重みを意識した。中にはアサルトライフルと共に、カレルを救うための青銅製の【魂の砂時計】が隠されていた。この砂時計をどう使うかはまだ分からない。だが、これだけは守らなければならない。


 彼はわずかに顔をイヴリンに向けた。その眼差しは覚悟と諦念が混じった複雑なものだった。


「あんたの復讐は、ドミニクという男個人が対象だろう。だが、俺が本当に自由になるには、ドミニクが築いた組織全体を潰すか、組織の支配の根拠を破壊するしかない」


 サムはイヴリンの治癒の力によって傷が消えた左肩に触れた。


「それに、あんたには借りがある。命を救ってもらった借りだ。この借りを返すまでは、俺のルールとして、逃げ出すわけにはいかない」


 サムの視線はイヴリンの顔から逸れた。彼女の黒猫をドミニクに引き渡したという、喉に突き付けられた針のような事実が、彼の胸に重くのしかかった。彼は、その最大の秘密をイヴリンに告げることはできなかった。


 やがて到着した駅は、コンクリート剥き出しの壁と規則正しい照明に囲まれた、モダンだが退屈な空間だった。巨大な換気用シャフトからは、冷ややかな空気が絶えず流れ込んでいる。再開発エリアの中心に位置するその駅はドミニクの新しい支配を体現しているかのようだった。


 二人は駅の端へと向かい、使用されていない資材搬入用のランプウェイから線路内に降りた。通路は暗く、鉄と油の匂いがこもっていた。足元には砂利が敷き詰められ、遠くから微かなモーターの駆動音が聞こえてくる。


 サムは設計図にあった地下駐車場へと続く、鍵のかかった金属製の扉に近づいた。彼は鍵開けの道具をポケットから取り出し、扉に触れる前にイヴリンに振り返った。


「準備はいいか。ここから先はドミニクの支配下だ。あんたの力と、俺の勘。どちらも最大限に使う必要がある。もう引き返すことはできないぞ」


 イヴリンは深く息を吸った。その目には迷いはなかった。


「私は逃げる場所を失った。そして、あなたは自由を求めている。引き返す道がないなら、進むしかないわ」


 サムは頷き、ピッキングツールを鍵穴に差し込んだ。


 カチッ。


 解錠音が響くと同時に、サムは流れるような動作で扉を押し開ける。二人はタワーの地下へと続く道に足を踏み入れた。

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