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第八部:混沌の渦と宿星の道標 - 1

 朝日が完全に昇り、工房には北側の窓から黄色味がかった光が差し込んでいた。その光は、作業台の上の血痕と飛び散った色とりどりの薬液を、まるで前衛的な抽象画のように照らしていた。


 カレルは、サムたちの乗った車を見送った後、無惨な状態になった工房に戻り、改めてオカルティストの女性の痕跡を探していた。戦闘の傷跡は鮮烈で残された手がかりは極めて少なかった。


 テーブルの上にはインクと古びたペン立てが残されているだけで、電話線すら引かれていない。携帯電話の充電器、Wi-Fiルーター、コンピューター……現代人が呼吸するように依存している電子的な通信手段の痕跡が、この空間には一切見当たらなかった。地番を照会しても、住民登録の記録は「該当なし」。彼女は戸籍上はこの街に存在しない幽霊だった。


「原始的で、閉鎖的、そして隔絶されている。まったく時代から切り離された聖域だな」


 カレルは誰に聞かせるでもなく、静かに独り言を口にした。それは、いつもの彼が暗殺という非人道的行為に対抗するため、自分の内側に人間としての居場所を作り出そうとする孤独な儀式だった。しかし今の彼には、その言葉に重なるようにもう一つの思考がノイズのように走る。


『俺も、この隔絶された場所ならば自分を見つけられるのだろうか?』


 それは魔導書から流れ込むサイラスの思考だった。カレルは眉間(みけん)()み、そのノイズを振り払うように棚を探った。


 彼は破損した木製の棚の裏から海辺の町の古いポストカードを見つけた。「イヴリンへ」という変わった筆跡の文字だけが入った簡素なものだった。これがこの聖域で得た唯一の手がかりだった。


 カレルはポストカードを内ポケットに収めると、魔導書を取り出して再び開いた。彼は今掴んだ「イヴリン」という名の情報が、途切れた物語の次のページを開くためのパスワードではないかと期待した。


 サイラスの物語が途切れた『散策』のページをもう一度なぞる。しかし、古書が映し出すのは、記憶喪失による絶望とアパートの一室での孤独な目覚めの光景だけだった。何度読んでも新しい言葉は浮かび上がらない。魔導書は、サイラスの記憶が到達した場所で無限に独白がループしている。


 カレルには、サイラスが孤独な部屋の中で、解決策を見つけられずに次のコマンドを見失ったプログラムのように立ち尽くしている姿がありありと想像できた。そして、その焦燥感がカレル自身の心拍数と同期していく。


 カレルは脳を侵食し始めた焦りを振り払うように割れた窓枠へと歩み寄り、息を深く吸い込んだ。鼻腔を突くのは先刻までの死闘が残した硝煙の臭いだ。だが、その重苦しい空気の層に決して混ざり合うことなく浮遊する()()があった。


 ミントの清涼感と、鼻の奥を刺す微かな硫黄の刺激。


 一瞬、新型の弾薬が残した匂いかとも思ったが、そこには火薬の熱も鉛の重みもない。その匂いは、高級な革や排気ガスの匂いにまみれて生きてきた彼には決して辿り着けない、コトワリの異なる場所から漏れ出した、精霊が通り過ぎた後の残り香だった。


 カレルはそれ以上の追及を止めた。この奇妙な工房のオカルト的な調合が生んだ、ただの化学反応の悪戯に過ぎない。そう自分に言い聞かせ、得体の知れない違和感を脳内のゴミ箱へと放り込んだ。


 ブブブブ……。


 その時、カレルのポケットで携帯端末が震えた。彼を物語の中から現実へと乱暴に引き戻す、組織の幹部からの緊急連絡だ。


「ナイトクラブで爆発が起こった。すぐに車を回す。他の重要拠点を警戒にあたれ」


 ドミニクからの「サイラスを沈黙させろ」という絶対的な最優先命令が、この一報で強制的に上書きされた。


 カレルは車を回させると、市内を走行させ始めた。グリフィン・プラザ方面に走らせていると状況が変化し始めた。


 まず、ドミニクが所有する豪華カジノの金庫が破壊されたという緊急速報がもたらされた。さらに、グリフィン・プラザの建設現場では従業員が大規模なストライキを起こし、警備員と衝突している場面をカレルは目の当たりにした。裏で糸を引いているのがサヴェージであることは明白だった。


「古き伝統派からの暴力的な抗議活動か」


 目的地に到着すると、カレルは路肩に車を寄せさせ、窓から未だ煙を上げるナイトクラブの残骸を一瞥した。


「ビジネスの脆弱性を狙った、古典的で、それでいて効果的な嫌がらせだ」


 カレルは、サヴェージの戦略がドミニクの経済基盤をピンポイントで崩壊させることにあると理解した。この戦争は純粋な権力と資金源の奪い合いだ。カレルは、自分がこの泥臭い闘争に巻き込まれ、サイラスの追跡という個人的な渇望を阻害されることを苦々しく思った。


 彼は内ポケットに手をやった。そこには革表紙の古びた魔導書、工房で回収したイヴリンの写真、そして海辺のポストカードが入っている。


 イヴリンという女性に関する情報はこのポストカード一枚と顔写真のみ。デジタルな足跡を持たない相手の追跡は極めて困難だ。


 カレルは思考を切り替えた。なぜか彼女の隣にいた、あの男――サムだ。二人が手を組んだ経緯も理由も、カレルには一切予測できなかった。あの合理的で慎重なサムが、なぜあのような正体不明の女と行動を共にしているのか。


「俺たちから簡単に逃げられるとは思っていないだろう。……サム、お前は何を考えている?」


 カレルの視線は遠ざかるナイトクラブの煙の向こう、見えない逃亡者たちの背中を捉えていた。彼は、今、この街で繰り広げられる逃亡劇における脇役の末路を、脚本家として書き記す立場になったのだ。


 ――――


 盗んだ安物の小型車は、移動中にガタガタと揺れ続けた石畳の路上で、ついに情けない音を立ててエンストした。イヴリンとサムは白い煙を吐く故障車を路肩に放置せざるを得なかった。


 二人が放り出された街角には、『リバーフォール・ビジョン基金』の偽善的なポスターがドミニクの満面の笑みと共に貼ってある。


「あれが俺たちの追っている男だ」


 イヴリンはポスターの前に立ち止まった。


 その瞬間、彼女の左手の小指の付け根に鋭い痛みが走った。黒猫との魔力の繋がりが途絶したことで残された、魔法の誓約の傷痕だった。イヴリンはその痛みに耐えながらドミニクの薄っぺらい笑顔の奥を見据えた。


「……彼は、代償を支払うことになるわ」


 二人は人混みに紛れるために、市内の巨大なショッピングモール内に入った。


 自動ドアをくぐった瞬間、イヴリンは思わず顔をしかめた。スパイア地区のアナログな生活から切り離された彼女にとって、そこは過剰な光と音の洪水だった。


 巨大な吹き抜け。天井を覆い尽くすかような影を消し去る照明。そして同じロゴの入った袋を持つ無数の人々。プラスチックと空調の匂い。彼女の目には、誰もが同じ広告に吸い寄せられる光景が不気味な()()に見えた。


 二人は電子機器店でカードリーダーなどを購入し、騒々しいフードコートの隅のテーブルに陣取った。周囲の学生や家族連れの能天気な喧騒が、彼らの密談を完璧に隠蔽(いんぺい)するホワイトノイズとなる。


 イヴリンは、地元の店が出している香草を利かせたハムのサンドイッチと苦いハーブティーを選んだ。対するサムは、肉厚のパティが二枚挟まれた、油でテカテカ光る巨大なハンバーガーと氷の入った炭酸飲料を手にしていた。


「あなた、それ全部食べるの? 脂肪と化学調味料の塊じゃない」


 イヴリンは信じられないものを見る目で言った。


「これが生き残るための燃料だ。あんたのお上品なハーブティーじゃ、タワーは登れない」


 サムは包み紙を開けながら、淡々と答えた。


 イヴリンはハーブティーの湯気を吸い込み、ショッピングモールの乾燥した空気から喉を守るようにして言った。


「健康な体こそ、暴力から身を守る最初の防具よ。あなたは自分の体をもっと大事にしたほうが良いわ。粗末な食事は、粗末な結果しか呼ばない」


 サムはげんなりした表情でハンバーガーにかぶりついた。


「あんたのそのハムも大して変わらんだろ?」


「私のは使っている野菜とハーブで毒素を相殺しているわ。内臓への負担も考えてある。あなたは未来の自分に借金をしているのよ」


 サムはハンバーガーを一口食らうのを止め、ふとイヴリンを見つめた。


「……なあ、イヴリン。あんた、三日前、昼飯に何食ったか覚えてるか?」


 唐突な質問に、イヴリンは瞬きをした。


「ええと、たしか……ラベンダーを利かせた、鶏の胸肉のスープと、自家製のライ麦パン……だったかしら。ああ、それと、デザートに林檎を一切れ」


 サムはその即時での詳細な答えを聞き、自分の空っぽな過去を重ね合わせた。彼は、カレルがプロとして生き残るための術として、「個人的な記憶を排除する」という哲学を語っていたのを鮮明に思い出した。イヴリンの世界では私的な日常の記録――食べたものの味や香りこそが、人間性の証明なのだ。それは、彼らが過去に捨ててきたものであり、今も失いつつあるカレルとは対極にあるものだった。


 サムは無造作にハンバーガーをトレーに置いた。それ以上この話題を掘り下げれば、自分の空虚さが露呈する気がしたからだ。


「……食い物の話をするのは終わりだ。これを見ろ」


 サムは回収したマイクロSDカードをスマートフォンに接続し、暗号化された文書ファイルを開いた。


 イヴリンは黙ってハーブティーを一口飲んだ。


「これが俺が持っている情報のすべてだ。組織図とドミニクの連絡手段や計画に関する機密情報。俺が捕まった時の保険として保存していたものだ」


「あなたの保険が私たちを助けるのね。この中に、彼の居場所は?」


「ドミニクは基本的にタワーから出ない。だが、確証が必要だ」


 サムはスマートフォンを操作し、地元紙のニュース記事のヘッドラインをイヴリンに見せた。


【RNN速報/リバーフォール・ニュース・ネットワーク】

 再開発地区で大規模ストライキが発生。グリフィン・プラザ建設現場、警備員と作業員が衝突。


「この状況なら間違いなくタワーにいる。奴は、裏切りを最も恐れる男だ。自分の城で自分の身を守る」


 イヴリンはカップを置き、フードコートの喧騒の中で静かに言った。


「自分の領民に反乱を起こされている領主、というわけね。彼の城を訪ねるには、どうすればいい?」


「これは単なるストライキじゃない。サヴェージの仕業だ。あいつらはドミニクと全面的に対立することにしたみたいだな。ということはつまり、ドミニクは今、城の前に防衛線を張っている状態だ。正面から行くのは自殺行為だ」


 サムは文書をスクロールし、グリフィン・プラザ・タワーの設計者である建築事務所のファイルをイヴリンに見せた。


「まず、ここから弱点を探る」

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