第七部:物語の追跡とアウトロー・ジャーニー - 2
影を進むイヴリンとサムの二人の目の前には、リバーフォールの煌びやかな夜景が広がっていた。街を貫流する大河川の黒い水面は高層ビルの光を反射し、まるで闇の中に引かれた一本の銀の道のように見えた。その道は市中心部のギラつきを離れ、緩やかな坂を上り、郊外の丘陵地帯へと吸い込まれていく。
夜景の光が途絶えたその先、広大なブドウ畑の闇の中に、石造りの古風なワイナリーの建物が重々しく横たわっていた。それはドミニクの象徴である最新鋭のガラス張りのタワーとは対照的な、時間が止まったような威容を誇るサヴェージの本拠地だった。
本館事務所の窓には夜にもかかわらず慌ただしい光が灯っていた。
主であるサヴェージは年代物の革張りのソファに深く沈み込み、高価なウォルナット材の机の向こう側に直立不動で立つ幹部たちを見据えていた。彼が持つワイングラスが室内の光を鈍く反射している。
彼は怒鳴ることはしなかった。ただ、グラスを静かにテーブルに置いた。
コトリ。
その微かな接触音だけが、部屋の緊張を破った。
「『物流センター』は炎上し、完全に潰れた。そして、昼間に確保したばかりの捕虜も逃がした。なぜだ?」
報告役の幹部は顔から血の気を失っていた。
ワイナリーが表向きの顔を務めるあの物流センターは、サヴェージが違法な取引を隠蔽するために使用する最大規模の施設であると同時に、組織の重要な通信・情報ハブとしての役割も担っていた。昨晩、ドミニクの化学兵器と思われる未知の手口で倉庫を溶かされたばかりだというのに、今夜は大規模な焼夷攻撃によってその中枢設備が半壊させられたのだ。
サヴェージは声のトーンを極限まで落とした。しかし、その静けさが、彼の怒りの深淵を示していた。
「なぜだ、と聞いている。私の問いは言い訳の余地を与えているわけではない。お前たちが現場で何を見たか、それだけを説明しろ」
報告役の男が震える声で答えた。
「お、女です、ボス。全身黒ずくめの一人の女が侵入し、強力な……おそらく軍事用の小型爆発物を使い、炎を引き起こしました。さらに、逃走時には化学剤のようなもので通路を封鎖し、捕虜のサムは、その混乱に乗じて地下通路から運河へ……」
サヴェージは目を閉じた。彼の思考は裏社会の秩序と計算によって構築されている。魔法などという発想は存在すらしない。
サヴェージにとって、部下の報告はドミニクが雇った破壊工作のスペシャリストを示唆していた。昨晩のカレルとサムへの牽制行動に対する、過剰な報復。倉庫の溶解、そして今夜の焼き討ち。これらの常軌を逸した波状攻撃は、こちらの内部情報が完全に筒抜けであること、そしてドミニクが話し合いのテーブルを自ら爆破したことを意味していた。
サヴェージは、ゆっくりと目を開き、厳かに宣告した。
「もう我慢の限界だ。ドミニクの野郎は、ルールを捨てた。奴は、この都市の均衡を保っていた伝統と仁義を、安物の酒のように床に叩きつけたのだ。奴は戦争を望んでいるのだ」
サヴェージは老いた獅子のようにゆっくりと立ち上がった。
「捕虜のサムとその女の追跡は捨て置け。所詮は捨て駒だ。どのみち奴らはグリフィン・プラザ方面へ逃げ込むだろう。我々の本命はドミニクだ。小ネズミの追跡に時間の浪費はしない」
彼の声はワイナリーの厚い石壁に低く響いた。
「これより、全面的な報復を開始する。全ての部隊を動員し、ドミニクの経済基盤と政治的弱点を狙え。奴の自慢のカジノ、ナイトクラブ、建設会社……全てのビジネスを焼き払え。都市の目が、この抗争の炎に釘付けになるように仕向けるのだ」
彼の命令が下ると、眠っていたサヴェージの兵隊たちが一斉に動き始めた。都市の各所でドミニクの勢力とサヴェージの勢力が衝突し、散発的な、しかし計算された破壊工作の火花が上がり始めた。
こうして都市の闇の中で、マフィアの全面戦争の火蓋が切って落とされた。多くの金が流れ、血で血を洗うことになる壮絶な抗争の真の原因が、一匹の猫の復讐であることを、誰も知らぬままで。
――――
昼の光が閉じたカーテンのわずかな隙間から漏れていた。
カレルが魔導書から顔を上げた時、豪華な隠れ家のテレビ画面の黒いガラスパネルに反射する自分の姿が、不潔なアパートの一室で目覚めた記憶喪失の男に見えた。
魔導書が強制的に同期させたサイラスの空っぽの恐怖心が、カレルの思考回路に熱を持ったバグとして焼き付いている。一瞬、空調の効いた清潔な室内に、アパートの腐った木材とカビの匂いが錯覚のように蘇り、彼は呼吸を乱した。さらに恐ろしいことに、彼は今、サイラスの物語の読者として、その物語の次のページを見たいという、プログラムにはないはずの切望を感じていた。
カレルは端末を起動し、サイラスの記憶に登場したアパートの光景と窓の外に見えた尖塔をストリートビュー・サービスで探し始めた。
スパイア地区は古い尖塔が林立し、似たような景色が並ぶ旧市街の迷宮だ。カレルは記憶の中の朝日の差し込む角度と部屋から見た尖塔の影の伸び方を計算し、総当たりで照合を進めた。
この作業は思った以上に難航した。魔導書の解読による精神的な摩耗が、鈍い頭痛となってカレルの頭蓋の内側をノックし続け、思考速度を削いでいく。彼の意識には、まるでデバッグログのエラーコードのように、サイラスの感情の残渣が割り込み続けた。
『俺は何者だ? なぜここにいる?』
ノイズを無視し、数時間かかってようやく、スパイア地区にある古びた建物の座標が特定された。
カレルはスーツを整え、ふらつく足取りで、今持っている唯一の手掛かりを追い始めた。
アパートに到着したのは夕刻だった。部屋の様子はサイラスの記憶の中のとおり、生活感のない空虚な空間だった。散策の後、サイラスがこの場に戻っていないのは明白だった。
カレルは部屋の中央で立ち尽くした。疲労によるシステムアラートが脳内で鳴り響いていた。彼はサイラスを追うことを一時中断し、埃っぽい床に倒れ込むように横たわった。
休まねば、精神がもたず崩壊する。
カレルは、強制シャットダウンに似た、休息という非効率な行動を選択せざるを得なかった。
翌朝。朝の光が窓から差し込むと、カレルは再起動するように目覚め、再び立ち上がった。ギイギイと音を立てる木製のドアを開け、サイラスの物語の続きを追うように部屋を後にする。
彼はスパイア地区の雑踏の中に入ると、魔導書が示した奇妙な匂いのデータを頼りにサイラスの足取りを正確に追っていった。その香草と硫黄の匂いは、街の歴史の匂いの中、一筋の導線のようにカレルを導いた。
たどり着いたのは、ハーブとアロマを扱う小さな店の前だった。入り口に掛かった石でできた看板には『青い薬草の庭』という名前が刻まれていた。魔導書の記憶はそこで途切れていた。
カレルは店裏の細い路地へと回り込んだ。旧市街の建物はセキュリティ対策が前時代的で甘い。彼はわずかな隙間を見つけ、木製の窓枠を静かにこじ開けて工房へと侵入した。
内部の空気は、ミントの鋭い香り、ラベンダーの落ち着いた匂い、そして微かな硫黄のニュアンスが混じり合い、カレルが魔導書で感知したノイズと完全に一致した。彼は、この非言語的なデータが目的を達成するための正確なヒントであったことを認識した。
作業台に据え付けられた大釜は、まだ微かに熱を持っていた。カレルは店主がこの場所を離れてそれほど時間は経っていないと判断した。彼は店主が戻る前に、サイラスの次の行動を予測するための痕跡を徹底的に探る必要があった。
壁際の飾り棚には、丁寧に磨かれたガラス瓶と乾燥させたハーブの束が並んでいた。その一角に置かれた写真に、カレルの視線が留まった。ひとりの女性が笑顔で黒猫を抱く写真。カレルはこの女性がサイラスの物語の次の鍵を握っていると直感し、写真を回収した。
工房の床に地下への扉を見つけ、カレルがその取っ手に触れようとしたその瞬間。外の路地からタイヤが石畳を滑る甲高い音と、複数の重い足音が響いた。
カレルは即座に銃を抜き、窓に視線を向けた。路地の両端がサヴェージの構成員と思われる四人組の男たちによって完全に封鎖されていた。彼らは銃身の短い機関銃と散弾銃を構え、この建物に向けて照準を定めている。
――追跡されていたか。
瞬時にカレルは思考をめぐらせた。二日前の夜の衝突以来、カレル自身がサヴェージの優先排除対象になっている。スパイア地区は古くからのサヴェージの支配領域だ。ドミニクへの報復戦争という地雷原が、この場所で彼を待ち受けていたのだ。
カレルの視線が工房内の空間を高速でスキャンした。窓、ドア、そして作業台の影。彼は瞬時に敵の突入経路を予測し、防御と反撃の最適な射線を計算した。彼は深く重心を落とす。その姿勢は、無駄な力みのない、長年の訓練によって最適化された殺人機械のものだった。銃を握る指先には、感情はなく、冷たい決意だけが宿った。
その直後、ガラスが割れる甲高い音と木材が砕ける鈍い音が同時に響いた。敵が突入を開始した。
銃声がスパイア地区の朝の静寂を引き裂いた。
カレルは即座に工房の分厚い石壁に張り付いた。路地からの突入は同時に行われた。裏の窓から二人、表玄関からも二人。それぞれ短機関銃と散弾銃を持っていた。カレルは工房の狭さが敵の火力を分散させることを即座に計算に入れた。
彼はサイレンサー付きのハンドガンで窓枠を乗り越えようとした一人目の頭部を正確に撃ち抜いた。プシュッという空気音とわずかな肉を裂く音だけが響く。同時に、表玄関から侵入しようとした二人目の首に発砲。男は短機関銃を暴発させながら崩れ落ち、狭い通路を自らの死体で塞いだ。
「撃て! 奴は一人だ!」
表玄関の男が散弾銃を構え直すのと同時に、裏から回り込んだ男が窓枠を蹴って工房内に飛び込んできた。男の機関銃の掃射が作業台の棚を直撃し、薬草の束とガラス瓶が破裂した。血と硝煙、そして濃厚なハーブの香りが混ざり合った奇妙な死の空間が生まれた。
その瞬間、カレルの視界が一瞬にして変容した。
硝煙と血の匂いが消え、代わりにミントの鋭い香りとラベンダーの落ち着いた匂いだけが鮮明に感じられた。
――『ここは、心を癒す薬屋』
サイラスの意識がカレルの制御を奪った。彼は、自分が血の飛び散った戦場に立っているのではなく、心の喪失を埋めるために初めて『青い薬草の庭』に足を踏み入れた男であるという錯覚に襲われた。銃を持つ手が、自分の手ではないように感じる。
「……ッ!」
カレルは激痛に近い頭痛に耐えながら、本能だけでテーブルの影に転がり銃撃を躱した。
その一瞬の遅延が、残りのサヴェージの暗殺者に反撃の機会を与えた。
カレルは自分が誰で、なぜここに立っているのかを理解できず、肉体に染み付いた殺人術の反射だけで行動した。
彼は隠れながら、表玄関から散弾銃の男が頭を出した瞬間を狙い撃った。そして、ハンドガンを持つ反対の手でスーツの内側のブレードを抜き、短機関銃の男の懐に滑り込む。一瞬の金属音が響き、敵は喉から血を噴き出し、沈黙した。
返り血がカレルの頬を濡らす。その生温かさが、ようやく彼を現実へと引き戻した。だが、激しい頭痛がピークに達し、彼の視界は歪んだままだ。それは、サイラスの記憶が残した空っぽの恐怖心が過度の戦闘ストレスで増幅された、プログラムのバグだった。
その時、工房の外からさらに車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
増援だ。カレルは呼吸を乱しながら、即座に地下へと目を向けた。二日前の夜、計算外の事態によって即応を欠いた失策が脳裏をよぎる。今の不安定な状態では長期戦には耐えられない。
彼は木製の床ハッチの錠を銃撃で破壊し、その痕跡をボロボロになった戸棚で隠しながら、地下室へ滑り込んだ。




